瞳いっぱいの微笑みを

中富虹輔

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四章 十月~十一月

四 涙

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 それから、最後のホームルームまでの二時間あまりが、やけに長かった。無目的に校内をうろうろするだけでは、時間の流れが早いわけもない。結局、やることがなくなった最後三十分には、ぼくは教室に戻ってきてしまい、自分の席で、ただぼうっと、時間が過ぎていくのを眺めていた。
 どのくらいの間、そうしていたのだろう。
「なっがっみっちくんっ」
 場違いに明るい声が、後ろからかかった。ぼくがのろくさとそっちを振り返ると、久我は大げさな仕草で、盛大なため息を吐き出した。
「なによ、そのこの世の終わり、みたいな顔はぁ。オトコノコでしょ、ほら、もうちょっとしゃっきりしてよ」
 その、彼女の異常なまでのハイテンションぶりに、ぼくは驚き半分、戸惑い半分で、その顔を見た。
「……由美香、何か、いいことでも、あった?」
 おそるおそる問うと、「ばーか」と、彼女は陽気に言葉を返してきた。そして彼女は、不意に、背中から、ぼくに抱きついてきた。驚くよりも先に戸惑いが立ち、「ちょっと、由美香」いってから、それからどうすればいいのかわからなくなって、じっとしていると、久我はすぐに、自分から身体をはなした。
 彼女はぼくの正面へ移動すると、手近なところにあった机の上に腰を下ろして、とびっきりの笑顔を作ってみせると、「いいこと、教えてあげようか?」
「いいこと……?」
「そ」にこやかにうなずくと、彼女は、もったいつけるかのように、言葉を短く区切りながら、いった。
「ライブでギター弾いていたあの人ね、鈴木さんの、そういう人じゃ、ないんだって」
 なん……だって?
 知らず、ぼくは椅子を蹴倒して立ち上がっていた。「由美香、それ……」
「本人から聞いたから。間違いないと思うよ。……あーあー、焦らない焦らない」
 そのまま駆け出そうとしたぼくを、久我は苦笑しながら制止した。
「伝言、預かってるから。四時に、長路に本を選んでもらった本屋で、待ってるって」
 それだけを聞いてしまうと、なんだか気が抜けてしまい、ぼくはまた、椅子に座りなおした。
「由美香……香澄さんに、あってきてくれたの?」問うと、久我はううん、と、首を横に振った。「鈴木さんが、私のとこまで来てくれたの。……長路が、途中で逃げ出したの、気がついてたみたいだったよ」
 ……それじゃあ、あそこで香澄さんがぼくの方に微笑んだのは、ぼくの気のせいではなかった……のだろうか。
「また、一緒にいってあげようか?」
 久我は問うてきたけれども、ぼくは首を横に振った。「大丈夫。……一人で、いけるよ」
 うん、と、彼女がにこやかにうなずくのと同時に、級友が三、四人、教室に戻ってきた。

