瞳いっぱいの微笑みを

中富虹輔

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三章 九月~十月

一 幻文だより

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「久保くん」
 後ろからかけられた声に振り返ると、香澄さんが立っていた。
「『幻文だより』読んだよ。結構、文章上手じゃない」
 ぼくは照れ笑いを返した。「読んだんですか、あれ? やだなぁ。読んでほしくなかったのに……」
「恥ずかしがらないでもいいわよ。結構おもしろかったから」
「そうですか?」ぼくは応えた。あー、もう。恥ずかしいったら。香澄さんが読むのなら、もっとまじめに書けばよかった。
 放課後の、図書館でのことだった。今日は朝から雨がふっていて、一日中だらけた空気が、あちこちでただよっていた。ぼくは、まだ雨がふり続いている外を見た。つられるように、香澄さんが外を見るのが、気配でわかる。
 雨、か……
 あの日以来、どうも雨は苦手になっていた。思い出してしまうのだ。雨にうたれる香澄さんを。
 今、あのことを問うてみたら、香澄さんはなんと応えるのだろう? ……何度、同じことを思ったことだろう? ぼくは、胸の中で小さくため息をついていた。
 隣で、香澄さんのため息が聞こえる。ぼくは、そちらに目を向けた。
「いやね、雨って」
「そう……ですね」ぼくは小さくうなずいた。「……なんだか香澄さん、雨にいやな思い出でも、あるみたいですね……」
 気づかないうちに、ぼくは問うていた。
 一瞬の沈黙。
 ……香澄さんは、なんと応えるだろう? いくらかの好奇心とともに思い、そして。
「……そんなふうに、見えるかな?」
 逆に香澄さんに問い返される格好になり、「あ、いや、別に……。なんとなく、そんなふうに思ったんです」ぼくはあわてて応えた。香澄さんはため息をついて、「別に、そんなことはないんだけどね」微笑みながらいった。
 ぼくは返す言葉もなく、黙ったまま、香澄さんの方に向いていた目を、外に向けた。窓ガラスに、香澄さんの顔が写っている。
 夏の雨の日のことを、覚えていないんですか? 問いたくなって、ぼくはぐっと息を飲んだ。あの日の当事者同士が、まるでそんなことなどなかったかのような言葉を交わすその不自然さに、ぼくはわずかな憤りを感じていた。
 ものの、何分でもなかったろう。そのわずかな時間が、ぼくは頭にこびりついて離れることがないというのに。香澄さんは、そのことを、忘れ去ってしまっているのだろうか?
 だとしたら、あの一瞬を大事にとっておいているぼくが、なんだかただのばかみたいに思えてくる。
「……久保くん、今日は、傘、持ってきてるよね?」
 不意に問われ、ぼくは「はぁ?」と、間抜けな声を返し、香澄さんに目を向けた。あわてた様子で香澄さんは、「ううん。別に、大した意味はないのよ」いったけれども、ぼくはその言葉の裏に、何か別のものがあるような気がしていた。……ぼくの、かんぐりすぎだろうか?
 ぼくは目を、読みかけの本に戻した。
 しばらくの間、香澄さんは所在なげにそこに立っていたけれども、やがて、図書室をでていった。彼女が、何かもの問いたげだったのは、ぼくの、勘違いだろう。
 図書室の扉を、香澄さんが閉じると同時に、今度は久我があらわれた。
「久保くん」
 まったく同じように声をかけてくる彼女。「久我。いたのか」ぼくはいって、そして久我はうなずいた。「帰宅部は、ヒマだから」久我は応えて、そしてぼくの横の椅子に、腰掛けた。
 あれから、彼女は別段何の変化もないように見えた。ぼくを名前で呼んだのも、あれきりだったし、あの日のように、バスの中で眠りこけるようなことも、していない。ちらりと、隣で赤川次郎を読んでいる久我に、目を向ける。
 あの日以来、彼女は別段何もいってこないし、また、彼女の態度がいたっていつもと変わらないので、ぼくもそれにつきあって変わりなく日々をすごしてはいたけれど、何かが、引っかかるのは確かだった。
 その理由を問うことができないでいるのは、たぶん、ぼくの心の弱さ、なのだろう。ぼくは小さくため息をつくと、目を自分の持っている本の上に落とし、そしてその字面を追った。
 やがて、図書委員が閉館を告げた。ぼくは立ち上がって、本を戻すと、荷物をかかえて、図書室をでていった。いつもなら、ぼくのところにきて、「一緒に帰ろう」などといってくるはずの久我だったけれども、今日に限って、彼女の姿はなくなっていた。
 あれ、珍しいな。そんなことを思いながら、ぼくは歩きはじめた。
 一人廊下を歩きながら、腕時計を見て、時間を確かめる。バスまではまだ余裕がある。憂鬱な雨の日くらい、何かおもしろい本でも読んで時間をすごそう。そう決めて、学校から出ると、駅前の大きな本屋に向かって歩きはじめた。
