2 / 3
幼き日の幕間
波間ノ判断
しおりを挟む
朝の点呼は、海の匂いから始まった。
乾ききらない板張りの桟橋に、端艇が並べられ、櫂が等間隔に揃えられている。
艦艇勤務に比べれば取るに足りない装備だが、兵学校の訓練生徒にとっては、これもまた立派な“艦”だった。
「――中級生、整列」
号令と同時に、靴音が一斉に止まる。
鳴海司は列の先頭に立ち、前を見据えたまま背筋を正した。制服はきちんと整えていて、襟元に乱れはない。
だが、海から吹き上げる風が冷たく、袖口から忍び込んでくる。
「点呼」
班ごとに名前が呼ばれ、返答が続く。
まだ声変わりの余韻を残した者もいれば、すでに低く落ち着いた声を持つ者もいる。年齢は近いが、体格も声も、少しずつ違う。
「――鳴海」
「はい!」
返事は短く、はっきりと。
鳴海はそのまま一歩前に出て、全体を確認する。櫂の本数、艇の状態、靴紐の緩み。誰かが忘れ物をしていないか。癖のように視線を走らせる。
副教官の田島が、腕を組んだまま桟橋の端に立っていた。
その表情は読めない。だが、こちらを見ているのは分かる。
「本日の訓練は、カッター訓練。
各班、班長の指示に従え」
田島の声は低く、無駄がなかった。
海況についての長い説明はない。
――見ればわかる、という判断だろう。
鳴海は一度だけ、水平線に目を向けた。
空は薄曇りで、潮は重い。
(……嫌な海だ)
そう思ったが、口には出さない。
「乗艇」
号令とともに、班員たちが一斉に動いた。
慣れた動作で艇に乗り込み、指定の位置に腰を下ろす。櫂を握る手に、わずかな力が入るのがわかった。
鳴海は艇首寄りに立ち、全員を見渡した。
誰かが笑うことはない。だが、緊張が漂っている。
「……深呼吸しろ」
低く、抑えた声で言う。
「力は要らない。揃えることだけ考えろ」
数名が、小さく頷いた。
その時、海風が一段強く吹き抜け、艇の舷に軽く波が当たった。
桟橋がきしむ音が、やけに大きく響く。
鳴海は、無意識に拳を握りしめていた。
――今日は、気を抜くな。
そう自分に言い聞かせながら、前方に視線を戻す。
やがて合図が出され、端艇はゆっくりと桟橋を離れた。
海軍兵学校の訓練海域は、朝から落ち着かなかった。
櫂を入れるたび、艇の下で海水が鈍く軋む。
それは、静かだが、確実に逆らいづらい海だった。
鳴海司は、カッター艇の艇首寄りに立ち、視線を前方に据えていた。
十八歳。中級生。
班長を任されるようになって、まだ日は浅い。
「――櫂、整え。力、入れすぎるな」
号令は低いが、普段よりやや張りがある。
自分でも分かる。今日は海の様子が良くないからこそだ。
この日の訓練は、複数艇による隊形保持と回頭運動。兵学校では基礎中の基礎だが、海況が悪ければ一転して危険を孕むこともある。
特に、艇同士の間隔が詰まる瞬間が厄介だった。
鳴海は一瞬、後方を振り返った。
櫂の動きは揃っている。だが、数名の腕が硬い。緊張しているのが分かる。
「……落ち着け。次、右回頭だ」
その時だった。
突風。
横合いから叩きつけるような風が吹き、艇が不自然に傾く。
同時に、左舷側の波が一段高く盛り上がった。
「――っ、櫂、止めろ!」
鳴海の声が鋭く裂ける。
止まらなかった。
後方の一人が反応に遅れ、櫂を入れたまま踏ん張った。その瞬間、艇の重心が一気に崩れる。
水が、舷側を越えて流れ込んできた。
「左、注水!」
「体重移動、右へ! 慌てるな!」
声は荒れている。だが、言葉は簡潔だった。
鳴海は、呼吸を一つ整えただけだった。
ここで全員が櫂を離せば、艇は流される。
だが、このまま漕げば転覆する。
「後方二名、櫂を捨てるな!」
「前、支えろ。舷を押さえろ!」
「全員、腰を落とせ! 目線は俺だ!」
次の波が来るまで、時間はない。
別の艇が近づいているのが視界の端に入った。距離が詰まりすぎている。衝突すれば、両方ともひっくり返る可能性がある。
「……回頭、取りやめ!」
「このまま直進! 間隔を開ける!」
判断は一瞬だった。
艇が風に押されながらも、わずかに姿勢を持ち直す。
流れ込んだ水が、足元で揺れた。
