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お屋敷に戻ると、応接室のような部屋で待つように言われた。
はー。どこも広くてキレイで落ち着かないな。
ソファーに腰掛けて、部屋をぐるりと見渡す。
テーブルの上に何気なく置いてあるガラスの灰皿もお高い物なんだろうなぁ。そっと手に取ってみる。ずっしりと重い。持ち上げて灰皿の底にメーカーのシールでも貼ってないか見ていると、コンコンと部屋をノックする音がして、驚きのあまり手から灰皿が落ちそうになった。
最悪! こんなの壊しても絶対弁償できない! 滑るドジョウのように、手から落ちそうになる灰皿を必死で受け止めていると、既にドアが開いていて、マヌケな一部始終を奴に見られていた。
「何してんの?」
結局、受け止めた時には手を伸ばし、床にうつ伏せに寝そべっていた。とりあえず割れなかったのでセーフ。
「すみません……」
そのままの恰好で謝っていると、奴とは違う声がした。
「面白いお嬢さんだね」
はっ! まさか、奴の後ろでにっこりしてるのがお父様?
「も、申し訳ありません! 初めまして! 星崎実梨みのりと申します」
慌てて灰皿を戻して立ち上がると、自己紹介して頭を下げた。
「初めまして。黒澤です」
顔を上げると、お父様はすぐ近くまで来ていて、柔らかい笑みを浮かべていた。
おお。カッコいい。結構タイプかも。あたしって昔から案外渋好みなのよね。アラン・ドロンとか好きだったし。お父様はどことなくアラン・ドロンっぽいかも。上品でハンサムで色気があって、大人の男って感じ。
「どうぞ、かけて。だいたいの話は一成から聞いたよ。うちで家政婦をしたいんだって?」
あたしと向かい合うようにお父様がソファー座ると、その隣に奴が座った。
「あ、はい。そうなんです」
家政婦をしたいというのは少し語弊があるけど、この際細かいことは気にしないでおこう。
「こうして会えたのも何かの縁だろうしここで働くことが君の救いになるのならうちは構わないよ」
「えっ? ホントにいいんですか!?」
耳を疑う答えだった。履歴書もない、何処の馬の骨とも知れない女に、こんなにあっさりOKして下さるの? なんて寛大なお方。
「でも、君は本当にいいのかい?家政婦なんて大変なだけで、楽しい仕事ではないと思うけど」
声も渋くてステキ。この方にお仕えできるのなら、もうそれだけでいい。
「経験もないのでお役に立てるかどうか分かりませんが、精一杯頑張りますのでどうかよろしくお願いします!」
さっきまで断った方がいいと思っていたはずなのに、膝につきそうなくらい頭を下げている自分がいた。素直にありがたかった。ダメだって言われたら本気で困るもん。今のあたしは選り好みできる身分じゃない。まさに崖っぷち。問題アリの兄弟がいるぐらいで躊躇してはいられないのだ。
「よし。では、食事にしよう。みんなにも紹介しておきたいし」
「はい!」
はぁ、ヤバい。お父様モロタイプ~。
ダイニングに移動すると、怖い目の彼の他に若い女性と小さな男の子が座っているのが見えた。
ん? どういう家族構成なんだろう。……お母様はいらっしゃらないの?まさか、お父様ったら独身かしら。今日だけ特別、ということであたしはお父様のすぐ近くに座るよう言われた。緊張で身体が硬くなる。
「彼女はうちで家政婦をしてくれることになったホシザキミノリさん」
これで全員が揃ったのか、お父様があたしのことを紹介してくれた。っていうか、家政婦として採用されたのならお父様はNG? 旦那様? でいいのかな。
「星崎実梨です。どうぞよろしくお願いします」
立ち上がって頭を下げた。はっきりとした理由は分からないけど、なぜか着席する家族を見て違和感を覚えた。
