瞳いっぱいの微笑みを

中富虹輔

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三章 九月~十月

二 冬服

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「週番、現国の伊東が呼んでたぞ」
 かけられた声に、「あいよ」ぼくは声を返した。おおかた、次の時間に配るプリントでも持って行かせるのだろう。こんなことに昼休みをつぶされるのはあまり好きではなかったけれども、今日一日で、週番ともおさらばだ。月の第四週。土曜日が休みの週に週番に当たると、ちょっと得した気分になれる。
 ぼくは立ち上がって、国語の教官室へと向かった。
 教官室に入ると、予想の通りに、山のようなプリントを手渡され、ぼくはへきえきしながら、教官室を出ていった。
 珍しく、日差しが強い。ぼくはなにげなしに、渡り廊下から外を眺め、そしてゆっくりと、空を見上げた。秋にしては珍しいくらい強い日差し。たぶん、こんな日差しを浴びるのは、今年は最後だろう。
 そう思うと、なんとなはなしにその日差しが大切なものに思えて、ぼくはじっと、空を見上げ続けた。
 小さくため息をついて、ぼくは青すぎる空から、目をそらした。
 え?
 前方から歩いてくる人影に驚く。
 ……香澄さん、だよな?
 なんだか、いつもとずいぶんイメージが違った。どこか、微妙な違和感がある。「あ、久保くん」
 香澄さんもこちらに気づいて、声をかけてきた。「なに? 週番?」ぼくのかかえている荷物に気づいたらしい。香澄さんは笑っていった。「そうなんですよ」ぼくは応えて、そして香澄さんは、
「その量だと、国語の伊東先生でしょう?」
 驚くぼくに、私も、泣かされたからなぁ、と、香澄さんは小さく笑った。あ、なるほど。ぼくは納得した。
 なんだか、このまま香澄さんと別れるのがもったいない気がして、「そういえば、よく、廊下ですれ違いますよね」ぼくは口を開いた。
 香澄さんは、「そうだね」とうなずき、
「もしかしたら、私たち、今みたいに知り合う前にも、よく、あっていたんじゃないかな?」問うた。……たしかに。ぼくはうなずきを返す。
「そうですね。きっと、気がついてなかったんですね。ぼくたち、ちょっと前までは赤の他人だったんだし」
「……そうだね」香澄さんはうなずいた。「じゃ、がんばってね」香澄さんはいって、歩いていく。ぼくもそれとほぼ同時に、歩きはじめていた。
 あ。そうか。香澄さん、冬服を着ていたからだ。小さな違和感の理由は、思いもかけないところにあったことに、ぼくは気づいた。
 教室にはいると、中富の彼女……志太さん……が、ぼくに声をかけてきた。「あ、久保くん、祐佳が、さがしてたよ」
 中富が? ……行き違いになったのかな? ……ま、どうせ中富も戻ってくるし。そんなにあわてなくてもいいだろう。ぼくは思って、席についた。
 やがて授業開始のチャイムがなり、何事もない、平凡な午後がすぎようとしていた。

