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第10話 いい顔してるな
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父の見舞いに行くと、父が「お前、最近いい顔してるな」と言った。
「……そう?」
「ああ。前より生き生きしてる」
そうかな。確かに、最近は家に帰ってもBL漫画を開かないで寝落ちする日が増えた。
疲れてるだけ——だと思うけど。
変化は、颯真にもあった。
みずきへの当たりが、少しだけ——ほんの少しだけ——柔らかくなっていた。ただし、あくまでツン経由で。
「……今日の段取り、悪くなかった」
精一杯の褒め言葉。
「差し入れ、そこに置いておいた。別に君のためじゃない、余っただけだ」
机の上にコンビニのカフェラテ。私がいつも飲んでいるのと同じやつ。偶然余ったにしては随分とピンポイント。
「遅くなるなら送る。暗い道は危ないからな」
車で送ってくれる。「危ないから」。うん、うん。そうだね。危ないからだね。
いちいちツンデレなの、なんなの。
これBL漫画だったら確実に「攻め、デレ期突入」って実況してるやつ。
(かわいいとか思ってないから。思ってないったら。私は二次元専門のはずでしょうが……!)
——はず、だったのに。なんだろう、この胸の奥がくすぐったい感じ。
ある夜。遅くまで残った事務作業を終えて、颯真の車で送ってもらうことになった。
車内。二人きり。
革のシートがきしむ音。ラジオが小さく流れている。ヒーターの温風が足元から上がってきて、外の寒さで冷え切った身体がじんわりと溶けていく。フロントガラスの向こう、夜の道は暗くて、対向車のヘッドライトが時々通り過ぎていく。そのたびに、颯真の横顔が白く浮かび上がって、また暗闇に沈む。
閉じた車内に、颯真の匂いが満ちている。あの柑橘系のコロン。もう、鼻が慣れてしまっている自分が少し怖い。
沈黙。でも——気まずくない沈黙。
颯真がぼそっと言った。
「……瑞希さん」
「はい」
颯真はフロントガラスの向こうを見ている。赤信号。ワイパーの跡が乾いたガラスに薄く残っている。——こっちを見ない。頑なに、こっちを見ない。
「……ありがとう」
え。
「君が来てから、後援会がまとまった」
ハンドルを握る指が、ぎゅっと白くなっていた。前を向いたまま。こちらを一切見ない。横顔の耳の先だけが、信号の赤い光のせいなのか——少しだけ、色づいている。
颯真の声は低くて、ぶっきらぼうで、でも——ちゃんと、本気で言っているのがわかった。
「いえ、私は父の代わりをしてるだけで——」
「違う」
赤信号で車が止まった。颯真が初めて、こちらを見た。
「君は君だ。……会長の代わりじゃない」
街灯の光が、車内に差し込んでいる。颯真の目が——こんなに真っ直ぐだったことがあっただろうか。
家の前に着いた。エンジンがアイドリングの低い音を刻んでいる。ヒーターの温風が、もうすぐ途切れる。
「……上がっていきますか? お茶くらいなら」
言ってから、しまったと思った。別に深い意味はない。ないんだけど。
颯真が一瞬、黙った。それから——少し困ったように、ハンドルに視線を落とした。革を握る指が、きゅっと白くなる。
「……選挙期間中に、候補者が有権者の家を訪れるのは、誤解を招く。戸別訪問とみなされかねない」
公職選挙法。ここでもか。
「わかってます。だから、選挙が終わったら——」
口が止まった。
選挙が終わったら? 何。何を言おうとした、私。
沈黙が落ちた。エンジンのアイドリング音だけが、とくん、とくん、と低く響いている。——心臓の音みたいに。
颯真が、ゆっくりと口を開いた。
「……選挙が終わったら、か」
繰り返した。私の言葉を。噛みしめるみたいに、低い声で。
