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第11話 お前がいなかったら
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深夜。事務所に残っていたのは、颯真と私だけだった。
最後のスタッフが「お先に失礼します」と頭を下げて出ていったのが、たぶん一時間くらい前。それからずっと、固定電話は鳴っていない。壁時計の秒針がかちかちと刻む音と、窓の外でときおり車が通り過ぎる音だけが、この空間を満たしている。
蛍光灯の一本が切れかけていて、ちかちかと明滅を繰り返す。その不規則な光が、壁一面の地図の赤いピンに引っかかって、影を揺らしていた。デスクの上には飲みかけの缶コーヒーが何本も転がっている。とっくに冷えているはずなのに、まだ微かにコーヒーの匂いが漂っている。ホワイトボードのスケジュールは赤と青のマーカーで埋め尽くされて、もう元の白い部分のほうが少ない。
二月の深夜。窓ガラスの外は真っ暗で、自分たちの姿だけがうっすら映っている。暖房はまだ効いているけれど、足元はもう冷えてきていた。
颯真がパソコンの前に座ったまま、動かない。
画面はとっくにスリープ状態になっている。真っ暗なモニターに、蛍光灯の光だけがぼんやり映り込んでいる。何も見ていない。何もしていない。ただ座って、両手をデスクの上で組んでいる。指先が白い。力が入っている。
「……颯真さん」
「ん」
返事、というより呼吸に近かった。声の輪郭がない。
「動画、すごく伸びてますよ。大根のやつ、もう五十万再生——」
「……そうか」
そう言ったまま、窓の外を見ている。
——嬉しくないんだ。
五十万人が見てくれた。「堅いけど好き」って書いてくれた。なのに、この人の目は笑っていない。声に色がない。まるで遠いところの天気予報を聞いているみたいな顔で、ぼんやりと暗い窓ガラスを見つめている。
「颯真さん?」
椅子を引いて、少しだけ近づいた。三歩分の距離。
颯真が——振り向かないまま、背中を丸めた。
初めて見る姿だった。
あの、いつも張り詰めていた背筋が崩れている。広い肩が前に落ちて、首の後ろが見える。襟足の髪が少しだけ乱れていて、うなじに蛍光灯の光が白く落ちている。スーツのジャケットは椅子の背にかけたままで、ワイシャツの袖が肘までまくり上げられている。——この人の腕の内側の肌って、こんなに白いんだ。
鎧を脱いだ姿。壁を下ろした横顔。カリスマも俺様も全部剥がれ落ちて、残ったのは——ただの、三十歳の男の、疲れた背中だった。
胸の奥が、きゅうっと締まった。
「……動画は」
颯真の声がした。デスクの上を見たまま、低く、ゆっくりと。
「お前の判断が正しかった」
「え」
「反論資料を作ろうとしてた。パワーポイント、三十枚分。——全部消した」
颯真が椅子の背もたれに身体を預けて、天井を仰いだ。
喉仏が動く。蛍光灯のちかちかする光が、目の下のくまを浮き彫りにしている。いつからこんなに濃くなっていたんだろう。毎日近くにいたのに、気づかなかった。
「ポジティブな発信に切り替えたのは——正解だ。俺一人だったら、あのパワポを全世界に公開して、盛大に炎上してた」
自嘲するように、口の端だけが歪む。笑顔じゃない。苦い顔だ。
「……俺は、親父とは違うんだ」
声が、ぽつりと落ちた。
壁時計がかちかち刻む。蛍光灯がちかちかする。その二つの音だけが、深夜の事務所を満たしている。
「親父は人を集められた」
天井を見上げたまま、颯真が言った。
「笑顔で握手して、冗談を言って、誰とでも三分で打ち解けた。選挙カーから降りた瞬間に支持者の名前を呼んで、子どもの頭を撫でて、おばあちゃんの手を両手で包んで。——あの人の周りには、いつも人がいた」
颯真が、自分の手を見た。握手で腫れた右手。爪の際が割れて、薄く血が滲んでいる。左手の甲には、マーカーのインクが落ちきっていない青い跡が残っている。
「俺にはそれができない」
右手を、ぎゅっと握った。開いた。また握った。——痛いだろうに。腫れているのに。