「櫂、揃え!今だ!」
号令に、全員が反応した。
ぎこちなさはあるが、動きは一致している。
波を一つ、二つ、やり過ごす。
やがて風が一段弱まり、艇は完全に安定した。
――助かった。
誰かが小さく息を吐く音が聞こえた。
鳴海はようやく、自分の手のひらが汗で濡れていることに気づく。
「……よし。櫂、戻せ」
その声は、もう落ち着いていた。
訓練終了の信号が上がり、各艇は順次帰投に移る。
鳴海の班は、無言だった。誰も騒がず、誰も笑わない。
上陸後、整列。
濡れた制服が肌に張り付き、冷える。
副教官の田島が、ゆっくりと列の前を歩いてくる。
視線が、鳴海のところで止まった。
「……班長」
「はい!」
「今の判断、誰の指示だ」
一瞬だけ、場の空気が張り詰める。
鳴海は背筋を伸ばした。
「自分です」
田島はすぐには何も言わなかった。
数秒、鳴海を見つめ、それから短くうなずく。
「そうか」
それだけだった。
だが、田島は列を離れたあと、隣で別班の監督にあたっていた教官に、小声で言った。
「……声は荒れていたが、判断は正確だ」
「最悪は、避けたな」
それ以上の言葉はなかった。
鳴海はその会話を知らない。
点呼を終えたあと、田島に呼び止められた。
「鳴海」
「はい」
「さっきの件だが……」
一拍置いて、田島は続ける。
「班がよく動いたな」
「……ありがとうございます」
「驕るな。だが、忘れるな」
「ああいう時に考えられるかどうかが、分かれ目だ」
鳴海は短く息を吸った。
「はい」
海は、まだ荒れている。
だが、鳴海の中には、確かに一つ、何かが残った。
――判断は、声の大きさじゃない。
――誰かが立たなければ、全員が沈む。
その感覚は、まだ言葉にならない。
だが確かに、彼の中に根を下ろし始めていた。
乾ききらない板張りの桟橋に、端艇が並べられ、櫂が等間隔に揃えられている。
艦艇勤務に比べれば取るに足りない装備だが、兵学校の訓練生徒にとっては、これもまた立派な“艦”だった。
「――中級生、整列」
号令と同時に、靴音が一斉に止まる。
鳴海司は列の先頭に立ち、前を見据えたまま背筋を正した。制服はきちんと整えていて、襟元に乱れはない。
だが、海から吹き上げる風が冷たく、袖口から忍び込んでくる。
「点呼」
班ごとに名前が呼ばれ、返答が続く。
まだ声変わりの余韻を残した者もいれば、すでに低く落ち着いた声を持つ者もいる。年齢は近いが、体格も声も、少しずつ違う。
「――鳴海」
「はい!」
返事は短く、はっきりと。
鳴海はそのまま一歩前に出て、全体を確認する。櫂の本数、艇の状態、靴紐の緩み。誰かが忘れ物をしていないか。癖のように視線を走らせる。
副教官の田島が、腕を組んだまま桟橋の端に立っていた。
その表情は読めない。だが、こちらを見ているのは分かる。
「本日の訓練は、カッター訓練。
各班、班長の指示に従え」
田島の声は低く、無駄がなかった。
海況についての長い説明はない。
――見ればわかる、という判断だろう。
鳴海は一度だけ、水平線に目を向けた。
空は薄曇りで、潮は重い。
(……嫌な海だ)
そう思ったが、口には出さない。
「乗艇」
号令とともに、班員たちが一斉に動いた。
慣れた動作で艇に乗り込み、指定の位置に腰を下ろす。櫂を握る手に、わずかな力が入るのがわかった。
鳴海は艇首寄りに立ち、全員を見渡した。
誰かが笑うことはない。だが、緊張が漂っている。
「……深呼吸しろ」
低く、抑えた声で言う。
「力は要らない。揃えることだけ考えろ」
数名が、小さく頷いた。
その時、海風が一段強く吹き抜け、艇の舷に軽く波が当たった。
桟橋がきしむ音が、やけに大きく響く。
鳴海は、無意識に拳を握りしめていた。
――今日は、気を抜くな。
そう自分に言い聞かせながら、前方に視線を戻す。
やがて合図が出され、端艇はゆっくりと桟橋を離れた。
海軍兵学校の訓練海域は、朝から落ち着かなかった。
櫂を入れるたび、艇の下で海水が鈍く軋む。
それは、静かだが、確実に逆らいづらい海だった。
鳴海司は、カッター艇の艇首寄りに立ち、視線を前方に据えていた。
