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第八章 北風と太陽

123.北風

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「ここにいたのですか、女王様」

 ヒルダが扉を開けて入ってくる。
 代わりに私の中の新しい扉は開かなかった。
 冷静になってみると、なんだか開かない方がいいような気がしてきたから、別にいいけど。
 でも、ちょっとだけ残念な気もする。

「こんにちは、メフィくん」

 ヒルダが部屋に入ってきて、メロンの膝の上に座っているメフィの頭を撫でる。
 この部屋は、メイド達の待機場所、というか休憩所だ。
 自尊心の高い貴族だと、そんな部屋に入るのを嫌がることもあるけど、ヒルダは気にしないらしい。

「こんにちは、ヒルダお姉ちゃん!」

 メフィが猫をかぶったまま、ヒルダに挨拶を返す。
 その瞬間、ヒルダが胸を抑えてうずくまる。

「大丈夫ですか、ヒルダ様!?」

 メイド達が慌てて駆け寄るが、ヒルダ自身がそれを手で制する。

「だ、大丈夫です。ちょっと胸が、きゅんっ、としただけですから」
「心臓でも悪いの?」
「そういうことじゃありません、女王様。こう、弟に対する親愛の情というか、年下の男の子に対する愛情というか、異性に対する劣情というか、そういうものが混ざり合って沸き上がって溢れそうになっただけです」
「『だけです』って・・・まあ、いいけど」

 なんだか、ヒルダの頭の中では、あの一瞬で、かなりの嵐が吹き荒れていたらしい。
 身体が悪いわけじゃないようだから、好きにさせておこう。
 それはともかくとして、また私のことを『女王』と言っているな。

「それより、『女王様』っていうのは、やめてっていっているでしょ。ファイファーブタはともかく、あなたが私のことをそう呼ぶと、冗談じゃなくなる可能性があるんだから」

 私はシルヴァニア王国の女王になったわけじゃない。
 それなのに、何人かの人間が私のことを『女王様』と呼ぶ。
 『聖女様』と呼ばれるのも嫌だったけど、『女王様』と呼ばれるのは嫌とかいう以前に寒気がする。

「申し訳ありません。他の部署の人間と打ち合わせしていると、彼らもシンデレラ様のことを女王様と呼ぶもので、癖になっていました」
「あなたが打ち合わせする相手って、新しく大臣になった連中のことでしょ。ちゃんと否定しておいてよ」
「・・・・・」
「返事は?」
「・・・善処します」

 それって、善処はしたけど結果が出なかった、と言い訳するための決まり文句じゃなかったかな。
 不安になるけど、どうせ春までのことだ。
 春になって、アヴァロン王国に帰りさえすれば、シルヴァニア王国で何と呼ばれていようと関係ない。
 口うるさく言うのは止めておこう。

「それで、どうしたの?何か用事?」
「用事といいますか・・・今は仕事の時間ですよ。ずいぶんと大胆にさぼっていますね」

 確かに、まだ陽は高い。
 けど、陽が高いことと、仕事の時間であることは、別のことだ。

「私がやらなきゃいけない仕事は、もうほとんど無いはずだけど?」
「いえ、色々とあります」
「それは、春からのことについてでしょう?」
「ええ、まあ・・・」

 ヒルダは不満そうだけど、否定はしてこなかった。

「はぁ、わかりました。それでは、ご報告だけ」
「なに?」

 まあ、それくらいは聞いておこう。

「指示された軍事費の削減ですが、なんとか認めさせました」
「ふーん」

 あれを認めさせたのか。
 後から冷静に考えたら、けっこうな無茶振りだったような気がしていたのだ。
 本来なら、数年をかけて少しずつ実行するたぐいのものだ。
 けど、ヒルダはそれを認めさせたらしい。
 ヒルダの言う『老害』がいなくなった隙をついたとはいっても、かなりの成果だろう。
 私が感心している間にもヒルダが報告を続ける。

「ところで、農業政策の費用は現状のままでよいのですか?」
「農村に苗を配るための費用のことよね?そのままでいいわ」

 シルヴァニア王国の農業政策。
 それはまさに、この国が貧しさに苦しむ、きっかけとなった政策のことだ。
 施行されたのが数十年前というから、先代か先々代の王様が始めたのだろう。
 簡単に言えば、各農村に種や苗を配り、作る作物を国が指示するというものだ。
 気候や土地に合った作物を指示することにより人為的に豊作を続けようという試みで、数年は効果があったらしい。
 けど、その後がダメだった。
 連作障害のせいで、政策を開始する前よりも、作物が育たなくなったのだ。
 しかも、たちが悪いことに、国が指示したもの以外を作ると罪になるようにしたものだから、連絡障害の事実を知っていた農村の人間も、国に訴えることができなかったらしい。
 これは私が農村を回ったときに、村にいたお年寄りから聞いたことだ。
 とにかく、その政策の費用をそのままにするのかと、ヒルダは訊いてきたわけだ。

「ですが、国から作る作物を指示することは、もう無いのですよね?無駄な費用なのではありませんか?」
「あれ?私、国から作る作物を指示することをやめなさいって言ったっけ?」

