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三章 九月~十月
三 ピアノ
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ぼくの腕の中からカバンが落ちるのと、香澄さんが、弾いているピアノの音をはずすのとは、ほとんど同時だった。
カバンが床に落ちた音に驚いたらしく、香澄さんはびくっ、と、こちらを見て、そして、ぼくと香澄さんと、もろに、目があってしまった。
「……久保くん……? どうして、ここに……?」
香澄さんが、つぶやくようにいった。
ぼくは、「あ、あの……えーと」へどもどしながら、ピアノの音が聞こえてきたこと、それが、香澄さんが中学生の時のコンクールで弾いた曲だったから、それがたぶん香澄さんだろうと思ったこと。そして、音楽室を覗いてみたら、香澄さんが、泣きながらピアノを弾いていたこと、そんなことを話した。
そんなぼくの態度がおかしかったのだろうか。香澄さんは涙を払いながら、くすり、と、小さく笑った。
普段の習慣からだったのか、それとも無意識のうちに何かを期待していたのか。ぼくはそれと意識しないうちに、音楽室の中に入ると、後ろ手に扉を閉じ、香澄さんの方へ近づいていった。何かをごまかすかのように、制服の襟元を整えるしぐさを見せる香澄さんを見ているうちに、なんだか奇妙なくらい、度胸が据わった。
「……何か、あったんですか?」
椅子に座った香澄さんを見おろすような格好で、問う。香澄さんはぼくの顔に目を向け、そしてゆっくりと顔を伏せた。
「なんでも……なんでもないの」
なんでもないのなら、そんなふうに泣いたりするわけ、ないでしょう?
よっぽどそういってやろうかと思ったけれども、かわりにぼくの口から出てきたのは、「そう……ですか」という言葉だった。
「ぼくじゃ、何の力にもなれないかもしれないけど……でも、ぼくにできることがあったら、何でもいってください。できるだけのことは、しますから」
「うん。……ありがとう」香澄さんは小さくうなずいた。
こうして、椅子に座ってうつむいている姿を見ると、ただでさえ小柄な彼女が、ますます小さく見える。そんな香澄さんを前にして、ぼくは、知らず知らずのうちにつぶやいていた。
「泣いてる香澄さんなんて、もう、絶対に見たくなかったのに……」
唐突に……本当に唐突に、香澄さんの顔が持ち上がった。その顔には、明らかな驚きの表情が張り付いていて、ぼくを当惑させた。
「今の……」いいかけて、香澄さんは口を閉ざした。そして、その言葉と入れ替わるように、香澄さんの瞳に、再び涙があふれ出した。
「……久保く……」
そのあとになにをいうつもりだったのかは、ぼくにはわからなかった。ぼくの目の前にあった現実は、香澄さんがぼくの名前をいい切ることもできずに、泣き始めたという、たったそれだけのこと。
ぼくがそんなことをしたのは、そこに、ぼくと香澄さんしかいなかったから、だろうか。……いや、たとえここが往来の真ん中だったとしたって、こんな香澄さんを見てしまえば、ぼくはそうしていただろう。
泣き続ける香澄さんを、ぼくは、静かに抱きしめた。
どのくらいそうしていたのだろう。三十分だったのかもしれないし、もしかしたら五分とたっていなかったかもしれない。
香澄さんは静かにぼくから身体をはなし、涙に濡れた瞳で、じっとぼくを見ていたけれども、やがて、自分から、目をそらした。
「久保くん、バスの時間は、大丈夫?」
「え? あ、でも……」香澄さんをこのままにはしておけない、という言葉は、その本人の言葉で、遮られてしまった。
「私なら、大丈夫だから。ちょっと、一人になって気持ちを落ちつけたいから。……ね?」
そうまでいわれてしまっては、ぼくに返す言葉のあるはずもなく、ぼくは「わかりました」うなずきを返した。