「データは読める。戦略は立てられる。どの選挙区のどの票が何パーセント動けば逆転できるか、全部計算できる。でも——」
颯真がこちらを向いた。
「人の心を掴むのは、俺の領分じゃない」
——そうか。
この人は、ずっとこれを抱えてたんだ。
「勝てて当然」みたいな顔をして、偉そうに指示を出して、スタッフに怒鳴って。その全部が——「人を集められない自分」を隠すための鎧だったんだ。データで武装して、戦略で固めて、感情を排除して。そうしないと、お父さんの影に飲み込まれてしまうから。
足が動いた。
考えるより先に。三歩分の距離を詰めて、颯真のデスクの前に立った。蛍光灯のちかちかする光の下で、この人の疲れた目が、すぐ近くにあった。
「そんなことない」
声が震えた。自分でもびっくりするくらい、はっきり出た。
「今日の動画、見たでしょう。コメント欄。『堅いけど好き』って。『笑わないのがむしろ信用できる』って。五十万人が見て、あの無愛想な顔を好きだって言ってるんです」
颯真がまっすぐこちらを見ている。疲れた目。でも——瞳の奥に、かすかに光が揺れている。揺れている。この人の目が、こんなふうに揺れるのを見たのは初めてだった。
「お前は……なんでそう言い切れる」
「だって、私がそうだったから」
今度は、私のほうが視線を逸らした。颯真の腫れた手を見る。割れた爪を見る。マーカーのインクの跡を見る。——この手が毎日何百人と握手して、夜中にホワイトボードに書き込んで、朝にはまた握手をして。
「最初は最悪だと思ってた。失礼で、冷たくて、人の気持ちがわからない人だって」
自分の指先が冷えているのがわかった。緊張しているんだ。でも止まれない。
「——でも、見てたら」
颯真の顔を見た。目の下のくま。乱れた襟足。蛍光灯に照らされた、疲れ切った横顔。——でも、まっすぐな目。嘘をつかない目。
「この人は不器用なだけで、中身はちゃんとしてるって。口は悪いけど、嘘はつかないって。データばっかり見てるくせに、夜中に一人で演説の練習してるんだって。声が枯れるまで、誰もいない事務所で。——そういうの」
息を吸った。コーヒーの匂い。コピー用紙の匂い。蛍光灯の、わずかに焦げたような匂い。
「ちゃんと、伝わるんです。颯真さんのままで、ちゃんと」
——言い過ぎた。
明らかに言い過ぎた。顔が、耳の先まで熱い。心臓がどくどく脈打っていて、自分の鼓動が耳の奥で聞こえる。
でもいい。本当のことだから。嘘じゃないから。
颯真が何も言わなかった。
長い沈黙だった。秒針がかちかち刻む。蛍光灯がちかちかする。窓ガラスの外を、車のヘッドライトが通り過ぎて、光の筋が壁を横切って消えた。
それから——
颯真が、ふっと、笑った。
笑った。——この人が。
口角が上がるんじゃなかった。唇は閉じたまま。目が、細くなったのだ。頬の力がふっと抜けて、眉間に寄っていた皺がほどけて、まつげの影が柔らかく落ちて。
——笑顔だ。本物の。作り物じゃない、誰に見せるためでもない、ただの。
ほんの一瞬。二秒か三秒。でもその一瞬に、この人の顔から「候補者」も「二世」も「俺様」も全部消えて、ただの颯真がそこにいた。
息が止まった。
心臓の音が、一拍だけ飛んだ。
「……お前がいなかったら」
低い声が、深夜の事務所に落ちた。天井を見上げたまま。さっきの笑みの残り香みたいなものが、まだ目元に漂っている。
「一人で全部壊してたかもしれない」
——壊す。この人が使う言葉は、いつも極端だ。「悪くなかった」が精一杯の褒め言葉で、「壊してた」が精一杯の感謝。不器用すぎる。不器用すぎて、胸が痛い。
返す言葉が見つからなかった。何か言おうとして、喉が詰まった。泣きそうだった。泣く理由がわからない。ただ、この人の「壊してた」という言葉が、胸の一番深いところに刺さって抜けない。
蛍光灯がちか、と明滅した。壁時計がかちかち刻む。冷めた缶コーヒーの匂い。コピー用紙とマーカーインクの匂い。二人の呼吸の音。——全部がやけに鮮明で、目を閉じてもこの瞬間が消えない。記憶に焼きついて離れない。