 ヒルダの問いに、そう返す。
 この国に深入りするつもりはないけど、この国はリンゴ、ミカン、アンズ、スモモの故郷でもある。
 最低限の後始末くらいはしておくつもりだ。

「・・・おっしゃられていないですね。私がそう思い込んでいただけのようです」

 うん。
 私も言った覚えがない。

「この国は数十年間も作る作物を指示してきたのよ。それぞれの農村に、昔は連作障害に詳しい人間がいたかも知れないけど、今もいるとは限らないわ」

 私が回った村は、かろうじて不作の原因に心当たりがある人間が残っていたけど、全ての村がそうだとは限らない。

「ヒルダ。例えば、昨年ジャガイモを植えていた畑には、今年は何を植えたらいいと思う?ナス?トマト?ピーマン?色々あるわよね」
「・・・トマトですか?」

 おそらく、一番見た目が異なる作物を選んだのだろう。
 でも、残念。

「はずれよ。ちなみに、私が言った作物は全てダメよ。見た目は違っても、作物としては仲間なの。これらを入れ替えながら育てても、連絡障害が起きるわ」
「ずるいですよ、シンデレラ様」

 ヒルダが拗ねたように言ってくるけど、これは知識の無い素人が連作障害を避けるのが、それだけ難しいということを伝えるための質問なのだから仕方がない。

「農村の人間は、この作物の後にこれを植えたら豊作になった、あれを植えたら不作になった、という経験によって連作障害を避けるすべを知っていた。けど、貴重なその経験は、長年の農業政策のせいで失われてしまった」
「・・・・・」
「今から、もう一度、試行錯誤させる?豊作の年も来るかも知れないけど、不作の年は必ず来るわよ」
「私の考えが浅かったようです」

 ヒルダが素直に、農村に苗を配るための費用が必要であることを納得する。

「それに、試行錯誤しようにも、農村に色々な種類の作物の種や苗が揃っていないかも知れないしね。言っておくけど、連作障害を避けるためには、最低、4~5種類の作物は必要よ」

「わかりました。複数の苗を配ることができるように、農業政策の費用は、昨年より多めにしておきます」
「よろしくね」

 私が全てを伝えなくても、ヒルダは察したらしい。
 やはり、彼女は優秀なのだろう。

「植える苗の組み合わせは春までにリストを作っておくから、私がいなくなったら、それを参考にしなさい」

 最後にそれだけ伝えておく。
 これで報告というのは終わりかな。
 私は再び休憩に戻ろうとする。
 けど、そんな私をヒルダが、じっと見詰めてきていることに気づく。

「やはり、あなたは聖女様ですね」
「?」

 それが、どういう意味で出た言葉かは分からなかったけど、女王と呼ばれるよりはマシだ。

「もう、それで妥協しておくから、私を女王と呼ぶのは止めてね」
「承知しました」

 ヒルダは深く頭を下げて、私の言葉にそう返事をした。
 なんだか、丁寧すぎる返事だけど、まあいいや。
 私は掘りごたつという名の楽園に戻る・・・

「すみません。報告はもう一つあります」

 ・・・寸前で、また引き戻された。

「・・・・・なに?」
「そんなに嫌そうな顔をなさらなくても」

 実際に嫌なんだから仕方がない。
 話を聞こうとしているだけでも感謝して欲しいくらいだ。

「見ていただきたいのは、これです」

 そういってヒルダが一枚の布を取り出した。

「ハンカチ?」
「はい。ですが、見ていただきたいのは、ハンカチではありません」

 そう言って、ハンカチを広げようとする。
 けど、漂ってくる匂いで分かった。

「見せなくていいわ」

 その言葉にヒルダが広げるのを止める。

「わかるのですか?」
「まあね」

 トレメインの屋敷に居たときに、義理の姉妹の部屋で嗅いだことがある。
 あの頃、掃除や洗濯は仕事の一つだった。
 早熟な姉妹が、男を連れ込んだ翌朝に、その匂いは漂っていた。
 王妃の部屋を夜に訪れたときにも漂っていたはずだけど、あのときは香の匂いが強かったから、そこまで嗅ぎ分けられてはいない。
 でもまあ、ようするに、そういう匂いだ。

「そうですか。やはり、アーサー王子と・・・」

 ヒルダが何か勘違いしているようだけど、そこに触れると話が長くなりそうだから、放置しておく。
 代わりに本題に入る。

「それで、その趣味の悪いものが何?あなたが純潔を散らした証にでも取っておいたの?でも、時間が経つほど匂いがきつくなるから、洗濯するか焼却処分にするかした方がいいと思うわよ」
「私は男性の体液をハンカチに包んで取っておくほど重い女じゃありません!」

 私の言葉を、ヒルダが真っ赤になって否定してくる。
 でも、せっかく私が直接的な表現を避けたのに、はっきり言ったな。
 恥じらいとか無いんだろうか。

「じゃあ、なによ?」

 私が再び聞くと、さらに過熱しそうだったヒルダは、なんとか冷静さを取り戻したようで、少し真面目な顔をして言ってくる。

「これは、エリザベート王女の身体に付着していたものです」
「・・・・・へぇ」

 また、メンドクサイことが起こったようだ。
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