フロントガラスの向こう、街灯がぼんやりと暗い道を照らしている。颯真の指がハンドルの上を滑って、革の縫い目をなぞった。無意識の仕草。何か言いたくて、でも言葉を選んでいる——そういう手つきだった。
「……俺は」
颯真の声が、かすれた。
「選挙が終わっても——」
途切れた。
長い、長い沈黙。
ヒーターの温風が、ふっと弱まった。エンジンの回転数が落ちたのか、車内がほんの少しだけ冷えた。その冷たさが、さっきまでの温もりの輪郭を際立たせた。
颯真が、息を吸った。深く。長く。——そして、吐き出すように。
「……おやすみ」
前を向いたまま。こちらを見ないまま。ハンドルを握る指が白くなっている。
——今、何を言おうとしたの。
聞きたかった。聞けなかった。聞いたら、もう戻れない場所に行ってしまう気がした。
「……おやすみなさい」
ドアを開けた瞬間、車内の温もりが冬の夜気に引き剝がされた。冷たい空気が頬を刺す。ぱたん、とドアが閉まる音。テールランプの赤い光が遠ざかっていくのを、玄関先でしばらく見ていた。コートの襟元に、颯真の車のヒーターの温もりがまだほんの少しだけ残っている。
玄関の鍵を開けて、靴を脱いで、リビングの電気をつけた。いつもの部屋。いつもの静けさ。冷蔵庫のモーター音。
……なんか、胸のあたりがざわざわする。
コートを脱ぎながら、ふと、襟元に顔を寄せた。——あの車の匂い。革のシートと、ヒーターの温風と、かすかな柑橘。まだ残ってる。
……あれ。
私、今、何してるんだろう。コートの匂い嗅いでる。なんで。
(疲れてるんだ。うん。疲れてるだけ。明日も朝早いし、もう寝よう)
洗面台で顔を洗って、ジャージに着替えて、布団にもぐりこんだ。引き出しのオリーブクリームに手を伸ばしかけて——止めた。あの缶は、颯真のデスクにある。
……別のハンドクリーム、買わなきゃ。
天井を見上げた。スタンドライトの丸い光。いつもの風景。なのに、なぜかうまく眠れない。目を閉じると、赤信号で止まった車内の——あの横顔が、ちらついて消えない。
(あれ? 私、今、何考えた?)
ぱっと目を開けた。天井。蛍光灯。何でもない。何も考えてない。寝よう。寝なきゃ。
◇
選挙戦十日目。投票日まで、あと三日。
午前中、正義先生の古くからの支持者を回った。商店街の裏手にある小さな平屋。玄関先に鉢植えの梅が咲いていた。まだ二月なのに、もう白い花がほころんでいる。
「まあまあ、颯真くん! 大きくなって。正義先生にそっくりだねぇ」
村上のおじいちゃんが、杖をつきながら玄関を開けてくれた。奥からおばあちゃんが「ちょっとお父さん、スリッパ!」と声を出す。薄暗い廊下に、正義先生と握手している写真が額に入って飾ってあった。
居間に通された。こたつの上にみかんとお茶。壁に貼られた書道の額。テレビの音。——ここには、時間がゆっくり流れている。
「正義先生が初めてうちに来たのはね、もう二十年以上前だよ」
おじいちゃんがみかんの皮を剥きながら言った。
「あの頃はまだ若くてねぇ。奥さんと二人で、一軒一軒回ってた。奥さんが荷物持ちでね、正義先生が喋って、奥さんが頭を下げて。冬でもね、二人で自転車で来てたんだよ」
おばあちゃんが「あの奥さん、いい人だったねぇ」と頷く。
「二人で来ると、なんかね、安心するのよ。ああ、この人は家庭もちゃんとしてるんだな、って。政策よりも先にね、人柄が伝わるの」
おじいちゃんが颯真と私を交互に見て、にこにこした。
「あんたたちも、なんだかあの頃の正義先生ご夫婦みたいだねぇ」
「——え」
「違います、私たちはそういう——」
「いやいや、似てるよ。ねえお母さん」
「似てる似てる。女の人がしっかりしてて、男の人がちょっと不器用なところがそっくり」
颯真が咳払いをした。顔が——いつもの無表情のはずなのに、耳の先が赤い。もう信号のせいにはできない。ここ、室内だし。