 秋になると、突然思いだしたかのように道路工事が始まるのは、どこでも同じのようだ。
 片側交互通行のためにずらりと並んだ車の列を横目に見ながら、ぼくは歩いていた。車と車の間に時折、雨ガッパを着込んだバイクがまじっている。あの連中も大変だ、そんなことを思いながら、ぼくは本屋への道を急いだ。
 傘をたたんで、本屋にはいる。店の中は適度な温度で、ぼくはほっと息をつき、とりあえず文庫のコーナーへと向かった。さすがに、高校生の財力では、新書やハードカバーは、なかなか手が出ない。ぐるりと、出版社別にわけられた棚を一周して、その蔵書が、いつもと変わらないのを確認する。去年、断腸の思いで買ったハードカバーが、すでに文庫になっているのを知って、ぼくはこんなことなら、もう少し待っていればよかった、と、後悔した。
 ……そういえば、最近は本当におもしろい本を読んだことって、ないよなぁ。ずらりと並んだ本を見ながら、ぼくは思わずにはいられなかった。
 中学生のころのように、わくわくと胸を踊らせながら本を読むということがなくなって、久しいような気がする。たしかに、おもしろい本はたくさん読んだけれども、あのころのようなときめき……そう、ときめきだ……を感じることは、すでに皆無といっていい。
 また、そういう本を読んでみたいものだ。ぼくは思わずにいられなかった。
 ふと、いつだったかに、夜中の三時までかかって、一冊の本を読破したことを、ぼくは思い出していた。あの本は、おもしろくおもしろくてやめられなくなり、ここまでにしよう、と何度も思いながらも、結局、最後まで読んでしまった。もう一度、あの頃のように、わくわくしながら本を読んでみたいものだ。そんなことを思いながら、ずらりと並んでいる本を、もう一度眺め回す。
 目についた一冊の本を手にとって、ぱらぱらとめくってみる。別に、それが欲しい、などと思ったわけでもなかったけれども、ぼくはその本をレジへともっていき、代金を払うと、店をでた。
 雨は、先ほどよりも小降りになってきていた。ぼくは駅前のアーケードを抜けると、傘をさし、そしてバス停へ向かって、歩きはじめた。
 ふぁん!
 前方からやってきた車が、突然クラクションを鳴らした。なんだ? 驚いてそちらを見ると、
「香澄さん!」声が届くはずはないというのに、ぼくは思わず声を出してしまっていた。そう。たった今、目の前を通り過ぎていった、白いカローラを運転していたのは、間違えようもなく、香澄さんだった。ぼくは呆然と後ろを振り返って、そしてあっというまに向こうに去っていったカローラを、見つめていた。
 あれはたぶん、家の人の車だろう。香澄さんにカローラは、絶対に似合わない。ぼくはなんとはなしにそう思い、そしていい加減振り返っているのに疲れ、歩きはじめた。
 バス停には、すでに久我が立っていた。彼女はぼくの姿に気づいたらしく、こちらを見て、そして明るく手をふった。ぼくは苦笑して、ゆっくりとそちらに歩いていった。
 彼女のところにつくなり、彼女は口を開いた。
「ね、さっき、鈴木さんとすれ違わなかった?」
「車、運転してたね」ぼくは応えた。「知らなかったなぁ。鈴木さん、免許持ってたんだね」いう久我に、「ぼくは、知ってたよ。このあいだ、免許証見せてもらったから」
 ぼくは応えた。
 ふうん。と、久我はうなずき、そしてぼくらの間を、沈黙が支配した。
 気心の知れた同士の、気心の知れた沈黙。ぼくらはそのまま、じっとバスがくるのを待っていた。
 ふと空を見上げると、雨はあがっていて、雲の間から青いものがのぞいている。ずっと傘をさしていた自分と久我に気づき、ぼくは傘をたたみながら、久我に声をかけた。
「雨、あがってるよ」あ、ほんとだ。久我も空を見上げ、傘をたたんだ。
 バスを待つ数分。その、なかなかバスがこない数分、という時間が、ぼくは好きだった。
 ぼくはなんとなしに、久我に問うていた。
「久我はさ、カレシとか、いないんだ?」
「いたら、久保くんとこんなとこに立ってるわけないじゃない」苦笑しながら、久我は言葉を返した。……まあ、それもそうか。なんとなく妙に納得してしまい、そしてぼくはもう一つ、問うた。
 それはたぶん、「友達」だからこそいえる、気安い問いかけだったのだろう。
「じゃあ、さ。好きな人とか、いないんだ?」
 わずかな沈黙。彼女は、ゆっくりと首を横にふる。
「……今は、ね。ちょっと前までいたんだけど、あっさり、失恋が決まっちゃって」
 彼女は、小さく笑っていった。「そうか」ぼくはうなずいて、そして向こうに、バスの影を見つけた。
「久我、バス、来たよ」ぼくは声をかけ、そしてバスを待った。
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