蒼海ニ鎮ム 〜幕間ノ記録〜

海野 那智

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幕間一:当直戦線、異常ナシ

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 夜間当直中の妙高は、いつも通り静穏だった。

 航海灯の淡い光が艦内を照らし、計器盤の針は規則正しく動いている。低く抑えられた機械音が、一定のリズムで艦の鼓動を刻んでいた。
 針路は予定通り、速力に変化なし。報告すべき異常は見当たらない。

 当直員の足音が、金属製の床を一定の間隔で叩いていく。
 必要以上の言葉はなく、それぞれが黙々と持ち場を守っていた。夜の海は穏やかで、艦はその静けさを割るように淡々と進んでいる。

 当直室では、副長、鳴海なるみが計器に視線を走らせ、状況を確認していた。
 一つ一つの数値を確かめるその動きに、迷いはない。

 その背後――当直の用件があるわけでもないはずの砲術長、村瀬むらせが、壁に凭れたまま、静かにその様子を眺めていた。

 しばらくの沈黙の後、低く抑えた声が落ちる。

「……その数値」

 村瀬の視線は計器に向けられたまま、続けて言う。

「随分とあっさり流すな」

 責めるでもなく、真剣に詰めるでもない。
 癖のように投げられた一言だった。

 鳴海は一瞬、手を止める。
 小さく息を吐き、眉を僅かに顰めた。

「……貴様は、随分と暇を持て余している様だな」

 振り返りはしない。
 だが、その声には乾いた皮肉が混じっていた。

 村瀬は小さく鼻で笑う。

「当直中に暇を作れるのは、副長の采配が優秀だからだろう?」

「減らず口を叩くな、村瀬」

 鳴海は淡々と返し、再び計器へ視線を戻す。

「…これに関しては問題はない。許容範囲内だ」

 簡潔な返答だった。
 説明も補足もなく、必要な情報だけを切り出したような口調。

「許容、か」

 村瀬が肩をわずかに揺らす。

「その言葉は便利だな。曖昧なものまで、全部押し込める」

「曖昧ではない」

 鳴海は即座に返す。

「基準値は明確だ。今の状態がそれを外れていない以上、私の判断は変わらん」

「理屈は分かる」

 村瀬はそう言って、ようやく計器から視線を外す。
 鳴海の横顔を一瞬だけ見やり、再び前方へと目を向けた。

「だが、その“同じ判断”を何度も積み重ねた結果がどうなるかまでは、基準値には書いてないだろ?」

 鳴海は遮らない。
 一拍置いてから、淡々と口を開く。

「だから確認している」

 声音は変わらない。

「だから、今、私がここにいる。問題があれば、その時点で判断を改める」

 村瀬は、わずかに口角を上げたようにも見えた。

「……なるほど」

 短く呟き、再び壁に体重を預ける。

 二人のやり取りは、そこで自然に途切れた。
 意見が衝突したわけでも、新たな結論が出たわけでもない。

 だが、必要な確認は済んでいる。

 当直室には再び静けさが戻り、計器の針だけが変わらぬ動きを刻んでいた。

 当直記録に記すべき異常は、今のところ何ひとつない。
 ――少なくとも、この時点では。

 静けさが戻った当直室で、計器の針は相変わらず規則正しく動いている。
 低く抑えられた機械音が艦内に満ち、夜の海は穏やかだった。

 鳴海はいつも通りの姿勢で計器に視線を走らせ、状況を確認している。
 その背後で、村瀬は壁に凭れたまま腕を組み、何かを待つように黙っていた。

 ――その、何も起きない時間を破ったのは、案の定、村瀬だった。

「……なら」

 低く、含みを持たせた声。

の航海長殿の意見も、聞いておくとするか?」

 鳴海は即座に反応した。
 ゆっくりと視線だけを向け、眉をわずかに顰める。

「……やめておけ」

 短く、しかし分かりきった忠告。

 だが、その制止は一拍遅い。

「おい、加藤」

 鳴海の言葉を聞き流すように、村瀬の声が当直室の端へと飛ぶ。

 当直業務の一環で近くにいた航海長、加藤かとうは、その呼び声に僅かに肩を跳ねさせた。

「はい。……え?」

 反射的に背筋を伸ばすも、思わず漏れた声は、完全に不意を突かれたものだった。

「丁度いい所に居たな、お前」

 村瀬は悪びれもせず、顎で軽く示すだけだ。

「今な、副長殿と“許容範囲”について話していてな」

「は、はあ……?」

 加藤は一瞬だけ鳴海を見る。
 鳴海は視線を逸らし、わずかに深い溜息を吐いた。

