透明な枷をつけたまま

白崎ぼたん

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一話 美しい影

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「蓉!」

 貞樹さだきが声をかけると、蓉が振り返った。貞樹は同輩のもとまで、しっかりとした足取りで、しかしゆったりと歩いた。それがけっして無礼ではなく待ち遠しく感じさせる、鷹揚な兄気質の気配を持っていた。
 蓉にとってもそれは例外ではないようで、ほのかに口もとを緩める。そしてまた、先に見ていた景色に向き直った。
 相変わらずマイペースだな。
 貞樹もまた、この蓉のふるまいを信頼からと受け止めており、かえって付き合いやすく思っていた。

「何見てるんだ?」
「空だよ。もうすっかり夏の夕陽だ」
「ふうん。写真とらないのか?」

 貞樹の問いに、蓉はふふと笑った。蓉からすると、貞樹の言葉は、不思議な発想であるらしい。

「見るだけでいい」
「ふうん」

 貞樹もまた、不思議そうに蓉を見つめた。
 嬉しいものを見たら、写真に撮るものではないのだろうか。
 それは、貞樹の周囲がそうであり、彼の中に通用する理屈ではないのだが、美を重んじるものとはそうするものと、何となく貞樹には刷り込まれていた。
 それが蓉にはとても可笑しいようだ。

「貞樹も撮らないだろうに、変なの」
「俺は、そういう繊細な感性持ってないですからね」
「どうだか」

 蓉はからかうように目を細めた。貞樹の額をとんとつつく。

「目は綺麗だって言ってるよ」
「……はあ、」

 貞樹は呆気にとられ、口を半開きにした。開いたままの口を隠すように、手で覆う。目元が西日のためでなく火照っていた。
 蓉はすっと表情をおさめ、また夕陽を眺めだす。ほんの少しの間だというのに、もう光は表情を変えていた。
 ――綺麗、か。
 貞樹はこの眼の前の友の顔を、じっと見つめる。
 眉ひとつ動いていないが、蓉の繊細な花びらのような容姿は、いつもどこかほほ笑んでいるように見えた。

 おれはまったく詩人ではないけど、蓉は本当に綺麗だ。

 蝋細工のような肌は白く透け、朱色の輪郭をまとっていた。淡い薄茶の髪と相成り、燦然と輝くさまは、この男の体に、本当に自分と同じ血が通っているのかとさえ思わせる。
 自分と同じような流行りのシャツを羽織っているのに、まったく異質である。自分は着ているが、蓉は服を動かしている。そんな違和があった。

 ああ、こういうときはよくない。
 沈黙はよくない。蓉の美しさに惹き込まれる。
 蓉の美しさは、友人から借りた幻想的な推理小説を読んだときのような不思議な感慨を、貞樹に与える。
 それは、おそれである。
 それに魅入られたら、蓉を他の友達と、違うものにしてしまう。
 たとえば、いつものように、貞樹は蓉の肩を抱くなどできなくなる。
 だから、友が遠い顔をした時の寂しさを、貞樹はひとり、もどかしく抱えているしか出来ない。

 だからこそ、だろうか。
 反面、この男の中に、一足飛びに飛び込みたくなる。玉砕覚悟で、踏み込まねば、ならない。そのような切迫した壁を、蓉からは感じるのだ。

「ラーメンでも食べに行こうぜ」

 貞樹は蓉の背を叩いた。しなやかな筋と骨を感じ、どきりとする。この夕陽みたいに実体のない美しい男から、肉体を感じる。
 蓉は、目を見開き、貞樹を見た。そこに宿った人間的な色に、貞樹はいつもの調子を取り戻した。

「いいね」
「よっしゃ。じゃあ駅前な」
「また? にぼし好きだね」

 笑いながら、二人は歩き出した。貞樹は自身の跳躍が成功したことに、安堵と高揚を覚え――次第にいつもの友情の掛け合いの中にそれを忘れた。
 ただ、蓉への好意に、積み重なるだけであった。

 ラーメンをすする蓉に、貞樹はスマホを向けた。蓉はすいと手をかざした。

「撮るなよ」
「撮らねえよ」

 またダメか。惜しい気持ちになりながら、蓉の地雷を踏まなかったことに、また安堵する。
 蓉は水を飲んで、髪を耳にかけた。貝殻のような耳が、ほのあかく染まっており、貞樹はごくりと喉を鳴らした。

 送らせてももらえない。無論、男の大学生の同輩相手に、妙な感情だが、そろそろ家に連れて行ってくれてもいいだろうに。
 貞樹はしかし、それを言うことも出来ず、またもどかしくけれどもむず痒い気持ちで、笑いながら着た道を引き返す。

 空は群青が、黄を飲み込みだしていた。
 黄のあえかな光が、長く伸びた影に輪郭をつける。貞樹はその長い影を、見るともなしに見ながら歩いていた。
 明日の前に、蓉に何を話そうか。スマホを取り出した。メッセージアプリを立ち上げる前に、ふと、その影の写真を撮った。
 それは貞樹にとって意外の行動であった。
 けれども、なにかそうしなければならないような、そんな気がした。

 貞樹はふたたび歩き出す。
 そのとき、白い手が、貞樹の背後からのびた。目を見開くまもなく、貞樹の首を締めるように抱き、影の中に引き込んだ。
 貞樹の見開かれた目を、呼気を、聞いたものはない。しんと静かな道に、影が這うように起こった出来事であった。
 黄の光は消え、青は濃紺の闇に飲まれていた。


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