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1 弟の妻、美香の決心(1)
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鏡が、また曇ってしまう。
美香は古い鏡台から顔を少し遠ざけ、リキッド・ファンデーションを顔にのばし始めた。白濁した鏡が透明に戻ると、ファンデーションでも隠せない隈が目の下に張りついている。コンシーラーを使えばよかったと思ったけれど、もう遅い。
「ママ、まひろちゃん家まで、自転車で行ってもいい?」
いつもは友達のところに持っていくのを禁止しているゲーム機を今日はもって行くことを許したので、愛香は早く出かけたくて、朝早くから、落ち着きなく家の中を走り回っている。
「パパとママが出かける時間まで待っててちょうだい。タクシーで送っていってあげるから」
愛香には、しばらく会えなくなるかもしれない、と思うと、またため息をつきそうになる。すぐに自首しても、そして、いくら執行猶予つきの判決が出ると言っても拘留は免れないだろう。
「愛香、こっちへおいで」
黙って抱き寄せた。
「ママどうしたの?」
「なんでもない。愛香のこと、ぎゅってしたくなっただけ」
「……ママ大丈夫? 最近すごく疲れてるみたい」
「大丈夫よ」
眉を描き、大きなブラシで、少し大げさにチークを入れる
「誠おじさんの病気、そんなに悪いの?」
「ううん、伯父さんは元気よ」
誠は愛香にとって、自慢の伯父だった。
愛香の部屋には、愛香が幼稚園に通っているころに、誠が漫画雑誌に連載していた『時空巫女レナ』のカラー原画が飾ってある。累計五百万部売れ、その後にテレビアニメ化されたメガヒット作だ。
淡い紫色の髪をツインテールに結い、白いミニのワンピースを着たレナはそのころの愛香の憧れだった。誠は少しエキセントリックというか、自分の世界の中だけで生きているようなところがあって、伯父らしく愛香を可愛がったりすることはまるでなかったけれど、そのレナの原画を愛香にくれたときの、誠の愛香に対するやさしげなまなざしがひどく嬉しかったことを覚えている。
その作品を最後に誠は漫画を描くことができなくなった。四肢の麻痺が進行し、見る間にしゃべることも、歩くことも、ものを食べることもできなくなってしまったのだった。
「やっぱり愛香も行く。誠おじさんのお誕生日だもん」
紅筆で唇の輪郭を描きながら、美香は、またひとつ深いため息をついた。愛香は絶対に連れて行けない。だからこそ、ずいぶん前から愛香の友達であるまひろの母親に、どうしても愛香を置いて出かけなければならない用があるので、一日愛香を預かって欲しいと頼んでおいた。愛香には、誠おじさんは重い病気にかかっていて、バースデーパーティーといえども子供が行っても楽しいことはないし、病気に障るので、愛香を連れて行くことはできないと、何度も説明しておいた。愛香が直前になって、行きたいと言い出すことなんて考えてはいなかった。そんなことは絶対にできない。
「まひろちゃん、愛香が来るの、すごく楽しみにしてるんじゃない?」
できあがった顔はいつもと同じなはずなのに、やはり生気を欠いている。
「……ねえママ、なんだか今日行かなかったら誠おじさんにはもう会えないような気がする」
子供の勘は恐ろしいほどに鋭い。やはり尋常ならざる不穏な空気を気取られてしまったのだろうか?