 ホームルームが終わったのが三時十五分。香澄さんに指定された時間には、まだ十分な余裕があったけれども、ぼくは駆け出していた。
 香澄さんよりも前に、その場所に行っていなければいけない。少なくとも、香澄さんを待たせるようなことがあってはいけない。そんな、強迫観念にも似た思いが、ぼくを駆り立てていた。
 駅前のアーケードにはいり、そして本屋をめがけて、わき目もふらずに走り抜ける。ぼくはあたりをきょろきょろと見回して、そして香澄さんの姿が、どこにもないことを確認した。
 よし、間にあった。
 思って、ぼくは店の中に入った。ぐるりと店内を一周して、腕時計を確認する。
 三時三十分。
 ……あと三十分、か。思いながら、ぼくは店の外に出た。時間はあるのだから、立ち読みでもしながら待てばいいのだろうけれども、とてもそんな気分ではなかった。
 店の入り口近くの、人の通行のじゃまにならない場所を選んで、ぼくはそこで、香澄さんを待った。
 こういうときに限って、時計の針が進むのはのろい。一瞬、本気で時計の電池を交換してやろうか、などというばかばかしい考えが頭に浮かんだけれども、さすがにそれを実行する気にはなれなかった。
 時計を気にしいしい、学校の方から時折やってくる見慣れた制服の中に、香澄さんの姿がないかをさがす。
 そんなことを続けていたから、香澄さんがやってきた時間を、はっきりということができる。
 三時四十二分。
 こちらも、ずいぶんと早い到着だった。まだたっぷりと時間はあるはずなのに、香澄さんは時計を見ながら、小走りにこちらにやってくる。
 ほどなくして、香澄さんも、こちらに気付いたようだった。香澄さんはぼくにかけ寄ってきて、立ち止まるなり、口を開いた。
「校門かどこかの方が、わかりやすかったかもね」
 え?
 ああ、待ち合わせ場所のことか。唐突な言葉に納得するのに、少し時間がかかってしまった。
「……そう、ですね」応えてから、ようやくぼくも、何もわざわざ、こんなところを待ち合わせ場所にしなくてもよかったのか、ということに気づいた。
 そして、沈黙。
 その沈黙に耐えきれなくなって、ぼくはどんな些細なことでもいいからと思って、口を開いた。
「ずいぶん、早いですね。……約束、四時でしたよね?」
 香澄さんは小さく苦笑した。「そんなこといったら、もっと早い久保くんはどうなのよ?」いたずらな口調で問うてきたけれども、
「香澄さんよりも早く、ここに来ていなきゃいけないような気がしたんです」
 つい、きまじめに応えてしまった。香澄さんは、小さくくすりと笑った。「そんなことしなくたって、私はどこにも行きやしないわよ」
 もう一度微笑を浮かべると、「ちょっと、歩こうか」いって、
「え? あ、はい」
 ぼくの返事を確認すると、駅の方へ向かうように、ゆっくりと、歩き出した。
 そうしてしばらく、ぼくらは無言のまま歩き続けた。
 ぼくは、戸惑っていた。
「歩こう」なんていったからには、香澄さんに何かの意図があるものだと思っていたのだけれども、香澄さんはそれきり、ただ黙々と歩いているだけだった。
 もしかして、ぼくの言葉を待っている? それに気づいたのは、駅前の通りを抜けて、目の前に駅を控えた赤信号で立ち止まったときだった。
 なんでもいいから、話さなくては。そう思って、ぼくが口を開こうとした、ちょうどそれと同時に、
「駅裏にね、おいしい紅茶のお店があるの。そこ、いってみない?」
 先を越されて、ちょっと気が抜けてしまい、けれどもぼくは「いいですよ」うなずきを返した。
 信号が青になる。同じように信号待ちをしていた人たちにまぎれて歩きながら、香澄さんは口を開いた。
「この間の、音楽室の人だけどね……」ぼくが割り込んでこないかを確認するかのように、少し言葉尻を濁し、少しの間を開けて、言葉を続けた。
「久保くんにとっての、久我さんみたいな人なんだ。小さい頃からのつきあいで、あんまり、男の人、っていう意識はないの」
 先日の音楽室のあれは、「肩がこった」と愚痴をこぼした香澄さんが、彼に肩を叩かせた(人をあごで使う香澄さん、という光景は、ちょっと想像しにくかったけれど)ときに、彼の方が悪ふざけをして、ぼくが目撃した「不埒」な振る舞いに出たのだ、ということだった。
「もうちょっと早いうちにいうつもりだったんだけど、久保くん、人の話、聞いてくれないから」
 苦笑しながら、香澄さんはいった。