去り際に、何か言葉をかけたかったのだけれども、うまい言葉を思いつかず、結局ぼくは、「じゃあ、また」と、ありきたりな言葉をかけるだけに終わってしまった。
「うん、またね」香澄さんは言葉を返し、そしてぼくは、ピアノの前の椅子に、一人座っている香澄さんに気を残しながらも、音楽室を後にした。
香澄さんの涙を見たせいだろうか。ひどく重い気分のまま、ぼくは、いつもの本屋の中にいた。
ぼくは、ずらりと並んでいる本の山を、眺めていた。中高生向けの本の、パステルカラーでいろどられた背表紙でさえもが、なぜかずしりと重くみえた。
小さくため息をついて、手近にあった本を手にとる。もうすでに習慣になってしまった動作で、その中身をぱらぱとめくりながら確認して、ぼくはその本を棚に戻した。
「久保くん」
後ろからかけられた声に、何気なくぼくは振り返った。
「……久我」
あまり、彼女は本を読む方ではなかったはずだ。それが、なぜここに? 答えのでない自問をする。「……なにか、あったの?」久我は、ぼくの顔を見るなり問うてきた。……そんなに、感情がでる顔をしていただろうか。
「……何でも、ないよ。久我には、関係ない」
ぼくはようやく、その言葉をつむぎだした。彼女は、小さくうなずいた。
「それなら、いいんだけど。……でも、何かあったのなら、何でもいって。私、何もできないけど、話を聞いてあげるくらいなら、できるから」
ぼくが香澄さんにいった言葉と同じ言葉を聞かされてしまい、ちょっと当惑して、それでもどうにか、
「ん。ありがとう」
ぼくは応えて、時計を見た。これから歩けば、次のバスにちょうどいい時間だろう。「いこう。今から歩けば、バスにちょうどいいよ」
久我が小さくうなずくのを確認して、ぼくは歩きだした。
駅前のアーケードを抜けると、抜けるような青空が、ぼくの目に飛び込んできた。……彼女と……香澄さんと出会ったのがこんな日だったら、ぼくはどうしていたのだろう? 晴れた日のバス停で、泣き続ける香澄さん……
ぼくは息をついて、空を見上げた。
上の方は風が強いらしく、雲がずいぶんと早く流れている。ゆっくりとかたちを変える雲を眺め、そしてぼくは、目線を地上へと向けた。
「何かあると、空を見るのは、変わってないよね、長路」
後ろから久我に声をかけられて、ぼくはどきりとして振り返った。
「……落ち込んだときとか、屋上で、雲を見ていたでしょう?」
問われて、彼女がそんな細かいことまで知っていることに、ぼくは正直なところ戸惑った。……そう何度もあったわけではない。わざわざ、屋上までいって、空を見上げる、なんてことをしたのは。それを知っているというのは……
「久我……」
ぼくは振り返って、彼女を見た。そして、名前を呼んでから、今度は何をいえばいいのかわからなくなってしまった。
一瞬の沈黙。
「……なんでもない」
ぼくはまた、向きをかえ、そして歩き始めた。「変なの」久我が小さくつぶやく声が聞こえる。
ぼくらがバス停につくのとほぼ同時にバスがやってきて、そしてぼくらは、バスに乗り込んだ。
いい加減、文化祭も近づいてきて、ついにぼくは休み時間も、昼休みも返上して脚本を書く羽目になってしまっていた。
二、三日前から、睡眠時間までも犠牲にしているというのに、原稿はいっこうにはかどらない。睡眠不足気味で、回転がやや鈍った頭で、ぼくはそれでも、脚本を書き続けていた。ほとんど、ここまでくると意地ともいえる。
周囲の級友達のばか騒ぎを横目に見ながら原稿用紙に鉛筆を走らせるというのは、なかなかこれで根性のいる作業だった。
昼休みも、残り時間が少なくなったころ。
ふう、と、息をついて鉛筆をおき、ぼくは顔をあげた。身体を伸ばて立ち上がる。朝からずっと座りっぱなしだったので、からだがかちかちになっている。すこし身体を動かしただけで、関節という関節が悲鳴をあげる。ぼくは肩を叩きながら、ベランダに出て、中庭を眺めた。
外を見ていたら、なんだかよけい憂鬱な気分になってきた。ため息まじりに自分の席に戻り、再び、原稿用紙に鉛筆を走らせた。
