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四章 十月~十一月
二 バス停
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物語は、いつだったかに読んだ本を、うろ覚えの記憶でアレンジしたものだ。
いつかもわからない時代、感情をなくした人々のもとへ、一人の旅人がやってくる。旅人はこの世でただ一人、感情をなくしていない人間だった。
無関心、無感情の人々の中にあって、やがて旅人は一人の少女に恋をする。けれども、感情を失った少女には、旅人の言葉もむなしい……
どこにでもあるような話だ。もとにした話は、たしか悲劇に終わっていたはずだったけれども、ぼくは安直に、それをハッピーエンドにすることにした。
文化祭まで、あと一週間ちょっと。二、三日前に、「クラスごとの出し物は、投票で一番よかったものを決め、そのクラスには賞品が出る」ということが急遽決まってから、がぜん、クラス全体の活気が増していた。
そんな中で、ぼくはあいもかわらず、落ち込んでいた。
何か、気晴らしになることでもあればいいのだけれども、あいにくそういったことには、最近は縁がなかった。ため息を一つついて、ぼくはなにげなしに、ワープロで清書した台本に目を向けた。配役や、後から見つけた台詞のおかしなところの修正など、いろいろな書き込みがあって、相当に酷使されているそれは、もう、ぼろぼろだった。……まあ、ぼくの管理状態が悪いというのもその一因ではあるのだけれども。
「よーし、それじゃあ、通してやってみようぜ!」
誰がいったのかはわからなかったけれども、「おう」という声があがり、そして全部で十人足らずのにわか役者達が立ち上がった。
袖から旅人が登場。街の人とすれ違うたび、旅人は彼らに挨拶をするけれども、街の人の反応はそっけない。
そんなことには慣れた様子の旅人は、街の広場でギターを弾く。そして、やってきた街の少女が、足をとめる。
『きれいなおとですね』
少女は、何の抑揚もない声で旅人に声をかけ、そして旅人は、大仰に驚く。
『ああ、生まれてこの方、はじめて私の音をほめてくれる人がいた!』
心底うれしそうに喜ぶ旅人を不思議そうな顔でみて、そして少女は去っていく。
……早いテンポで進んでいく、その練習を見ながら、ぼくはもう一つ、ため息をついた。
たまに、クラブにも顔を出さなくちゃな。ぼくは思って、久しぶりに部室のドアを開けた。
「おう、久保。大変らしいな?」
部長が声をかけてくる。部屋には部長一人しかおらず、「他の人は?」問うたぼくに、「みんな、クラスだの、他のクラブだのの手伝い」ぼくは納得して、うなずきを返した。実際、文化祭で何もしない文化系のクラブというのは、うちくらいなものだろう。ぼくはとりあえず、手近な席に座って、荷物をおいた。
「クラスの方は、いいのか?」
ぼくはうなずいた。先ほど、終わらせたばかりだというと、「そうか」と、部長はうなずいた。
「ああ、そうそう。二、三日前かな? ほら、この前、久保のとこにきた三年生……鈴木さんだっけ? 彼女がきてさ、久保はいないっていったら、帰っていったんだけど……」
香澄さんが? 部長の言葉に、ぼくは驚いた。何をいまさら……そんな気もしないでもなかったけれども、なぜだかぼくは、わずかに心が浮き立つのを感じていた。
けれども、そうでいられたのもほんの一時だった。結局のところ、何を、どんなふうにいわれたって、このあいだ見たものは現実なのだ。何も、言葉をはさむ余地なんてものは、ありはしない。ぼくはなるべく感情が表に出ないように注意して、心の中で、自分自身に、苦笑した。もう、そんな幻想は、抱いてはいけないのだ。
「久保のクラスは、劇をやるんだったよな?」
部長の問いに、うなずきを返す。
「台本、書かされちゃって、さんざんでしたよ」
ぼくは苦笑まじりに応えた。ふうん、と、うなずく部長。そして部長は、もう一度「あ、そうそう」といいながら、カバンの中から紙の束を取り出した。それをぼくに手渡す。
「はい。次回の『幻文だより』の原稿用紙。久保がいなかったから、勝手に枚数は決めさせてもらったから」
