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二章 九月
二 メロディ
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待ちきれなくなって、ぼくはバス停を降りると同時に駆け出していた。ぜいぜいと荒い息をつきながら家にかけ込み、コップ一杯の水を飲み干すのももどかしく、二階の、自分の部屋へとかけあがる。カバンからテープをとりだし、CDラジカセにテープをいれて、そしてぼくは演奏ボタンを押そうとして、その手をとめた。
香澄さんの音を、外に漏らすのがもったいなかったのだ。
立ち上がって、大学生の兄の部屋にはいる。
珍しく、兄さんは部屋にいた。「なんだ、長路?」問う兄さんに、
「あ、ヘッドフォン、貸して」ぼくはいった。「おう。そこに転がってるから、勝手に持ってきな」
「さんきゅ」応えて、コンポのわきに、無造作に転がっているヘッドフォンを拝借する。それを持って、ぼくは部屋へと戻った。ヘッドフォンをCDラジカセにつなぎ、ぼくはそれを耳に当てた。
指を、演奏ボタンの上にあげる。
緊張の一瞬。
ぐっ、と、ぼくは演奏ボタンを押し込んだ。テープが回りはじめ、そしてカセットテープに特有の、ノイズが耳にはいってくる。
「次は、××中学校、鈴木香澄さんです。曲は、『光の駅』です」
女の人のアナウンスのあと。
ぱちぱちぱち。
雨のような音の拍手。その情景が、まるで目に浮かぶようだった。アナウンス。そして、袖からあらわれる香澄さん。香澄さんは、ゆっくりと楽器の前に座り……
拍手がなりやみ、そしてわずかな間。こういう時のぴりぴりした、独特な空気というのは、ぼくは好きだった。
数秒のぴりぴりした沈黙の後、演奏が始まった。ピアノの調べが流れ出す。
力強く、それでいて寂しげなメロディが、ぼくの耳をうつ。幾度かのリフレインのあと、主旋律が入ってくる。とても切なくて、そして暖かいメロディ。
ああ……
なんて、……なんてきれいなんだろう。
久しぶりに……本当に久しぶりに、こんなきれいなものにあえたような気がする。その、どこかうらがなしいメロディが、ぼくの耳にこびりつく。
ぼくは目頭が熱くなってくるのを押さえることができなかった。うっとりとため息をつき、演奏の終わったテープをとめ、巻き戻し、そして同じ曲を、もう一度聞く。
ぼくはそうやって、飽きることなく何度も何度も、その曲を聞いていた。
翌日の放課後。
ぼくはいつものように、図書室にいた。はじめて完訳版を読む「ガリバー」に、ぼくはすっかり夢中になっていた。
話に一段落がつき、ぼくは本から顔をあげ、そしてぐっ、っと伸びをしようとして、「久保くん」後ろからの声に、驚いてそちらを見た。「あ、香澄さん」言葉を返して、ふと思い出す。
「あ、テープ、持ってくるの忘れちゃって……」
香澄さんは、ゆっくりと首を横にふった。「あ、あれ、ダビングとったやつだから、久保くんにあげる」微笑んで、香澄さんは、「ここ、あいてる?」ぼくに問うた。
ぼくはうなずきを返し、そして彼女はぼくの横に座った。歴史の資料集らしきものをわきにおいて、ノートを開く。
「大変ですね、受験生も」
ぼくの言葉に、「しかたないよ」小さく微笑んで応える香澄さん。ぼくは何をするのも忘れ、ノートに向かっている香澄さんの横顔を、眺めていた。
あうたび……見るたびに思うことだけれども、やはり、きれいな人だ。落ちついた、静かな物腰。時折見せる、無邪気な笑顔。こんなきれいな人は、そうざらにいないだろう。ぼくはうっとりと香澄さんの顔を眺め続け、そしてようやく、香澄さんが不思議そうな表情で、ぼくを見ているのに気づいた。
「どうしたの? 私の顔に、何かついてる?」
いけね。ぼくは真っ赤になって、
