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序章
序章3―3:エミール
しおりを挟むこの瞬間、エミールは正しく聖剣の主となった。
そしてこの盟約により、彼は呪いに掛かることになる。
何か大切なものが自分の中から消え去ったような気がして、エミールはゆっくりと目を開けた。
そして彼も、周囲の者たちも、呪いの本当の意味を知ることになる。
「エミール!」
オスロが駆け寄るなり、エミールを抱き締めた。ラルアも青ざめていた。
二人とも、エミールの頬や髪を撫でながら「大丈夫か?」「怪我は? 見せてごらんなさい」と目を潤ませていた。
一般的な五歳の子どもなら、心配する親の気配にのまれて泣き出すだろう。
しかし、エミールは違った。
傷が塞がった手のひらを無感情に見つめ、温度のない声で答えた。
「平気です」
それは、あまりにも事務的な声だった。
エミールが持っていた愛らしさは、もうどこにもなかった。
なんでもない一日になるはずだったのに、彼の日常は変わってしまった。
彼は“選ばれた”のだ。そして、呪われた。
カミルサール王国建国二千年の祝祭で消失し、再びスヴァロストル帝国に姿を現した聖剣によって。
**********
エミールは、自分の右手の甲に刻まれた薔薇のような聖紋に視線を落とした。
そこには、名が刻まれている。
―――ERSHIEL
あの日、エミールは聖剣とともにこの真名を授かった。“星と月の誓約を結ぶ者”という意味だ。
不思議なことに、この文字を視認できるのは彼だけだった。そして、自分以外にこの真名を視認できる者こそが、エミールの運命の相手―――聖剣の主としての意識が、そう理解していた。
総ての愛を“誰か一人”に捧げるために、これまでの感情すべてを失ってしまったエミール。
感情を失った彼は、自分の身に降りかかった理不尽な運命が幸か不幸かを判断することすらできない。
けれど、周囲の反応を見る限り―――どうやら幸せではなさそうだ、という予測だけは立つ。
この状況を、「物語のようだ」とか「ロマンチックだ」とか言う人もいたが、彼にとっての愛は呪いにほかならない。
意識を切り替えるように、エミールは本邸へ視線を移した。
エントランス前にはまだ馬車が止まっている。雨の中、使用人たちが苦労しながら荷物を下ろしていた。どうやら帰路でさまざまな物を買い込んできたらしい。
オルレアン侯爵家の本邸は、白亜の外壁に緑青を帯びた銅の屋根を戴き、正面には列柱が並ぶ。
古典様式を基調としながらも随所に異国趣味の意匠が施され、開国の功臣家門としての誇りを静かに物語っているかのようだ。
夕闇に溶ける列柱の影は、建物全体を雨霧の中に浮かぶ幻の宮殿のように見せていた。
この荘厳さこそ、位こそ侯爵でありながら帝国内での影響力が公爵家にも並ぶといわれる所以なのかもしれない。
正面ではなく、回廊と繋がった通用口から本邸へ入ったエミールは、そのままエントランスへと足を向けた。
雨のせいで訓練の熱はすっかり冷めていたが、麻のシャツに皮の胸当て、腰ひもで調整した綿のズボンという格好は、とても客に会えるようなものではない。
一度風呂に入り、着替えたほうがいいだろう―――そう考えながら廊下を歩いているうちにエントランスが見えてきた。
エミールは「ひとまず挨拶だけして引っ込もう」と決め、出迎えで壁を成している使用人らに「どいてくれ」と声を掛けながら前へ進んだ。
「父上、おかえりなさ――……」
父への帰宅を迎える挨拶は、最後まで告げることができなかった。
エントランスホールの正面には、ひときわ目を引く大階段。
両脇には石造りの魔道具の燭台が立ち、炎のような灯りが揺らめいている。
天井高く吊るされた水晶のシャンデリアが光を散らし、大理石の床には家紋を象ったモザイクが輝いていた。
しかし、エミールにはそれらの煌びやかさなど目に入らなかった。
―――精霊がいる……。
それは、エミールの正直な感想だった。
絹のリボンで結ばれた銀糸の柔らかい髪。
陶器のようになめらかな肌。
深い海のような青い宝石眼。
父が遠くノルディアスから連れてきた少年は、ふわりと花が咲くように微笑んだ。
その笑みは、失われたはずのエミールの感情を揺り起こし、そのすべてを攫っていくほどに美しい。
「こんにちは。はじめまして、アレクシスです」
鈴の音のような愛らしい声に、エミールの心臓は高鳴った。それをどうにかしたくて、無意識に右手で胸元のシャツを握りしめる。
挨拶を返さなくては―――そう思うのに、言葉が出てこない。それどころか、アレクシスと名乗った少年から視線を外すことさえままならなかった。
「おにいさま?」
それは、妹レティーシアの声だった。
彼女はすでに挨拶を済ませたあとなのか、今はアレクシスの右手を両手で握りしめている。
連れてくる前は散々文句を言っていたくせに、なんという変わり身の早さだろう。
アレクシスに触れるレティーシアに、エミールは苛立ちを覚えた。しかし―――
「エミールっ、なんだ、その格好は!」
オスロの叱責に、エミールははっとした。
「あ……、すみません、剣術訓練をしていて……」
かろうじて弁明したエミールだったが、今度は母ラルアが苦言を呈す。
「だからって、そんな埃まみれ汗まみれで初対面なんて、恥ずかしい真似はやめなさい。アレクシスが戸惑っているでしょう?」
ラルアの指摘に、エミールは恥ずかしさからカッと顔を赤らめた。
―――そうだ! 汗まみれで埃まみれだった!