……もう、そんな時期だっけ? ぼくは原稿用紙を受け取りながら、思っていた。次は、どんなものを書こうか? 考えていると、
「誰もこないみたいだし、戻ろうか?」
「そうですね」ぼくは言葉を返して、立ち上がった。
部屋に鍵をかける部長をしりめに、ぼくは歩きだした。渡り廊下から外を眺め、相も変わらずの秋晴れを確認する。校庭にうわっている広葉樹も紅葉が盛りになり、いよいよ秋らしくなってきていた。ぼくは、かなり傾いた太陽を見て、そして歩きだした。
玄関で靴をはきかえ、そして外に出る。
ぼくは、なにげなしに、空を見上げた。
空が、高い。
ぼくは、はぁ、と、ため息をつき、空を見上げたまま、そこにじっと、立ち尽くしていた。
「うわぁ。そらがたかぁい」
後ろからかかった声にどきりとして振り返る。ぼくと同じように、空を見上げて立っていたのは、香澄さんだった。
香澄さんはしばし、そのまま立っていた。じっと、空を見つめる香澄さんの姿は、やはり誰が何といおうともきれいで、つい、ぼくは香澄さんに見とれてしまっていた。
……見るくらい、いいよな。ぼくが自分を納得させている間に、香澄さんは、ぼくに気付いたようだった。ふと、香澄さんとぼくと、目があう。
一瞬。気まずい沈黙が、二人の間に流れる。香澄さんはつと目をそらし、そしてぼくは口を開いた。
「このあいだは、どうも。わざわざ」
小さく首をふる香澄さん。「車なら、あのくらい、すぐだから」いって、そして彼女は、ゆっくりと、顔をあげた。どんな顔をして香澄さんを見ればいいのかわからなくなり、今度はぼくが、目をそらす。
「……あの、ね。このあいだの人は……」
ぼくは、その言葉を、さえぎった。そんな話を聞いておもしろいやつがいたら、そいつの顔をおがんでみたい。
「ぼくには、関係ないから。香澄さんが、誰といたって」
口ごもる香澄さん。小さな、ため息が聞こえる。ややあって、香澄さんが口を開いた。
「……自分が壊したものは、自分でなおさないといけないのよね」
ぼくは、香澄さんの言葉の意味を理解できず、「は?」間抜けな声を出していた。……何を、いいたいのだろう?
「昔ね、よく、人形とか、いたんだものを、自分でなおすのが、好きだったの。少しくらい、見た目が悪くなっても、なんだかそれが、自分だけのものになったような気がして、うれしかったわ」
……ますます、わからなくなってきた。
いや。本当は、わかりたくなかっただけなのかもしれない。
ともあれぼくは、香澄さんとこうしているのが、しだいに耐えられなくなってきていた。口をつぐんだ香澄さんにちらりと目をやって、
「ぼく、バスの時間があるから」
まだ、時間ならたっぷりとあった。けれども、こういう時のいいわけには、これがいちばんいいと、ぼくは知っていた。
香澄さんに背を向けて、歩き出す。「うん。じゃ、またね」香澄さんの言葉を聞き流して、ぼくは校門をくぐった。
一人、来ないバスを待つというのは、なかなか不毛な行為だと思う。
いつもなら、時間つぶしのために文庫を一冊、カバンの中にいれておくのだけれども、あいにく今日に限って、そういうものがなかった。ぼうっと、備え付けのベンチに座って無駄に時間をすごすというのは、結構な苦痛だった。
ため息をついて、空を見上げる。……ばかだよな、ぼくも。そう思いながら、ぼくは腕時計を見た。
……電車で帰った方が、早かったかな? 思ったけれども、もう、電車を使うよりはバスを待っていたほうが早い。ぼくはため息をついて、バスを待つことにした。
いつもバスがやってくる方から、自動車のエンジン音が聞こえる。それがバスでないことは、エンジン音ですぐにわかったけれども、いつもの習慣だろうか、ぼくはのろくさと、そちらに目を向けた。
見覚えのあるカローラがやってきて、ぼくの目の前でとまった。運転席のドアが開き、「久保くん」そこから顔を覗かせたのは、香澄さんだった。
香澄さんは、安堵のものらしいため息をついて、ぼくに向かってきた。
「よかった。バスの時間調べたら、この時間、ないのがわかったから。電車かなにかで帰ったかな、とも思ったんだけど……」
さっき、香澄さんの前から逃げるためだけについたうそのことを責める様子もなく、それまでと……ぼくが、音楽室で、男と一緒にいた香澄さんを目撃する前と……変わらない口調で、香澄さんはいった。
