瞳いっぱいの微笑みを

中富虹輔

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四章 十月~十一月

一 カバン

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 帰宅して、部屋に入って、ようやくぼくはカバンを学校に置いてきてしまったことに気づいた。……図書室を出たときにはちゃんとカバンを持っていた記憶があったから、たぶん、音楽室で落としてしまったんだろう。
 いまさら学校まで取りに戻るのも面倒だったので、ひとまずそれは放っておくことにした。カバンの中のノートには名前を書いてあるから、だれかが拾ってくれれば、ぼくのところへ帰ってくるだろう。明日、授業がある分の教科書は、だれかに借りればいい。
 なんだか何をする気力もなくなってしまい、ぼくはごろりとベッドに寝ころんで、大きくため息をついた。
 一時の感情の高ぶりがすぎてしまうと、自分の中の冷めた部分が、どれほど自分が間抜けだったかをひしひしと実感させてくれて、気が滅入ってきた。
 ぼくはもう一つため息をつくと、手近なところにあった本を手にとってぱらぱらとめくったけれども、とてもそれを読む気力は起きなかった。
 本をベッドのわきに投げ出すのと同時に、不意に眠気がぶり返してきて、ぼくはその眠気に抵抗する努力をすぐに放棄して、眠りについた。

 目を覚ますと、午後の八時をまわっていた。……家についたのが六時頃だから、二時間くらい、眠っていたのか。
 思っていたよりも少ない睡眠時間に驚いて、ぼくは目をこすりながら、一階へと降りていった。
 台所をのぞき、母さんが食事の道具を片づけているのを目にする。
「母さん、腹減った」
 後ろから声をかけると、食器を洗う手をとめて、母さんはぼくの方を振り返った。「そこの棚にとっておいてあるから、出して食べなさい」ぼくは「へーい」と、声を返して、その棚をあけた。皿の上に、炒飯が盛りつけてある。ぼくはそれを取り出して、そしてそれを持って居間へ向かった。……テレビでも見ながら食べるとしよう。
 居間にはいると、お目当てのバンドでも出演しているのだろう。音楽番組を見ている兄さんがいた。ぼくは炒飯の皿をテーブルに置いて、ふと、ハシを持ってくるのを忘れていたことに気づいた。
 居間から台所に行くのに、玄関を経由しなければならないのだけれども、ちょうどぼくが、そこにさしかかったときだった。
 このあたりが田舎だから、という理由がおもなのだけれど、ここらへんは、玄関に鍵をかけない家の方が多い。ぼくの家も当然その例外ではなく、また、家の作りが古いので、玄関には呼び鈴なんてものもついておらず、当然の帰結として、来客は玄関を開けて、そこから「ごめんください」と声をかけなければならないのだけれども……。
 このときばかりは、ぼくは、その家の構造と、そしてそこで起きた偶然を呪わずにはいられなかった。
 玄関の扉が開く。ぼくはなにげなしにそちらに目を向けて、そして、硬直した。
 まさか、そんな。どうして……?
 言葉が出てこない。
 その人……香澄さん……も、ぼくとのはちあわせは予想していなかったらしく、玄関の扉を開けた格好のまま、ぽかんとした表情で、その場に硬直していた。
 ようやく、声を出せたのは、数瞬後だった。
「……なにか?」
 自分でも驚くほどに冷たい声でぼくは問い、けれども、それがきっかけになったのだろう。香澄さんは「あ」小さく声を出すと、玄関に入ってきて、おずおずと、抱えていたもの……ぼくのカバン……を、ぼくの前に差し出した。
「あの、これ……落ちてたから」
 香澄さんは、ぼくと、目を合わせようとしなかった。両手で差し出されたカバンを片手で受け取って、ようやく、彼女がまだ制服を着ていることに気づいた。……今まで、学校にいたのだろうか? 思って、しかしすぐに、そんな思考がばからしいことだということに気づく。
「……どうも、わざわざ」
 香澄さんは、ぼくがしっかりとカバンをつかんだのを確認して、カバンを持っていた手をはなした。
 短い沈黙のあと、香澄さんは何かを決意したかのように、顔をぼくの方に向け、「あの……」と、口を開いた。
 けれども、しばし口ごもったあと、香澄さんは「ごめんなさい。なんでもないの」自分から、言葉を引っ込めた。
「それだけだから」彼女はいって、ぼくに背を向けた。「それじゃ、また」
 背中越しの香澄さんの言葉に、ぼくは苦笑した。たぶんもう、「また」は、ないだろうと、ぼくは知っていたから。ぼくは無言のままで、そして香澄さんは、玄関を出ていった。居間から、兄さんが顔を出す。「誰か、来てたのか?」兄さんの問いに、「うん。カバン、学校に忘れて、届けてくれたんだ」
「同級生?」
「先輩だよ」ぼくは言葉を返して、台所へ向かった。
 家の前で、車のエンジン音が聞こえ、カローラが走っていくのを、ぼくは台所で見ていた。……香澄さん、車で、来たのか。ぼくはそんなことを思いながら、自分のハシを手にとって、そして居間へ戻った。
 テレビでは、最近よく名前を聞くようになったバンドが、もの悲しいバラードを歌っていた。