「……帰りましょうか」
「ああ。次がある」
玄関先でおじいちゃんが「頑張りなさい」と言って、颯真の手を両手で握った。おばあちゃんが私の手を握って、小声で言った。
「あの子のこと、よろしくね。不器用な子ほど、そばにいてくれる人が必要なのよ」
——よろしくって。何を。
帰り道、並んで歩いた。二月の午後の日差しが低くて、アスファルトに二人の影が長く伸びている。颯真が言った。
「……親父は、母さんと出会ったのも選挙がきっかけだったらしい」
「そうなんですか」
「後援会の集まりで知り合って、選挙を一緒に戦ってるうちに——まあ、そうなったらしい」
珍しく、声が柔らかい。父親の話をするとき、この人は少しだけ壁を下ろす。
「じゃあ正義先生にとって、選挙は政治だけじゃなかったんですね」
颯真が少し驚いた顔をした。立ち止まって、こちらを見た。
「……そうかもな」
目が合った。二秒。三秒。——長い。長すぎる。なのに逸らせない。
颯真が先に視線を外した。歩き出す。私も歩く。さっきより半歩だけ、距離が近い。
◇
事務所に戻ると、空気が変わっていた。
スタッフの顔が暗い。固定電話が立て続けに鳴っている。田中さんが受話器を置くなり「また問い合わせよ」と疲れた声で言った。
山田さんが駆け寄ってきた。
「先生、新しいデマが出ました。今度はYouTubeです」
パソコンの画面を見せられた。サムネイルに颯真の顔写真が使われている。加工されて、悪意のある表情に切り取られている。タイトルは——
『【暴露】御堂颯真の本性 元部下が語る「パワハラ体質」の全貌』
再生数が六時間で十五万回。コメント欄は地獄だった。
颯真が画面を見つめた。表情が消えている。怒りでもない。悲しみでもない。何もかも諦めたような、空っぽな目。
「……また、か」
「先生、これに対して声明を——」
「出さない」
颯真の声が硬い。
「反論すれば向こうの思うツボだ。炎上に油を注ぐだけだ」
正しい。正しいけど——このまま黙っていたら、デマだけが一人歩きする。支持者が不安になる。票が逃げる。
私は、考えた。
「……颯真さん」
「なんだ」
「反論じゃなくて、ポジティブな発信をしませんか」
颯真が怪訝な顔をした。山田さんも「ポジティブ?」と首を傾げる。
「デマに対して『違います』って言ったら、それ自体がまた切り取られて拡散されるだけです。だから、反論じゃなくて——颯真さんの本当の姿を見てもらうんです。ショート動画で」
「動画?」
「はい。堅い政策動画じゃなくて、街を歩きながら普通に喋ってるところ。商店街のおじちゃんに声かけてるところ。支持者の人と笑ってるところ。——嘘じゃない颯真さんを、そのまま見せるんです」
事務所がしん、と静まった。スタッフたちが顔を見合わせる。
颯真が腕を組んだ。
「……俺は、カメラの前で愛想笑いなんかできない」
「愛想笑いしなくていいです。むしろそのままの不愛想な顔のほうがいい。ギャップが出るから」
「ギャップ?」
「怖い顔してるけど実はちゃんと政策を考えてる、みたいな。ネットの人たちはそういうの好きですよ」
田中さんが「なるほどねぇ」と頷いた。山田さんも「確かに、先生は映える顔だし……」と呟く。
颯真が渋い顔をしている。
「……勝手にしろ」
出た。「勝手にしろ」はこの人の「いいよ」だ。もう学習済み。
◇
翌日——選挙戦十一日目。投票日まで、あと二日。
朝から、スマホを片手に颯真に密着した。
最初の動画は、朝の事務所。颯真がコーヒーを淹れているところ。缶コーヒーじゃなくて、インスタントコーヒーを丁寧にドリップしている。知らなかった、この人、コーヒーにはこだわるんだ。
「何を撮ってる」
「朝のルーティンです。候補者の素顔、的な」
「……くだらない」
不機嫌な顔のまま、コーヒーをすする。湯気の向こうに、切れ長の目。——絵になる。イケメンは何をしても絵になるの、ずるい。