「すみません」ぼくは応えた。香澄さんの方に目を向けるのがためらわれ、結局ぼくは、香澄さんには目を向けず、言葉を続けた。「勝手に見たものを誤解して、ひどいこといって……」
 ここで、香澄さんが怒っていないのが……「人の話を聞こうともしない、自分勝手な奴」だと思われて、嫌われていないのが……不思議なくらいだった。
 香澄さんは、ゆっくりと首を横にふった。「あんまり、気にしないで。あのときはちょっと、タイミングが悪すぎたし。……久保くんが、意外と頑固なのには、ちょっとまいったけど」
 香澄さんは、小さく笑った。「すみません」ぼくはもう一度いって、ちょうどそれと同時に、ぼくらは香澄さんのいう「おいしい紅茶の店」に到着していた。
 店は、それほど込んではいなかった。ぼくらは適当な場所に席を取り、お茶と、食べるものを注文した。
「久保くん、おぼえてるかな? いつだったかに、私、音楽室で、泣きながらピアノを弾いていたこと、あったでしょう?」
 問われ、ぼくはうなずきを返した。あの夏の雨の日に続いて、もう一度、香澄さんの涙を見てしまった日。
「あのときに久保くん、もう、私が泣いているところなんか見たくなかったのに、って、いったよね?」
 え?
「そんなこと、いいました?」思わず、問い返していた。そんなことをいったおぼえはなかったし、もしも香澄さんのいったことが本当なら、そんなことは完全に、記憶から抜け落ちてしまっている。
 香澄さんはうなずいた。「いったいった。私、はっきりおぼえてるもの」
 断定口調で言葉を返され、「そう、ですか?」ぼくは首をかしげることしかできなかった。
「……そっか、久保くん、おぼえてないのか」香澄さんは独り言のようにつぶやき、それでも、「まあいいや。おぼえてないのなら、それでもいいんだけど、確か私、久保くんの前で泣いてるのを見せたのって、あのときが初めてだったと思ったんだけど。
 ……それよりも前に、私、どこかで久保くんに泣いているとこ、見られたのかな?」
 ぼくははっとして香澄さんに目を向けた。それは、夏休みのあの日のことをわかっていて、あえてぼくの口からその言葉を引き出そうとしているとも、本当に、あの日のことをおぼえていないとも受け取ることができる言葉だった。
「お待たせしました」
 アルバイトの高校生らしい女の子が、注文したものを運んできた。
 おかげで話が中断してしまい、なんだか何かをいう機会を逸してしまった格好になって、ぼくはひとまず、紅茶を一口、口に含んだ。カップをテーブルにおくまでの数瞬で、ぼくは意を決した。
「香澄さん、夏休みのこと、おぼえてますか?」
 微笑みを浮かべる香澄さん。「雨の日のこと?」
 ぼくはうなずいた。香澄さんも、お茶を一口、口に含み、カップをおく。
「あの日、ね。家にあったピアノとか、楽譜とか、そういうものが全部、処分されちゃったんだ」
 ため息を一つついて、香澄さんはもう一口、お茶を飲んだ。
「前から、成績が落ちはじめててね。あの日のちょっと前に、模擬テストがあったんだけど、その成績がまた最悪で。お父さんが、『こんな大事な時期に、楽器なんかいじっているから成績が落ちるんだ』って、かんかんになっちゃって。
 ピアノは昔から家にあったものだったんだけど、楽譜とかは、自分で揃えたものだったから……ちょっと大げさかもしれないけど、そういうのが処分される、っていうのは、今までの自分が、全部否定されたみたいな気がしてね。もう、なんだっていいや、みたいな気分で、あのバス停にいたんだ」
 いって、香澄さんはまっすぐにぼくを見つめた。「おぼえてる? あの時、久保くんがいってくれた言葉」
 ぼくはうなずいた。「……『風邪、ひきますよ。そんなとこに立ってると』」
 香澄さんは微笑みを返し、「あのあとね、ずっと、あの時の人には、悪いことしちゃったな、って、気になってたんだ。一言、謝りたいな、って思って」
 お茶で軽く唇を湿らせてから、香澄さんはもう一度、口を開いた。
「久保くんが、あの時の人じゃないかな、って思うようになったのは、いつだったかに、『雨に、いやな思い出でもあるみたいですね』っていわれた時、かな?
 それが久保くんだ、って、はっきりわかったのが、泣いてピアノを弾いていた日。久保くんはおぼえてないみたいだけど、あの時の、『もう、私の涙なんて見たくなかったのに』っていう言葉だったんだ」
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