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五章 一幕:お伽噺と魔王の正体
五章 一幕 6話-8
しおりを挟む雨は止んだが、空は曇ったままだ。空の中央から東側に向かって、徐々に色が濃くなっていく。夕刻の訪れを示していた。
「そろそろ帰らないと」
最初に口を開いたのはレオンハルトだった。腕の中でルヴィウスが「うん」と呟く。
離れがたい気持ちは同じだった。けれど、お互いに自分の場所でやるべきこと、そしてその背に圧し掛かる責任がある。
それは誰にも代われない。だから、現実へと戻らなければならない。その先に、共に居られる未来があるはずだから。
ルヴィウスがレオンハルトの背中をきゅっと抱きしめる。レオンハルトも、ルヴィウスをしっかりと抱き締めなおした。
「ルゥ、また来週どこかで会おう。日にちと時間はピアスの通信魔法で教えて? ほら、帰らないと寮から締め出されるよ」
レオンハルトの言葉に、ルヴィウスは「う~……」と可愛らしく唸ったあと、ぎゅうっ、と抱き着き、そのあと、意を決したかのように離れると、すくっ、と立ち上がった。
「よしっ、頑張る!」
握りこぶしを突き上げたルヴィウスは、少しだけ強がっているように見えた。
目覚めてから半年と少し。短いやり取りだけで繋がっていた間、ずっと、寂しさに耐えていたのだ。久しぶりに会って、顔を会わせ、言葉を交わし、触れ合って、抱き合って、甘えていいと言われて、取り繕えなくなってしまったのだろう。
レオンハルトはルヴィウスにヴェールを被せ直し、右腕で腰を抱き寄せると、頬に左手を滑らせ、口づけた。ヴェール越しにゆったりと、食むように、そして労わるように、唇を重ねる。
ルヴィウスはされるがまま、うっとりと目を閉じて与えられる口づけに応えた。
もしも、この場に二人以外の誰かがいたとしたら、絵画のような口づけの様子に目を奪われたかもしれない。
唇を離したレオンハルトは、ルヴィウスの唇をヴェール越しに親指の腹でなぞった。
「愛してるよ、俺の可愛いルゥ」
真っ直ぐな愛情を向けられて、ルヴィウスの瞳が潤む。半年分の寂しさと愛おしさを数時間で交わし合った所為か、来週また会えるというのに、切なさがこみ上げてくる。
ルヴィウスはきゅっと唇を真一文字に引き締めたあと、一つ深呼吸をして、ヴェールを取った。
「これはレオが持ってて」
そう言い、ヴェールをレオンハルトの首に掛けた。
「もしレオに何かあって、僕が君の傍に飛んで行くまでの間、誰かがレオに触れなくちゃいけなくなった時に必要だから」
レオンハルトが「わかった」と笑顔を向けると、ルヴィウスは「うん」と笑みを返し、一歩下がって距離を取る。
「先に転移していいよ。いつも俺が見送るばっかりだったから、今日はルゥを見送らせて」
「なんか、不思議な感じ」
「そうだな。ルゥが無詠唱で色んな魔法を使えるようになるなんて思いもしなかったから」
「僕も。自分がこんなふうに何でも出来るようになるなんて思わなかった。いつも、なんでもかんでも魔法で済ませちゃうレオのこと、面倒くさがりなんだなって思ったこともあったけど、今なら君がそうする気持ちが少し分かるよ」
「そんなこと思われてたなんて知らなかったよ。じゃあ、ルゥが魔法を使うことで怠惰になったとしたら、俺の所為だな」
「そうだよ。だから、ちゃんと責任取って」
互いに、小さく笑い合った。こうやって言葉を交わしながら別れを引き延ばそうと時間稼ぎをしたが、これ以上は無理そうだ。
「じゃあ、見送ってもらおうかな」ルヴィウスが言った。
「もちろん」レオンハルトは笑って頷く。
「今日はありがとう。すごく嬉しかった。今年のレオの誕生日は、絶対にお祝いさせてね」
「楽しみにしてる」
ルヴィウスは小さく手を振り、「またね、レオ」と笑って、くるり、と踵を返した。
次の瞬間にはもう、レオンハルトの前から姿を消していた。魔法を使った残滓の光の粒だけが、きらきらと輝いている。
レオンハルトの左手首のバングルが、ルヴィウスの位置を知らせてくる。
無事に、王宮の騎士団寮に着いたようだ。体調や魔力量にも問題が無いことも分かる。それを確かめてから、レオンハルトはウッドデッキから降り、湖畔に佇んで別邸を振り返った。
ぱちん、と一つ指を鳴らす。たったそれだけで、お茶を飲んだティー・セットも、二人で入ったお風呂も、カウチソファの乱れたブランケットも、総てが何事も無かったかのように片付いていく。
「こんなに便利だと、人をダメにするよなぁ」
さきほどルヴィウスが「いつも、なんでもかんでも魔法で済ませちゃうレオのこと、面倒くさがりなんだなって思ったこともあった」と言っていたのを思い出し、小さく笑う。
多少の不便さこそが、人の生活そのものなのだろう。指先一つで何もかもを終えられる自分は、やはり異質でしかない。だが、その異質さを忘れさせ、人らしく居させてくれる存在こそが、ルヴィウスなのだ。