次は商店街での遊説。八百屋のおじちゃんが「颯真くん、大根持ってけ!」と叫ぶ。颯真が「公職選挙法上、受け取れません」と真顔で返す。おじちゃんが「堅ぇなぁ!」と笑う。周りの人たちも笑う。颯真だけが笑ってない。でも口角がほんの少しだけ上がっている。
これだ。この感じ。
「御堂さーん、カメラにピースしてください」
「……しない」
「じゃあサムズアップは?」
「しない」
「じゃあせめて笑ってください」
「……これが普通の顔だ」
横で私がカメラに向かって言う。「普通の顔だそうです。ちなみにこれ、ご機嫌なときの顔です」。スタッフたちが後ろで吹き出している。
夕方、事務所で編集した。といっても、スマホのアプリでテロップを入れるだけ。山田さんが「若い人はすごいねぇ」と感心しているが、やってることは推しCPの布教ツイートに動画つける作業と大して変わらない。オタクのスキルが役に立つ日が来るとは。
三十秒のショート動画を三本。颯真の公式アカウントに投稿した。
『#選挙の裏側 候補者の朝は、インスタントコーヒーから始まる。』
『#街の声 大根は受け取れません(公選法)』
『#御堂颯真 笑ってください→これが普通の顔です。ちなみにご機嫌なときの顔です。』
投稿してから一時間。通知が止まらなくなった。
「え——」
再生数が跳ね上がっていた。大根の動画が一番伸びている。コメント欄が流れていく。
『大根受け取れないの笑う』
『公選法に忠実すぎるwww』
『この候補者、堅いけど好き』
『顔がいいのに全然笑わないの逆に信用できる』
『普通の顔です(イケメン)』
『これが不機嫌じゃなくてご機嫌って嘘でしょwww』
どれも——ポジティブだ。
デマの記事に「やっぱりな」と書いていた人たちとは、全然違う層が反応している。実際の颯真を見て、笑って、好感を持ってくれている。
スマホが震えた。あかねからLINE。
あかね 『みたよ~。大根のやつめっちゃ笑った』
あかね 『ていうかこの候補者顔よすぎない???』
あかね 『あとカメラ回してるの瑞希でしょ。距離近くない??????????』
瑞希 『仕事です』
あかね 『はいはい仕事仕事』
あかね 『推しの布教動画作るのと同じテンションでイケメン候補者の動画作ってる自分のこと、客観的に見てみ?????????????????????????』
瑞希 『…………………………………………』
返す言葉がなかった。
***
【今日の選挙うんちく:SNS選挙の光と影】
2013年の公選法改正でネット選挙が解禁され、候補者はSNSで政策を発信できるようになった。一方で、匿名のデマや切り取り動画も猛威を振るう。対抗策はネガティブへの反論ではなく、ポジティブな「素」の発信——大根を断る候補者の動画が五十万再生されるのも、ネット時代の選挙ならでは。
「……そう?」
「ああ。前より生き生きしてる」
そうかな。確かに、最近は家に帰ってもBL漫画を開かないで寝落ちする日が増えた。
疲れてるだけ——だと思うけど。
変化は、颯真にもあった。
みずきへの当たりが、少しだけ——ほんの少しだけ——柔らかくなっていた。ただし、あくまでツン経由で。
「……今日の段取り、悪くなかった」
精一杯の褒め言葉。
「差し入れ、そこに置いておいた。別に君のためじゃない、余っただけだ」
机の上にコンビニのカフェラテ。私がいつも飲んでいるのと同じやつ。偶然余ったにしては随分とピンポイント。
「遅くなるなら送る。暗い道は危ないからな」
車で送ってくれる。「危ないから」。うん、うん。そうだね。危ないからだね。
いちいちツンデレなの、なんなの。
これBL漫画だったら確実に「攻め、デレ期突入」って実況してるやつ。
(かわいいとか思ってないから。思ってないったら。私は二次元専門のはずでしょうが……!)
