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一
大来皇女
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翌日、大来皇女は、帝・鸕野に呼ばれて恐る恐る御前に出た。
「大来や、大来。朕は先が短いように思う」
昨日、兄皇子に聞かされたのと全く同じ言葉が、老女帝の乾ききった唇から出た。
聞かされたのとは違い、側にはまだ幼さの残る氷高皇女が侍っていた。妹の吉備皇女とは異なり、氷高はよく祖母に仕えた。雑用から逃げる要領が悪いとも言える。
老女帝が咳き込むたびに氷高が背中をさすった。
「母帝さま。そのようなことはございますまい。この度も必ず回復されましょう」
「朕は日々老を感じる。朕より若い高市が寝付いたと聞くと、ますます大帝がお迎えに来られるときが近づいたように思う」
「何をおっしゃいますか」
老女帝は大来皇女を近くに招き、その手を取った。
いつのまにか、しわくちゃで、ハリの失われた手になっておられる。
誰かから聞かされているだろう。
昨日、自分が太政大臣の宮を訪れたことを。
ゆっくりと、しかし、はっきりと大来皇女は言った。
「太政大臣だってそうですとも。昨日太政大臣に呼び出されて、お会いいたしましたが、たしかにお調子が悪そうではありましたが、すぐに良くなられましょうとも」
女帝は、皇女の話を頷きながら聞き、手を撫でた。
「大来や。そなたは私がこの手に抱いて、あの那津から連れ戻した三人の子の唯一の生き残りじゃ」
それは事実だ。
白村江で大敗した我が国の軍を、那津で迎えた。敗軍のもたらした疫病によって、生母・太田は亡くなり、死の間際に妹でもあった鸕野に大来と大津を預けた。
大来は太田の顔を覚えない。
鸕野は食糧難の中、出ぬ乳を草壁のみならず大津にも分け与え、大来の手を引いた。
大来にとって「母」とは、この鵜野のことである。もう一人いるとすれば、祖父の葛城大王の大后だった、倭大后である。
那津から大和に戻った後、しばらくは当時まだ倭女王と呼ばれていた母方の祖父の正妃のいる岡の上の宮に、大津と共に預けられていた。
大来皇女は老女帝の手と、若い氷高皇女の手を取った。
「那津のご恩は忘れてはおりませぬ。しかし今は我らが幼い頃と同様に、母帝に抱かれて育った氷高がいるではありませんか」
老女帝は咳き込みながら言う。
「朕もまた老いた。草壁もすでにいない。可留《かる》はまだ幼い」
「皇子の即位まで、長生きなさいます」
「どうじゃ、大来。朕が育てた大帝の皇女よ。そなたが一度継いではくれまいか」
「継ぐ、とは?」
余力のない老女帝は怒って傍の紅色の厨子を叩いた。
「この、皇位じゃ!大帝のこの厨子を引き継ぎ、可留につなげ」
「伊勢の巫女だけで十分でございます。この肩には、もう何も担えません」
「大来!」
大来皇女は平伏した。
床が冷たい。
「できませぬ。どうしても誰か中継ぎを立てたいならば、皇太妃・阿閇さまに一度譲られませ。」
「大来!」
顔をあげて、下から仰ぎ見れば決して大柄ではない母帝が実に大きく見える。
「母帝。皇太妃さまならば、必ず息子の皇子につなぐことができましょう」
そうよね、と可留の同母姉の氷高皇女に同意を求めようとするが、氷高皇女はぷいと横を向いた。
「…阿閇には、大帝の血は流れていない」
血、血、血。
母帝よ、あなたのその皺だらけの手は、吉野で挙兵したときの血に、大津皇子の血に、そして今は高市皇子の血に染まろうとしているではありませんか。
「しかしながら、帝同様に、近江の帝の血は流れておられます」
「朕の後に阿閇では、皇統が近江に戻ってしまう!」
女帝はまた紅色の厨子を叩いた。
「私もまた、母系では近江につながりますよ」
老女帝は納得したのだろうか。うんうんと頷いてみせた。
老人の気は短く、変わりやすい。
「ところで大来。そなた昨日高市に会ったそうではないか」
「はい」
さっきした話ではないか。
「御名部も外させて、二人で何をした」
女帝の目が鋭い光を放った。
「夕べから高市が、十市が来る、十市が迎えに来るとうわごとを言っていると言う話だが」
大来皇女は頷きながら、にこやかに笑った。
「十市皇女の話をいたしました」
嘘ではない。
「そなたは、あの十市によく懐いていたな」
大来皇女は続けた。しかしこちらは嘘である。
「昔、まだ十市皇女が大友御子の妃と呼ばれたいた頃に、皆で淡海へ赴いたことがございました。あそこにいた者たちで、生きているのは二人だけですから。兄上は調子を崩しておられ、心細くなられたのか、幼い頃のことをお話になりたがられました」
淡海の夏。輝かしい、淡海の輝く水面は、大来の人生の中で最も幸せな瞬間だった。
「朕は知らぬ。誰がいたのだ」
大来皇女は答えた。
それも昔の称号で。
「大友御子《おおとものみこ》と大友王妃・十市女王、高市王、大来女王、草壁王、大津王、そして川島御子《かわしまのみこ》の七名です」
老女帝は顔をしかめた。
聞きたい名前は草壁一つだろう。そうだろう。それなのに二つも、聞きたくもない名前を聞かされた。
「御名部と阿閇は」
「幼かったせいか、記憶にありませんのよ。おそらく、何らかの理由で皇太妃さまのご姉妹はお越しにならなかったのでしょう。大臣ならご存知でしょうけれど、お調子があまりよくないように見受けましたので、早々に退散いたしましたのよ」
恨みがましい言い方はしたが、それでも根は小心の大来皇女の背中を冷や汗が伝った。
断じて、あの話はしてはならぬ。
背中にそっと男の手が添えられた。
触れられぬと知りながら、男は皇女の背を透き通る手で撫で続けた。
「怖くない。怖くない」
大来皇女は自らの宮に閉じこもった。
母帝はなんと恐ろしいお方だろう。
太政大臣・高市皇子が亡くなると、歩けぬ、と言ったはずの女帝が立ち上がった。
この夏を越せまいと囁かれた女帝が。
「亡き太政大臣は、大帝の長子にして大乱最大の功臣である。東宮の礼をもって弔う」
気力だけで立ち上がったのだろうか。
それとも。
高市皇子《あにうえ》のおっしゃったとおり?