「知っているだろうけど、君の前にいるのが次男の一成」
旦那様が紹介すると、奴はぺこりと頭を下げた。ふーん。イッセイっていうんだ。実は何にも知らないんだな。
「その隣が長男の零」
で、こっちがレイさんね。さっきの乱暴な人とは別人のように、彼は薄っすらと笑みを浮かべていた。あの目を見た後だからか、微笑みさえ不気味に感じる。
「で、君の隣にいるのが長女の史香ふみかとその息子の凌空りくだ」
「初めまして。史香です。ちなみに私は2人の妹です。で、これが息子の凌空。嬉しいなぁ、こんなに若い人が家政婦で来てくれるなんて。よろしくね」
笑顔がキュート。上の2人と違って、凄く感じがよい。
「こちらこそよろしくお願いします」
歳はあたしと同じくらいか少し下? それでももう子どもがいるなんて、凄いなぁ。
「凌空、ご挨拶は」
お母さんの言葉に少しもじもじし始めた姿が堪らない。
「くろさわりくです」
挨拶も可愛いけど、お人形さんみたいに可愛い顔の男の子だ。
「カワイイですね」
「可愛いって。凌空、よかったね」
この家で問題なのはあの兄弟だけで、妹さんもその息子さんも問題はない。よかった。ここなら頑張って働けるかもしれない。この家に来て、初めて安堵できた。食事は年配の家政婦さんらしき女性が運んできてくれた。これからはあたしの仕事になるかもしれない。よく見ておかなければ。
けど、目の前に並べられた三ツ星レストラン並みの豪勢な食事に、あたしはすっかり気を取られていた。
だって、ここ数日まともにご飯食べてなかったんだもん。お腹もぎゅるぎゅる鳴っている。
手を合わせて早速「いただきます」心の底からありがたい。あ~なんて美味しいんだろう。毎日こんな美味しいもの食べてるのかね、この人たちは。
「美味しそうに食べるね。見ていて気持ちがいいよ」
普通に食事を楽しいでいたら、旦那様に笑われた。
「はっ! すみません。あんまり美味しかったので」
「謝ることないさ。たくさん食べてくれたらいい」
優しさが五臓六腑に沁みわたりますな。息子たちとは大違い。
「食事が済んだら左近さんに君の部屋を用意してもらうように伝えておくよ」
さっき会ったばかりなのに、この受け入れ態勢。
「ああ、そのことなんだけど、彼女には離れを使ってもらうことにしたから」
でも、奴が水をさす。
「離れは零が使っているんだろ? それじゃあ彼女も気を遣うだろう」
そうそう。仰る通り。どう考えてもこの男と暮らすのはおかしい。
「だったら零はこっちに帰ってくればいいんだよ。元々、離れは住み込みの家政婦さんが使うためのものなんだし」
家政婦さんのためにわざわざ家建てちゃうのね。
「零はどうなんだ?」
旦那様が彼に訊いた時、違和感の正体が垣間見えたような気がした。誰が話しかけようと、彼はただ薄気味悪
い微笑みを浮かべているだけで、答えようとはしない。
まるで、微笑んだ仮面を被っているみたいに、その表情には心がなかった。
この人マジでヤバいよ。完全に目が死んだ魚みたいだ……。
「零君こっちに帰ってきなよ」
フミカさんが言った。
「そうだな。彼女が離れを使うならその方がいいかもしれないな」
旦那様も同意見。
「そうそう。ナニかあってからじゃ遅いからね」
性懲りもなく、奴はまた嫌みっぽく言った。
「零君は大丈夫だよ。危ないのは兄様の方でしょ」
「バカ言うんじゃないよ。俺ほどの紳士はいないって」
アハハッてみんなが笑っていても、彼だけはずっと同じ表情だった。そのことに気づいてしまったあたしは、怖くてずっと背筋が冷たかった。
表面上は理想的な家族に見えるけど、この家には触れてはいけない秘密があるような気がした。
貧乏でもお金持ちでも『家族』という括りの中では、みんな同じように問題を抱えているのかもしれない。
そう考えると、ある意味平等……?