あの日、泣きながらピアノを弾く香澄さんを見て以来、ぼくはずっと、彼女にあっていなかった。実際、それどころではなかったということもあったのだけれど、それ以上に、彼女とあったときに訪れるであろう、気まずい沈黙を、ぼくがきらっていたということがある。
廊下か玄関かで、ばったりと顔を合わせ、香澄さんが『久保くん』と、声をかけてくる。たぶん、ぼくは何もいえずに会釈だけを返して、そして香澄さんはぼくの方へ。
そのときに、香澄さんは、どんなことをいうのだろう。
その彼女に、ぼくはなんと応えればいいんだろう。
「どうした、ぼんやりして?」
不意にかかった中富の声に、「え?」ぼくは言葉を返して、そっちを見た。「ああ、うん。ちょっと、考え事」
そうか、と、中富はうなずき、「……それ、明日までに終わるかな?」問うてきた。
「どうかな? ぼくも、仕上げてしまいたいんだけどね」
言葉を返す。ここまでくれば、もうあとは力押しという手もあるのだけれど、残りの原稿枚数を考えれば、途中で力つきないとも限らない。「ま、努力してみるよ」ぼくの言葉に、中富はうなずきを返した。
再びぼくは原稿に向き直った。書きかけの主人公のせりふを書ききって、
これはもう、家に持って帰って、一気に仕上げてしまったほうがいいだろう。決めて、ノートを閉じた。同時に始業のチャイムがなって、教科担任が教室に入ってくる。秋の午後は、静かに時間がすぎていった。
そして授業は終わり、ぼくは玄関へと向かった。今日はクラブがある日だけれども、すでにクラブのみんなにはふれを出してあるので、ぼくが休んでも文句はいわれないはずだった。
げた箱から外ばきを取り出し、それをはく。古くさいデザインの、学校指定の内ばきをげた箱に押し込み、ぼくは外に出た。
あいかわらず、外はいい天気だった。雲一つない、穏やかな秋の光が、暖かく周囲を照らしている。ぼくは空を見上げてため息をつき、秋の、あまりにも高すぎる空に、もう一度ため息をついた。
「こんな日は、空の音が、聞こえるのよね」
わきからの声に驚いて、ぼくはそちらを見た。香澄さんが、立っている。ぼくは一瞬だけためらって、そして「音、ですか?」問うた。
「そう」うなずく香澄さん。「久保くんは、聞こえない?」問われて、ぼくはなんと返事をしたものか、戸惑った。
どうやら彼女は、ぼくの返事は期待してはいなかったらしい。
「耳をすませばね、聞こえるのよ。目を閉じて、心を落ちつけて。音を聞こう、って意識すればね。……今度、やってみて」
小さく微笑んで、香澄さんは遠くの空へ、視線を移した。
「……このあいだは、とんでもないとこ、見せちゃったね」
「……音楽室の、ことですか?」ぼくの問いに、香澄さんはうなずいた。
「ぼくの方こそ、何か、とんでもないこと、しちゃって」いったけれども、香澄さんは微笑んで首を横に振った。
「気にしないで。私も久保くんに変なとこ見せちゃったからね。それで、おあいこにしましょ」
あの日のことを、そんなふうに簡単に割り切ってしまえる香澄さんのその強さを、ぼくは素直に見習いたいと思った。
「ちょっと、びっくりしちゃった」
「え?」
「あのとき、ピアノ弾きながら、久保くんの顔が見たいなって、思ってたの」
それは、本心から出た言葉だったのだろうか。その言葉の真意はわからなかったけれども、その言葉がぼくにもたらした衝撃は、結構なものだった。
思わぬことに口もきけずにいるぼくに、彼女は冗談めかしてつけ加える。
「テレパシーが、通じたのかな?」
「……かも、しれませんね」
ぼくはどうにか言葉を返し、続けて聞こえてきたチャイムに、香澄さんははっとしたように、校内に目を向けた。
「あ、ごめんね、いきなり、声かけちゃって。じゃ、私、補習あるから」
いって、あわてた様子で香澄さんは校舎の中へと消えていった。
……ピアノを弾きながら、ぼくの顔を見たいと思っていた? それって……。その言葉にどぎまぎしながら、同時にぼくは、いい様のない、心が浮き立つような気分になっていた。