——はず、だったのに。なんだろう、この胸の奥がくすぐったい感じ。
ある夜。遅くまで残った事務作業を終えて、颯真の車で送ってもらうことになった。
車内。二人きり。
革のシートがきしむ音。ラジオが小さく流れている。ヒーターの温風が足元から上がってきて、外の寒さで冷え切った身体がじんわりと溶けていく。フロントガラスの向こう、夜の道は暗くて、対向車のヘッドライトが時々通り過ぎていく。そのたびに、颯真の横顔が白く浮かび上がって、また暗闇に沈む。
閉じた車内に、颯真の匂いが満ちている。あの柑橘系のコロン。もう、鼻が慣れてしまっている自分が少し怖い。
沈黙。でも——気まずくない沈黙。
颯真がぼそっと言った。
「……瑞希さん」
「はい」
颯真はフロントガラスの向こうを見ている。赤信号。ワイパーの跡が乾いたガラスに薄く残っている。——こっちを見ない。頑なに、こっちを見ない。
「……ありがとう」
え。
「君が来てから、後援会がまとまった」
ハンドルを握る指が、ぎゅっと白くなっていた。前を向いたまま。こちらを一切見ない。横顔の耳の先だけが、信号の赤い光のせいなのか——少しだけ、色づいている。
颯真の声は低くて、ぶっきらぼうで、でも——ちゃんと、本気で言っているのがわかった。
「いえ、私は父の代わりをしてるだけで——」
「違う」
赤信号で車が止まった。颯真が初めて、こちらを見た。
「君は君だ。……会長の代わりじゃない」
街灯の光が、車内に差し込んでいる。颯真の目が——こんなに真っ直ぐだったことがあっただろうか。
家の前に着いた。エンジンがアイドリングの低い音を刻んでいる。ヒーターの温風が、もうすぐ途切れる。
「……上がっていきますか? お茶くらいなら」
言ってから、しまったと思った。別に深い意味はない。ないんだけど。
颯真が一瞬、黙った。それから——少し困ったように、ハンドルに視線を落とした。革を握る指が、きゅっと白くなる。
「……選挙期間中に、候補者が有権者の家を訪れるのは、誤解を招く。戸別訪問とみなされかねない」
公職選挙法。ここでもか。
「わかってます。だから、選挙が終わったら——」
口が止まった。
選挙が終わったら? 何。何を言おうとした、私。
沈黙が落ちた。エンジンのアイドリング音だけが、とくん、とくん、と低く響いている。——心臓の音みたいに。
颯真が、ゆっくりと口を開いた。
「……選挙が終わったら、か」
繰り返した。私の言葉を。噛みしめるみたいに、低い声で。
フロントガラスの向こう、街灯がぼんやりと暗い道を照らしている。颯真の指がハンドルの上を滑って、革の縫い目をなぞった。無意識の仕草。何か言いたくて、でも言葉を選んでいる——そういう手つきだった。
「……俺は」
颯真の声が、かすれた。
「選挙が終わっても——」
途切れた。
長い、長い沈黙。
ヒーターの温風が、ふっと弱まった。エンジンの回転数が落ちたのか、車内がほんの少しだけ冷えた。その冷たさが、さっきまでの温もりの輪郭を際立たせた。
颯真が、息を吸った。深く。長く。——そして、吐き出すように。
「……おやすみ」
前を向いたまま。こちらを見ないまま。ハンドルを握る指が白くなっている。
——今、何を言おうとしたの。
聞きたかった。聞けなかった。聞いたら、もう戻れない場所に行ってしまう気がした。
「……おやすみなさい」
ドアを開けた瞬間、車内の温もりが冬の夜気に引き剝がされた。冷たい空気が頬を刺す。ぱたん、とドアが閉まる音。テールランプの赤い光が遠ざかっていくのを、玄関先でしばらく見ていた。コートの襟元に、颯真の車のヒーターの温もりがまだほんの少しだけ残っている。
玄関の鍵を開けて、靴を脱いで、リビングの電気をつけた。いつもの部屋。いつもの静けさ。冷蔵庫のモーター音。
……なんか、胸のあたりがざわざわする。
コートを脱ぎながら、ふと、襟元に顔を寄せた。——あの車の匂い。革のシートと、ヒーターの温風と、かすかな柑橘。まだ残ってる。
……あれ。
私、今、何してるんだろう。コートの匂い嗅いでる。なんで。
(疲れてるんだ。うん。疲れてるだけ。明日も朝早いし、もう寝よう)
洗面台で顔を洗って、ジャージに着替えて、布団にもぐりこんだ。引き出しのオリーブクリームに手を伸ばしかけて——止めた。あの缶は、颯真のデスクにある。
……別のハンドクリーム、買わなきゃ。
天井を見上げた。スタンドライトの丸い光。いつもの風景。なのに、なぜかうまく眠れない。目を閉じると、赤信号で止まった車内の——あの横顔が、ちらついて消えない。
(あれ? 私、今、何考えた?)
