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一
中継ぎ
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ぶるりと大来皇女は身を震わせた。
この暑い中で、鳥肌が立つ。
「これらのことを踏まえて、聞いてほしい」
高市皇子はまた酒を煽り、言った。
「昨日、我は帝に呼び出されて宮中に入ったが、帝は臥しておられた。
御前に出れば、帝はようやく体を起こせるというありさまである。
斎宮もご存じだろう。
帝は明らかに先が短い。
帝は息も絶え絶えに帝位の行く末を心配しておられた。
『高市よ、太政大臣よ。草壁が亡くなって久しく、可留はまだ幼い。朕は病に倒れてしまった。朕はこの帝位をいかにすれば良いであろうか』
我は答えた。
『病はすぐに癒えましょう。皇子が即位されるまで、帝がこの国を支えられましょう』
帝はおっしゃった。
『どうじゃ、高市。可留を東宮にして即位する気はないか』」
大来皇女は目を見開いた。
「兄上の即位を打診されたのですか」
高市皇子は酒を煽り、悲しげに首を振った。
「もちろん私はそれを断った。
帝は畳み掛けておっしゃる。
『大乱で、大帝が勝利できた最大の理由はそなたの活躍である。それは誰もが知ることである。高市、即位せぬか。ただ、東宮は可留にして欲しい』
大来皇女は首を横に振りながら口を挟んだ。「なりませぬ」
高市皇子は笑って答えた。
「もちろん受けられる話ではない。
『そなたの妻は、草壁の妃と母を同じくする姉妹である。なぜ、朕が、父上の妃のなかで最も親しんだ妃から生まれた異母妹二人を草壁とそなたに与えたかわかるか。草壁に何かがあればそなたを、と思っていたのだ』
確かに帝は我が子らを大切にしてくださった。
しかし、我が子・長屋王らと、可留皇子とその姉妹と比べれば違いは一目瞭然ではないか。
私は答えた。
『私には子がおります。即位して天皇の子として皇子を称するようになった我が子らと、東宮が争うことがあってはなりません。子のいる私に譲位されてはなりません』
帝は問われた。
『ならば、中継ぎが必要になれば、誰がふさわしい』
『まずは、皇子のご生母、皇太妃・阿閇皇女がおられます。この方は帝同様に近江の帝の皇女であられる。次に、帝が常にお側に置かれている皇子の姉君・氷高皇女も候補に挙げられましょう。氷高皇女が若すぎると仰せならば、お子のおられない、適齢の大帝の皇女がおられます。伊勢におられた斎宮ならば、皇子の即位を妨げることはありますまい』」
高市皇子は、言い終わると、また杯に液体を注いで、グイッと飲んだ。
「今朝、これが帝から贈られた。漆胡瓶といって、この夜光杯と共に、遠く西の果てにある、玻斬国から届いたという。中の葡萄酒もそこから来たという。少し、酸っぱいが甘い酒だ」
大来皇女は高市皇子を止めようとしたが、皇子はさらに飲んだ。
「伊勢の斎宮よ、あなたは伊勢で過ごしていたから、唐の国の話をご存知ではなかろう」
皇子はまた飲んだ。
「かの国では、功績のあった大臣や将軍は寿命を全うすることができないのだよ。漢の時代、武帝に仕えた霍去病を見よ。病死と伝えられるが信じられようか」
この国で、最も功績のある人は誰だろうか。
誰もが認める。目の前にいる高市皇子である。
「この酒は、甘い。実に甘美な酒である。酸味は、酒が古くなったからではあるまい。毒酒と心得る」
「あに、うえ」
大来皇女は手を震わせながら、伸ばした。
「飲まねば、我が子に累が及ぼう。長屋王はまだ若いが、幼児ではない。帝が放置するわけがない」
高市皇子は首を振って、また酒を呷った。
酩酊が進んでいるのか顔が赤い。
「あなたを呼んだのは、私が迂闊にもあなたの名を出してしまったことである。おそらく、忍壁に舎人や弓削、そして志貴らも同じことを聞かれ、何人かが我が名を出したのだ。誰かがあなたの名を出していれば、あなたにも毒酒か、白い布が贈られる」
大来皇女はのけぞった。
「まさか」
この手で、あの那津から連れて帰った子、と呼ばれるのに。
その、連れて帰った子を、大津を、母帝さまは、処刑した。
「斎宮よ。大王、大津、草壁の頼みは、一つしか守れなかった」
厚く大きな手で、大来皇女の小さな手が包まれた。
とても冷たかった。
ぶるぶると大来皇女は震えた。
「この兄は先に逝く。黄泉の国では、罪状を一つずつ挙げられ、父帝の前に、大友の前に、草壁・大津の前に平伏し永遠の責苦を味わうであろう。その覚悟はできた」
高市皇子は爛々とした目で皇女を見つめた。
「しかし、我が二人目の妹よ。注意せよ。大来よ、注意せよ。注意して行け。我が生きている間ならば、問われれば我が名を出せ」
よろよろと大来皇女が自らの宮に戻った、その晩のことである。
