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第十四章 ヘンゼルとグレーテル

234.ヘンゼルとグレーテル(その15)

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「お兄さま、その拳銃は・・・」

 走る馬の背でしがみつきながら、わたしはお兄さまに尋ねます。

「ごめん。威力が小さいから、仕留められなかった」

 訊きたかったのは、そういうことではありません。
 ですが、知りたかったことを知ることはできました。
 お兄さまの持っている拳銃のおもちゃ。
 いえ、おもちゃだと思っていたものは、本物の拳銃だったようです。
 子供でも撃てるくらいに威力は小さいようですが、確かに弾が出ました。

 そして、お兄さまは本物であることを知っていました。
 知っていて、人影に向かって、拳銃を撃ちました。
 つまり、追いかけてきている人影は、危険だということです。

「追いかけてきているのは、木こりさんではないのですか?」

 こんな森の中にいる人といえば、木こりさんくらいしか思いつきません。
 ああ、もう一つ思いつきました。
 猟師さんでしょうか。
 猟師さんは動物を狩るくらいですから、危険かも知れません。
 ですが、お兄さまの口から出たのは、それを遥かに超える危険でした。

「あれは、吸血鬼・・・だと思う」

 吸血鬼。
 おとぎ話に出てくる存在ですが、それが現実に存在することは知っています。
 わたしとお兄さまが物心つく前に、吸血鬼が大量に発生する出来事があったからです。
 ですが、お父さまやお母さまから教えてもらった話では、ほとんどが駆逐されているはずです。

「吸血鬼はもういないのではないのですか?」

 わたしはそのことを尋ねます。
 すると、お兄さまは首を横に振って答えてきました。

「数は少なくなったけど、まだいるよ。吸血鬼を生み出す女王というのがいて、それが生きている限り、いなくならないんだ。目撃されるたびにアーサーさまが退治しているそうだけど、この魔女の森は隠れる場所が多いから退治しきれなかった吸血鬼が潜んでいるって聞いたことがあるんだ」

 追いかけてきていた人影は、確かに人間とは思えないところがありました。
 走るのが速すぎますし、お兄さまの拳銃で撃たれても起き上がってきていました。
 吸血鬼と言われると、納得するしかありません。

「どうしましょう」

 わたしは、ここがそんな場所だとは知りませんでした。
 でも、お兄さまは知っていたようです。
 お父さまとお母さまは、どうしてわたしに教えてくれなかったのでしょう。
 知っていたら、お兄さまとの駆け落ちの場所に、ここは選びませんでした。

「なんとか逃げ切れたみたいだけど、森の奥に来ちゃったな」

 お兄さまは不安そうです。
 お兄さまがそんな顔をしているのは、わたしが原因です。
 わたしは泣きたくなりました。
 怖いからではありません。
 わたしが、お兄さまにそんな顔をさせてしまっているからです。

「大丈夫だよ、グレーテル。ぼくが何とかするから」

 お兄さまが優しい声で言います。
 ですが、わたしは嬉しくありません。
 こんな状況になったのは、わたしが原因なのです。
 わたしが何とかしないといけません。
 そうしないと、わたしはお兄さまと対等にはなれません。
 対等でないと、お兄さまのお嫁さんになることはできません。

「いいえ、わたしが何とかします」
「グレーテル?」

 わたしにはお兄さまの持っている拳銃のような武器はありません。
 体力もお兄さまよりありません。
 礼儀作法ならもしかしたらお兄さまに勝てる可能性はありますが、この状況では役に立ちません。
 だから、方法は限られてきます。
 知識と冷静さで役に立つしかありません。

「・・・魔女さんの家を目指しましょう」
「魔女さん?」

 今いる場所は『魔女の森』と呼ばれています。
 森のどこかに魔女がいると言われていて、会うことができれば願いを叶えてくれると言われているのです。
 きっと森から出たいという願いも叶えてくれるはずです。
 もし叶わなかったとしても、家に入れてもらえば安全を確保できます。

「ねえ、魔女さんの家へ・・・きゃっ!」

 魔女さんの家へ向かってもらおうと話しかけたところで、馬が急に止まります。
 話しかけるために身体を前屈みにしていたわたしは、バランスを崩して馬から落ちてしまいます。
 地面の上には枯葉が積もっていて怪我はしませんでしたが、衝撃で息が詰まります。