あの酒を自分も飲んで確かめるべきだっただろうか。
皇女は、自らの宮の中で伊勢の巫女の格好をして祈祷を行った。
表向きは女帝の長寿を祈るものである。
その実は、女帝の元での何度目かの、兄弟を送る祈祷である。
火の前で祝詞《のりと》を唱えた。
伊勢の天照大神に、亡き人が根の国へ行くことを伝え、母帝の心が休まるように祈った。
トントン、トトント
トントン、トトント
皇女の足は小さな音を立てる。
シャンシャン、シャシャンシャ
シャンシャン、シャシャンシャ
皇女が手に持つ鈴が鳴った。伊勢に降るときに父帝から与えられた鈴だ。
祈るときだけ、舞うときだけ皇女の心は凪ぐ。
鈴の音だけを聞けばいい。
不安も恐れもなくなる。
喜びも楽しさも感じない。
空になるのだ。
そのうち祈り疲れて突っ伏した皇女に、同じように巫女の格好をした侍女たちが寄った。皇女は片手で制止したところで、皇女の意識は飛んだ。
「そんなに怖がることもない。休むのだよ。しっかり休むのだ」
どこか聞き覚えのある男の声がしたような気がする。
「大来や、大来。朕は先が短いように思う」
昨日、兄皇子に聞かされたのと全く同じ言葉が、老女帝の乾ききった唇から出た。
聞かされたのとは違い、側にはまだ幼さの残る氷高皇女が侍っていた。妹の吉備皇女とは異なり、氷高はよく祖母に仕えた。雑用から逃げる要領が悪いとも言える。
老女帝が咳き込むたびに氷高が背中をさすった。
「母帝さま。そのようなことはございますまい。この度も必ず回復されましょう」
「朕は日々老を感じる。朕より若い高市が寝付いたと聞くと、ますます大帝がお迎えに来られるときが近づいたように思う」
「何をおっしゃいますか」
老女帝は大来皇女を近くに招き、その手を取った。
いつのまにか、しわくちゃで、ハリの失われた手になっておられる。
誰かから聞かされているだろう。
昨日、自分が太政大臣の宮を訪れたことを。
ゆっくりと、しかし、はっきりと大来皇女は言った。
「太政大臣だってそうですとも。昨日太政大臣に呼び出されて、お会いいたしましたが、たしかにお調子が悪そうではありましたが、すぐに良くなられましょうとも」
女帝は、皇女の話を頷きながら聞き、手を撫でた。
「大来や。そなたは私がこの手に抱いて、あの那津から連れ戻した三人の子の唯一の生き残りじゃ」
それは事実だ。
白村江で大敗した我が国の軍を、那津で迎えた。敗軍のもたらした疫病によって、生母・太田は亡くなり、死の間際に妹でもあった鸕野に大来と大津を預けた。
大来は太田の顔を覚えない。
鸕野は食糧難の中、出ぬ乳を草壁のみならず大津にも分け与え、大来の手を引いた。
大来にとって「母」とは、この鵜野のことである。もう一人いるとすれば、祖父の葛城大王の大后だった、倭大后である。
那津から大和に戻った後、しばらくは当時まだ倭女王と呼ばれていた母方の祖父の正妃のいる岡の上の宮に、大津と共に預けられていた。
大来皇女は老女帝の手と、若い氷高皇女の手を取った。
「那津のご恩は忘れてはおりませぬ。しかし今は我らが幼い頃と同様に、母帝に抱かれて育った氷高がいるではありませんか」
老女帝は咳き込みながら言う。
「朕もまた老いた。草壁もすでにいない。可留《かる》はまだ幼い」
「皇子の即位まで、長生きなさいます」
「どうじゃ、大来。朕が育てた大帝の皇女よ。そなたが一度継いではくれまいか」
「継ぐ、とは?」
余力のない老女帝は怒って傍の紅色の厨子を叩いた。
「この、皇位じゃ!大帝のこの厨子を引き継ぎ、可留につなげ」
「伊勢の巫女だけで十分でございます。この肩には、もう何も担えません」
「大来!」
大来皇女は平伏した。
床が冷たい。
「できませぬ。どうしても誰か中継ぎを立てたいならば、皇太妃・阿閇さまに一度譲られませ。」
「大来!」
顔をあげて、下から仰ぎ見れば決して大柄ではない母帝が実に大きく見える。
「母帝。皇太妃さまならば、必ず息子の皇子につなぐことができましょう」