「……いや、そういうことじゃないんですよ。ただ、その……」
そこまでいって、なんといえばいいのか途方に暮れる。「ただ?」
先をうながす香澄さんに、ついぼくはたまらなくなって、本当のことをいった。
「その、きれいだな、って、思って」
「あ、そうかな?」香澄さんは、小さく微笑んだ。……その顔が、いちばんきれいなんだ。ぼくは思わずにはいられなかった。「ありがと」香澄さんはいって、そしてまた、ノートに向き直った。今度こそぼくは本に目を向け、そして時間は流れていった。
ぼくはそのまま本に没頭していたけれども、やがて「閉館でーす」という声に、ゆっくりと顔をあげた。残念。もう少しで、きりのいいところまで行けたのに。思いながら、ぼくは本を閉じて、そして立ち上がった。隣の香澄さんも、ノートをたたみ、山と積まれた資料を抱えている。ぼくは「ガリバー」をあったところに戻して、香澄さんの姿をさがし、そして彼女が、高い棚に本を戻そうと悪戦苦闘しているのを目にとめた。ぼくはその本を横から受け取り、そしてその棚にいれた。
「あ、ごめんなさい」香澄さんはいって、「いえ、大したことじゃないですから」ぼくは応えた。
「やっぱり、背、低いと、損ね」小さくつぶやく香澄さん。「でも、高けりゃいいってものでもないと思いますよ」ぼくはそれに応えるようにいった。「そうかな? 私、背の高い人って、あこがれるけどな」香澄さんはいって、ふうん、と、ぼくはうなずいた。
ぼくらは一緒に図書室をでた。
「ね、テープ、聞いた?」問う香澄さんに、「はい」ぼくはうなずいた。
「すごくすてきで……その、感動しました。久しぶりに」
はは。香澄さんは照れくさそうに笑った。「結局、あれは賞がとれなくてね。それで、いやになってやめちゃったんだ。練習すれば伸びるから、もっと続ければ、っていわれたんだけど……」遠い過去をなつかしむように、香澄さんはいった。
ぼくらは、玄関をでた。
「……昨日の本ね、読みはじめたよ。まだ、いくらも読んでいないからわからないけど、……なんだか、先が楽しみになった」
目を輝かせて話す香澄さんはやっぱり、きれいだった。
……でも、未だに信じられない。こんなすてきな人に、つきあっている人がいないだなんて。ぼくにもう少し行動力と勇気があれば、こんな人ならすぐにでも自分のものにしたくなってしまうだろう。ぼくはあらためて実感した。
「香澄さん、今まで、男の人とつきあったこととか、あるんですか?」
自分でも知らぬうちに問うてしまい、ぼくはそんなことをいえた自分に、驚いていた。いつもなら、そんなことなど、口にすることなどないというのに。
「気になる?」
香澄さんは、いたずらっぽく、問うた。「……気になる、っていうか、香澄さんみたいな人なら、そういう人がいたって、おかしくないんじゃないかな、って思って」ぼくはへどもどしながら応えた。
香澄さんは小さく笑って、
「……何人か、つきあってくれ、って、いった人はいたけどね。そういうのって、苦手なのよね、私。みんな、断ってる」
……それじゃあ、ぼくが今、そういうことをいっても……無理なのはわかっている。二歳も離れているんだから。二年間の差。小さいようで、意外と大きい。ぼくは、その七百何日かの隔たりが、恨めしく思えていた。
突然、
「久保くんはどうなの?」
問われ、ぼくは驚いた。とりあえず心を落ちつけ、「……ぼくなんか、だめですよ」つぶやくように応える。
「どうして?」香澄さんは問い、ぼくは、
「その、ぼく、どっちかっていうと、苦手なんですよ。女の子と話すとか、そういうこと。わりと、人づいあいもへたなほうだし、口べただし」
「私とは、けっこう話せるじゃない?」香澄さんは問いかけるようにいって、そして、