「……帰りましょうか」
やっと声を出した。少し掠れていた。
「遅いです。明日も朝早い」
「……ああ」
颯真が立ち上がった。椅子がきしむ音。ジャケットを椅子の背から取って、左腕にかける。蛍光灯のスイッチに手を伸ばして——止まった。
「……送る」
低い声。こちらを見ないまま。暗い道は危ない、とも、遅いから、とも言わない。ただ「送る」とだけ。
コートを取りに行こうとして、颯真のデスクの脇に回り込んだ。自分のマフラーが椅子にかけてあったのだ。手を伸ばして——
目が、止まった。
デスクの端に、小さな缶が置いてあった。
小豆島のオリーブクリーム。深いグリーンのラベル。蓋がきちんと閉まっている。周りにはレシートや資料が散らばっているのに、その缶だけは整然と、まるで決まった場所に置かれているみたいに、デスクの角にちょこんと座っていた。
手に取った。軽い。中身が、だいぶ減っている。
——毎日、使ってるんだ。
あの日、「これ使ってください」と押しつけた私のハンドクリーム。「余計な世話だ」と突き返されると思ったのに、受け取って、黙って使って、きちんと蓋を閉めて、デスクの定位置に置いて。毎日。
握手で腫れた手に、私の——私だけの、お気に入りのクリームを。
鼻の奥がつんとした。
缶をそっとデスクに戻した。元あった場所に、正確に。颯真は蛍光灯のスイッチの前にいて、こちらを見ていなかった。——見ていないことを、確認してから。マフラーを掴んで、コートを羽織った。
見なかったことにした。でも指先に、冷えた缶の感触がいつまでも残っていた。
◇
エンジンの振動が、シートの背中から伝わってくる。
二月の深夜。外は零度に近い。ドアを開けた瞬間、頬を刺すような冷気に思わず首をすくめた。でも車内に滑り込むと、颯真が先に暖房を入れていたのか、ほんのりと温かい空気が足元を包んだ。
ダッシュボードの小さなランプがオレンジ色に光っている。ラジオが小さく流れていた。深夜のニュース番組。アナウンサーの落ち着いた声が、明日の天気を読み上げている。——関東地方は晴れ。最低気温は一度。
颯真がギアを入れて、車が静かに動き出した。
さっきの事務所の空気を、そのまま持ち込んでしまった。壁を下ろした颯真。言い過ぎた私。あの目が細くなる笑みの残像。「お前がいなかったら」という声の温度。——全部が、この狭い車内の温かい空気の中に、溶け残っている。
助手席から、ちらりと横を見た。
ハンドルを握る颯真の手。左手の甲にマーカーインクの青い跡。握手で腫れた右手の指が、ウインカーのレバーに触れる。ふだんは完璧に結んでいるネクタイが、少しだけ緩んでいる。喉仏の下に、ワイシャツの第一ボタンが外れた隙間がある。そこに、鎖骨の影が見えた。
——見るな。
視線を逸らした。窓の外。街灯がオレンジ色の光を繰り返し流していく。コンビニの看板。信号。閉まったシャッター。深夜の住宅街は静かで、この車のエンジン音だけが世界のすべてみたいだった。
「……あと二日だな」
颯真の声が、ラジオの音に重なった。
「はい」
「選挙が終わったら——」
また、その言葉。昨日の夜も途切れた言葉。今度は、颯真のほうから。
赤信号で車が止まった。ブレーキランプが前のガードレールを赤く染めている。
「……お前は、会社に戻るのか」
心臓が、ぎゅっと掴まれた。
静かな声だった。フロントガラスの向こうを見たまま。ハンドルに置いた手に、かすかに力が入っている。
「……はい。たぶん」
「そうか」
信号が青に変わる。車が動き出す。ヒーターの温風がふわりと顔に触れて、柑橘系のコロンの匂いが混ざってきた。颯真の匂い。——この匂いを、もう覚えてしまっている。いつからこんなに、はっきり。
沈黙。
ワイパーは動いていない。夜は晴れている。フロントガラスの向こうに、星がほんの少しだけ見えた。都会の空は明るすぎて、一等星しか見えない。でもその一つだけの星が、やけにまっすぐ光っている。
「……戻りたいのか」
小さな声だった。