「久保、時間、あるか?」
 中富に問われ、ぼくは即座に言葉を返した。
「悪い、今日、クラブ」
「テスト前に?」再度の問いに、ぼくは「へ?」間抜けな声を出した。「あれ? そんな時期だったっけ?」……記憶を掘り返す。
 ……そういわれれば、先週あたりからテストの出題範囲をよく先生が教えていたけれども……気の早い先生だとばかり思っていたけれど……
 そこまで考えて、さぁっ、と、血の気が引いていった。
「やべぇ! なんにも勉強してない!」
 頭をかかえて、中富がぼくを見ている。「おまえを見てたら、ほんとに来週がテストなのか、おれも疑いたくなってきたよ……」
 ため息とともにつぶやく中富。「まあ、いやなことはおいといて、時間は、あるのか?」
「たっぷりと」
 ぼくは力なくうなずいた。
 二人で学校をでて、そして中富に案内されるままに、駅前の引っ込んだ通りにある喫茶店に入っていった。
「……変な宗教の勧誘とかじゃないだろうな?」
 一瞬、わずかに不安になって問うたぼくに、「まさか」中富はそれを一蹴した。「ちょっとまっててくれ。じきに、ナギサもくるはずだから」
 志太さんが? ……こいつら、まさかぼくにのろけ話を聞かせようとかいうつもりじゃないだろうな? 一瞬不安に思ったけれども、中富はそんな人間ではないことは知っていたので、即座にその考えを押し退ける。
 あれ? そういえば。
「昼休み、志太さんが、お前がぼくをさがしてる、っていってたけど、それって、このこと?」
 中富は首を横に振った。「あ、そっちは別口。もうすんだから、そっちのことは気にしないで」
 中富が応えると同時に志太さんがやってきて、中富のとなりに座った。
 志太さんがコーヒーを注文して、そしてわずかな沈黙。……ぼくは二人の意図をはかりかね、じっと、二人を見ていることしかできなかった。
 中富が、コーヒーカップを口まで持って行く。わずかに、彼の喉が動いた。彼はカップを下ろすと、
「まあ、なんだ。そんな、改まっていうほどのものでもないんだけどな」
 彼は前置きして、そして、
「今度の文化祭のことなんだけど……」
 ああ、そういえば二人とも、文化祭の実行委員だっけ。いわれてはじめて、ぼくは納得した気分になった。
 それにしても、文化祭まではかなりの時間がある。実行委員が活動をはじめるのは当然としても、ぼくらにはまだ関係ないのではないだろうか? 思うけれども、
「近いうちに、クラスのみんなにも連絡するつもりなんだけど……」
 なんとなく、中富の言葉の歯切れが悪い。それを見ていた志太さんは、彼の言葉のあとをついだ。
「毎年、学年から二クラスずつ、出し物をやるのが決まっているんだけど、くじ引きで、あたし達のクラスがあたっちゃったのよ」
「……だから?」
 まだ、二人のいっていることがよく飲み込めない。別に、悪いことではないだろう。聞いた話によれば、必ずどのクラスも一度はこの出し物が当たるらしいのだから。早くて幸い、ということもあるだろうし。
 ぼくの問いに、中富が口を開く。
「うーんと、だいたい、定番は演劇か、合唱、というとこなんだけど、わりと、うちのクラスは騒ぎ好きなのが多いだろう? たぶん、演劇あたりで落ちつくんじゃないかな、って思うんだ」
 ……なんだか、いやな予感がしてきた。立ち上がって、耳をふさいでそのまま帰りたくなるのを、ぼくはどうにかこらえていた。
「……で、久保が中学の時の……、有名だろ? だからきっと、久保に脚本が回ってくると思うんだ。だから……」
 中富の言葉を、志太さんが継いだ。
「覚悟しておいてね、ってこと」
 ……はぁ。ぼくはため息をついた。「……本のコピーじゃ、だめなのか?」問うてみるけれども、「みんなしだいだね」中富は冷たくいいはなつ。ぼくはもう一つ、ため息をついた。
 ……まあ、その場で突然指名されるよりは、こうして事前にいわれていた方が、心の準備はできるけれども……
 中学校最後の文化祭。演劇部の友人に拝み倒されて、見よう見まねで書いた劇の評判が妙に良かったのだ。まあ、それだけならどうってことはなかったのだけれども、その劇が県のコンクールでけっこうな上位に食い込む、という快挙を成し遂げてしまったのだ。
 ぼくが劇の脚本なんてものを書いたのは、あとにも先にもそれきりだったのだけれども、それ以来、なぜかぼくは「名脚本家」ということにされてしまっていたのだ。
 あのとき、アイディアが浮かばずに七転八倒した記憶のあるぼくとしては、できれば避けて通りたかったところだ。憂鬱な秋になりそうな予感に、ぼくはため息をついていた。
 それにしても……
 中間が十月の頭……もうすぐだ……。それで文化祭が十一月三日。練習にしばらくかかるだろうから、……中学校の時よりも始末に悪い。あのときも眠い目をこすりながらだったけれども、今度はそれ以上の強行軍になりそうだ。
「悪いな。めんどうを引き受けさせるみたいで」
「……気にしないでいいよ」
 ぼくは応えて、立ち上がった。「そろそろ、バスの時間になるから。さきに帰らせてもらうよ」財布から、飲物の代金を取り出すと、中富に渡して、ぼくは歩きだした。

 バスを待つバス停。ここのバス停は、完全に高校生専用といってよかった。さすがに、こういう日は、バスを待つ黒い制服が多い。ぼくもその中にまじって、じっと、バスを待っていた。
 バス待ちのわずかな時間でも、皆はいろいろな言葉を交わす。やはり多いのは、テスト関係のこと。現国は捨てただの、地理の範囲が広すぎるだのと、それはもっぱら愚痴ばかりだった。
「勉強、はかどってる?」
 後ろからの声にどきりとして振り返ると、いつの間にいたのか、久我が立っていた。
「……まだ、全然手ぇつけてない」
 ため息まじりに応えて、「うそぉ?」久我は呆然と、言葉を返した。
「余裕ね、久保くん」
 久我はいい、ぼくはもう一度ため息をついた。そんな余裕なんてあるもんか。成績が悪い方だとはいわないけれども、それもテスト前の努力があってのこと。……今回は、捨てなきゃいけないかな……半ば呆然とぼくは思った。それもこれも、悪いのは……
 そう。この間、ようやく完成した幻文だよりだ。テストの日を忘れるなどという信じられないようなことをしてしまったのも、みんなあれが悪いのだ。
 ぼくは勝手にそう思うことにして、ひとまず、心を落ちつけた。

 ようやくテストも終わり、ぼくらは、文化祭の準備に入った。中富の予想は見事に当たり、ぼくらのクラスは演劇をする事になり、そしてぼくは、再三の辞退にも、結局数の暴力に押し切られる格好となってしまっていた。救いといえば、クラブの方は、何もしないということだろう。しばらくは、クラブは休まなきゃいけないな。
 そして、その週の土曜日のことだった。ぼくはなにかいい題材はないかと、図書室の本をあさっていた。
 その日はなんだか気分がのらず、作業を早々に切り上げて、カバンをかかえて廊下に出たぼくの耳に、ピアノの音が届いてきた。
 聞いたことのあるメロディ。……このメロディは……
 わずかな時間で思い出す。そう。香澄さんが、中学校のコンクールで弾いた曲。「光の駅」だ。ぼくは音のする方へと駆け出していた。
 もちろん、この学校でピアノがある場所といえば、音楽室しかなく、そして、防音のしっかりしているはずの音楽室から音が流れていたわけは、近寄ってみればすぐにわかった。
 音楽室の扉が、開いていたのだ。音楽室の手前、何メーターかのところから、ぼくは足音を忍ばせるように、ゆっくり、ゆっくりと歩いていた。
 これで、ピアノを弾いているのが香澄さんじゃなかったら、ただのばかだよな。一瞬、そんなことが頭をよぎる。
 ぼくはゆっくりと音楽室をのぞき、そして、ぼくは見てしまった。
 ……ピアノを弾きながら、香澄さんは泣いていた。その涙のわけをぼくは知るはずもなく、ぼくは呆然と、涙を流す香澄さんを見ていた。
 外は、気持ちいいくらいの、秋晴れだった。
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