「いつも久保くんといる子、……久我さん、だっけ? あの子なんか、結構いい線いってるんじゃないの?」多少からかうような口調で問うた。ぼくは首を横にふった。
久我とは、小学校のころからのつきあいだった。ぼくと久我がいたのは、もともと小さい町で、中学校も一つしかなく、小学校にいたっては、一学年一クラスという規模だったのだ。
つきあいが長いだけに、どちらかというと、久我はそういう対象ではなく、気のあった友達か、そんな感じにしか受け取ることはできない。
ぼくはそういうと、香澄さんはうなずいた。「じゃあ、久保くんからみたあの子は、『恋愛対象外』なわけだ」
ぼくはうなずいた。一時はそれっぽい感情を彼女に抱いたこともあったけれども、結局はそれはうやむやのうちに消えてしまっていたし、何より、彼女がぼくを「対象外」だと公言しているというのが、その最大の理由だった。
……つきあっていた人はいない、か。……それなら、あの雨の日の彼女の涙は、いったいどういうわけだったのだろう。本人が目の前にいるのだから、聞いてみればいいのだろうけれども、そんなことを聞くほどの勇気は、ぼくは持ち合わせていなかった。
あの、雨の日。彼女に傘をさしだしたあの瞬間。
一時は記憶からぬけ落ちかかっていたそれは、しかし今では鮮明に、思い出すことができる。濡れそぼった髪と、肌にまとわりつくシャツとスカート。そしてぼくは傘を差し出して……
見間違えたはずはない。こんな印象深い人、一目見れば忘れられるものではないのだ。彼女はその様子をおくびにもださないから、ぼくも何もいわないでいるけれども、気になって仕方がなかった。聞けるものなら、聞いてみたかった。
『あの雨の日、覚えていますか?』
彼女は、なんと応えるのだろう? もう、忘れてしまっているのだろうか? それとも、覚えていて、そして……覚えていれば、なんと応えるのだろう? ぼくはため息をつきたくなり、あわててそれを飲み込んだ。
と。
ぽつり。
冷たいものが、ぼくの頬に当たった。なんだ? なにげなしに空を見上げ、そして空が、分厚い雲におおわれているのを、ぼくはようやく知った。ぽつり。今度はてのひらに、冷たいものが落ちる。
「あ、ふってきた……」
ぼくはつぶやくようにいって、そして「え?」と、香澄さんは空を見上げ、「きゃぁっ」悲鳴をあげた。「どうしたんですか?」あわてて問うたぼくに、「大丈夫、目に雨が入っただけだから……」応えて、そしてまた、ぽつり。今度はぼくのカバンに黒いしみをつくる。
ぽつぽつとふる雨が本ぶりになるのに、そう時間はかからなかった。
「うわあああ!」
たまらず、ぼくも香澄さんも悲鳴をあげて走り出したけれども、雨宿りができる場所にたどりついたときには、二人とも、濡れネズミもいいところだった。
「やーん、もう、ぐしょぐしょぉ」
悲鳴をあげる香澄さん。そちらにちらりと目をやって、ぼくはあわてて目を逸らした。
似すぎていたのだ。あのときの、香澄さんに。あのときほどに濡れているわけではなかったけれども、しかし、雨にうたれ、濡れそぼった香澄さんは、あのときの彼女を思い出させるのに十分すぎるくらいだった。息がつまり、ものがいえなくなる。ぼくは口元に手を当て、こぼれそうになるため息を必死に殺していた。
「どうしたの?」
心配そうに問う香澄さんに、「なんでも……ないです」ぼくはどうにか応え、そして香澄さんは、まだ心配そうに「そう」と、うなずいた。ぼくは時計に目をやって、舌打ちする。
「弱ったなぁ。じきに、バスがきちゃうぞ」
わざと香澄さんに聞こえるようにつぶやく。「乗り継ぎが、あるものね、久保くん」ぼくはうなずきを返した。
「弱ったなぁ」もう一度つぶやき、空を見る。