「車、のっていかない? 家まで送ってあげる」
思いがけない言葉。……まさか、それだけのために、ここにきたというのだろうか? ぼくは思い、けれども同時に、ぼくみたいな取るに足らないような一年生相手に、香澄さんがなんでわざわざこんなことをするのか、このまま、ほっといてもらった方がよほど気が楽なのに、という、どちらかといえば卑屈な考えも、浮かんできていた。
だから、だろう。ぼくはかなり意固地になっていた。
「バス、もう、すぐに来ますから」
ぼくは香澄さんから露骨に目をそらし、今の気分そのままの口調でいった。けれども香澄さんは、そんなぼくの態度にめげる様子もなく、
「そんなこといってないで、年上の好意には、甘えておきなさいよ」
やはりそれまでと同じ、いつもの……いつも以上に、優しい、おだやかな調子でいった。けれども。
今さら、できるわけ、ないじゃないか。『じゃあ、遠慮なく』とかなんとかいって、香澄さんの車に乗ることなんて。こうして香澄さんと面と向かって言葉を交わしていることだって、苦痛なのに。車の中なんていう密閉された空間の中なんて、とてもじゃないけど、ぼくには耐えられない。
「大丈夫ですよ。ほんとに、バス、すぐに来るし。……香澄さんだって、いろいろとやること、あるんでしょう?」
香澄さんは、ため息をついてぼくを見た。仕方がないなぁ、とでもいいたそうな表情で、小さく苦笑すると、
「私のことなんていいから、のってよ。私は、久保くんに、のってほしいんだから」
ぼくは驚いて香澄さんの顔を見た。香澄さんが、本当に、ぼくを家に送る、それだけのためにここに来たことがわかったから。けれどもぼくは、そんなことをされて、かえってみじめになる自分を感じていた。つい、ぼくは声をあらげてしまう。
「ほっといてください。……そんな、そんなことしてもらったら、自分がみじめになるだけじゃないですか。ぼくのことなんて、ほんとはどうでもいいんでしょう? そんなんだったら、ほっといてもらった方がよっぽどましですよ」
一瞬の沈黙。そして、香澄さんは、静かに口を開いた。
「放っておけないから、こんなことをしているんじゃない。ほんとにどうでもいいなら、何もしやしないわよ」
静かな、けれども確固とした意志を感じさせる声で香澄さんはいった。そしてため息をついて、
「……久保くん、文化祭、もしよかったら、軽音部のライブ、見に来て」
ぽつりといいおくと、車の運転席の方へまわり、車にのった。何度も何度も切り返しをして車をUターンさせると、香澄さんは、去っていった。
いつかもわからない時代、感情をなくした人々のもとへ、一人の旅人がやってくる。旅人はこの世でただ一人、感情をなくしていない人間だった。
無関心、無感情の人々の中にあって、やがて旅人は一人の少女に恋をする。けれども、感情を失った少女には、旅人の言葉もむなしい……
どこにでもあるような話だ。もとにした話は、たしか悲劇に終わっていたはずだったけれども、ぼくは安直に、それをハッピーエンドにすることにした。
文化祭まで、あと一週間ちょっと。二、三日前に、「クラスごとの出し物は、投票で一番よかったものを決め、そのクラスには賞品が出る」ということが急遽決まってから、がぜん、クラス全体の活気が増していた。
そんな中で、ぼくはあいもかわらず、落ち込んでいた。
何か、気晴らしになることでもあればいいのだけれども、あいにくそういったことには、最近は縁がなかった。ため息を一つついて、ぼくはなにげなしに、ワープロで清書した台本に目を向けた。配役や、後から見つけた台詞のおかしなところの修正など、いろいろな書き込みがあって、相当に酷使されているそれは、もう、ぼろぼろだった。……まあ、ぼくの管理状態が悪いというのもその一因ではあるのだけれども。
「よーし、それじゃあ、通してやってみようぜ!」
誰がいったのかはわからなかったけれども、「おう」という声があがり、そして全部で十人足らずのにわか役者達が立ち上がった。
袖から旅人が登場。街の人とすれ違うたび、旅人は彼らに挨拶をするけれども、街の人の反応はそっけない。
そんなことには慣れた様子の旅人は、街の広場でギターを弾く。そして、やってきた街の少女が、足をとめる。
『きれいなおとですね』