「グレーテル!」

 馬の上からお兄さまの声がします。
 大丈夫ですと答えようとして顔をあげたところで、わたしは影に気付きます。
 わたしの上に覆いかぶさってくるように影が差してします。
 そして、その影が降ってきます。

「―――ッ!」

 影が息を呑み、その影を突き刺すように、何かがわたしの頭の上を通過します。
 上を見ると、馬が影に向かって鋭く尖った角を突き出していました。
 刺さりはしませんでしたが、影がわたしから離れます。

「吸血鬼」

 さきほど追いかけてきていた吸血鬼とは違うようです。
 けれど、人間でないことはすぐにわかりました。
 腐った果実のような甘い匂い。
 甘いけれど吸い込めば毒になる匂い。
 人間はこんな匂いをさせません。

「グレーテル、乗って!」

 お兄さまが馬に乗るように言ってきます。
 でも、できません。
 背中をみせたら、きっと馬に乗る前に襲われてしまいます。
 わたしは吸血鬼とにらみ合います。

 わたしには吸血鬼を倒すことなどできません。
 ですが、わたしが逃げずににらんでいるから警戒しているようです。
 すぐには襲いかかってきません。
 少しずつ距離を詰めてきます。

「・・・・・」

 わたしは吸血鬼を観察します。
 何か弱点はないでしょうか。
 弱点じゃなくてもいいです。
 せめて隙を作ることはできないでしょうか。
 わたしは吸血鬼を観察します。

「グレーテル!グレーテル!!!」

 お兄さまの声は聞こえてきています。
 でも、それに応える余裕はありません。
 目を逸らしたら、吸血鬼が襲いかかってくるでしょう。
 わたしは観察を続けます。

「・・・・・」

 もう吸血鬼との距離はあまりありません。
 心臓の音がうるさくて、お兄さまの声も聴こえなくなりました。
 それでも、観察を続けます。

 吸血鬼がひと跳びすれば届く距離。
 そこまで近付いた段階で、わたしは気付きました。
 吸血鬼の足元に何かが見えます。
 目を凝らすと、それはロープでした。

 あれはお兄さまを縛っていたロープでしょうか。
 それが荷物から落ちたのでしょうか。
 そうです。
 あれを吸血鬼の足に絡ませれば、なんとか隙を作れないでしょうか。

 そこまでは思い付きました。
 思い付いたのですが、身体が動きません。
 手段があり、けれどそれが困難であることを知り、急に怖くなってきました。

 成功すれば、きっと逃げることができます。
 失敗すれば、きっとわたしは殺されます。
 そして、成功する確率は、失敗する確率より、ずっとずっと低いです。
 そして、失敗する確率は、成功する確率より、ずっとずっと高いです。

 ダメです。
 足が震えてきました。
 立っていられません。
 震える足を抑えきれなくなり、わたしが地面にへたり込む寸前、

「――――――――――ッ」

 目の前から吸血鬼の姿が消えました。

「・・・・・え?」

 ぽかんと上を見上げると、逆さで宙吊りになった吸血鬼の姿がありました。
 とても小さく見えます。
 いえ、小さいのではありません。
 物凄く高い場所で宙吊りになっているのです。

 どうやら、地面に落ちていたロープは、わたしがお兄さまを縛っていたロープではなかったようです。
 だって、地面に落ちていたロープは、今は吸血鬼を宙吊りにしているのです。
 わたしは、あんな仕掛けをしていません。
 まるで、猟師さんが獲物を仕留めるときに仕掛ける罠のようです。

「あら?」

 わたしがぽかんと上を見上げていると、声が聞こえてきました。
 お兄さまの声ではありません。
 もちろん馬の声でもありません。
 女の人の声でした。

「可愛らしいお客さんね」

 声の主は、猟師さんではありませんでした。
 だって、こんな森の中だというのに、ドレスを着ています。
 真っ黒なドレスです。
 吸血鬼ではありません。
 なんだか、懐かしい香りがします。
 ですが、見覚えはありません。

「誰?」

 自然と疑問が口から漏れました。
 漏れた言葉は、女の人の耳まで届いたようです。
 女の人が答えてきました。

「私?私は魔女よ。とっても悪い魔女なの」

 楽し気な笑みを浮かべながら、女の人が答えてきました。
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