蒼海ニ鎮ム 〜幕間ノ記録〜

海野 那智

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幼き日の幕間

波間ノ判断

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 朝の点呼は、海の匂いから始まった。

 乾ききらない板張りの桟橋に、端艇たんていが並べられ、かいが等間隔に揃えられている。
 艦艇かんてい勤務に比べれば取るに足りない装備だが、兵学校の訓練生徒にとっては、これもまた立派な“艦”だった。

「――中級生、整列」

 号令と同時に、靴音が一斉に止まる。
 鳴海なるみつかさは列の先頭に立ち、前を見据えたまま背筋を正した。制服はきちんと整えていて、襟元に乱れはない。
 だが、海から吹き上げる風が冷たく、袖口から忍び込んでくる。

「点呼」

 班ごとに名前が呼ばれ、返答が続く。
 まだ声変わりの余韻を残した者もいれば、すでに低く落ち着いた声を持つ者もいる。年齢は近いが、体格も声も、少しずつ違う。

「――鳴海」

「はい!」

 返事は短く、はっきりと。
 鳴海はそのまま一歩前に出て、全体を確認する。かいの本数、ていの状態、靴紐の緩み。誰かが忘れ物をしていないか。癖のように視線を走らせる。

 副教官の田島たじまが、腕を組んだまま桟橋の端に立っていた。
 その表情は読めない。だが、こちらを見ているのは分かる。

「本日の訓練は、カッター訓練。
 各班、班長の指示に従え」

 田島の声は低く、無駄がなかった。
 海況についての長い説明はない。
 
 ――見ればわかる、という判断だろう。

 鳴海は一度だけ、水平線に目を向けた。

 空は薄曇りで、潮は重い。

(……嫌な海だ)

 そう思ったが、口には出さない。

「乗艇」

 号令とともに、班員たちが一斉に動いた。
 慣れた動作で艇に乗り込み、指定の位置に腰を下ろす。櫂を握る手に、わずかな力が入るのがわかった。

 鳴海は艇首ていしゅ寄りに立ち、全員を見渡した。
 誰かが笑うことはない。だが、緊張が漂っている。

「……深呼吸しろ」

 低く、抑えた声で言う。

「力は要らない。揃えることだけ考えろ」

 数名が、小さく頷いた。

 その時、海風が一段強く吹き抜け、艇の舷に軽く波が当たった。
 桟橋がきしむ音が、やけに大きく響く。

 鳴海は、無意識に拳を握りしめていた。

 ――今日は、気を抜くな。

 そう自分に言い聞かせながら、前方に視線を戻す。

 やがて合図が出され、端艇はゆっくりと桟橋を離れた。

 海軍兵学校の訓練海域は、朝から落ち着かなかった。
 櫂を入れるたび、艇の下で海水が鈍く軋む。
 それは、静かだが、確実に逆らいづらい海だった。

 鳴海司は、カッター艇の艇首寄りに立ち、視線を前方に据えていた。
 十八歳。中級生。
 班長を任されるようになって、まだ日は浅い。

「――櫂、整え。力、入れすぎるな」

 号令は低いが、普段よりやや張りがある。
 自分でも分かる。今日は海の様子が良くないからこそだ。

 この日の訓練は、複数艇による隊形保持と回頭運動。兵学校では基礎中の基礎だが、海況が悪ければ一転して危険を孕むこともある。
 特に、艇同士の間隔が詰まる瞬間が厄介だった。

 鳴海は一瞬、後方を振り返った。
 櫂の動きは揃っている。だが、数名の腕が硬い。緊張しているのが分かる。

「……落ち着け。次、右回頭だ」

 その時だった。

 突風。
 横合いから叩きつけるような風が吹き、艇が不自然に傾く。
 同時に、左舷側の波が一段高く盛り上がった。

「――っ、櫂、止めろ!」

 鳴海の声が鋭く裂ける。

 止まらなかった。
 後方の一人が反応に遅れ、櫂を入れたまま踏ん張った。その瞬間、艇の重心が一気に崩れる。

 水が、舷側を越えて流れ込んできた。

「左、注水!」
「体重移動、右へ! 慌てるな!」

 声は荒れている。だが、言葉は簡潔だった。
 鳴海は、呼吸を一つ整えただけだった。

 ここで全員が櫂を離せば、艇は流される。
 だが、このまま漕げば転覆する。

「後方二名、櫂を捨てるな!」
「前、支えろ。舷を押さえろ!」

「全員、腰を落とせ! 目線は俺だ!」

 次の波が来るまで、時間はない。

 別の艇が近づいているのが視界の端に入った。距離が詰まりすぎている。衝突すれば、両方ともひっくり返る可能性がある。

「……回頭、取りやめ!」
「このまま直進! 間隔を開ける!」

 判断は一瞬だった。

 艇が風に押されながらも、わずかに姿勢を持ち直す。
 流れ込んだ水が、足元で揺れた。

「櫂、揃え!今だ!」

 号令に、全員が反応した。
 ぎこちなさはあるが、動きは一致している。

 波を一つ、二つ、やり過ごす。
 やがて風が一段弱まり、艇は完全に安定した。

 ――助かった。

 誰かが小さく息を吐く音が聞こえた。
 鳴海はようやく、自分の手のひらが汗で濡れていることに気づく。

「……よし。櫂、戻せ」

 その声は、もう落ち着いていた。

 訓練終了の信号が上がり、各艇は順次帰投に移る。
 鳴海の班は、無言だった。誰も騒がず、誰も笑わない。

 上陸後、整列。
 濡れた制服が肌に張り付き、冷える。

 副教官の田島が、ゆっくりと列の前を歩いてくる。
 視線が、鳴海のところで止まった。

「……班長」

「はい!」

「今の判断、誰の指示だ」

 一瞬だけ、場の空気が張り詰める。
 鳴海は背筋を伸ばした。

「自分です」

 田島はすぐには何も言わなかった。
 数秒、鳴海を見つめ、それから短くうなずく。

「そうか」

 それだけだった。

 だが、田島は列を離れたあと、隣で別班の監督にあたっていた教官に、小声で言った。

「……声は荒れていたが、判断は正確だ」

「最悪は、避けたな」

 それ以上の言葉はなかった。

 鳴海はその会話を知らない。
 点呼を終えたあと、田島に呼び止められた。

「鳴海」

「はい」

「さっきの件だが……」

 一拍置いて、田島は続ける。

「班がよく動いたな」

「……ありがとうございます」

「驕るな。だが、忘れるな」
「ああいう時に考えられるかどうかが、分かれ目だ」

 鳴海は短く息を吸った。

「はい」

 海は、まだ荒れている。
 だが、鳴海の中には、確かに一つ、何かが残った。

 ――判断は、声の大きさじゃない。
 ――誰かが立たなければ、全員が沈む。

 その感覚は、まだ言葉にならない。
 だが確かに、彼の中に根を下ろし始めていた。
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