太政大臣・高市皇子は床から起き上がれなくなった。
この暑い中で、鳥肌が立つ。
「これらのことを踏まえて、聞いてほしい」
高市皇子はまた酒を煽り、言った。
「昨日、我は帝に呼び出されて宮中に入ったが、帝は臥しておられた。
御前に出れば、帝はようやく体を起こせるというありさまである。
斎宮もご存じだろう。
帝は明らかに先が短い。
帝は息も絶え絶えに帝位の行く末を心配しておられた。
『高市よ、太政大臣よ。草壁が亡くなって久しく、可留はまだ幼い。朕は病に倒れてしまった。朕はこの帝位をいかにすれば良いであろうか』
我は答えた。
『病はすぐに癒えましょう。皇子が即位されるまで、帝がこの国を支えられましょう』
帝はおっしゃった。
『どうじゃ、高市。可留を東宮にして即位する気はないか』」
大来皇女は目を見開いた。
「兄上の即位を打診されたのですか」
高市皇子は酒を煽り、悲しげに首を振った。
「もちろん私はそれを断った。
帝は畳み掛けておっしゃる。
『大乱で、大帝が勝利できた最大の理由はそなたの活躍である。それは誰もが知ることである。高市、即位せぬか。ただ、東宮は可留にして欲しい』
大来皇女は首を横に振りながら口を挟んだ。「なりませぬ」
高市皇子は笑って答えた。
「もちろん受けられる話ではない。
『そなたの妻は、草壁の妃と母を同じくする姉妹である。なぜ、朕が、父上の妃のなかで最も親しんだ妃から生まれた異母妹二人を草壁とそなたに与えたかわかるか。草壁に何かがあればそなたを、と思っていたのだ』
確かに帝は我が子らを大切にしてくださった。
しかし、我が子・長屋王らと、可留皇子とその姉妹と比べれば違いは一目瞭然ではないか。
私は答えた。
『私には子がおります。即位して天皇の子として皇子を称するようになった我が子らと、東宮が争うことがあってはなりません。子のいる私に譲位されてはなりません』
帝は問われた。
『ならば、中継ぎが必要になれば、誰がふさわしい』
『まずは、皇子のご生母、皇太妃・阿閇皇女がおられます。この方は帝同様に近江の帝の皇女であられる。次に、帝が常にお側に置かれている皇子の姉君・氷高皇女も候補に挙げられましょう。氷高皇女が若すぎると仰せならば、お子のおられない、適齢の大帝の皇女がおられます。伊勢におられた斎宮ならば、皇子の即位を妨げることはありますまい』」
高市皇子は、言い終わると、また杯に液体を注いで、グイッと飲んだ。
「今朝、これが帝から贈られた。漆胡瓶といって、この夜光杯と共に、遠く西の果てにある、玻斬国から届いたという。中の葡萄酒もそこから来たという。少し、酸っぱいが甘い酒だ」
大来皇女は高市皇子を止めようとしたが、皇子はさらに飲んだ。
「伊勢の斎宮よ、あなたは伊勢で過ごしていたから、唐の国の話をご存知ではなかろう」
皇子はまた飲んだ。
「かの国では、功績のあった大臣や将軍は寿命を全うすることができないのだよ。漢の時代、武帝に仕えた霍去病を見よ。病死と伝えられるが信じられようか」
この国で、最も功績のある人は誰だろうか。
誰もが認める。目の前にいる高市皇子である。
「この酒は、甘い。実に甘美な酒である。酸味は、酒が古くなったからではあるまい。毒酒と心得る」
「あに、うえ」
大来皇女は手を震わせながら、伸ばした。
「飲まねば、我が子に累が及ぼう。長屋王はまだ若いが、幼児ではない。帝が放置するわけがない」
高市皇子は首を振って、また酒を呷った。
酩酊が進んでいるのか顔が赤い。
「あなたを呼んだのは、私が迂闊にもあなたの名を出してしまったことである。おそらく、忍壁に舎人や弓削、そして志貴らも同じことを聞かれ、何人かが我が名を出したのだ。誰かがあなたの名を出していれば、あなたにも毒酒か、白い布が贈られる」
大来皇女はのけぞった。
「まさか」
この手で、あの那津から連れて帰った子、と呼ばれるのに。
その、連れて帰った子を、大津を、母帝さまは、処刑した。
「斎宮よ。大王、大津、草壁の頼みは、一つしか守れなかった」
厚く大きな手で、大来皇女の小さな手が包まれた。
とても冷たかった。
ぶるぶると大来皇女は震えた。
「この兄は先に逝く。黄泉の国では、罪状を一つずつ挙げられ、父帝の前に、大友の前に、草壁・大津の前に平伏し永遠の責苦を味わうであろう。その覚悟はできた」
高市皇子は爛々とした目で皇女を見つめた。
「しかし、我が二人目の妹よ。注意せよ。大来よ、注意せよ。注意して行け。我が生きている間ならば、問われれば我が名を出せ」
よろよろと大来皇女が自らの宮に戻った、その晩のことである。
太政大臣・高市皇子は床から起き上がれなくなった。
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