 ふと気づくと、朝の四時だった。ぼくは窓越しに、よく晴れた空を見て、そして、窓を開けはなった。そろそろ、朝の空気は肌をさすほどに冷たくなってきているけれども、その冷たさが、ひどく心地よかった。
 不思議と、眠くはなかった。ぼくはいつぞやのように、トレーナーに着替えて、まだ夜も明けやらぬ街の散策に出かけた。……こんな時、車やバイクに乗れたら、爽快だろうな……ぼくはなにげなしに思い、そして、笑いながら免許証を取り出した、香澄さんの顔が頭に浮かんだ。
 ……早く、忘れなきゃな。ぼくは苦笑とともに思った。自然と足が、先日、久我とあった、あの公園に向いた。なんだか、むしょうに朝日がみたくなった。
 公園について、そしてぼくは、このあいだ久我と二人で朝日を見た場所まで、歩いた。近くのベンチに腰を下ろして、夜明けを待つ。
「久保くん!」
 驚きの声は、やはり久我のものだった。「やあ、おはよう」ぼくは声をかけて、そして彼女は、まだ驚き冷めやらぬ表情で、「うん、おはよ」言葉を返す。久我はぼくの隣に座った。
「久我も、日の出を、見に来たの?」
 ぼくの問いに、うなずきを返す久我。少し待っても、彼女が何かを話す気配がなかったので、ぼくは、ゆっくりと口を開いた。
「昨日、香澄さんにあったんだ」
 久我が、不思議そうな目でこちらを見る。
「音楽室でさ、男の人と、一緒にいたんだ……」いうべきかどうか迷って、結局ぼくは、音楽室で見た光景ありのままを、久我に話した。
 久我は、小さくうなずいた。「そっか……。長路も、見ちゃったのか」それは、自分への言葉だったのか、ぼくへの言葉だったのか。とりあえずぼくはうなずいて、「久我は、知ってたの?」問うた。
 うなずく久我。
「このあいだ、バスの中で私が眠ったとき。あの日に。レコード屋さんで、一緒にCDを見てた。……端から見てても、なんとなく『この二人は、ただの友達じゃないんだろうな』って雰囲気だったんだ」
 ……やっぱり、か。ぼくは小さくため息をついて、そしてベンチに、腰掛けなおした。沈黙。気兼ねのない沈黙。結局、ぼくと香澄さんの間にはできることはなかった沈黙が、そこにあった。いっそのこと、彼女を好きになっていることができさえすれば……
 結局、同じようなことでぼくは苦しまなければならなかったのだろうか?
 答えのでない自問の答えをさがしていると、久我が、ゆっくりと口を開いた。
「もしも、私が長路を好きだ、っていったら、驚く?」
 ぼくは、即座に首を横にふった。「驚きはしないよ。でも……」言葉を飲み込む。でも、今はたぶん、いい返事は返せないよ。
 彼女は、それを理解しているのだろうか? 小さく微笑して、いった。
「ずっと……ずっとね、好きだったんだ。……長路が」
 ぼくは、久我を見た。朝日がのぼりはじめて、久我の横顔を照らす。きらきらとかがやいている久我の横顔は、やはり彼女は、女の子なんだな、と、思わせるに足るほどに、きれいだった。
「でも、その……なんだろ? 友達とか、恋人とか、そんなふうに、私と長路の間に、レッテルを貼られるのが、いやだったんだよね、私」
 一つずつ、単語を区切りながら話す久我。久我のいいたいことがなんとなくだけど理解できて、ぼくはうなずいた。
「わかるよ。その気持ち。ぼくも、同じだから」
 久我はうなずいた。「わかってくれると、思った」満足そうな微笑み。
「いっときさ、由美香、きみを……そういうふうに好きになりかけたことがあったんだ。ちょうどそのときに、きみの『対象外』宣言をくらってね」
 今だからいえる笑い話だろう。ぼくは小さく笑った。久我も小さく笑って、
「私も、そのころから、かな。長路を意識し始めたのは。だから、あれは、自分にいいきかせたんだよ、きっと。……そのころからだよね。私が、長路を名前で呼ばなくなったのって」
 いわれてみれば、そんな気もする。ぼくはうなずきを返して、すでに八割り方のぼった朝日に目を向けた。「……何日か、何ヵ月か、何年かして、さ。香澄さんを忘れることができたら、また、きみを好きになれるかな?」
「そのときは、私に好きな人がいたりしてね」
 ぼくの問いに、久我は冗談めかして応えた。ぼくは小さな笑いを返して、ベンチから立ち上がった。「じゃ、ぼくは、戻るよ」うん、と、うなずく久我。
「元気、出してね」
 久我の最後のひとことに、ぼくは片手をあげて応え、そして、家に戻った。
 いつもの、あわただしい朝が始まろうとしていた。
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