ほとんど独り言みたいな声。でも確かに、私に向けられていた。フロントガラスの向こうを見たまま。横顔。長いまつげの影が頬に落ちている。
——戻りたいのか。
会社に。あの、何も起こらない日常に。
デスクがあって、パソコンがあって、定時に帰れて、誰とも深く関わらなくて済む毎日に。朝はBLCDを聴きながら電車に乗って、夜はジャージに着替えてBL漫画を読んで、それで満足だった日々に。心臓がこんなふうにうるさくならない、安全な場所に。
「……わかりません」
正直に言った。嘘はつけなかった。この人の前では、嘘をつきたくなかった。
「一か月前の私なら、すぐ戻ってた。でも今は——」
言葉が詰まった。「今は」の先が見つからない。見つからないのか、見つけるのが怖いのか、自分でもわからない。
車が、家の前で止まった。
エンジンが低く唸っている。ヒーターの温風が足元を温めている。ラジオのアナウンサーが、明日のニュースの予告を読み上げている。
降りなきゃ。
シートベルトのバックルに指をかけた。金属が冷たい。——でも足が動かない。ドアノブに手が伸びない。
助手席の窓ガラスに、自分の顔がうっすら映っている。その向こうに、玄関灯の小さな光。あと三歩で家のドアに届く。三歩で、この車の中の温かさから切り離される。
颯真が、こちらを見た。
——初めて。車の中で、まっすぐこちらを見た。
暗い車内。ダッシュボードのオレンジのランプだけが、颯真の顔の輪郭を浮かび上がらせている。さっきの事務所で見た「ただの颯真」の顔が、まだそこにあった。鎧を脱いだまま。壁を下ろしたまま。
***
【今日の選挙うんちく:選挙事務所の深夜】
選挙期間中の事務所は、深夜まで明かりが消えない。翌日のスケジュール確認、電話作戦の集計、ポスター・ビラの補充手配。公職選挙法で選挙運動は午前八時から午後八時までだが、事務作業に時間制限はない。終盤になればなるほど、候補者本人が最後まで残る。——その深夜の事務所で、候補者の「素」が出る。鎧を脱いだ顔を見られるのは、最後まで残った人だけの特権。
最後のスタッフが「お先に失礼します」と頭を下げて出ていったのが、たぶん一時間くらい前。それからずっと、固定電話は鳴っていない。壁時計の秒針がかちかちと刻む音と、窓の外でときおり車が通り過ぎる音だけが、この空間を満たしている。
蛍光灯の一本が切れかけていて、ちかちかと明滅を繰り返す。その不規則な光が、壁一面の地図の赤いピンに引っかかって、影を揺らしていた。デスクの上には飲みかけの缶コーヒーが何本も転がっている。とっくに冷えているはずなのに、まだ微かにコーヒーの匂いが漂っている。ホワイトボードのスケジュールは赤と青のマーカーで埋め尽くされて、もう元の白い部分のほうが少ない。
二月の深夜。窓ガラスの外は真っ暗で、自分たちの姿だけがうっすら映っている。暖房はまだ効いているけれど、足元はもう冷えてきていた。
颯真がパソコンの前に座ったまま、動かない。
画面はとっくにスリープ状態になっている。真っ暗なモニターに、蛍光灯の光だけがぼんやり映り込んでいる。何も見ていない。何もしていない。ただ座って、両手をデスクの上で組んでいる。指先が白い。力が入っている。
「……颯真さん」
「ん」
返事、というより呼吸に近かった。声の輪郭がない。
「動画、すごく伸びてますよ。大根のやつ、もう五十万再生——」
「……そうか」
そう言ったまま、窓の外を見ている。
——嬉しくないんだ。
五十万人が見てくれた。「堅いけど好き」って書いてくれた。なのに、この人の目は笑っていない。声に色がない。まるで遠いところの天気予報を聞いているみたいな顔で、ぼんやりと暗い窓ガラスを見つめている。
「颯真さん?」
椅子を引いて、少しだけ近づいた。三歩分の距離。
颯真が——振り向かないまま、背中を丸めた。
初めて見る姿だった。
あの、いつも張り詰めていた背筋が崩れている。広い肩が前に落ちて、首の後ろが見える。襟足の髪が少しだけ乱れていて、うなじに蛍光灯の光が白く落ちている。スーツのジャケットは椅子の背にかけたままで、ワイシャツの袖が肘までまくり上げられている。——この人の腕の内側の肌って、こんなに白いんだ。