その夜、三時までかかって、ようやく、脚本を書き上げた。そのできばえに満足して、ぼくは穏やかな眠りについた。
カバンが床に落ちた音に驚いたらしく、香澄さんはびくっ、と、こちらを見て、そして、ぼくと香澄さんと、もろに、目があってしまった。
「……久保くん……? どうして、ここに……?」
香澄さんが、つぶやくようにいった。
ぼくは、「あ、あの……えーと」へどもどしながら、ピアノの音が聞こえてきたこと、それが、香澄さんが中学生の時のコンクールで弾いた曲だったから、それがたぶん香澄さんだろうと思ったこと。そして、音楽室を覗いてみたら、香澄さんが、泣きながらピアノを弾いていたこと、そんなことを話した。
そんなぼくの態度がおかしかったのだろうか。香澄さんは涙を払いながら、くすり、と、小さく笑った。
普段の習慣からだったのか、それとも無意識のうちに何かを期待していたのか。ぼくはそれと意識しないうちに、音楽室の中に入ると、後ろ手に扉を閉じ、香澄さんの方へ近づいていった。何かをごまかすかのように、制服の襟元を整えるしぐさを見せる香澄さんを見ているうちに、なんだか奇妙なくらい、度胸が据わった。
「……何か、あったんですか?」
椅子に座った香澄さんを見おろすような格好で、問う。香澄さんはぼくの顔に目を向け、そしてゆっくりと顔を伏せた。
「なんでも……なんでもないの」
なんでもないのなら、そんなふうに泣いたりするわけ、ないでしょう?
よっぽどそういってやろうかと思ったけれども、かわりにぼくの口から出てきたのは、「そう……ですか」という言葉だった。
「ぼくじゃ、何の力にもなれないかもしれないけど……でも、ぼくにできることがあったら、何でもいってください。できるだけのことは、しますから」
「うん。……ありがとう」香澄さんは小さくうなずいた。
こうして、椅子に座ってうつむいている姿を見ると、ただでさえ小柄な彼女が、ますます小さく見える。そんな香澄さんを前にして、ぼくは、知らず知らずのうちにつぶやいていた。
「泣いてる香澄さんなんて、もう、絶対に見たくなかったのに……」
唐突に……本当に唐突に、香澄さんの顔が持ち上がった。その顔には、明らかな驚きの表情が張り付いていて、ぼくを当惑させた。
「今の……」いいかけて、香澄さんは口を閉ざした。そして、その言葉と入れ替わるように、香澄さんの瞳に、再び涙があふれ出した。
「……久保く……」
そのあとになにをいうつもりだったのかは、ぼくにはわからなかった。ぼくの目の前にあった現実は、香澄さんがぼくの名前をいい切ることもできずに、泣き始めたという、たったそれだけのこと。
ぼくがそんなことをしたのは、そこに、ぼくと香澄さんしかいなかったから、だろうか。……いや、たとえここが往来の真ん中だったとしたって、こんな香澄さんを見てしまえば、ぼくはそうしていただろう。
泣き続ける香澄さんを、ぼくは、静かに抱きしめた。
どのくらいそうしていたのだろう。三十分だったのかもしれないし、もしかしたら五分とたっていなかったかもしれない。
香澄さんは静かにぼくから身体をはなし、涙に濡れた瞳で、じっとぼくを見ていたけれども、やがて、自分から、目をそらした。
「久保くん、バスの時間は、大丈夫?」
「え? あ、でも……」香澄さんをこのままにはしておけない、という言葉は、その本人の言葉で、遮られてしまった。
「私なら、大丈夫だから。ちょっと、一人になって気持ちを落ちつけたいから。……ね?」
そうまでいわれてしまっては、ぼくに返す言葉のあるはずもなく、ぼくは「わかりました」うなずきを返した。
去り際に、何か言葉をかけたかったのだけれども、うまい言葉を思いつかず、結局ぼくは、「じゃあ、また」と、ありきたりな言葉をかけるだけに終わってしまった。
「うん、またね」香澄さんは言葉を返し、そしてぼくは、ピアノの前の椅子に、一人座っている香澄さんに気を残しながらも、音楽室を後にした。
