瞳いっぱいの微笑みを

中富虹輔

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二章 九月

一 カセットテープ

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 それから、週があけて月曜日。クラブで原稿を書いているときだった。
 こんこん
 小さなノックの音。「どうぞ」部長の言葉に、遠慮がちに、部室のドアが開く。「あの、幻文の部室って、ここでしたよね?」ようやく顔がのぞくくらいの隙間から見えたのは、誰あろう香澄さんだった。ぼくはあわてて立ち上がり、派手に椅子をひっくり返してしまった。そのぼくを確認して、「あ、久保くん。よかった」
 彼女は、安堵の息をついた。
「時間、あるかな?」問う香澄さんに、「ありますよ」ぼくはいって、そちらへ向かった。さっきまでにぎやかだった部室が、やけに静まり返っている。視線が皆、ぼくと香澄さんの方へ集中しているのが、いやってほどによくわかった。
 ぼくは廊下にでて、とりあえずドアを、ぴしゃん、と、閉める。
「……迷惑だったかな?」
 ぼくは強く首を横にふった。「とんでもない」
「よかった」いった香澄さんは、ポケットから、カセットテープを取り出す。「これは?」
 問うぼくに、「私が中学生の時に、ジュニアのコンクールにでたときの演奏。今の演奏は、テープにとったのがないから、これで勘弁して」
 それを手渡されても、ぼくはまだ、それがどういう理由でぼくの手の中に入ったのかを、思い出すことができなかった。「じゃ、それだけだから」いってかけていく香澄さんの後ろ姿を見ながら、ぼくは、先週、「香澄さんの演奏を聞いてみたい」といったことを、ようやく思い出していた。
 ……うわぁ。なんだか……てれる。あんな冗談半分の言葉をまにうけて、わざわざテープを持ってきてくれるなんて。わずかに頬が火照るのを意識しながら、ぼくは部室に入った。
 ぼくを見る皆の視線に気づくのに、そう時間はかからなかった。
「……きれいな人だねぇ、久保くん」
 ははは……ぼくはひきつった笑いを返した。「……そんな人じゃ、ないですよ」ぼくはごまかすようにいった。まあ、実際そんな人じゃないのだから、ごまかすどころか、本当のことなのだけれども。
「さっきの人、知ってるぅ」
 いったのは、阿賀野先輩だった。「誰だ、阿賀野?」皆の視線が、今度は阿賀野先輩に集中する。「去年の文化祭に、軽音部のミニライブで、キーボード弾いてた。確か、今年三年生だよ」
 ざわめく面々。……こいつら、絶対に妙な方に解釈してるな。もう、皆が何を考えているのか、だいたいの見当はつく。
 うんうんと、したり顔で、部長がぼくの肩を叩いた。「望みは薄いけど、がんばるんだぞ」
「だから、香澄さんはそういう人じゃないんですってば!」
 力説もむなしい。
 ひゅうひゅう! 冷やかしか、それともからかいか。だれかが口笛を吹いた。「『香澄さん』だって。せーしゅんだねえ」いちいち大げさなリアクションを返してくるみんなに、ぼくは頭を抱えた。……しばらくは、みんなのおもちゃになることを覚悟しないとだめだな……ぼくは大きくため息をついた。

