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1 弟の妻、美香の決心(2)
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「ねえ、どうして崇がやらなくちゃいけないの?」
愛香がタクシーを降りると、さっそく美香は今までに何百回も聞いた問いを崇に投げつけた。答えはいつも同じだとわかっていても、もう一回聞けば違う答えに変わることをつい期待してしまう。
「……兄貴に頼まれたんだから、仕方ないだろ。兄貴の身になって考えてもみろよ。子供の頃から漫画を描くことだけが生きがいの変わり者だったんだ。それがもう五年もあんな状態なんだぜ。それに呼吸器の装着も拒否してたのに、義姉さんが勝手につけたんだ。だから兄貴の意を汲んで頼みを聞いてやらなきゃならないと思わないか?」
「でも、だからって何で崇がやらなきゃならないの? お義母さんも、お義姉さんもいるのに」
崇は、美香の質問には答えずに、腕組みしたまま窓の外ばかり見ている。
「私がやる」
「だめだ」
「……仕事はどうするの? 家のローンは? 私がやれば崇が職を失うこともないし」
同年代のサラリーマンと比べて多いとはいえない給料をこつこつとためて、一戸建ての家を買った。駅からも遠く、築年数は経っていたけれど、バブルの頃は億を超えた物件だったと不動産業者からは聞かされた。崇が職を失えば、美香がパートに出たとしても、ローンの支払いはかなり苦しい。
「俺の兄貴だ。頼まれたことは俺がやる」
「……前科がつくんでしょ。私は専業主婦だからいいけど、崇は……」
判例についてはインターネットで詳細に調べた。
ほとんどの場合、執行猶予つきの判決が出される。でも、裁判が終わるまでは拘置所に入らなければならない。その間だけ、崇に愛香の面倒を見てもらえばいい。義母にはもしかしたら恨まれるかもしれないけれど、実母はしばらくこっちに出てきてくれるかもしれない。
「だから、頼まれたのは俺なんだから、俺がやるって」
「事故に見せかけることはできないの?」
何度もきいた。そんなことを考えていると、自分が本物の犯罪者になったみたいで空恐ろしくなる。
「……ばれたら刑が重くなる」
答えはいつも同じだ。
空想癖のあるエキセントリックな兄の尻拭いをしながら、あきれるほど実直に育った崇らしい答えだった。そういうところが好きになって結婚した。崇の前では、自分を含め、どんな人間でも腹黒く見えてしまう。
「誰か知らない人にお金を払ってやってもらうことはできないの?」
刑務所に入りたくて罪を犯す人だっているような世の中なのだ。探せばみつからないことはないのではないかと思う。
「……いい加減にしないか。もう決めたことだ」
タクシーが駅のロータリーに滑り込んだ。
誠の家は、このあたりでは、レナ御殿と呼ばれている。
都心から私鉄に乗り換えて五分、そこから商店街を抜けたところにある、洒落たつくりの家が立ち並ぶ高級住宅街の中でもひときわ人目を引く巨大な白い家だ。ヒロインのレナが巫女として仕えるパルテノン神殿をモデルにしているであろう白い神殿を模して建てられたものだからだ。
門柱につけられたインターホンを押すと、耳障りなノイズの後に、「どなたですか?」という抑揚のない女の声が聞こえてくる。誠の妻である由紀恵の声だ。鍛鉄細工が施された装飾的なゲートが滑るように開いた。
義母の真佐子と、ごく形式的なあいさつを交わすと、新しいヘルパーの野上という男がほとんど水平に近い角度に倒された車椅子を押してきた。入れ替わりに真佐子と由紀恵は準備があるからと、カウンターキッチンの向こうに消えた。美香が慌てて追いかけると、由紀恵に制止された。
「美香さん、こっちは私とお義母さんだけで大丈夫。崇さんも、美香さんもめったに誠には会いにこないんだから、ゆっくり話でも聞いてあげてください」
ふわりとした微笑の奥に、皮肉が込められていて、相変わらず食えない女だと思う。この前会ったときよりも、心なしか由紀恵はやつれているように見えるのに、どこかしらなまめかしさを増したような気がする。化粧気はほとんどなく、ジーンズにワークシャツという少年のような出で立ちで、いつもとどこが違うかといわれてもわからないのだけど。
由紀恵は、崇と美香が今日何をしに来たのか、知っているのだろうか。なぜ、誠はあんなことを由紀恵ではなく崇に頼んだのだろう。