鎧を脱いだ姿。壁を下ろした横顔。カリスマも俺様も全部剥がれ落ちて、残ったのは——ただの、三十歳の男の、疲れた背中だった。
胸の奥が、きゅうっと締まった。
「……動画は」
颯真の声がした。デスクの上を見たまま、低く、ゆっくりと。
「お前の判断が正しかった」
「え」
「反論資料を作ろうとしてた。パワーポイント、三十枚分。——全部消した」
颯真が椅子の背もたれに身体を預けて、天井を仰いだ。
喉仏が動く。蛍光灯のちかちかする光が、目の下のくまを浮き彫りにしている。いつからこんなに濃くなっていたんだろう。毎日近くにいたのに、気づかなかった。
「ポジティブな発信に切り替えたのは——正解だ。俺一人だったら、あのパワポを全世界に公開して、盛大に炎上してた」
自嘲するように、口の端だけが歪む。笑顔じゃない。苦い顔だ。
「……俺は、親父とは違うんだ」
声が、ぽつりと落ちた。
壁時計がかちかち刻む。蛍光灯がちかちかする。その二つの音だけが、深夜の事務所を満たしている。
「親父は人を集められた」
天井を見上げたまま、颯真が言った。
「笑顔で握手して、冗談を言って、誰とでも三分で打ち解けた。選挙カーから降りた瞬間に支持者の名前を呼んで、子どもの頭を撫でて、おばあちゃんの手を両手で包んで。——あの人の周りには、いつも人がいた」
颯真が、自分の手を見た。握手で腫れた右手。爪の際が割れて、薄く血が滲んでいる。左手の甲には、マーカーのインクが落ちきっていない青い跡が残っている。
「俺にはそれができない」
右手を、ぎゅっと握った。開いた。また握った。——痛いだろうに。腫れているのに。
「データは読める。戦略は立てられる。どの選挙区のどの票が何パーセント動けば逆転できるか、全部計算できる。でも——」
颯真がこちらを向いた。
「人の心を掴むのは、俺の領分じゃない」
——そうか。
この人は、ずっとこれを抱えてたんだ。
「勝てて当然」みたいな顔をして、偉そうに指示を出して、スタッフに怒鳴って。その全部が——「人を集められない自分」を隠すための鎧だったんだ。データで武装して、戦略で固めて、感情を排除して。そうしないと、お父さんの影に飲み込まれてしまうから。
足が動いた。
考えるより先に。三歩分の距離を詰めて、颯真のデスクの前に立った。蛍光灯のちかちかする光の下で、この人の疲れた目が、すぐ近くにあった。
「そんなことない」
声が震えた。自分でもびっくりするくらい、はっきり出た。
「今日の動画、見たでしょう。コメント欄。『堅いけど好き』って。『笑わないのがむしろ信用できる』って。五十万人が見て、あの無愛想な顔を好きだって言ってるんです」
颯真がまっすぐこちらを見ている。疲れた目。でも——瞳の奥に、かすかに光が揺れている。揺れている。この人の目が、こんなふうに揺れるのを見たのは初めてだった。
「お前は……なんでそう言い切れる」
「だって、私がそうだったから」
今度は、私のほうが視線を逸らした。颯真の腫れた手を見る。割れた爪を見る。マーカーのインクの跡を見る。——この手が毎日何百人と握手して、夜中にホワイトボードに書き込んで、朝にはまた握手をして。
「最初は最悪だと思ってた。失礼で、冷たくて、人の気持ちがわからない人だって」
自分の指先が冷えているのがわかった。緊張しているんだ。でも止まれない。
「——でも、見てたら」
颯真の顔を見た。目の下のくま。乱れた襟足。蛍光灯に照らされた、疲れ切った横顔。——でも、まっすぐな目。嘘をつかない目。
「この人は不器用なだけで、中身はちゃんとしてるって。口は悪いけど、嘘はつかないって。データばっかり見てるくせに、夜中に一人で演説の練習してるんだって。声が枯れるまで、誰もいない事務所で。——そういうの」
息を吸った。コーヒーの匂い。コピー用紙の匂い。蛍光灯の、わずかに焦げたような匂い。
「ちゃんと、伝わるんです。颯真さんのままで、ちゃんと」
——言い過ぎた。