「どうしたの、久保くん。ため息なんてついて」
 ……「バスの時間が」なんて苦しい言い訳でその場から逃げ出したぼくは、偶然にも玄関で香澄さんとはちあわせた。ぼくは、つい、ため息をついてしまっていた。
「ちょっと、クラブでごたごたがあって……」
「ふうん。大変なんだね」香澄さんはうなずいた。「香澄さんも、大変ですよね。補習、毎日なんでしょう?」
 香澄さんは、明るく、うなずいた。
「うん。でも、平気。自分のやりたいこと、見えたから。やりたいことがあるから、行きたいところにいくために、努力するの」
「がんばってくださいね」
 なにげなしにいったぼくの言葉に、香澄さんは小さく微笑して、
「……そういえば、久保くん、知ってる? 『がんばって』って言葉、いちばん無責任なんだよね」
「え?」言葉を返して、ああ、そうか、と、思い当たる。確かに、この言葉ほど、無責任な言葉はないだろう。
 どんなことでも、「がんばって」の一言ですませてしまえるのだ。自分が、その立場にないからこそいえる言葉。
 ……でも、だからこそ、ぼくらは「がんばって」としかいえないのかも知れない。無責任な言葉だけれども、ぼくらには、それ以外に、はげましの言葉をいうことはできないのだから。何よりも無責任で、そして、何よりも、すべての気持ちを代弁するもの。それがたぶん、「がんばって」の一言なんじゃないだろうか。
「……そう、ですね」
 ぼくは、香澄さんの言葉にうなずいた。「でも……やっぱり、『がんばって』しか、いえないですから」
 ぼくはいった。「わかってる」香澄さんはうなずき、「私も、がんばらなきゃね」小さく笑って、一人うなずく。
 しばしの沈黙。
 ……弱った。こんなときって、どんなことを話せばいいんだろう。話上手でない自分が、なんだか情けなかった。
「ね、さっきのテープ、聞いてみた?」香澄さんが口を開いた。ぼくは首を横にふる。「ヘッドフォンステレオとか、持ってきていないんです」応えて、香澄さんがわずかに安堵の息をもらすのを確認する。
「人に聞かせられるようなものじゃないんだけどね。下手だから」
「それなら、無理に貸してもらわなくても……」
 香澄さんは、首を横にふった。「ううん。久保くんにいわれたから、じゃなくて、聞いてもらいたいの。そうしたら、また、弾けそうな気がするから」
 香澄さんの言葉に、なんだかぼくは照れくさくなって、顔を少しばかりそむけた。それには気づかないように、香澄さんは言葉を続ける。
「妖精とか、魔法とか、小さいころの、心の中のおもちゃ箱の中にしまったものを、今でも取り出せるっていうのは……なんていうのかな……大切なこと、だと思うよ、私は。だからさ、久保くん、今の久保くんを、大事にした方が、いいんじゃないかな」
 驚いてぼくは、香澄さんの顔を見た。香澄さんはこちらを向いてはおらず、けれども照れのせいだろうか、その頬がわずかに赤くなっていることに気づき、ぼくは知らず、どぎまぎしてしまった。「……なんて、まだ、私がそんなことをいえる歳でもないんだけどね」ふふ、と、香澄さんは照れたように笑った。
 ぼくは、その香澄さんの笑顔を、じっと見つめていた。なんて、きれいなんだろう。柔らかくて、暖かくて。ぼくはうっとりとため息をつき、香澄さんがこちらに向くのを感じて、あわてて視線を反らした。
「ね、久保くん。時間、あるかな?」
 問われて、ぼくは反射的に腕時計に目をやった。「バスの時間が」とクラブの連中にはいったけれども、本当は時間はありあまっていた。そのことは十分承知していたけれども、とにかく時間を確認するだけして、
「ありますよ」ぼくは応えた。
「本、読んでみたいんだ。どんなのがいいか、一緒に選んでもらえるかな?」
「お安いご用で」ぼくは簡単に受け合った。
 そのままくるりと百八十度向きを変え、ぼくらは駅前の商店街へと向かった。駅前の、行きつけの本屋にはいって、ぼくと香澄さんは、のんびりと、本屋の中を歩いて回った。
「香澄さん、どんな本、読んでみたいんですか?」
「……あ、なんでもいいんだ。久保くんが選んでくれたのなら、読むよ」
 ……そんなことをいわれても……何がいいんだろう? そんなことを思いながら、目はぐるりと本棚を一周し、
「ま、初心者コースですね」
 ぼくは一冊の文庫を手にとった。表紙に猫が描かれている、有名な古典SF。「読んだこと、ありますか、これ?」問うてみて、香澄さんが首を横にふるのを確認する。「じゃ、これにしましょう」はい、と、ぼくはその本を手渡した。「むずかしくないかな?」問う香澄さんに、「大丈夫だと思いますよ」ぼくは受け合った。香澄さんはうなずいて、その本をレジへ持っていく。
「このあいだ読み終えたばかりなんですけどね。結構、いいですよ、それ」
 ぼくは、不安げにその包みを見る香澄さんにいった。「気長に読めば、大丈夫ですよ」うん、と、うなずく香澄さん。ぼくはまた、新しい本が入っているのを確認してそれを買った。
 本屋をでて、道を歩きながら、
「なんだか、わくわくするわね。こういうのって」
「……何が、ですか?」
 ぼくは問うて、「その、この本。自分の知らないものがありそうな気がして。なんだか、わくわくする」ぼくはうなずいた。「わかりますよ、その気持ち。ページをめくるまで、それをするのがもったいなくなるんですよね」
 へぇ。好奇心旺盛な顔で、香澄さんはうなずいた。
 そんなふうに、目を輝かせている香澄さんは、さっきの笑顔とは別の意味できれいだった。
 さっきと同じ道をふたたび歩くぼくと香澄さん。今度は、香澄さんは、大事そうに、本屋の袋を抱えている。ぼくが、同じ感動を覚えたのは、いつだっただろう。
 もともと、両親が本が好きだったというのもあるだろう。幼心に、母さんが寝る前に読んでくれた分厚い昔話の本があったという記憶が残っている。その本は長い間の「使用」に耐えきれず、ぼくが小学校に上がる前に、ぼろぼろになってしまったけれど。
 はじめて買ってもらった本は、たしか、十五少年漂流記だったと思う。夜遅くまで、夢中になって読んだ覚えがある。あの本は、何度も何度も読み返した。
 ……いろいろな本を読んだ。「宇宙戦争」や「海底二万里」。中学生のころには、たしかかなり分厚い「妖精物語全集」なんて本をクリスマスにもらって、二ヶ月もかかってその本を読破したこともあった。……ぼくがそういう話が好きになったのは、多分に、その本の影響があるだろう。
 ぼくは香澄さんとわかれ、そして、バスに乗り込んだ。
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