衆議院選挙の直前に父が倒れて後援会の会長代行をやることになったら、いけすかない二世候補に振り回されまくっている件

透衣絵ゐ

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第7話 ツンデレかよ

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 翌日から、私の動きが変わった。

 病室の父に電話をかけて、後援会のノウハウを聞き出した。名簿の整理方法。地元の人脈の使い方。集会を組織するときのコツ。町内会の会長さんへの声のかけ方。父が何十年もかけて積み上げてきた知恵を、一つずつ吸収していく。

 あの人が必死に戦っているなら——私も、ちゃんとやらなきゃ。
 仕方なくじゃなくて、やるからにはちゃんと。

「御堂さん、明日の個人演説会、町内会の会長さんたちに声かけておきました」

「……勝手に動くな」

「勝手にじゃなくて、後援会の仕事です。文句あります?」

 颯真が黙った。反論できないときの、この人の黙り方を、私はもう知っていた。

 ベテランスタッフが小声で笑う。「会長の血は争えないなぁ」

 個人演説会の日が来た。

 公民館の一室に、地域の住民が集まった。お年寄りから若い夫婦まで、五十人ほど。私が裏方で手配した集まりだ。

 壇上に颯真が立つ。
 いつものスーツ姿。背筋が伸びて、顔は——少し緊張している。

 颯真が話し始めた。

 地域の高齢者福祉の現状。子育て支援の課題。シャッター商店街の再生計画。
 ——机上の空論じゃなかった。具体的な数字と、地元の実情を踏まえた提案。この地域の人口動態がどうなっていて、三年後にどんな課題が出てくるか。商店街のどの店が何に困っているか。

 会場を見回す。前列のおばあちゃんが、目を潤ませている。商店街の魚屋の店主が、腕を組んで深くうなずいている。

 ……え。この人、こんなに真剣に考えてたの?
 あの冷たい態度の裏で、こんなに地元のことを見てたんだ。

 演説が終わった。拍手が起きた。温かい拍手。

 私はつい、壇上から降りてきた颯真に声をかけていた。

「さっきの演説、よかったです。特に商店街のところ。前列のおばあちゃん、泣いてましたよ」

 颯真が、一瞬驚いた顔をした。そして——耳の先が、かすかに赤くなった。

「……別に、当然のことを言っただけだ」

 褒めたら照れるの。
 ツンデレかよ。

(……いやいや待って。このムーブ、私の推しCPの攻めと完全に同じなんだけど。クールな顔して本音を隠してるのに、褒められると耳が赤くなるあの感じ。まんまじゃん……!!)

 やめて。現実とフィクションを混同するのはやめて、私。
 だいたい耳が赤いのは寒いからかもしれないし。たぶん、そう。きっとそう。

 その日の午後。選挙カーでの遊説中に、空が急に暗くなった。見上げると、灰色の雲が低く垂れ込めている。

 次の瞬間、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨。

「うわっ——!」

 二人で近くの公民館の軒先に駆け込んだ。コンクリートの庇の下で息を切らす。ざあざあと、耳を塞ぎたくなるような雨の音。五メートル先はもう白いカーテンのように雨が降り注いでいて、アスファルトから跳ね返った水しぶきが足元を濡らしていく。冷たい。濡れた服が肌に張りついて、芯まで冷える。

 ……びしょ濡れだ。白いブラウスが肌に貼りついて、下着の輪郭が透けている。これ、まずい。かなりまずい。

 颯真がちらっとこちらを見て、はっとしたように目を逸らした。耳の先が赤い。
 そして無言で自分のジャケットを脱いで、私の肩にかけた。

「……風邪ひかれたら困る。後援会の代行がいなくなったら選挙にならない」

 素直に「大丈夫?」って言えないの、この人。
 でも——ジャケットが温かい。裏地に颯真の体温が残っている。ほのかに、柑橘系のコロンの匂いがした。雨の匂い、アスファルトの湿った匂い、それを全部塗り替えてしまうくらい、近い。

 肩にかけられたジャケットの重み。颯真の体温の残り香。この人はこんな匂いがするんだ——なんて、知りたくなかった。知ってしまったら、コロンの匂いを嗅ぐたびに思い出してしまうじゃない。

 ——なんか、妙にドキドキする。

(寒かっただけ。濡れたところに温かいもの羽織ったから心拍数が上がっただけ。生理現象。うん、生理現象)

 帰宅後、あかねにLINE。

瑞希 『今日、雨に降られてびしょ濡れになったら、候補者がジャケット貸してくれた』
あかね 『え あの感じ悪い人が?』
瑞希 『「風邪ひかれたら困る」だって。素直に心配って言えないのかね』
あかね 『それ普通にやさしくない?』
瑞希 『やさしいっていうか、仕事上の判断でしょ。後援会の代行がいなくなったら困るってだけ』
あかね 『……みずき、それ本気で言ってる?』
瑞希 『??? 何が???』