明らかに言い過ぎた。顔が、耳の先まで熱い。心臓がどくどく脈打っていて、自分の鼓動が耳の奥で聞こえる。
でもいい。本当のことだから。嘘じゃないから。
颯真が何も言わなかった。
長い沈黙だった。秒針がかちかち刻む。蛍光灯がちかちかする。窓ガラスの外を、車のヘッドライトが通り過ぎて、光の筋が壁を横切って消えた。
それから——
颯真が、ふっと、笑った。
笑った。——この人が。
口角が上がるんじゃなかった。唇は閉じたまま。目が、細くなったのだ。頬の力がふっと抜けて、眉間に寄っていた皺がほどけて、まつげの影が柔らかく落ちて。
——笑顔だ。本物の。作り物じゃない、誰に見せるためでもない、ただの。
ほんの一瞬。二秒か三秒。でもその一瞬に、この人の顔から「候補者」も「二世」も「俺様」も全部消えて、ただの颯真がそこにいた。
息が止まった。
心臓の音が、一拍だけ飛んだ。
「……お前がいなかったら」
低い声が、深夜の事務所に落ちた。天井を見上げたまま。さっきの笑みの残り香みたいなものが、まだ目元に漂っている。
「一人で全部壊してたかもしれない」
——壊す。この人が使う言葉は、いつも極端だ。「悪くなかった」が精一杯の褒め言葉で、「壊してた」が精一杯の感謝。不器用すぎる。不器用すぎて、胸が痛い。
返す言葉が見つからなかった。何か言おうとして、喉が詰まった。泣きそうだった。泣く理由がわからない。ただ、この人の「壊してた」という言葉が、胸の一番深いところに刺さって抜けない。
蛍光灯がちか、と明滅した。壁時計がかちかち刻む。冷めた缶コーヒーの匂い。コピー用紙とマーカーインクの匂い。二人の呼吸の音。——全部がやけに鮮明で、目を閉じてもこの瞬間が消えない。記憶に焼きついて離れない。
「……帰りましょうか」
やっと声を出した。少し掠れていた。
「遅いです。明日も朝早い」
「……ああ」
颯真が立ち上がった。椅子がきしむ音。ジャケットを椅子の背から取って、左腕にかける。蛍光灯のスイッチに手を伸ばして——止まった。
「……送る」
低い声。こちらを見ないまま。暗い道は危ない、とも、遅いから、とも言わない。ただ「送る」とだけ。
コートを取りに行こうとして、颯真のデスクの脇に回り込んだ。自分のマフラーが椅子にかけてあったのだ。手を伸ばして——
目が、止まった。
デスクの端に、小さな缶が置いてあった。
小豆島のオリーブクリーム。深いグリーンのラベル。蓋がきちんと閉まっている。周りにはレシートや資料が散らばっているのに、その缶だけは整然と、まるで決まった場所に置かれているみたいに、デスクの角にちょこんと座っていた。
手に取った。軽い。中身が、だいぶ減っている。
——毎日、使ってるんだ。
あの日、「これ使ってください」と押しつけた私のハンドクリーム。「余計な世話だ」と突き返されると思ったのに、受け取って、黙って使って、きちんと蓋を閉めて、デスクの定位置に置いて。毎日。
握手で腫れた手に、私の——私だけの、お気に入りのクリームを。
鼻の奥がつんとした。
缶をそっとデスクに戻した。元あった場所に、正確に。颯真は蛍光灯のスイッチの前にいて、こちらを見ていなかった。——見ていないことを、確認してから。マフラーを掴んで、コートを羽織った。
見なかったことにした。でも指先に、冷えた缶の感触がいつまでも残っていた。
◇
エンジンの振動が、シートの背中から伝わってくる。
二月の深夜。外は零度に近い。ドアを開けた瞬間、頬を刺すような冷気に思わず首をすくめた。でも車内に滑り込むと、颯真が先に暖房を入れていたのか、ほんのりと温かい空気が足元を包んだ。
ダッシュボードの小さなランプがオレンジ色に光っている。ラジオが小さく流れていた。深夜のニュース番組。アナウンサーの落ち着いた声が、明日の天気を読み上げている。——関東地方は晴れ。最低気温は一度。
颯真がギアを入れて、車が静かに動き出した。
さっきの事務所の空気を、そのまま持ち込んでしまった。壁を下ろした颯真。言い過ぎた私。あの目が細くなる笑みの残像。「お前がいなかったら」という声の温度。——全部が、この狭い車内の温かい空気の中に、溶け残っている。