「……しかたない。じゃ、ぼく、走ります」ぼくはいって、そして香澄さんはうなずいた。「うん。気をつけてね。風邪、ひかないように、帰ったら身体を暖めてね」心配そうにいろいろといってくれ、はは、と、ぼくは苦笑を返した。「じゃ、さよなら」いうと同時に、駆け出す。
……本当は、時間はないわけではなかった。けれども、そうでもして香澄さんから離れないと、きっとぼくは、とんでもないことを口にしていたような気が、したのだ。
香澄さんの音を、外に漏らすのがもったいなかったのだ。
立ち上がって、大学生の兄の部屋にはいる。
珍しく、兄さんは部屋にいた。「なんだ、長路?」問う兄さんに、
「あ、ヘッドフォン、貸して」ぼくはいった。「おう。そこに転がってるから、勝手に持ってきな」
「さんきゅ」応えて、コンポのわきに、無造作に転がっているヘッドフォンを拝借する。それを持って、ぼくは部屋へと戻った。ヘッドフォンをCDラジカセにつなぎ、ぼくはそれを耳に当てた。
指を、演奏ボタンの上にあげる。
緊張の一瞬。
ぐっ、と、ぼくは演奏ボタンを押し込んだ。テープが回りはじめ、そしてカセットテープに特有の、ノイズが耳にはいってくる。
「次は、××中学校、鈴木香澄さんです。曲は、『光の駅』です」
女の人のアナウンスのあと。
ぱちぱちぱち。
雨のような音の拍手。その情景が、まるで目に浮かぶようだった。アナウンス。そして、袖からあらわれる香澄さん。香澄さんは、ゆっくりと楽器の前に座り……
拍手がなりやみ、そしてわずかな間。こういう時のぴりぴりした、独特な空気というのは、ぼくは好きだった。
数秒のぴりぴりした沈黙の後、演奏が始まった。ピアノの調べが流れ出す。
力強く、それでいて寂しげなメロディが、ぼくの耳をうつ。幾度かのリフレインのあと、主旋律が入ってくる。とても切なくて、そして暖かいメロディ。
ああ……
なんて、……なんてきれいなんだろう。
久しぶりに……本当に久しぶりに、こんなきれいなものにあえたような気がする。その、どこかうらがなしいメロディが、ぼくの耳にこびりつく。
ぼくは目頭が熱くなってくるのを押さえることができなかった。うっとりとため息をつき、演奏の終わったテープをとめ、巻き戻し、そして同じ曲を、もう一度聞く。
ぼくはそうやって、飽きることなく何度も何度も、その曲を聞いていた。
翌日の放課後。
ぼくはいつものように、図書室にいた。はじめて完訳版を読む「ガリバー」に、ぼくはすっかり夢中になっていた。
話に一段落がつき、ぼくは本から顔をあげ、そしてぐっ、っと伸びをしようとして、「久保くん」後ろからの声に、驚いてそちらを見た。「あ、香澄さん」言葉を返して、ふと思い出す。
「あ、テープ、持ってくるの忘れちゃって……」
香澄さんは、ゆっくりと首を横にふった。「あ、あれ、ダビングとったやつだから、久保くんにあげる」微笑んで、香澄さんは、「ここ、あいてる?」ぼくに問うた。
ぼくはうなずきを返し、そして彼女はぼくの横に座った。歴史の資料集らしきものをわきにおいて、ノートを開く。
「大変ですね、受験生も」
ぼくの言葉に、「しかたないよ」小さく微笑んで応える香澄さん。ぼくは何をするのも忘れ、ノートに向かっている香澄さんの横顔を、眺めていた。
あうたび……見るたびに思うことだけれども、やはり、きれいな人だ。落ちついた、静かな物腰。時折見せる、無邪気な笑顔。こんなきれいな人は、そうざらにいないだろう。ぼくはうっとりと香澄さんの顔を眺め続け、そしてようやく、香澄さんが不思議そうな表情で、ぼくを見ているのに気づいた。
「どうしたの? 私の顔に、何かついてる?」
いけね。ぼくは真っ赤になって、
「……いや、そういうことじゃないんですよ。ただ、その……」
そこまでいって、なんといえばいいのか途方に暮れる。「ただ?」
先をうながす香澄さんに、ついぼくはたまらなくなって、本当のことをいった。
「その、きれいだな、って、思って」