少女は、何の抑揚もない声で旅人に声をかけ、そして旅人は、大仰に驚く。
『ああ、生まれてこの方、はじめて私の音をほめてくれる人がいた!』
心底うれしそうに喜ぶ旅人を不思議そうな顔でみて、そして少女は去っていく。
……早いテンポで進んでいく、その練習を見ながら、ぼくはもう一つ、ため息をついた。
たまに、クラブにも顔を出さなくちゃな。ぼくは思って、久しぶりに部室のドアを開けた。
「おう、久保。大変らしいな?」
部長が声をかけてくる。部屋には部長一人しかおらず、「他の人は?」問うたぼくに、「みんな、クラスだの、他のクラブだのの手伝い」ぼくは納得して、うなずきを返した。実際、文化祭で何もしない文化系のクラブというのは、うちくらいなものだろう。ぼくはとりあえず、手近な席に座って、荷物をおいた。
「クラスの方は、いいのか?」
ぼくはうなずいた。先ほど、終わらせたばかりだというと、「そうか」と、部長はうなずいた。
「ああ、そうそう。二、三日前かな? ほら、この前、久保のとこにきた三年生……鈴木さんだっけ? 彼女がきてさ、久保はいないっていったら、帰っていったんだけど……」
香澄さんが? 部長の言葉に、ぼくは驚いた。何をいまさら……そんな気もしないでもなかったけれども、なぜだかぼくは、わずかに心が浮き立つのを感じていた。
けれども、そうでいられたのもほんの一時だった。結局のところ、何を、どんなふうにいわれたって、このあいだ見たものは現実なのだ。何も、言葉をはさむ余地なんてものは、ありはしない。ぼくはなるべく感情が表に出ないように注意して、心の中で、自分自身に、苦笑した。もう、そんな幻想は、抱いてはいけないのだ。
「久保のクラスは、劇をやるんだったよな?」
部長の問いに、うなずきを返す。
「台本、書かされちゃって、さんざんでしたよ」
ぼくは苦笑まじりに応えた。ふうん、と、うなずく部長。そして部長は、もう一度「あ、そうそう」といいながら、カバンの中から紙の束を取り出した。それをぼくに手渡す。
「はい。次回の『幻文だより』の原稿用紙。久保がいなかったから、勝手に枚数は決めさせてもらったから」
……もう、そんな時期だっけ? ぼくは原稿用紙を受け取りながら、思っていた。次は、どんなものを書こうか? 考えていると、
「誰もこないみたいだし、戻ろうか?」
「そうですね」ぼくは言葉を返して、立ち上がった。
部屋に鍵をかける部長をしりめに、ぼくは歩きだした。渡り廊下から外を眺め、相も変わらずの秋晴れを確認する。校庭にうわっている広葉樹も紅葉が盛りになり、いよいよ秋らしくなってきていた。ぼくは、かなり傾いた太陽を見て、そして歩きだした。
玄関で靴をはきかえ、そして外に出る。
ぼくは、なにげなしに、空を見上げた。
空が、高い。
ぼくは、はぁ、と、ため息をつき、空を見上げたまま、そこにじっと、立ち尽くしていた。
「うわぁ。そらがたかぁい」
後ろからかかった声にどきりとして振り返る。ぼくと同じように、空を見上げて立っていたのは、香澄さんだった。
香澄さんはしばし、そのまま立っていた。じっと、空を見つめる香澄さんの姿は、やはり誰が何といおうともきれいで、つい、ぼくは香澄さんに見とれてしまっていた。
……見るくらい、いいよな。ぼくが自分を納得させている間に、香澄さんは、ぼくに気付いたようだった。ふと、香澄さんとぼくと、目があう。
一瞬。気まずい沈黙が、二人の間に流れる。香澄さんはつと目をそらし、そしてぼくは口を開いた。
「このあいだは、どうも。わざわざ」
小さく首をふる香澄さん。「車なら、あのくらい、すぐだから」いって、そして彼女は、ゆっくりと、顔をあげた。どんな顔をして香澄さんを見ればいいのかわからなくなり、今度はぼくが、目をそらす。
「……あの、ね。このあいだの人は……」
ぼくは、その言葉を、さえぎった。そんな話を聞いておもしろいやつがいたら、そいつの顔をおがんでみたい。
「ぼくには、関係ないから。香澄さんが、誰といたって」
口ごもる香澄さん。小さな、ため息が聞こえる。ややあって、香澄さんが口を開いた。
「……自分が壊したものは、自分でなおさないといけないのよね」
ぼくは、香澄さんの言葉の意味を理解できず、「は?」間抜けな声を出していた。……何を、いいたいのだろう?