そうよね、と可留の同母姉の氷高皇女に同意を求めようとするが、氷高皇女はぷいと横を向いた。
「…阿閇には、大帝の血は流れていない」
血、血、血。
母帝よ、あなたのその皺だらけの手は、吉野で挙兵したときの血に、大津皇子の血に、そして今は高市皇子の血に染まろうとしているではありませんか。
「しかしながら、帝同様に、近江の帝の血は流れておられます」
「朕の後に阿閇では、皇統が近江に戻ってしまう!」
女帝はまた紅色の厨子を叩いた。
「私もまた、母系では近江につながりますよ」
老女帝は納得したのだろうか。うんうんと頷いてみせた。
老人の気は短く、変わりやすい。
「ところで大来。そなた昨日高市に会ったそうではないか」
「はい」
さっきした話ではないか。
「御名部も外させて、二人で何をした」
女帝の目が鋭い光を放った。
「夕べから高市が、十市が来る、十市が迎えに来るとうわごとを言っていると言う話だが」
大来皇女は頷きながら、にこやかに笑った。
「十市皇女の話をいたしました」
嘘ではない。
「そなたは、あの十市によく懐いていたな」
大来皇女は続けた。しかしこちらは嘘である。
「昔、まだ十市皇女が大友御子の妃と呼ばれたいた頃に、皆で淡海へ赴いたことがございました。あそこにいた者たちで、生きているのは二人だけですから。兄上は調子を崩しておられ、心細くなられたのか、幼い頃のことをお話になりたがられました」
淡海の夏。輝かしい、淡海の輝く水面は、大来の人生の中で最も幸せな瞬間だった。
「朕は知らぬ。誰がいたのだ」
大来皇女は答えた。
それも昔の称号で。
「大友御子《おおとものみこ》と大友王妃・十市女王、高市王、大来女王、草壁王、大津王、そして川島御子《かわしまのみこ》の七名です」
老女帝は顔をしかめた。
聞きたい名前は草壁一つだろう。そうだろう。それなのに二つも、聞きたくもない名前を聞かされた。
「御名部と阿閇は」
「幼かったせいか、記憶にありませんのよ。おそらく、何らかの理由で皇太妃さまのご姉妹はお越しにならなかったのでしょう。大臣ならご存知でしょうけれど、お調子があまりよくないように見受けましたので、早々に退散いたしましたのよ」
恨みがましい言い方はしたが、それでも根は小心の大来皇女の背中を冷や汗が伝った。
断じて、あの話はしてはならぬ。
背中にそっと男の手が添えられた。
触れられぬと知りながら、男は皇女の背を透き通る手で撫で続けた。
「怖くない。怖くない」
大来皇女は自らの宮に閉じこもった。
母帝はなんと恐ろしいお方だろう。
太政大臣・高市皇子が亡くなると、歩けぬ、と言ったはずの女帝が立ち上がった。
この夏を越せまいと囁かれた女帝が。
「亡き太政大臣は、大帝の長子にして大乱最大の功臣である。東宮の礼をもって弔う」
気力だけで立ち上がったのだろうか。
それとも。
高市皇子《あにうえ》のおっしゃったとおり?
あの酒を自分も飲んで確かめるべきだっただろうか。
皇女は、自らの宮の中で伊勢の巫女の格好をして祈祷を行った。
表向きは女帝の長寿を祈るものである。
その実は、女帝の元での何度目かの、兄弟を送る祈祷である。
火の前で祝詞《のりと》を唱えた。
伊勢の天照大神に、亡き人が根の国へ行くことを伝え、母帝の心が休まるように祈った。
トントン、トトント
トントン、トトント
皇女の足は小さな音を立てる。
シャンシャン、シャシャンシャ
シャンシャン、シャシャンシャ
皇女が手に持つ鈴が鳴った。伊勢に降るときに父帝から与えられた鈴だ。
祈るときだけ、舞うときだけ皇女の心は凪ぐ。
鈴の音だけを聞けばいい。
不安も恐れもなくなる。
喜びも楽しさも感じない。
空になるのだ。
そのうち祈り疲れて突っ伏した皇女に、同じように巫女の格好をした侍女たちが寄った。皇女は片手で制止したところで、皇女の意識は飛んだ。
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