「あ、そうかな?」香澄さんは、小さく微笑んだ。……その顔が、いちばんきれいなんだ。ぼくは思わずにはいられなかった。「ありがと」香澄さんはいって、そしてまた、ノートに向き直った。今度こそぼくは本に目を向け、そして時間は流れていった。
ぼくはそのまま本に没頭していたけれども、やがて「閉館でーす」という声に、ゆっくりと顔をあげた。残念。もう少しで、きりのいいところまで行けたのに。思いながら、ぼくは本を閉じて、そして立ち上がった。隣の香澄さんも、ノートをたたみ、山と積まれた資料を抱えている。ぼくは「ガリバー」をあったところに戻して、香澄さんの姿をさがし、そして彼女が、高い棚に本を戻そうと悪戦苦闘しているのを目にとめた。ぼくはその本を横から受け取り、そしてその棚にいれた。
「あ、ごめんなさい」香澄さんはいって、「いえ、大したことじゃないですから」ぼくは応えた。
「やっぱり、背、低いと、損ね」小さくつぶやく香澄さん。「でも、高けりゃいいってものでもないと思いますよ」ぼくはそれに応えるようにいった。「そうかな? 私、背の高い人って、あこがれるけどな」香澄さんはいって、ふうん、と、ぼくはうなずいた。
ぼくらは一緒に図書室をでた。
「ね、テープ、聞いた?」問う香澄さんに、「はい」ぼくはうなずいた。
「すごくすてきで……その、感動しました。久しぶりに」
はは。香澄さんは照れくさそうに笑った。「結局、あれは賞がとれなくてね。それで、いやになってやめちゃったんだ。練習すれば伸びるから、もっと続ければ、っていわれたんだけど……」遠い過去をなつかしむように、香澄さんはいった。
ぼくらは、玄関をでた。
「……昨日の本ね、読みはじめたよ。まだ、いくらも読んでいないからわからないけど、……なんだか、先が楽しみになった」
目を輝かせて話す香澄さんはやっぱり、きれいだった。
……でも、未だに信じられない。こんなすてきな人に、つきあっている人がいないだなんて。ぼくにもう少し行動力と勇気があれば、こんな人ならすぐにでも自分のものにしたくなってしまうだろう。ぼくはあらためて実感した。
「香澄さん、今まで、男の人とつきあったこととか、あるんですか?」
自分でも知らぬうちに問うてしまい、ぼくはそんなことをいえた自分に、驚いていた。いつもなら、そんなことなど、口にすることなどないというのに。
「気になる?」
香澄さんは、いたずらっぽく、問うた。「……気になる、っていうか、香澄さんみたいな人なら、そういう人がいたって、おかしくないんじゃないかな、って思って」ぼくはへどもどしながら応えた。
香澄さんは小さく笑って、
「……何人か、つきあってくれ、って、いった人はいたけどね。そういうのって、苦手なのよね、私。みんな、断ってる」
……それじゃあ、ぼくが今、そういうことをいっても……無理なのはわかっている。二歳も離れているんだから。二年間の差。小さいようで、意外と大きい。ぼくは、その七百何日かの隔たりが、恨めしく思えていた。
突然、
「久保くんはどうなの?」
問われ、ぼくは驚いた。とりあえず心を落ちつけ、「……ぼくなんか、だめですよ」つぶやくように応える。
「どうして?」香澄さんは問い、ぼくは、
「その、ぼく、どっちかっていうと、苦手なんですよ。女の子と話すとか、そういうこと。わりと、人づいあいもへたなほうだし、口べただし」
「私とは、けっこう話せるじゃない?」香澄さんは問いかけるようにいって、そして、
「いつも久保くんといる子、……久我さん、だっけ? あの子なんか、結構いい線いってるんじゃないの?」多少からかうような口調で問うた。ぼくは首を横にふった。
久我とは、小学校のころからのつきあいだった。ぼくと久我がいたのは、もともと小さい町で、中学校も一つしかなく、小学校にいたっては、一学年一クラスという規模だったのだ。