十八歳。中級生。
班長を任されるようになって、まだ日は浅い。
「――櫂、整え。力、入れすぎるな」
号令は低いが、普段よりやや張りがある。
自分でも分かる。今日は海の様子が良くないからこそだ。
この日の訓練は、複数艇による隊形保持と回頭運動。兵学校では基礎中の基礎だが、海況が悪ければ一転して危険を孕むこともある。
特に、艇同士の間隔が詰まる瞬間が厄介だった。
鳴海は一瞬、後方を振り返った。
櫂の動きは揃っている。だが、数名の腕が硬い。緊張しているのが分かる。
「……落ち着け。次、右回頭だ」
その時だった。
突風。
横合いから叩きつけるような風が吹き、艇が不自然に傾く。
同時に、左舷側の波が一段高く盛り上がった。
「――っ、櫂、止めろ!」
鳴海の声が鋭く裂ける。
止まらなかった。
後方の一人が反応に遅れ、櫂を入れたまま踏ん張った。その瞬間、艇の重心が一気に崩れる。
水が、舷側を越えて流れ込んできた。
「左、注水!」
「体重移動、右へ! 慌てるな!」
声は荒れている。だが、言葉は簡潔だった。
鳴海は、呼吸を一つ整えただけだった。
ここで全員が櫂を離せば、艇は流される。
だが、このまま漕げば転覆する。
「後方二名、櫂を捨てるな!」
「前、支えろ。舷を押さえろ!」
「全員、腰を落とせ! 目線は俺だ!」
次の波が来るまで、時間はない。
別の艇が近づいているのが視界の端に入った。距離が詰まりすぎている。衝突すれば、両方ともひっくり返る可能性がある。
「……回頭、取りやめ!」
「このまま直進! 間隔を開ける!」
判断は一瞬だった。
艇が風に押されながらも、わずかに姿勢を持ち直す。
流れ込んだ水が、足元で揺れた。
「櫂、揃え!今だ!」
号令に、全員が反応した。
ぎこちなさはあるが、動きは一致している。
波を一つ、二つ、やり過ごす。
やがて風が一段弱まり、艇は完全に安定した。
――助かった。
誰かが小さく息を吐く音が聞こえた。
鳴海はようやく、自分の手のひらが汗で濡れていることに気づく。
「……よし。櫂、戻せ」
その声は、もう落ち着いていた。
訓練終了の信号が上がり、各艇は順次帰投に移る。
鳴海の班は、無言だった。誰も騒がず、誰も笑わない。
上陸後、整列。
濡れた制服が肌に張り付き、冷える。
副教官の田島が、ゆっくりと列の前を歩いてくる。
視線が、鳴海のところで止まった。
「……班長」
「はい!」
「今の判断、誰の指示だ」
一瞬だけ、場の空気が張り詰める。
鳴海は背筋を伸ばした。
「自分です」
田島はすぐには何も言わなかった。
数秒、鳴海を見つめ、それから短くうなずく。
「そうか」
それだけだった。
だが、田島は列を離れたあと、隣で別班の監督にあたっていた教官に、小声で言った。
「……声は荒れていたが、判断は正確だ」
「最悪は、避けたな」
それ以上の言葉はなかった。
鳴海はその会話を知らない。
点呼を終えたあと、田島に呼び止められた。
「鳴海」
「はい」
「さっきの件だが……」
一拍置いて、田島は続ける。
「班がよく動いたな」
「……ありがとうございます」
「驕るな。だが、忘れるな」
「ああいう時に考えられるかどうかが、分かれ目だ」
鳴海は短く息を吸った。
「はい」
海は、まだ荒れている。
だが、鳴海の中には、確かに一つ、何かが残った。
――判断は、声の大きさじゃない。
――誰かが立たなければ、全員が沈む。
その感覚は、まだ言葉にならない。
だが確かに、彼の中に根を下ろし始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
続・冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
の続編です。
アンドリューもそこそこ頑張るけど、続編で苦労するのはその息子かな?
辺境から結局建国することになったので、事務処理ハンパねぇー‼ってのを息子に押しつける俺です。楽隠居を決め込むつもりだったのになぁ。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる