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五章 一幕:お伽噺と魔王の正体
五章 一幕 2話-1
しおりを挟むはじめ、私たちは真っ白だった。
いや、真っ黒だったのかもしれない。
何も感じず、何も考えず、ただそこに存在しているだけだった。
だから私たちの周りも真っ白で、真っ黒だった。
それが、色を持たないことだということ、無であるということを知ったのは、ずいぶん後になってからだ。
初めて声を発したのはどちらだったのか、覚えていない。
それが声だと知ったのは、初めて視線が交わったことを理解した時だった。
それは、神が世界の創造を終え、地上を離れるほんの少しだけ前のこと。
私たちは自分とは違う相手を認識することで、初めて自分をも認識した。
それが、“存在する”という意識の始まりだ。
そうして自分が“存在する”ものだと分かると、自分の外に世界があることを知った。
やがて神々が地上を離れ、神代の終わりがやって来る。
世界は循環しはじめ、その歩みが滞らないための仕組み―――世界の理が誕生した。
神が居なくなった地上には人が誕生し、彼らは私たちを神の代理人と崇め奉った。
人は弱くて、でも、強くもあった。
そして何より、欲に忠実だった。欲は善いものもあったが、悪いものもあった。
そのうち、悪い欲が濁りのように世界に沈殿し始め、生物を脅かし始めた。
世界の理は、自浄作用の仕組みを生むべく、“私”という始まりの者―――イグドラシエルに、世界中の悪い濁りを吸わせ、浄化させ始めた。
私は気が狂うほどの苦しみを背負わされたが、それが苦しみだと気づいたのは、“私”の外に世界があることを知った時だった。
私の外の世界は、すぐ傍にいた。
それはそれは、大きな、大きな竜だった。
蒼い鱗と、黄金に輝く瞳。
紛れもなく、私の救いであり、私の守護竜だった。
彼は私の痛みも苦しみも、涙も、その膨大な魔力で癒してくれた。
だから、私は彼に名を付けたのだ。
ただ一人の、と言う意味の、ウェテノージル、と。
そいつは、いつの間にか傍に居て、とにかくうるさい奴だった。だが、凛として美しくもあった。
いつも話しかけてきては、“私”に触れていく。私は、そうやって自分の外に世界があることを知った。
そのうち、その声が心地よくなって、触れられるとどうしてか体温が上がるような気がした。
けれど、その意味に気づくことが出来ないまま、時は流れていく。
そいつは、いつも苦しんでいた。
世界の理が、世界を循環させるために組み込んだ浄化作用の所為だ。
愚かな人間どもの黒い欲は、人が大地を征服していくのに比例して増えていった。
私はこの状況が嫌でたまらなくて、ただ体内に渦巻いていた魔力を、魔法という形にして外へ放出した。
そうしたら、私に触れる美しい存在は、きらきらと輝きながら、私にすり寄った。
私の持つ魔力と、私が使った魔法が、私の外の世界にいる者を、癒したようだ。
久しぶりに穏やかな雰囲気になった彼は「私はイグドラシエルだ」と名乗り、私に名を付けた。
ただ一人の、と言う意味の、ウェテノージル、と。
私たちは自分の外に世界を持っていたが、そこには私たちしかいなかった。
けれど、それで良かった。一緒に居られれば、ただそれだけで充分だった。
言葉を交わす、触れる、寄り添い合う。
そうするうちに、心が生まれ、感情が動き、意志が根付いた。
私たちにとってこの変革は、祝福であり、呪いでもあった。
ある日、イグドラシエルが私の尻尾に大樹から蔦を伸ばして絡ませながら言った。
「ねぇ、ウェテノージルは長いから、ジルって呼んでいい?」
「お前が長くつけたのだろう」
「そうだけど。ねぇ、私のこともエルって呼んでいいからさ」
大樹をキラキラさせて強請られると、さっきまで浮かんでいた断る理由が霧散する。