食事が済むと、片づけを手伝いながら仕事のことについて左近さんに質問してみた。
「できれば明日から働きたいんですけど何時に来させてもらえばいいですか?」
「早速明日から働かれるのですね。では5時半にこちらのダイニングへお越し下さい」
ご、5時半!?
「それって朝ですよね?」
「ホホホ。面白いことを仰いますね。当然朝でございますよ。旦那様が6時には起きて来られますので、最低でも5時半には来て頂かないと」
「わ、分かりました」
多分、顔引き攣ってるな、あたし。だって5時半よ? まだ暗いんじゃない?
寝ずに起きていたことはあっても、その時間に起きることなんてまずない。
朝苦手なのに、大丈夫かな。
「詳しいことは明日お伝えさせていただきますので、よろしくお願いいたします」
「はい。よろしくお願いします」
それなら早く寝なきゃと思い、そろそろ離れに戻ろうとしてハッとした。
そう言えば、荷物ホテルに置きっぱだ。
「あのぉ。荷物を取りに行きたいので、外出しても大丈夫ですか?」
訊ねると左近さんは目を丸くした。
「今からですか?」
「はい。着替えも何もないので」
「でしたらタクシーをお呼びいたしましょう」
「いえいえ、滅相もない!そんなに遠くでもないですし、歩きますから!」
貧乏人は気安くタクシーなんて乗れませんのよ。
「どうかしたのかい?」
あたしたちのやり取りが聞こえたのか、旦那様が訊きに来られた。
「これから荷物を取りに行きたいと仰るので、タクシーをお呼びすると言ったのですが、歩かれると仰って」
「こんな時間に女性が1人で出歩くのはよくないな。一成、乗せて行ってあげなさい。それなら君も気を遣わないで済むだろう」
いやいや、それが一番気遣いますわー。
「俺、ワイン飲んじゃったからなぁ。零行ってやれよ。お前、飲んでないだろ」
ええー! ないわ。それもないわ。本人も顔色ひとつ変えず、うんともすんとも言わないし。
「でしたら、わたくしが」
結局、お言葉に甘え、左近さんに乗せて行ってもらうことに。申し訳なくて小さくなってしまう。
「明日伺うつもりでいたのですが」
車が走り出して暫くすると、左近さんが切り出した。
「一成坊ちゃまから黒澤家のことについて色々とお聞きになっていらっしゃいますか?」
「いえ。まさか家政婦をすることになるとは思ってもいなかったので、特に何も聞いてません」
もっと聞いておくべきだったと後悔するくらい、何の予備知識もない。
「そうでしたか。でしたら、これだけは家政婦の心得として覚えておいていただきたいのですが」
前置きを聞いて、息を呑んだ。
「家政婦というのは、他人様のご家庭に入り込むという性質上、外からでは見えないことが見えたり、耳に入ったりしてしまうことがあります。ですが、例え何を見ても聞いても、ご事情を詮索したり他言したりしないでいただきたいのです」
ドラマのようにやっちゃいけないってことね。
「分かりました。見ざる言わざる聞かざるですね」
「はい。その通りでございます」
とは言ったものの……できるかなぁ。謎が多そうな家族だしなぁ。他言はしない自信あるけど、詮索はどうだろう。今の時点でも気になってることあるし。
一抹の不安を抱きながらホテルに着き、荷物を取って精算したら財布の中身にゾッとした。紛れもなく崖っぷちギリギリ。
あの時、門の前で奴に出会ってなかったら、明日の今頃には公園で寝ていたかもしれない。
人間的にどうも好きにはなれないけど、奴のお陰で助かったのは事実だ。そこだけは感謝しておこう。
寝たことも全く憶えてないし、なかったことにしておけばいい。あんな兄弟と、って考えただけで舌を噛みたくなっちゃう。
家に着き、左近さんや旦那様にお礼を言ってから離れに向かった。
今日からここに住むのか。色々と住所変更の手続きもしなきゃ。考えながら離れの玄関を開けてがっくりきた。
やっぱりまだいらっしゃるのね。脱ぎ揃えてある靴に溜息をつく。
今日言って今日移動するのは無理だし、そのうち本宅へお帰りいただけるものと信じて、暫くは我慢しよう。
後からやって来た、雇われの身であるあたしが出て行けとは言えないし。

離れはごく普通の一軒家で、玄関を入ってすぐにキッチンがあり、その奥にはリビングと和室があった。お風呂も広いし、文句なし。一階だけでも1人で使わせてもらうには十分すぎる広さと設備だった。
あたしはこの和室を使わせて頂こう。襖を閉めればリビングからも見えないしちょうどいい。
やっぱりあたしは貧乏性にできているらしい。6畳ほどの、壁に囲まれた部屋が一番落ち着く。畳の匂いがなんだか懐かしい。
部屋が決まったところでお風呂を沸かして入った。足伸ばせるお風呂なんて初めてかも。なんて気持ちがいいんだろう。
あー! サイコ―じゃー!