香澄さんの涙を見たせいだろうか。ひどく重い気分のまま、ぼくは、いつもの本屋の中にいた。
ぼくは、ずらりと並んでいる本の山を、眺めていた。中高生向けの本の、パステルカラーでいろどられた背表紙でさえもが、なぜかずしりと重くみえた。
小さくため息をついて、手近にあった本を手にとる。もうすでに習慣になってしまった動作で、その中身をぱらぱとめくりながら確認して、ぼくはその本を棚に戻した。
「久保くん」
後ろからかけられた声に、何気なくぼくは振り返った。
「……久我」
あまり、彼女は本を読む方ではなかったはずだ。それが、なぜここに? 答えのでない自問をする。「……なにか、あったの?」久我は、ぼくの顔を見るなり問うてきた。……そんなに、感情がでる顔をしていただろうか。
「……何でも、ないよ。久我には、関係ない」
ぼくはようやく、その言葉をつむぎだした。彼女は、小さくうなずいた。
「それなら、いいんだけど。……でも、何かあったのなら、何でもいって。私、何もできないけど、話を聞いてあげるくらいなら、できるから」
ぼくが香澄さんにいった言葉と同じ言葉を聞かされてしまい、ちょっと当惑して、それでもどうにか、
「ん。ありがとう」
ぼくは応えて、時計を見た。これから歩けば、次のバスにちょうどいい時間だろう。「いこう。今から歩けば、バスにちょうどいいよ」
久我が小さくうなずくのを確認して、ぼくは歩きだした。
駅前のアーケードを抜けると、抜けるような青空が、ぼくの目に飛び込んできた。……彼女と……香澄さんと出会ったのがこんな日だったら、ぼくはどうしていたのだろう? 晴れた日のバス停で、泣き続ける香澄さん……
ぼくは息をついて、空を見上げた。
上の方は風が強いらしく、雲がずいぶんと早く流れている。ゆっくりとかたちを変える雲を眺め、そしてぼくは、目線を地上へと向けた。
「何かあると、空を見るのは、変わってないよね、長路」
後ろから久我に声をかけられて、ぼくはどきりとして振り返った。
「……落ち込んだときとか、屋上で、雲を見ていたでしょう?」
問われて、彼女がそんな細かいことまで知っていることに、ぼくは正直なところ戸惑った。……そう何度もあったわけではない。わざわざ、屋上までいって、空を見上げる、なんてことをしたのは。それを知っているというのは……
「久我……」
ぼくは振り返って、彼女を見た。そして、名前を呼んでから、今度は何をいえばいいのかわからなくなってしまった。
一瞬の沈黙。
「……なんでもない」
ぼくはまた、向きをかえ、そして歩き始めた。「変なの」久我が小さくつぶやく声が聞こえる。
ぼくらがバス停につくのとほぼ同時にバスがやってきて、そしてぼくらは、バスに乗り込んだ。
いい加減、文化祭も近づいてきて、ついにぼくは休み時間も、昼休みも返上して脚本を書く羽目になってしまっていた。
二、三日前から、睡眠時間までも犠牲にしているというのに、原稿はいっこうにはかどらない。睡眠不足気味で、回転がやや鈍った頭で、ぼくはそれでも、脚本を書き続けていた。ほとんど、ここまでくると意地ともいえる。
周囲の級友達のばか騒ぎを横目に見ながら原稿用紙に鉛筆を走らせるというのは、なかなかこれで根性のいる作業だった。
昼休みも、残り時間が少なくなったころ。
ふう、と、息をついて鉛筆をおき、ぼくは顔をあげた。身体を伸ばて立ち上がる。朝からずっと座りっぱなしだったので、からだがかちかちになっている。すこし身体を動かしただけで、関節という関節が悲鳴をあげる。ぼくは肩を叩きながら、ベランダに出て、中庭を眺めた。
外を見ていたら、なんだかよけい憂鬱な気分になってきた。ため息まじりに自分の席に戻り、再び、原稿用紙に鉛筆を走らせた。
あの日、泣きながらピアノを弾く香澄さんを見て以来、ぼくはずっと、彼女にあっていなかった。実際、それどころではなかったということもあったのだけれど、それ以上に、彼女とあったときに訪れるであろう、気まずい沈黙を、ぼくがきらっていたということがある。