「わかった。ではお前のことはエルと呼ぼう」
そう答えると、エルは嬉しそうにたくさんの花を咲かせた。
ある日、ウェテノージルは眉間に皺を寄せながら小言を言った。
「お前はいつもやかましいな」
「ひどいな。君が静かすぎるんだよ」
「そんなに毎日毎日、話すことなど無いだろう」
「私にはあるんだよ。それに、こういう時は、何も無くても傍にいられたらいいって言ってよ。つれないな、ジルは」
「私が傍に居なければ困るのはお前だろう、エル」
「ジルは私が傍にいなくても困らないの?」
意地悪く言うと、ウェテノージルは言葉を詰まらせて不貞腐れた。
でも、答えは分かっている。私の幹に長い尻尾を巻き付けてきたのだから。
ある日、私は、もっと遠くの世界を覗いてみたくなった。
理由を知りたくなったのだ。
私がなぜこんなにも苦しいのか。
私はなんのために痛みに耐え続けなければならないのか。
そして、この苦しみはいつか終わるか。
だから、ウェテノージルに飛んでもらった。彼は世界樹の私とは違い、大地に根を下ろしているわけではない。歩き、飛び、この場所から動くことが出来る。
ウェテノージルは私の願いを叶えるため、大きな翼を広げて、私たちの世界の外を覗きに行ってくれた。
その姿に、私は自由という言葉を知った。
私にはない、自由。
私には赦されていない、行動。
私が持ちえない、権利。
私の心の中に、一滴の黒い染みが落ちた。
それが妬みであり、恨みの素であり、呪いの源であることを理解したのは、取り返しのつかない事態が起こってからだった。
イグドラシエルの望みを叶えるため、私は空を飛んだ。
私たちの外にある世界は、驚くほど広かった。だが、私の翼をもってすれば、日の出から次の日の出までの刻で充分だった。
私たちの外の世界には、いろいろな種類の生命体がいた。姿かたちも、生態も、日々の暮らしも、千差万別だった。その中で最も興味深かった種族が、人間だ。
形だけは、この世界を去った神々のそれと似通っていた。
イグドラシエルのもとへ戻った私は、見てきた外の世界の話を伝えた。きっと喜んで、またたくさんの花を咲かせるだろうと思っていた。
けれど、イグドラシエルは小さく「いいな」と言っただけだった。
彼を悲しませるもの、苦しませるものを取り除くのが私の使命だ。
だから、私は告げた。それが禁忌であると知っていながら。
「エル、体を造ってやろうか」
そう言うと、イグドラシエルは大樹に色とりどりの花を咲かせることで、返事をくれた。
私は自分の顎の裏にある、体の中で最も硬い逆さの鱗を触媒にして、イグドラシエルの最も古い枝と、幹の皮の一部から、私の魔法で人に似た体を造りあげた。
そしてイグドラシエルの意志を詰め込んだ赤い実を大樹からもぎ、人の体でいうところの心臓を造ると、長い銀の髪と、宵闇の瞳を持つ、私が美しいと思う容姿に整えた。
エルは、体を手に入れたことを、とても、とても喜んでくれた。
ウェテノージルが、私に体を造ってくれた。彼のように空を飛ぶことは出来ないけれど、自分の意志で動くことが出来るようになった。
自由だ。権利を手に入れた。
浅はかな私は、大喜びしてウェテノージルの尻尾に抱き着いた。
その時、次の欲が頭をもたげた。
「ねぇ、ジル。ジルも人の姿になれる?」
逡巡していたウェテノージルは、何事かを呟いた。
すると、彼の体が光に包まれて、シュルシュルと小さくなっていく。そして、黄金の瞳に、蒼い髪、蒼い肌の背の高い人間の男の姿になった。
「ふむ、肌が蒼いのはおかしいか」
そう言って、ウェテノージルは私と同じ乳白色の肌を持つ人型になった。私は可笑しくて笑った。
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