誠は、頬の肉をだらりと下げ、瞳を天井に向け、呆けたような顔をしている。誠の表情から何を考えているかを読み取るなんて、絶対に無理だ。誠の精神も、外見と同じように、だらりと弛緩して夢うつつの状態にあるのなら、まだよかった。意識も知覚も思考も発病前とまったく変わりがないということが、美香の心を憂鬱にさせる。
「兄貴、お誕生日おめでとう」
崇の声はかすれて上ずっている。誠の眼球が、うなずくようにわずかに下に動いた。
誠が発病したのは、五年ほど前、ちょうどレナ御殿を建て、引越しを済ませた直後のことだった。
連載に追われて慢性化した肩こりが、腕の痺れとなって、ペンを上手く操れないことが多くなり、いくつかの大病院の整形外科を回ったあとに、神経内科を紹介され、そこで運動ニューロン病の一種、筋萎縮性側策硬化症(ALS)であると診断された。
筋肉運動を司る神経細胞が死んでいってしまう原因不明の難病であり、治療方法も確立されていない。少しずつ、四肢の麻痺が進行していって、三~五年で呼吸を司る筋肉が動かなくなり、人工呼吸器の装着が必要となる。ALSの患者は、発病後の早い段階で、将来呼吸器を装着するかどうか決断しなければならない。呼吸器の装着を選択しなければ、自発呼吸ができなくなった時点で死に至る。
介護の負担が大きくなることから、ほとんどの患者が呼吸器の装着を拒否するが、たとえ患者が拒否していても、実際に呼吸が苦しくなってから、呼吸器装着を承諾するケースや、患者本人が意識を失ったあとに、家族が患者の意思を無視して呼吸器を装着するケースなども多いと聞く。
誠の場合は後者だった。由紀恵が、まったく取り乱すことなく決断を下したと、崇から聞いた。ただ、一度呼吸器を装着してしまうと、たとえ患者が望んだとしても、合法的に取り外すことは不可能となる。
ヘルパーは、不器用な手つきで誠の膝の上にノートパソコンを広げ、コードでつながれた小さな白いクッションのようなものを誠の足元に置く。クッションには、わずかな動きに反応して、画面上のカーソルを動かすことができるタッチセンサーが埋め込まれている。パソコンが立ちあがると、画面いっぱいに平仮名の五十音表が浮かび上がる。
カーソルがさまようように動きはじめ、画面情報に文字が綴られる。
<人生最高の日に、ようこそ>
部屋の温度が下がったような気がした。この部屋にいる誰もが表情というものを失っている。
愛香がタクシーを降りると、さっそく美香は今までに何百回も聞いた問いを崇に投げつけた。答えはいつも同じだとわかっていても、もう一回聞けば違う答えに変わることをつい期待してしまう。
「……兄貴に頼まれたんだから、仕方ないだろ。兄貴の身になって考えてもみろよ。子供の頃から漫画を描くことだけが生きがいの変わり者だったんだ。それがもう五年もあんな状態なんだぜ。それに呼吸器の装着も拒否してたのに、義姉さんが勝手につけたんだ。だから兄貴の意を汲んで頼みを聞いてやらなきゃならないと思わないか?」
「でも、だからって何で崇がやらなきゃならないの? お義母さんも、お義姉さんもいるのに」
崇は、美香の質問には答えずに、腕組みしたまま窓の外ばかり見ている。
「私がやる」
「だめだ」
「……仕事はどうするの? 家のローンは? 私がやれば崇が職を失うこともないし」
同年代のサラリーマンと比べて多いとはいえない給料をこつこつとためて、一戸建ての家を買った。駅からも遠く、築年数は経っていたけれど、バブルの頃は億を超えた物件だったと不動産業者からは聞かされた。崇が職を失えば、美香がパートに出たとしても、ローンの支払いはかなり苦しい。
「俺の兄貴だ。頼まれたことは俺がやる」
「……前科がつくんでしょ。私は専業主婦だからいいけど、崇は……」
判例についてはインターネットで詳細に調べた。
ほとんどの場合、執行猶予つきの判決が出される。でも、裁判が終わるまでは拘置所に入らなければならない。その間だけ、崇に愛香の面倒を見てもらえばいい。義母にはもしかしたら恨まれるかもしれないけれど、実母はしばらくこっちに出てきてくれるかもしれない。
「だから、頼まれたのは俺なんだから、俺がやるって」
「事故に見せかけることはできないの?」
何度もきいた。そんなことを考えていると、自分が本物の犯罪者になったみたいで空恐ろしくなる。
「……ばれたら刑が重くなる」
答えはいつも同じだ。
空想癖のあるエキセントリックな兄の尻拭いをしながら、あきれるほど実直に育った崇らしい答えだった。そういうところが好きになって結婚した。崇の前では、自分を含め、どんな人間でも腹黒く見えてしまう。