廊下か玄関かで、ばったりと顔を合わせ、香澄さんが『久保くん』と、声をかけてくる。たぶん、ぼくは何もいえずに会釈だけを返して、そして香澄さんはぼくの方へ。
そのときに、香澄さんは、どんなことをいうのだろう。
その彼女に、ぼくはなんと応えればいいんだろう。
「どうした、ぼんやりして?」
不意にかかった中富の声に、「え?」ぼくは言葉を返して、そっちを見た。「ああ、うん。ちょっと、考え事」
そうか、と、中富はうなずき、「……それ、明日までに終わるかな?」問うてきた。
「どうかな? ぼくも、仕上げてしまいたいんだけどね」
言葉を返す。ここまでくれば、もうあとは力押しという手もあるのだけれど、残りの原稿枚数を考えれば、途中で力つきないとも限らない。「ま、努力してみるよ」ぼくの言葉に、中富はうなずきを返した。
再びぼくは原稿に向き直った。書きかけの主人公のせりふを書ききって、
これはもう、家に持って帰って、一気に仕上げてしまったほうがいいだろう。決めて、ノートを閉じた。同時に始業のチャイムがなって、教科担任が教室に入ってくる。秋の午後は、静かに時間がすぎていった。
そして授業は終わり、ぼくは玄関へと向かった。今日はクラブがある日だけれども、すでにクラブのみんなにはふれを出してあるので、ぼくが休んでも文句はいわれないはずだった。
げた箱から外ばきを取り出し、それをはく。古くさいデザインの、学校指定の内ばきをげた箱に押し込み、ぼくは外に出た。
あいかわらず、外はいい天気だった。雲一つない、穏やかな秋の光が、暖かく周囲を照らしている。ぼくは空を見上げてため息をつき、秋の、あまりにも高すぎる空に、もう一度ため息をついた。
「こんな日は、空の音が、聞こえるのよね」
わきからの声に驚いて、ぼくはそちらを見た。香澄さんが、立っている。ぼくは一瞬だけためらって、そして「音、ですか?」問うた。
「そう」うなずく香澄さん。「久保くんは、聞こえない?」問われて、ぼくはなんと返事をしたものか、戸惑った。
どうやら彼女は、ぼくの返事は期待してはいなかったらしい。
「耳をすませばね、聞こえるのよ。目を閉じて、心を落ちつけて。音を聞こう、って意識すればね。……今度、やってみて」
小さく微笑んで、香澄さんは遠くの空へ、視線を移した。
「……このあいだは、とんでもないとこ、見せちゃったね」
「……音楽室の、ことですか?」ぼくの問いに、香澄さんはうなずいた。
「ぼくの方こそ、何か、とんでもないこと、しちゃって」いったけれども、香澄さんは微笑んで首を横に振った。
「気にしないで。私も久保くんに変なとこ見せちゃったからね。それで、おあいこにしましょ」
あの日のことを、そんなふうに簡単に割り切ってしまえる香澄さんのその強さを、ぼくは素直に見習いたいと思った。
「ちょっと、びっくりしちゃった」
「え?」
「あのとき、ピアノ弾きながら、久保くんの顔が見たいなって、思ってたの」
それは、本心から出た言葉だったのだろうか。その言葉の真意はわからなかったけれども、その言葉がぼくにもたらした衝撃は、結構なものだった。
思わぬことに口もきけずにいるぼくに、彼女は冗談めかしてつけ加える。
「テレパシーが、通じたのかな?」
「……かも、しれませんね」
ぼくはどうにか言葉を返し、続けて聞こえてきたチャイムに、香澄さんははっとしたように、校内に目を向けた。
「あ、ごめんね、いきなり、声かけちゃって。じゃ、私、補習あるから」
いって、あわてた様子で香澄さんは校舎の中へと消えていった。
……ピアノを弾きながら、ぼくの顔を見たいと思っていた? それって……。その言葉にどぎまぎしながら、同時にぼくは、いい様のない、心が浮き立つような気分になっていた。
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