「申し訳ありません! 湯浴みをしてまいります!」
声を上げるや否や、エミールは身を翻し、大階段を駆け上がっていった。
その様子に、アレクシス以外の全員が驚いた。
「嘘だろう……? あの子が、慌てたのか……?」
オスロが呟く。
「エミールが顔を赤らめたわ」
ラルアが震える声で言う。
「おにいさまが、てれた……」
それはレティーシアの独り言だった。
周囲にいた使用人たちも「坊ちゃまの表情が動いた」「坊ちゃまに感情が戻った」と口々に言い、中には目を潤ませている者さえいた。
訳が分からないまま、アレクシスは目を瞬かせるしかなかった。
三ヶ月という帰路の途中、オスロから「長男のエミールは少し気難しいと感じるかもしれない」と聞かされていたが、とてもそうは見えない。
どこからどう見ても、自分と同い年の少年のようだ。
しかし、周囲の反応を見る限り、どうやら複雑な事情があるらしい。
それに……――
「薔薇のアザ……」
アレクシスは、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
エミールの右手の甲に、ちらりと見えた薔薇のようなアザ。
父フェルナンの右手の甲にも同じものがあった。だからこそ気づいた。
父のものとは似て非なる“それ”に。
エミールの右手の甲には、アザとともに文字が刻まれていた。
―――ERSHIEL
星と月の誓約を結ぶ者、という意味だ。
その美しい響きと意味に、アレクシスは自分が授かったばかりの真名へ想いを馳せる。
―――ETRUCEAL
月影を抱く者。
侯爵邸へ帰る前、オスロに連れられて訪れた中央教会での洗礼により授かったアレクシスの真名だ。
ちらりと見えたエミールの手の甲の文字と、響きや“月”という意味が重なることに、特別なものを感じるのは―――……自分だけだろうか。
胸の奥で、微かなざわめきが生まれた。
それが何なのか、アレクシスはまだ言葉にできない。
ただ、あの桃色の瞳に自分が映った瞬間、世界が色づいて煌めいたような気がした。
**********
一目散に自室へ引っ込んだエミールは、すぐに浴室へ向かった。
すでに湯あみの準備が整っていたため、汚れた衣服を脱ぎ捨て、身の置き場を求めるように浴槽へと身を沈める。
「恥ずかしい……」
小さく呟いたエミールは、頭の先まで湯に潜ると、改めて後悔の念に沈んだ。
父の髪色と同じはずなのに、あの少年―――アレクシスの銀色の髪は照明を受けて煌めき、光が舞っているようだった。
宝石のような青い瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいて、目が合った瞬間、心臓が早鐘を打った。
あんな美しい少年が存在するなんて、信じられない。
いや、美しいと称される人に会ったことはある。
しかし、ここまで感情を揺り動かされたことなど―――
そこまで考えたところで、エミールは勢いよく湯から顔を出した。
濡れた髪先や顎先から、ぽたぽたと湯が滴り落ちる。
「は……? 気持ちが、動いた……?」
―――私の感情が、動いたというのか? この私に、心が存在するとでも……?
「うそだろう……?」
エミールは、大きく戸惑った。
そう、戸惑ったのだ。
感情が揺らめき、頭ではなく胸の奥から言葉が湧き上がってくる。
胸の内で、何かが確かに動いている。
温かく、痛く、どうしようもなく生々しい“心”が。
―――再び笑ったり、悲しんだりすることができるかもしれない……?
そんな希望めいた予感が、ふいに胸を満たした。その期待が嵐のように押し寄せ、エミールは無意識に涙を零す。
しかしエミールはこの時、感情の揺れ動きが久方ぶりすぎたせいで大切なことを忘れていた。
自分が、呪われているのだということを。
エミールの胸の奥で、名もない感情が、静かに息をし始める。
それは芽吹きのように柔らかく、同時に運命の鎖のように重く、まとわりついて離れない甘い蜜のようだった。
**********
初恋は叶わないと聞きました
~彼の微笑みに捕らわれた瞬間、世界が色づいて初恋が始まりました~
First Love Is a Dream That Never Comes True
~He heals luxe hues; a charm stirs true heart. See his smile — it rarely meets ideal first.~
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