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1 弟の妻、美香の決心(3)
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美香は廊下に出ると、スリッパを脱いだ。タイルの床では足音が響きすぎるような気がしたからだ。
出前の寿司に、手を出す気にはなれず、バースデーケーキ代わりの桃のムースを三分の一ほど無理矢理口元に運んだ。このあたりの住民だけが知る味の高級洋菓子店のものだ。こんなものを口にすることは当分の間ないだろうと思ったけれど、味などわからなかった
誠は、由紀恵の介助で食事をし、時々意思疎通装置を使って、崇と真佐子と会話をした。自由に話せるころに、誠がこんなに饒舌だったのを見たことはなかった。その間、由紀恵と野上がそれぞれ一度ずつ、誠の痰の吸引をした。
誠は疲れたからと野上を伴って自室に戻った。真佐子によると、野上は区の障害福祉課から派遣されてきたヘルパーではなく、誠がインターネットを通じて個人的に雇用したヘルパーだった。老人ホームで長く介護をしたらしいが、誠に雇われる少し前に仕事をやめていた。柔和な顔立ちをしていて、ハンサムといえなくもないけれど、なんとなく動作が遅くたどたどしくて、その上腕力があるとも思えなかった。誠はなぜこんな男をヘルパーとして雇ったのだろうか。誠の漫画のファンなのかと思って、時空巫女レナの話をしてみたが、大して詳しくもなく漫画家としての誠に興味を持っているとは思えなかった。
由紀恵も少し眠るといって部屋を出ていった。由紀恵は一晩中起きて、誠の様子をみている。人工呼吸器を装着したALS患者には、二十四時間の介護が必要とされる。何かの拍子に異物が気管に入ってしまったり、人工呼吸器の管が外れてしまったりすることがあるからだ。誠が居間を出るときに、わずかに瞳を動かして崇を見たような気がした。殺れ、ということなのだろうか。野上は五分ほどで戻ってきた。しばらくひとりにして欲しい、ということだった。
真佐子は、買い物に行かなければならないと言って、エプロンを外した。野上も居間を出て行った。野上は、誠が漫画を描いていたころに、アシスタントが寝泊りしていた部屋を使っている。
崇に不自然に思われないように、手洗いに行くといって居間を出た。崇がやる前にやらなければ。もう迷いはなかった。
誠が、四十五歳の誕生日に、呼吸器の管を抜いてほしいと、崇に頼んできたのは、ひと月ほど前のことだった。それから毎晩のように、崇と言い合いをし、眠れない日々が続いた。なぜ、義姉に、あるいは義母に頼まないのだろうか、なぜ弟の崇がやらなければならないのか、思いなおして天寿を全うするように説得できないのか、どうしても誠を殺さなければならないのなら、崇ではなく美香がやるべきではないのか。答えは出ないままその日がやってきた。答えはとっくに出ていた。崇の代わりに、誠の人工呼吸器の管を抜く。
美香は、誠の部屋のドアを開けた。
誠は眠っていた。誠の望みどおりに四十五歳の誕生日に人工呼吸器の管を抜くことについて、ひと月以上夫の崇と口論を続けてきたけれど、実際にどこの管をどうやって抜くのか、深く考えたことはなかった。そうだ、その前に警報が鳴らないように、まず電源を切る。ベッドの脇には、脚のついた箱型のモニターがある。電源のスイッチを探すと、モニターにもかかわらずランプがひとつも点灯していない。やっと見つけた銀色のレバーは下向きで、OFFを指し示している。どういうことなのかわからなかった。スイッチを入れようとして銀色のレバーに手を伸ばした。誠が、死んでしまう。殺そうとしているのではないか? 何をしているのかよくわからない。唐突にドアが開いた。崇だった。
「……何してるんだ、こんなところで」
※ 続きはキンドル電子書籍にてお楽しみください。
出前の寿司に、手を出す気にはなれず、バースデーケーキ代わりの桃のムースを三分の一ほど無理矢理口元に運んだ。このあたりの住民だけが知る味の高級洋菓子店のものだ。こんなものを口にすることは当分の間ないだろうと思ったけれど、味などわからなかった
誠は、由紀恵の介助で食事をし、時々意思疎通装置を使って、崇と真佐子と会話をした。自由に話せるころに、誠がこんなに饒舌だったのを見たことはなかった。その間、由紀恵と野上がそれぞれ一度ずつ、誠の痰の吸引をした。
誠は疲れたからと野上を伴って自室に戻った。真佐子によると、野上は区の障害福祉課から派遣されてきたヘルパーではなく、誠がインターネットを通じて個人的に雇用したヘルパーだった。老人ホームで長く介護をしたらしいが、誠に雇われる少し前に仕事をやめていた。柔和な顔立ちをしていて、ハンサムといえなくもないけれど、なんとなく動作が遅くたどたどしくて、その上腕力があるとも思えなかった。誠はなぜこんな男をヘルパーとして雇ったのだろうか。誠の漫画のファンなのかと思って、時空巫女レナの話をしてみたが、大して詳しくもなく漫画家としての誠に興味を持っているとは思えなかった。
由紀恵も少し眠るといって部屋を出ていった。由紀恵は一晩中起きて、誠の様子をみている。人工呼吸器を装着したALS患者には、二十四時間の介護が必要とされる。何かの拍子に異物が気管に入ってしまったり、人工呼吸器の管が外れてしまったりすることがあるからだ。誠が居間を出るときに、わずかに瞳を動かして崇を見たような気がした。殺れ、ということなのだろうか。野上は五分ほどで戻ってきた。しばらくひとりにして欲しい、ということだった。
真佐子は、買い物に行かなければならないと言って、エプロンを外した。野上も居間を出て行った。野上は、誠が漫画を描いていたころに、アシスタントが寝泊りしていた部屋を使っている。
崇に不自然に思われないように、手洗いに行くといって居間を出た。崇がやる前にやらなければ。もう迷いはなかった。
誠が、四十五歳の誕生日に、呼吸器の管を抜いてほしいと、崇に頼んできたのは、ひと月ほど前のことだった。それから毎晩のように、崇と言い合いをし、眠れない日々が続いた。なぜ、義姉に、あるいは義母に頼まないのだろうか、なぜ弟の崇がやらなければならないのか、思いなおして天寿を全うするように説得できないのか、どうしても誠を殺さなければならないのなら、崇ではなく美香がやるべきではないのか。答えは出ないままその日がやってきた。答えはとっくに出ていた。崇の代わりに、誠の人工呼吸器の管を抜く。
美香は、誠の部屋のドアを開けた。
誠は眠っていた。誠の望みどおりに四十五歳の誕生日に人工呼吸器の管を抜くことについて、ひと月以上夫の崇と口論を続けてきたけれど、実際にどこの管をどうやって抜くのか、深く考えたことはなかった。そうだ、その前に警報が鳴らないように、まず電源を切る。ベッドの脇には、脚のついた箱型のモニターがある。電源のスイッチを探すと、モニターにもかかわらずランプがひとつも点灯していない。やっと見つけた銀色のレバーは下向きで、OFFを指し示している。どういうことなのかわからなかった。スイッチを入れようとして銀色のレバーに手を伸ばした。誠が、死んでしまう。殺そうとしているのではないか? 何をしているのかよくわからない。唐突にドアが開いた。崇だった。
「……何してるんだ、こんなところで」
※ 続きはキンドル電子書籍にてお楽しみください。
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