彼と一緒にいると、時間を掛けて何かをしたくなる。面倒なこと、手間のかかること、そういった物事のすべてが、かけがえのない時間に変化する。
レオンハルトはヴェールを手に湖を振り返り、それと同時に転移魔法を展開させた。次の瞬間には、柘榴の宮殿の住居区三階、レオンハルトの自室に戻ってきていた。
エルグランデルではすでに夕食どきを過ぎており、外も室内も薄暗い。
レオンハルトは右手人差し指を、すいっ、と横に振る。すると、次々に魔道具のランプに明かりが灯り、部屋が明るくなっていく。
ヴェールを魔法で綺麗に整え、コートハンガーの空いたフックに引っかけた。そうこうしているうちに、帰還に気づいた侍従が扉越しに「おかえりなさいませ」と声を掛けてくる。レオンハルトは「入っていい」と許可を出した。
失礼いたします、との言葉のあと扉が開き、レオンハルトの身の回りの世話をする四名の侍従のうち、位の一番高いハイアット伯爵家三男、ルーベンが顔を出す。
榛色の髪に、エメラルドの瞳。レオンハルトより五センチほど背が高い細身のその男は、いつも隙の無いきちっとした身なりをしている。見た目は二十五歳前後だが、実年齢はその倍らしい。
「晩餐はいかがいたしましょう」
「食べてきたからいい」
もちろん、嘘だ。ただ、食べたくないということではなく、今は誰かに周囲をうろつかれたくないのだ。今日はもう誰にも邪魔されず、ルヴィウスに会えたことの余韻に浸っていたい。
「他に何か御用はございますか?」
「いや、今日はもう皆下がっていい。明日の朝は朝食を頼む」
「承知いたしました。いつものお時間にお声掛けさせていただきます」
「あぁ、頼む―――そう言えば、シェラはどうしてる? 食事は摂ったか?」
「シェラ様でございますか? 晩餐はエルゾーイの皆さまとご一緒にされたようです。今はご自身のお部屋にいらっしゃると思いますが……。お呼びいたしますか?」
「いや、いい。また明日にでも俺から声を掛けるよ。ありがとう、ルーベン。おやすみ」
「はい、お休みなさいませ」
ルーベンは頭を下げると、静かに部屋を後にした。
扉が閉まると、部屋に静けさが戻る。レオンハルトは靴を脱いで、ベッドに身を投げ出した。
ふわり、とシャツからルヴィウスの残り香がする。愛おしさと寂しさが相まって、シャツの胸元を握りしめた。
「ルゥ……」
さっき別れたばかりなのに、もう会いたい。ルヴィウスも、今頃こうして今日のことを思い出してくれているだろうか。そうしながら、愛おしさを募らせてくれているといい。
しばらくベッドの上で目を閉じて今日のことに思いを馳せていたレオンハルトは、不意に違和感を覚えた瞬間があったことを思い出した。
「なんだったんだろう……」
仰向けに寝そべり、天井へと右手を伸ばしてみる。
この部屋から“秘密の別荘”に転移した瞬間、ほんの僅かだったが、眩暈がした。ルヴィウスには躓いたと誤魔化したが、足元が覚束なくなるほどだった。
皇国と王国が魔の森に阻まれ遠く離れているとは言え、今のレオンハルトにとっては転移魔法での移動は造作もないこと。魔力量も、全体の一割も使わない。魔素の濃度が下がってきている今の状況を踏まえると、魔の森にレオンハルトの魔法が干渉された可能性は低い。
考えられることがあるとすれば、ヴィクトリア王国側へ転移した瞬間の僅か数秒だけ、魔力が不安定になるかもしれないことだ。エルグランデル皇国に比べ、ヴィクトリア王国は魔素の影響がほとんどない。こちら側の濃度が下がっているとは言え、その差は依然として存在している。それが、強すぎる今のレオンハルトの魔力に影響している可能性はある。
そう言えば、イグドラシエルが何か言っていたような気がしなくもない。
「………まぁ、いいか」
大した問題ではない。これから週に一度は王国側へルヴィウスに会うために転移する。その都度、自分の魔力の状態を確かめればいいだろう。それに、僅かな間不安定になったとして、どんな問題があるというのだ。転移直後の隙を狙ってくる知能のある魔物はいないし、万が一にもその相手が人であるのなら、そもそもレオンハルトを害することなど出来るはずもない。
「確かめるまでもないか……」
そう結論付けたレオンハルトは、ベッドの上で目を閉じた。眠るにはまだ早いかもしれないが、今日はもう何もしたくない。ルヴィウスに会えたこの幸せを噛み締めて、眠りに落ちていきたい。
「ルゥ……」
愛おしい人の名を呟いて、レオンハルトはゆっくりと意識を手離していく。そうして眠りに身を委ね、微睡の中でルヴィウスの夢を見る。
それは、とても、とても愛おしく、幸せな夢だった。
**********
これにて五章一幕は終了です。
次回から五章二幕です。
甘いシーンは少ないですが、力を合わせて前に進む二人を応援してもらえると嬉しいです。
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