つきあいが長いだけに、どちらかというと、久我はそういう対象ではなく、気のあった友達か、そんな感じにしか受け取ることはできない。
ぼくはそういうと、香澄さんはうなずいた。「じゃあ、久保くんからみたあの子は、『恋愛対象外』なわけだ」
ぼくはうなずいた。一時はそれっぽい感情を彼女に抱いたこともあったけれども、結局はそれはうやむやのうちに消えてしまっていたし、何より、彼女がぼくを「対象外」だと公言しているというのが、その最大の理由だった。
……つきあっていた人はいない、か。……それなら、あの雨の日の彼女の涙は、いったいどういうわけだったのだろう。本人が目の前にいるのだから、聞いてみればいいのだろうけれども、そんなことを聞くほどの勇気は、ぼくは持ち合わせていなかった。
あの、雨の日。彼女に傘をさしだしたあの瞬間。
一時は記憶からぬけ落ちかかっていたそれは、しかし今では鮮明に、思い出すことができる。濡れそぼった髪と、肌にまとわりつくシャツとスカート。そしてぼくは傘を差し出して……
見間違えたはずはない。こんな印象深い人、一目見れば忘れられるものではないのだ。彼女はその様子をおくびにもださないから、ぼくも何もいわないでいるけれども、気になって仕方がなかった。聞けるものなら、聞いてみたかった。
『あの雨の日、覚えていますか?』
彼女は、なんと応えるのだろう? もう、忘れてしまっているのだろうか? それとも、覚えていて、そして……覚えていれば、なんと応えるのだろう? ぼくはため息をつきたくなり、あわててそれを飲み込んだ。
と。
ぽつり。
冷たいものが、ぼくの頬に当たった。なんだ? なにげなしに空を見上げ、そして空が、分厚い雲におおわれているのを、ぼくはようやく知った。ぽつり。今度はてのひらに、冷たいものが落ちる。
「あ、ふってきた……」
ぼくはつぶやくようにいって、そして「え?」と、香澄さんは空を見上げ、「きゃぁっ」悲鳴をあげた。「どうしたんですか?」あわてて問うたぼくに、「大丈夫、目に雨が入っただけだから……」応えて、そしてまた、ぽつり。今度はぼくのカバンに黒いしみをつくる。
ぽつぽつとふる雨が本ぶりになるのに、そう時間はかからなかった。
「うわあああ!」
たまらず、ぼくも香澄さんも悲鳴をあげて走り出したけれども、雨宿りができる場所にたどりついたときには、二人とも、濡れネズミもいいところだった。
「やーん、もう、ぐしょぐしょぉ」
悲鳴をあげる香澄さん。そちらにちらりと目をやって、ぼくはあわてて目を逸らした。
似すぎていたのだ。あのときの、香澄さんに。あのときほどに濡れているわけではなかったけれども、しかし、雨にうたれ、濡れそぼった香澄さんは、あのときの彼女を思い出させるのに十分すぎるくらいだった。息がつまり、ものがいえなくなる。ぼくは口元に手を当て、こぼれそうになるため息を必死に殺していた。
「どうしたの?」
心配そうに問う香澄さんに、「なんでも……ないです」ぼくはどうにか応え、そして香澄さんは、まだ心配そうに「そう」と、うなずいた。ぼくは時計に目をやって、舌打ちする。
「弱ったなぁ。じきに、バスがきちゃうぞ」
わざと香澄さんに聞こえるようにつぶやく。「乗り継ぎが、あるものね、久保くん」ぼくはうなずきを返した。
「弱ったなぁ」もう一度つぶやき、空を見る。
「……しかたない。じゃ、ぼく、走ります」ぼくはいって、そして香澄さんはうなずいた。「うん。気をつけてね。風邪、ひかないように、帰ったら身体を暖めてね」心配そうにいろいろといってくれ、はは、と、ぼくは苦笑を返した。「じゃ、さよなら」いうと同時に、駆け出す。
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