「誰か知らない人にお金を払ってやってもらうことはできないの?」
刑務所に入りたくて罪を犯す人だっているような世の中なのだ。探せばみつからないことはないのではないかと思う。
「……いい加減にしないか。もう決めたことだ」
タクシーが駅のロータリーに滑り込んだ。
誠の家は、このあたりでは、レナ御殿と呼ばれている。
都心から私鉄に乗り換えて五分、そこから商店街を抜けたところにある、洒落たつくりの家が立ち並ぶ高級住宅街の中でもひときわ人目を引く巨大な白い家だ。ヒロインのレナが巫女として仕えるパルテノン神殿をモデルにしているであろう白い神殿を模して建てられたものだからだ。
門柱につけられたインターホンを押すと、耳障りなノイズの後に、「どなたですか?」という抑揚のない女の声が聞こえてくる。誠の妻である由紀恵の声だ。鍛鉄細工が施された装飾的なゲートが滑るように開いた。
義母の真佐子と、ごく形式的なあいさつを交わすと、新しいヘルパーの野上という男がほとんど水平に近い角度に倒された車椅子を押してきた。入れ替わりに真佐子と由紀恵は準備があるからと、カウンターキッチンの向こうに消えた。美香が慌てて追いかけると、由紀恵に制止された。
「美香さん、こっちは私とお義母さんだけで大丈夫。崇さんも、美香さんもめったに誠には会いにこないんだから、ゆっくり話でも聞いてあげてください」
ふわりとした微笑の奥に、皮肉が込められていて、相変わらず食えない女だと思う。この前会ったときよりも、心なしか由紀恵はやつれているように見えるのに、どこかしらなまめかしさを増したような気がする。化粧気はほとんどなく、ジーンズにワークシャツという少年のような出で立ちで、いつもとどこが違うかといわれてもわからないのだけど。
由紀恵は、崇と美香が今日何をしに来たのか、知っているのだろうか。なぜ、誠はあんなことを由紀恵ではなく崇に頼んだのだろう。
誠は、頬の肉をだらりと下げ、瞳を天井に向け、呆けたような顔をしている。誠の表情から何を考えているかを読み取るなんて、絶対に無理だ。誠の精神も、外見と同じように、だらりと弛緩して夢うつつの状態にあるのなら、まだよかった。意識も知覚も思考も発病前とまったく変わりがないということが、美香の心を憂鬱にさせる。
「兄貴、お誕生日おめでとう」
崇の声はかすれて上ずっている。誠の眼球が、うなずくようにわずかに下に動いた。
誠が発病したのは、五年ほど前、ちょうどレナ御殿を建て、引越しを済ませた直後のことだった。
連載に追われて慢性化した肩こりが、腕の痺れとなって、ペンを上手く操れないことが多くなり、いくつかの大病院の整形外科を回ったあとに、神経内科を紹介され、そこで運動ニューロン病の一種、筋萎縮性側策硬化症(ALS)であると診断された。
筋肉運動を司る神経細胞が死んでいってしまう原因不明の難病であり、治療方法も確立されていない。少しずつ、四肢の麻痺が進行していって、三~五年で呼吸を司る筋肉が動かなくなり、人工呼吸器の装着が必要となる。ALSの患者は、発病後の早い段階で、将来呼吸器を装着するかどうか決断しなければならない。呼吸器の装着を選択しなければ、自発呼吸ができなくなった時点で死に至る。
介護の負担が大きくなることから、ほとんどの患者が呼吸器の装着を拒否するが、たとえ患者が拒否していても、実際に呼吸が苦しくなってから、呼吸器装着を承諾するケースや、患者本人が意識を失ったあとに、家族が患者の意思を無視して呼吸器を装着するケースなども多いと聞く。
誠の場合は後者だった。由紀恵が、まったく取り乱すことなく決断を下したと、崇から聞いた。ただ、一度呼吸器を装着してしまうと、たとえ患者が望んだとしても、合法的に取り外すことは不可能となる。
ヘルパーは、不器用な手つきで誠の膝の上にノートパソコンを広げ、コードでつながれた小さな白いクッションのようなものを誠の足元に置く。クッションには、わずかな動きに反応して、画面上のカーソルを動かすことができるタッチセンサーが埋め込まれている。パソコンが立ちあがると、画面いっぱいに平仮名の五十音表が浮かび上がる。
カーソルがさまようように動きはじめ、画面情報に文字が綴られる。
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部屋の温度が下がったような気がした。この部屋にいる誰もが表情というものを失っている。
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