 ――ああ、これは巻き込まれるやつだ。

 そう悟った瞬間、村瀬が畳み掛ける。

「この数値、問題ないらしい」

「副長がそう判断しているなら――」

 反射的にそう答えかけて、加藤は言葉を止めた。

 ……いや、待て。
 これは、そのまま頷いて終わる話じゃない。

「……ええと、どの数値の話でしょうか」

 慎重に言葉を選ぶ加藤に、村瀬は満足そうに口角を上げる。

「ほら、ちゃんと確認する」

「当然だ」

 鳴海が淡々と口を挟む。

「航海長として、確認もせずに頷く方が問題だ」

「副長……」

 助け舟なのか追い打ちなのか判断に迷いながら、加藤は計器に視線を移す。

 数値は安定している。
 基準値から外れてはいない。

「……現状では、問題はないと思います」

 慎重な言い回しだった。

「ただ、今後の変動については――」

「ほらな」

 村瀬が即座に被せる。

「“今後”の話を始める」

「い、いえ、それは……航海長として当然の――」

「だが」

 鳴海が静かに言葉を切る。

「現状に異常はない。判断は一致している」

「……」

 加藤は二人を交互に見た。

 このやり取り。
 どこかで見覚えがある。

 ――いや、何度も見ている。

「……あの」

 おずおずと声を出す。

「これは、意見を求められているというより……」

「巻き込まれてるな」

 村瀬が、あっさりと言い切った。

「……はい」

 加藤は正直に頷いた。

 鳴海は、わずかに口元を緩める。

「分かっているなら、それでいい」

「え?」

「判断は変わらん」

 鳴海は再び計器へ視線を戻す。

「問題が起きた時に対処すればいい。それだけだ」

「……了解しました」

 加藤は小さく頭を下げる。

 その様子を見て、村瀬が低く笑った。

「すまんな、加藤」

 口ではそう言いながら、声色に反省はない。

「だが、こうして確認しておくのも悪くない」

「……勉強には、なります」

 半ば本音だった。

「だろう?」

 村瀬は満足げに壁へ背を預け直す。

 鳴海は、それ以上何も言わなかった。
 ただ、当直室に戻った静けさの中で、いつもより少しだけ深く息を吐いた。

 当直記録に記すべき異常は、依然として存在しない。
 だが――

 この艦が、こうして回っている理由の一端は、確かにここにあった。

 当直室に戻った静けさの中で、加藤は一人、ゆっくりと息を吐いた。

(……なんで、こうなるんだ)

 きっかけは村瀬の軽口だったはずだ。
 それに鳴海が淡々と返して、いつもの皮肉の応酬が始まった――そこまでは、見慣れた光景だった。

 問題は、その途中からだ。

 気付けば二人の視線が揃い、
 気付けば話題がすり替わり、
 気付けば自分が“確認役”という名の的に据えられている。

(完全に、結託してる……)

 しかも質が悪いのは、その手口がどこか既視感のあるものだという点だった。

 村瀬砲術長の悪意のない悪ノリ。
 鳴海副長の分かっていて止めない静かな共犯。

 ――そして、何故か思い出される艦長の顔。

(……ああ、似てる)

 人を困らせる時だけ、どうしてあの三人は揃いも揃って、同じことをするのか。
 理屈も正論も通じないところまで、しっかり計算済みで。

 当直室に戻った静けさの中で――
 いや、正確には、戻りきらない静けさの中で、加藤は小さく首を振った。

 目の前では、村瀬と鳴海が相変わらず計器を挟んで言葉を交わしている。
 低い声と淡々とした調子。
 内容は些細で、結論はすでに出ているはずなのに、どこか楽しげで、終わる気配がない。

(……まだやってる)

 きっかけは村瀬の軽口だった。
 鳴海がそれを受け流し、気付けばいつもの皮肉の応酬になる。
 そこに自分が引き込まれた理由は――未だによく分からない。

(完全に、巻き添えだ)

 しかも二人とも、悪びれる様子はまるでない。
 むしろ、分かっていてやっている節すらある。

 加藤は深く息を吸い、思わず口を開いた。

「……鳴海副長も、村瀬砲術長も!」

 二人の視線が、同時にこちらへ向く。

「俺を巻き込まないでくださいよ!」

 半ば抗議、半ば諦めの混じった声だった。

 計器の針は、そんなやり取りなど意に介さず、変わらぬ速度で動き続けている。

 その当直戦線――異常は、依然として、無し。
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