ぱっと目を開けた。天井。蛍光灯。何でもない。何も考えてない。寝よう。寝なきゃ。
◇
選挙戦十日目。投票日まで、あと三日。
午前中、正義先生の古くからの支持者を回った。商店街の裏手にある小さな平屋。玄関先に鉢植えの梅が咲いていた。まだ二月なのに、もう白い花がほころんでいる。
「まあまあ、颯真くん! 大きくなって。正義先生にそっくりだねぇ」
村上のおじいちゃんが、杖をつきながら玄関を開けてくれた。奥からおばあちゃんが「ちょっとお父さん、スリッパ!」と声を出す。薄暗い廊下に、正義先生と握手している写真が額に入って飾ってあった。
居間に通された。こたつの上にみかんとお茶。壁に貼られた書道の額。テレビの音。——ここには、時間がゆっくり流れている。
「正義先生が初めてうちに来たのはね、もう二十年以上前だよ」
おじいちゃんがみかんの皮を剥きながら言った。
「あの頃はまだ若くてねぇ。奥さんと二人で、一軒一軒回ってた。奥さんが荷物持ちでね、正義先生が喋って、奥さんが頭を下げて。冬でもね、二人で自転車で来てたんだよ」
おばあちゃんが「あの奥さん、いい人だったねぇ」と頷く。
「二人で来ると、なんかね、安心するのよ。ああ、この人は家庭もちゃんとしてるんだな、って。政策よりも先にね、人柄が伝わるの」
おじいちゃんが颯真と私を交互に見て、にこにこした。
「あんたたちも、なんだかあの頃の正義先生ご夫婦みたいだねぇ」
「——え」
「違います、私たちはそういう——」
「いやいや、似てるよ。ねえお母さん」
「似てる似てる。女の人がしっかりしてて、男の人がちょっと不器用なところがそっくり」
颯真が咳払いをした。顔が——いつもの無表情のはずなのに、耳の先が赤い。もう信号のせいにはできない。ここ、室内だし。
「……帰りましょうか」
「ああ。次がある」
玄関先でおじいちゃんが「頑張りなさい」と言って、颯真の手を両手で握った。おばあちゃんが私の手を握って、小声で言った。
「あの子のこと、よろしくね。不器用な子ほど、そばにいてくれる人が必要なのよ」
——よろしくって。何を。
帰り道、並んで歩いた。二月の午後の日差しが低くて、アスファルトに二人の影が長く伸びている。颯真が言った。
「……親父は、母さんと出会ったのも選挙がきっかけだったらしい」
「そうなんですか」
「後援会の集まりで知り合って、選挙を一緒に戦ってるうちに——まあ、そうなったらしい」
珍しく、声が柔らかい。父親の話をするとき、この人は少しだけ壁を下ろす。
「じゃあ正義先生にとって、選挙は政治だけじゃなかったんですね」
颯真が少し驚いた顔をした。立ち止まって、こちらを見た。
「……そうかもな」
目が合った。二秒。三秒。——長い。長すぎる。なのに逸らせない。
颯真が先に視線を外した。歩き出す。私も歩く。さっきより半歩だけ、距離が近い。
◇
事務所に戻ると、空気が変わっていた。
スタッフの顔が暗い。固定電話が立て続けに鳴っている。田中さんが受話器を置くなり「また問い合わせよ」と疲れた声で言った。
山田さんが駆け寄ってきた。
「先生、新しいデマが出ました。今度はYouTubeです」
パソコンの画面を見せられた。サムネイルに颯真の顔写真が使われている。加工されて、悪意のある表情に切り取られている。タイトルは——
『【暴露】御堂颯真の本性 元部下が語る「パワハラ体質」の全貌』
再生数が六時間で十五万回。コメント欄は地獄だった。
颯真が画面を見つめた。表情が消えている。怒りでもない。悲しみでもない。何もかも諦めたような、空っぽな目。
「……また、か」
「先生、これに対して声明を——」
「出さない」
颯真の声が硬い。
「反論すれば向こうの思うツボだ。炎上に油を注ぐだけだ」
正しい。正しいけど——このまま黙っていたら、デマだけが一人歩きする。支持者が不安になる。票が逃げる。
私は、考えた。
「……颯真さん」
「なんだ」
「反論じゃなくて、ポジティブな発信をしませんか」
颯真が怪訝な顔をした。山田さんも「ポジティブ?」と首を傾げる。
「デマに対して『違います』って言ったら、それ自体がまた切り取られて拡散されるだけです。だから、反論じゃなくて——颯真さんの本当の姿を見てもらうんです。ショート動画で」
「動画?」
「はい。堅い政策動画じゃなくて、街を歩きながら普通に喋ってるところ。商店街のおじちゃんに声かけてるところ。支持者の人と笑ってるところ。——嘘じゃない颯真さんを、そのまま見せるんです」