 日が経つにつれて、不思議なことが起き始めた。

 私たちの息が、合ってきたのだ。

 私が段取りを組み、颯真が演説する。私が地元の人脈を回し、颯真が政策を語る。阿吽の呼吸、とまでは言わないけれど、噛み合い始めた。

 ——あれ。

 ふと、自分の感情に引っかかった。なんだろう、この感じ。
 朝、事務所のガラス戸を開けるとき。蛍光灯の光と、インスタントコーヒーの匂いと、スタッフの「おはようございます」の声。——それが、嫌じゃない。嫌じゃないどころか、ちょっと安心する。
 会社のオフィスに向かう朝は、こんな気持ちにならなかった。行かなきゃいけないから行く。それだけだった。でも今は、「行きたい」に近い何かがある。

(……居心地がいい、のかな。ここが)

 自分でそう思って、驚いた。あの失礼な俺様候補がいて、朝から晩まで走り回って、お父さんの代わりに頭を下げ続ける毎日なのに?
 でも——そうなのだ。否定できない。この忙しくて騒がしくて、誰かに怒鳴られたり感謝されたりする日々が、いつの間にか「私の場所」になりかけている。

 怖い、と思った。居心地がいい場所は、失うときに痛い。それはもう、知っている。

 ——考えるのはやめよう。今は選挙が終わるまで、目の前のことだけ。

 遊説帰り、ふと颯真の右手に目が止まった。無意識に手のひらを揉んでいる。指の関節が赤く腫れていた。
 候補者は一日に何百回も握手をする。老人の硬い手、主婦のしっかりした手、学生の遠慮がちな手——すべてに力を込めて、頭を下げて、また次の手を握る。毎日、毎日。

 ……痛そう。

 考えるより先に、カバンに手が伸びていた。ポーチの中から、あの小さな缶を取り出す。小豆島のオリーブハンドクリーム。私のお気に入り。通販でわざわざリピートしてるやつ。

 颯真のデスクに、ことん、と置いた。

「……なんだこれ」

「ハンドクリーム。手、腫れてるでしょう。塗ってください」

「余計な世話だ」

「余計でもいいから塗ってください。握手するたびに痛がってたら有権者にバレますよ」

 颯真がちらっと缶を見た。「小豆島」の文字と、オリーブの枝のイラスト。

「……これ、お前のだろう。使いかけだ」

「別に。いいんです」

 いいんです、って言っちゃった。私のお気に入りなのに。通販でしか買えないのに。あのオリーブの香りが好きで、毎晩寝る前に丁寧に塗ってたのに。——なんで?

 颯真は何も言わずに缶を引き寄せて、引き出しにしまった。

 翌朝。颯真のデスクにあの缶が出しっぱなしになっていた。蓋が少しずれている。——使ったんだ。
 缶を手に取って、蓋を開けてみた。中身が昨日よりわずかに減っている。表面に、指で掬った跡がある。大きな指の跡。

 ……私の大事なクリームに、この人の指の跡がついてる。

 なんだろう、この気持ち。怒り? 呆れ? ——どっちでもない、もっと変な感じ。モヤモヤする。でも嫌じゃない。嫌じゃないのが、いちばんモヤモヤする。

 缶を颯真のデスクに戻した。——返して、とは言わなかった。

 ある夜。残業で二人だけになった事務所に、陣中見舞いで届いたまんじゅうの箱が一つだけ残っていた。
 二個入り。一つは白あん、一つはこしあん。

「……食べます?」

「勝手にしろ」

 それは「一緒に食べる」の意味だと、もう知っている。公選法で豪華な食事は出せない。差し入れもおにぎりすらアウト。この事務所で許される食べ物は、お茶と、せんべいと、こういう素朴なまんじゅうだけ。

 蛍光灯の下で、並んでまんじゅうを食べた。コンビニのお茶を紙コップに注いで。じわっと温かい紙コップの感触が、かじかんだ指先に沁みる。静かな事務所に、時計の針の音だけが響く。壁のだるまが、片目で私たちを見ている。
 高級レストランでディナーをするより、よっぽど距離が近い気がした。理由はわからない。

「……甘いものは好きなのか」

「え? まあ、普通に」

「……そうか」

 それだけ。何でもない会話。何でもないまんじゅう。
 なのに、こしあんのしっとりとした甘さが、いつまでも舌の上に残っていた。隣に座った颯真の体温が、ほんの少しだけ近い。腕と腕の間、あと十五センチくらいの距離。その隙間から、柑橘系のコロンの残り香がかすかに混ざってくる。
 ——どうしよう。この距離が、心地いい。

 後援会の活動が軌道に乗り、支持者の集まりも増えた。




***
【今日の選挙うんちく:選挙事務所の差し入れルール】

選挙事務所でのおやつは、まんじゅう・せんべい・お茶が定番。なぜか? 公選法第139条が、選挙運動に関する飲食物の提供を原則禁止しているからだ。例外は「茶菓子と通常用いられる程度の食事」のみ。おにぎりも弁当もアウト。違反すれば「買収罪」で候補者もろとも摘発されかねない。——だから深夜の事務所で食べるのは、冷めたまんじゅうと缶コーヒー。でもそれを隣の人と分け合う時間は、案外悪くない。
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