「また会えるに決まってるでしょ。元気になってまたレナの絵を描いてくれるってば」
喉のあたりがかあっと熱くなって、脇の下に粘つく汗をかいた。
「美香、そろそろ出よう。支度できたか?」
リビングのほうから、崇の声が聞こえたので、美香は急いで、黒い麻のワンピースとジャケットを着た。なんだかいかにも不祝儀を予見しているみたいだなと思い、淡いグレーのプレスドパンツに足を突っ込む。皺になりにくいマイクロファイバー製で、しばらく着替えられなくても、型くずれしない優れものだ。出かける支度をすべて整えてから、冷凍庫を開けて、昨日大量に作って冷凍庫に入れておいたハンバーグとシュウマイがきちんと凍っているか、確認していると、タクシーのクラクションが聞こえてきた。
美香は古い鏡台から顔を少し遠ざけ、リキッド・ファンデーションを顔にのばし始めた。白濁した鏡が透明に戻ると、ファンデーションでも隠せない隈が目の下に張りついている。コンシーラーを使えばよかったと思ったけれど、もう遅い。
「ママ、まひろちゃん家まで、自転車で行ってもいい?」
いつもは友達のところに持っていくのを禁止しているゲーム機を今日はもって行くことを許したので、愛香は早く出かけたくて、朝早くから、落ち着きなく家の中を走り回っている。
「パパとママが出かける時間まで待っててちょうだい。タクシーで送っていってあげるから」
愛香には、しばらく会えなくなるかもしれない、と思うと、またため息をつきそうになる。すぐに自首しても、そして、いくら執行猶予つきの判決が出ると言っても拘留は免れないだろう。
「愛香、こっちへおいで」
黙って抱き寄せた。
「ママどうしたの?」
「なんでもない。愛香のこと、ぎゅってしたくなっただけ」
「……ママ大丈夫? 最近すごく疲れてるみたい」
「大丈夫よ」
眉を描き、大きなブラシで、少し大げさにチークを入れる
「誠おじさんの病気、そんなに悪いの?」
「ううん、伯父さんは元気よ」
誠は愛香にとって、自慢の伯父だった。
愛香の部屋には、愛香が幼稚園に通っているころに、誠が漫画雑誌に連載していた『時空巫女レナ』のカラー原画が飾ってある。累計五百万部売れ、その後にテレビアニメ化されたメガヒット作だ。
淡い紫色の髪をツインテールに結い、白いミニのワンピースを着たレナはそのころの愛香の憧れだった。誠は少しエキセントリックというか、自分の世界の中だけで生きているようなところがあって、伯父らしく愛香を可愛がったりすることはまるでなかったけれど、そのレナの原画を愛香にくれたときの、誠の愛香に対するやさしげなまなざしがひどく嬉しかったことを覚えている。
その作品を最後に誠は漫画を描くことができなくなった。四肢の麻痺が進行し、見る間にしゃべることも、歩くことも、ものを食べることもできなくなってしまったのだった。
「やっぱり愛香も行く。誠おじさんのお誕生日だもん」
紅筆で唇の輪郭を描きながら、美香は、またひとつ深いため息をついた。愛香は絶対に連れて行けない。だからこそ、ずいぶん前から愛香の友達であるまひろの母親に、どうしても愛香を置いて出かけなければならない用があるので、一日愛香を預かって欲しいと頼んでおいた。愛香には、誠おじさんは重い病気にかかっていて、バースデーパーティーといえども子供が行っても楽しいことはないし、病気に障るので、愛香を連れて行くことはできないと、何度も説明しておいた。愛香が直前になって、行きたいと言い出すことなんて考えてはいなかった。そんなことは絶対にできない。
「まひろちゃん、愛香が来るの、すごく楽しみにしてるんじゃない?」
できあがった顔はいつもと同じなはずなのに、やはり生気を欠いている。
「……ねえママ、なんだか今日行かなかったら誠おじさんにはもう会えないような気がする」
子供の勘は恐ろしいほどに鋭い。やはり尋常ならざる不穏な空気を気取られてしまったのだろうか?
「また会えるに決まってるでしょ。元気になってまたレナの絵を描いてくれるってば」
喉のあたりがかあっと熱くなって、脇の下に粘つく汗をかいた。
「美香、そろそろ出よう。支度できたか?」
リビングのほうから、崇の声が聞こえたので、美香は急いで、黒い麻のワンピースとジャケットを着た。なんだかいかにも不祝儀を予見しているみたいだなと思い、淡いグレーのプレスドパンツに足を突っ込む。皺になりにくいマイクロファイバー製で、しばらく着替えられなくても、型くずれしない優れものだ。出かける支度をすべて整えてから、冷凍庫を開けて、昨日大量に作って冷凍庫に入れておいたハンバーグとシュウマイがきちんと凍っているか、確認していると、タクシーのクラクションが聞こえてきた。
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