助手席から、ちらりと横を見た。
ハンドルを握る颯真の手。左手の甲にマーカーインクの青い跡。握手で腫れた右手の指が、ウインカーのレバーに触れる。ふだんは完璧に結んでいるネクタイが、少しだけ緩んでいる。喉仏の下に、ワイシャツの第一ボタンが外れた隙間がある。そこに、鎖骨の影が見えた。
——見るな。
視線を逸らした。窓の外。街灯がオレンジ色の光を繰り返し流していく。コンビニの看板。信号。閉まったシャッター。深夜の住宅街は静かで、この車のエンジン音だけが世界のすべてみたいだった。
「……あと二日だな」
颯真の声が、ラジオの音に重なった。
「はい」
「選挙が終わったら——」
また、その言葉。昨日の夜も途切れた言葉。今度は、颯真のほうから。
赤信号で車が止まった。ブレーキランプが前のガードレールを赤く染めている。
「……お前は、会社に戻るのか」
心臓が、ぎゅっと掴まれた。
静かな声だった。フロントガラスの向こうを見たまま。ハンドルに置いた手に、かすかに力が入っている。
「……はい。たぶん」
「そうか」
信号が青に変わる。車が動き出す。ヒーターの温風がふわりと顔に触れて、柑橘系のコロンの匂いが混ざってきた。颯真の匂い。——この匂いを、もう覚えてしまっている。いつからこんなに、はっきり。
沈黙。
ワイパーは動いていない。夜は晴れている。フロントガラスの向こうに、星がほんの少しだけ見えた。都会の空は明るすぎて、一等星しか見えない。でもその一つだけの星が、やけにまっすぐ光っている。
「……戻りたいのか」
小さな声だった。
ほとんど独り言みたいな声。でも確かに、私に向けられていた。フロントガラスの向こうを見たまま。横顔。長いまつげの影が頬に落ちている。
——戻りたいのか。
会社に。あの、何も起こらない日常に。
デスクがあって、パソコンがあって、定時に帰れて、誰とも深く関わらなくて済む毎日に。朝はBLCDを聴きながら電車に乗って、夜はジャージに着替えてBL漫画を読んで、それで満足だった日々に。心臓がこんなふうにうるさくならない、安全な場所に。
「……わかりません」
正直に言った。嘘はつけなかった。この人の前では、嘘をつきたくなかった。
「一か月前の私なら、すぐ戻ってた。でも今は——」
言葉が詰まった。「今は」の先が見つからない。見つからないのか、見つけるのが怖いのか、自分でもわからない。
車が、家の前で止まった。
エンジンが低く唸っている。ヒーターの温風が足元を温めている。ラジオのアナウンサーが、明日のニュースの予告を読み上げている。
降りなきゃ。
シートベルトのバックルに指をかけた。金属が冷たい。——でも足が動かない。ドアノブに手が伸びない。
助手席の窓ガラスに、自分の顔がうっすら映っている。その向こうに、玄関灯の小さな光。あと三歩で家のドアに届く。三歩で、この車の中の温かさから切り離される。
颯真が、こちらを見た。
——初めて。車の中で、まっすぐこちらを見た。
暗い車内。ダッシュボードのオレンジのランプだけが、颯真の顔の輪郭を浮かび上がらせている。さっきの事務所で見た「ただの颯真」の顔が、まだそこにあった。鎧を脱いだまま。壁を下ろしたまま。
***
【今日の選挙うんちく:選挙事務所の深夜】
選挙期間中の事務所は、深夜まで明かりが消えない。翌日のスケジュール確認、電話作戦の集計、ポスター・ビラの補充手配。公職選挙法で選挙運動は午前八時から午後八時までだが、事務作業に時間制限はない。終盤になればなるほど、候補者本人が最後まで残る。——その深夜の事務所で、候補者の「素」が出る。鎧を脱いだ顔を見られるのは、最後まで残った人だけの特権。
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その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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