いい気分でお風呂から出て、和室の押し入れを開けてみたけど、何もない。
夏ならリビングのソファーで寝ちゃうとこだけど、最近朝晩は冷えるからな。タオルケットの一枚もないのは辛い。戻って左近さんに訊こうか。でも、もう寝てるかもしれないし、夜分に本宅へ行くのは気が引ける。
ううっ……。仕方ない。
意を決して階段を上る。夜にあの微笑を見るのは怖い気もするけど、一応生きてるんだし、殺人鬼ってワケでもなさそう。(当たり前)
フーッ。深呼吸してドアをノックした。
「あのー、すみません!ちょっと伺いたいんですけど」
……シーン。
あたしの妙に大きな声だけが虚しく響いた。あっそう。無視ですかい。むくれて階段を下りようとしたらギーッて不気味な音がした。恐る恐る振り返ると、僅かに開けたドアの隙間から彼がこちらを見ていた。ホラーじゃん!普通に怖いんですけど。
「す、すみません。どこかにお布団ありませんか? 下には何もなくて」
恐怖のあまり、声が震えていた。
「……さあ」
それだけ言うと静かにドアが閉まった。なんなの、この兄弟。弟は余計なことばっかり言うのに、兄は必要なことさえ言わないの!? せっかくいい気持ちの湯上りだったのに寒くて湯冷めしそう。身震いして階段を下り、今日のところはバスタオルでもかぶって寝るしかないかと浴室の前で足を止めると、背中に何かがぶつかった。
え? 振り返るとヤツがいた。
「ぎゃー!!」
いつの間に!?足音しなかったのにぃ。
「な、なんです?」
壁に背中をべったりとつけ、彼の動向を窺った。
彼は死んだ魚の目の微笑みで、黙って浴室のドアを開けた。
手には着替えを持っているし、どうやらお風呂に入るらしい。
風呂は共用か……もしやトイレも!? サイアク。
神様。どうか、1日でも早く彼が本宅へ帰りますように。
祈りを捧げ、その夜は仕方なくコートをかぶってソファーで寝た。朝早いし、早く寝なきゃいけないのに、肌寒くてなかなか寝付けなかった。
漸く寝付いた頃には無情にも目覚ましが鳴っていた。4時半……まだ外は薄暗いし、寒い。
初日から遅刻するワケにもいかないし、眠い目をこすって用意し、5時20分には離れを出た。
玄関から入っちゃっていいのかな。チャイム鳴らしたら迷惑よね。うだうだしていたら、玄関が開いた。
「おはようございます」
左近さんの姿にホッと胸を撫で下ろす。
「おはようございます。よかった。どうやって入ったらいいのか分からなくて」
「ホホホ。案外、気を遣われる方なのですね。鍵は開いておりますから、普通に入って下さって構わないのですよ」
ありがたいことだけど、昨日会ったばかりの人間をこんなにも簡単に家に入れるなんて逆の立場なら怖いかも。これもセレブの余裕なのか。
複雑な気持ちのまま、あたしは黒澤家に足を踏み入れた。
不安ももちろんあったけど、この時のあたしはまだ暢気なもんだった。
のちに、あんなことやこんなことがあるなんて想像もしていなかったから――。


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