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電車のサラリーマン

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「って感じでよぉ。怒鳴られたわけよ。意味わかんなくね? 何で俺がこんな目に遭わなきゃなんねえの? 自分勝手にイライラしてさ、それを俺にぶつけんなって感じだぜ。まったく……」
 A吉は大きくため息をつくと、やれやれと首を振った。
「A吉は何で怒鳴られたんだろうね?」
「あ? そんなのS男がイライラしてたからに決まってんだろ? んで、ちょうど怒鳴りやすい生意気そうな若者がいたから、怒鳴った。ちげーの?」
「まあ、そうかもしれないね」
「何だよ。歯切れ悪いなー」
「S男がイライラしていた理由はなんだろうね?」
「イライラしてた理由? そんなの知らねえよ。何で俺がそんなこと考えなきゃならねえんだよ」
 A吉の言う通りだ。そんな義務はないし、知りたいとも思わないだろう。
「まあそう言わずにさ、ちょっとだけ。ちょっとだけ考えてもみようよ」
「まあ、お前が言うなら――うーん……。でもやっぱ分かんねえよ」
「なら切り口を探してみようか――S男は結婚してたかな?」
「結婚? あーしてたな。指輪してたわ。こんなやつでも結婚できんだなって思ったわ」
 A吉は口が悪く、誰に対しても不遜だ。もしかすると、S男が彼を標的にしたのも、それが原因なのかもしれない。――僕はそんなA吉が好きだけど、一般的な目線では、彼の第一印象は相当に悪いだろう。
 それはともかく――「もしかしたら、S男の家庭環境はあまり良いものではないのかもしれないね。奥さんと上手くいってないとか、子供から邪険に扱われているとか、はたまたその両方とか――どちらにせよ、それだけのイライラ、日々の積み重ねがないと溜まらないだろうからね」
「家で居場所がないお父さんって感じか?」
「うん。仕事から帰ってきて、家でなんの癒しもないのかも。それどころか、逆にイライラの捌け口にされてるとか。せっかく家族のために働いてきたのに……ちょっと気の毒だね」
「まあたしかにそうだな……って! 待て待て! 何俺は納得しそうになってんだ! 俺はあいつを愚痴りにきたんだ!」
 A吉は思考を振り払うかのように、頭を何度もブンブンと振った。
「あれ? 納得してくれないの? しょーがないなー」
「何でニヤニヤしてんだよ。気持ち悪い」
「僕、ニヤニヤしてた?」
「してた。喜色が気色悪かった」
「お、上手いこと言うね――じゃなかった。S男がイライラしていた原因を考えてたんだった。彼の風貌ってその……かなり、清潔感に欠けるものだったんだよね?」
「そうだな。ハゲ散らかしてるし、爪は汚ねえ。スーツはシワだらけで、眩しいくらいにテカってたぜ。見るからに仕事デキる風ではなかったな」
「それだよA吉」
「どれだってばよ」
「仕事ができないサラリーマン。ならば、会社でも居場所がないんじゃないかな? 家と同じようにストレスの捌け口にされていてもおかしくない」
「つまりお前は、S男が家でも会社でも居場所のないやつで、それがあいつのストレスの原因だっていいたいのか?」
「そういうこと。S男は『可哀想なやつ』なんだ」
「そっか。あいつは可哀想なやつだったのか――こういうときってさ、どう対処するのが一番なんだろうな。俺は間違ってた気がする」
 A吉は肩を落とした。
「まあ一番の対処法は無視して、気にしないだね。触らぬ神に祟りなしってやつだよ。この場合、神じゃなくて、極上のクズだけれど」
「そりゃあ、それが一番無難なことは分かってんだけど、気にしねえ」
「他? 他はそうだなぁ……まあ妥当に謝るとか?」
「何でこっちが謝んなきゃならねえんだよ」
「相手の欲求を満たすのさ。S男からしたら、君は自分の自尊心を踏み躙って、イライラさせた加害者なんだ。むろん、謝罪をしてほしいって思っているんだよ。――非を認めて、こうべ垂れてほしいんだ」
「おいおい! 俺が加害者で、あいつが被害者かよ!? むしろこっちが怒鳴られてるんだけど!?」
「S男の考えだとね。彼はA吉のせいでイライラしたんだ。――いや、させられたんだ」
「いや! テメェで勝手にイライラしたんじゃねえか! とんだ責任転嫁だな!」
「まあそうだね。君の言う通り、責任転嫁も甚だしい。――ただ、S男はそう思わなかった。彼は自分を被害者であると、A吉を加害者であると、強く、思っていた。――そのあり得なく肥大化した被害者意識が、電車という公共の場で、彼が君を怒鳴った原因だろうね。膨れ過ぎて、溢れ過ぎて、爆発して、こぼれ落ちた。感情抑制がままならなかった」
「はあ……なんだかぶっ飛びすぎてて、もう訳わからねえ。――とりあえず、そういうときは謝っとけばいいんだな?」
「うーん。いや、あまりおすすめはできないパターンもあるんだよね」
「おいおい、お前が言い出したのに?」
「ははは、そうだね。――というのも、謝って済むパターンと謝って済まないパターンがあるからね」
 謝ったからといって、相手が素直に引くとは限らない。そういうこともある。
「だったらどうすんのがベストなんだよ」
「ベスト? ベストは簡単だよ」
「あ!? 簡単なら先に言えよ! 何もったいぶってんだよ」
「別にもったいぶってないさ。君には難しいことだったからさ。なにせ、君はもう、怒鳴られてしまったのだから」
「は?」
「怒鳴られないようにする。それがベストなのさ」
「ん? いやおい。それじゃあ対処じゃなくて予防じゃねえか!」
「はは、これは一本取られたな――まあでも、ベストなのはたしかさ。戦争だって起こらないように予防するのがベストだろ? たとえそれが一方的な吹っ掛けによるものだとしてもだ」
「それはそうだけどよ。規模が違い過ぎねえか? 戦争と、ただのいざこざだぞ?」
「戦争もイザコザだよ。さして構造は変わらないさ。だから起こった後より、起こらないようにするのがベスト。――ただまあ今回は起こってしまったことだし、対処法としてベストをあげるのなら、やっぱり気にしないことじゃない?」
「そうだよなぁ。気にしないのがベストだよな」
 A吉は両手を後頭部に回して、思い切り伸びた。――表情を見る限り、まだ、消化不良のようだ。
「で、A吉はどうしたんだい? 君の態度から察するに、無視したわけでも、平謝りしたわけでも、ないんでしょ? 常識的じゃない君の対処に僕は興味がある」
「常識的じゃないって、お前なあ。――まあいいや。それでな……」
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