「昔ね、よく、人形とか、いたんだものを、自分でなおすのが、好きだったの。少しくらい、見た目が悪くなっても、なんだかそれが、自分だけのものになったような気がして、うれしかったわ」
……ますます、わからなくなってきた。
いや。本当は、わかりたくなかっただけなのかもしれない。
ともあれぼくは、香澄さんとこうしているのが、しだいに耐えられなくなってきていた。口をつぐんだ香澄さんにちらりと目をやって、
「ぼく、バスの時間があるから」
まだ、時間ならたっぷりとあった。けれども、こういう時のいいわけには、これがいちばんいいと、ぼくは知っていた。
香澄さんに背を向けて、歩き出す。「うん。じゃ、またね」香澄さんの言葉を聞き流して、ぼくは校門をくぐった。
一人、来ないバスを待つというのは、なかなか不毛な行為だと思う。
いつもなら、時間つぶしのために文庫を一冊、カバンの中にいれておくのだけれども、あいにく今日に限って、そういうものがなかった。ぼうっと、備え付けのベンチに座って無駄に時間をすごすというのは、結構な苦痛だった。
ため息をついて、空を見上げる。……ばかだよな、ぼくも。そう思いながら、ぼくは腕時計を見た。
……電車で帰った方が、早かったかな? 思ったけれども、もう、電車を使うよりはバスを待っていたほうが早い。ぼくはため息をついて、バスを待つことにした。
いつもバスがやってくる方から、自動車のエンジン音が聞こえる。それがバスでないことは、エンジン音ですぐにわかったけれども、いつもの習慣だろうか、ぼくはのろくさと、そちらに目を向けた。
見覚えのあるカローラがやってきて、ぼくの目の前でとまった。運転席のドアが開き、「久保くん」そこから顔を覗かせたのは、香澄さんだった。
香澄さんは、安堵のものらしいため息をついて、ぼくに向かってきた。
「よかった。バスの時間調べたら、この時間、ないのがわかったから。電車かなにかで帰ったかな、とも思ったんだけど……」
さっき、香澄さんの前から逃げるためだけについたうそのことを責める様子もなく、それまでと……ぼくが、音楽室で、男と一緒にいた香澄さんを目撃する前と……変わらない口調で、香澄さんはいった。
「車、のっていかない? 家まで送ってあげる」
思いがけない言葉。……まさか、それだけのために、ここにきたというのだろうか? ぼくは思い、けれども同時に、ぼくみたいな取るに足らないような一年生相手に、香澄さんがなんでわざわざこんなことをするのか、このまま、ほっといてもらった方がよほど気が楽なのに、という、どちらかといえば卑屈な考えも、浮かんできていた。
だから、だろう。ぼくはかなり意固地になっていた。
「バス、もう、すぐに来ますから」
ぼくは香澄さんから露骨に目をそらし、今の気分そのままの口調でいった。けれども香澄さんは、そんなぼくの態度にめげる様子もなく、
「そんなこといってないで、年上の好意には、甘えておきなさいよ」
やはりそれまでと同じ、いつもの……いつも以上に、優しい、おだやかな調子でいった。けれども。
今さら、できるわけ、ないじゃないか。『じゃあ、遠慮なく』とかなんとかいって、香澄さんの車に乗ることなんて。こうして香澄さんと面と向かって言葉を交わしていることだって、苦痛なのに。車の中なんていう密閉された空間の中なんて、とてもじゃないけど、ぼくには耐えられない。
「大丈夫ですよ。ほんとに、バス、すぐに来るし。……香澄さんだって、いろいろとやること、あるんでしょう?」
香澄さんは、ため息をついてぼくを見た。仕方がないなぁ、とでもいいたそうな表情で、小さく苦笑すると、
「私のことなんていいから、のってよ。私は、久保くんに、のってほしいんだから」
ぼくは驚いて香澄さんの顔を見た。香澄さんが、本当に、ぼくを家に送る、それだけのためにここに来たことがわかったから。けれどもぼくは、そんなことをされて、かえってみじめになる自分を感じていた。つい、ぼくは声をあらげてしまう。
「ほっといてください。……そんな、そんなことしてもらったら、自分がみじめになるだけじゃないですか。ぼくのことなんて、ほんとはどうでもいいんでしょう? そんなんだったら、ほっといてもらった方がよっぽどましですよ」
一瞬の沈黙。そして、香澄さんは、静かに口を開いた。
「放っておけないから、こんなことをしているんじゃない。ほんとにどうでもいいなら、何もしやしないわよ」
静かな、けれども確固とした意志を感じさせる声で香澄さんはいった。そしてため息をついて、
「……久保くん、文化祭、もしよかったら、軽音部のライブ、見に来て」
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