事務所がしん、と静まった。スタッフたちが顔を見合わせる。
颯真が腕を組んだ。
「……俺は、カメラの前で愛想笑いなんかできない」
「愛想笑いしなくていいです。むしろそのままの不愛想な顔のほうがいい。ギャップが出るから」
「ギャップ?」
「怖い顔してるけど実はちゃんと政策を考えてる、みたいな。ネットの人たちはそういうの好きですよ」
田中さんが「なるほどねぇ」と頷いた。山田さんも「確かに、先生は映える顔だし……」と呟く。
颯真が渋い顔をしている。
「……勝手にしろ」
出た。「勝手にしろ」はこの人の「いいよ」だ。もう学習済み。
◇
翌日——選挙戦十一日目。投票日まで、あと二日。
朝から、スマホを片手に颯真に密着した。
最初の動画は、朝の事務所。颯真がコーヒーを淹れているところ。缶コーヒーじゃなくて、インスタントコーヒーを丁寧にドリップしている。知らなかった、この人、コーヒーにはこだわるんだ。
「何を撮ってる」
「朝のルーティンです。候補者の素顔、的な」
「……くだらない」
不機嫌な顔のまま、コーヒーをすする。湯気の向こうに、切れ長の目。——絵になる。イケメンは何をしても絵になるの、ずるい。
次は商店街での遊説。八百屋のおじちゃんが「颯真くん、大根持ってけ!」と叫ぶ。颯真が「公職選挙法上、受け取れません」と真顔で返す。おじちゃんが「堅ぇなぁ!」と笑う。周りの人たちも笑う。颯真だけが笑ってない。でも口角がほんの少しだけ上がっている。
これだ。この感じ。
「御堂さーん、カメラにピースしてください」
「……しない」
「じゃあサムズアップは?」
「しない」
「じゃあせめて笑ってください」
「……これが普通の顔だ」
横で私がカメラに向かって言う。「普通の顔だそうです。ちなみにこれ、ご機嫌なときの顔です」。スタッフたちが後ろで吹き出している。
夕方、事務所で編集した。といっても、スマホのアプリでテロップを入れるだけ。山田さんが「若い人はすごいねぇ」と感心しているが、やってることは推しCPの布教ツイートに動画つける作業と大して変わらない。オタクのスキルが役に立つ日が来るとは。
三十秒のショート動画を三本。颯真の公式アカウントに投稿した。
『#選挙の裏側 候補者の朝は、インスタントコーヒーから始まる。』
『#街の声 大根は受け取れません(公選法)』
『#御堂颯真 笑ってください→これが普通の顔です。ちなみにご機嫌なときの顔です。』
投稿してから一時間。通知が止まらなくなった。
「え——」
再生数が跳ね上がっていた。大根の動画が一番伸びている。コメント欄が流れていく。
『大根受け取れないの笑う』
『公選法に忠実すぎるwww』
『この候補者、堅いけど好き』
『顔がいいのに全然笑わないの逆に信用できる』
『普通の顔です(イケメン)』
『これが不機嫌じゃなくてご機嫌って嘘でしょwww』
どれも——ポジティブだ。
デマの記事に「やっぱりな」と書いていた人たちとは、全然違う層が反応している。実際の颯真を見て、笑って、好感を持ってくれている。
スマホが震えた。あかねからLINE。
あかね 『みたよ~。大根のやつめっちゃ笑った』
あかね 『ていうかこの候補者顔よすぎない???』
あかね 『あとカメラ回してるの瑞希でしょ。距離近くない??????????』
瑞希 『仕事です』
あかね 『はいはい仕事仕事』
あかね 『推しの布教動画作るのと同じテンションでイケメン候補者の動画作ってる自分のこと、客観的に見てみ?????????????????????????』
瑞希 『…………………………………………』
返す言葉がなかった。
***
【今日の選挙うんちく:SNS選挙の光と影】
2013年の公選法改正でネット選挙が解禁され、候補者はSNSで政策を発信できるようになった。一方で、匿名のデマや切り取り動画も猛威を振るう。対抗策はネガティブへの反論ではなく、ポジティブな「素」の発信——大根を断る候補者の動画が五十万再生されるのも、ネット時代の選挙ならでは。
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https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
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