最後にいなくなった、君は

松山秋ノブ

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第1章「失敗」②

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 この駅に来るのはどれくらいぶりだろうか。もしかすると年単位で来ていないのかもしれないが、駅の周辺はほとんど変わり映えがしていない。駅の目の前にある飲食店街を歩く。サラリーマンをしていた頃は毎日のように利用していた中華料理屋のチェーン店、牛丼屋、ファストフード店、どこも人で溢れている。ここしか開いていないという気持ちが人をこんなにも駅前に集めてしまうのだろう。少し外れたラーメン屋も定食屋も外で人が待っている。並べばすぐに入れるのかもしれないが、僕はカウンターで両隣に人が座っているという状態が大の苦手だ。食べるスペースもなくなるし、知らない人が隣にいるだけで落ち着かない。おまけにその人の生活音が聞こえてきた日にはもう何も食べられなくなってしまう。これだけ混んでいる以上、両隣に人がいる可能性は極めて高い。僕はお店でご飯を食べることを半ば諦めた。
 それならば買って帰ろう、と思ったときに僕は気がついた。空腹ではあるが、特に食べたいものがない。買ってまで食べるほどのものが見つからない。そう思うとこの空腹すらもう感じなくなってきて、もう食べなくていいや、という気持ちになってくる。そうして食べなかった日が幾度となくあった。とりあえず駅に内接するビルを巡って、それでもピンとこなければ帰ろう、そう決めて再び駅へと足を進める。
 駅ビルの1Fは食品フロアになっている。お惣菜店を覗くと、揚げ物や天ぷらといった色とりどりのお惣菜が並んでいたが、特に心を動かすようなものはなかった。パン屋も通ったけれど、夜ご飯にパンを食べるくらいなら、コンビニで買った方がマシだ。
 やはりこのまま帰ろうか、と思っていると、寿司を売る弁当店から威勢の良い声が聞こえてきた。感染症対策でいつもよりも早く店を閉めるから、今からお寿司を半額で売ります、という概要で、年季の入った女性の声がフロアにこだましている。
 「半額」という言葉と「いつもは違うけれど」という響きに誘われて、僕はその寿司が並ぶショーケースを覗き込んだ。見慣れた寿司ネタの中にカニやウニが見える。値段を見ると千円を少し超えるくらいだ。これが半額になるのなら、と僕は手を伸ばした。もう頭の中は先ほどまでの空腹を忘れるほどの倦怠感などは消し飛んで、夜ご飯を寿司にすることでいっぱいになった。ついでに目に入ったサーモンの寿司も手に取り、僕は数人並ぶレジに並んだ。威勢よく販売している女性は、レジ打ちをしながらの接客も同じようなテンションで行っている。職人気質なのだろうか。大きい声なのに耳障りでない、心地よいリズムだった。その声をどこかで聞いたことがあるような気がしたけれど、僕にはそれが誰のものか分からなかったし、また、故郷から遠く離れて暮らす僕に、年配の知り合いなど、仕事関係以外でほとんどいないので、恐らく人違いだろうと思った。
 僕の順になり、女性に寿司を手渡す。女性は受け取ってレジを打とうとして僕を一瞬見ると、その手を急に止めた。と同時に威勢のよい呼び込みも止めてしまった。何事か、と思っていると、女性が僕に静かに微笑みかける。
「久しぶりですね、元気にしていましたか」
 やはり知っている人だったらしい、60代くらいに見える女性の顔をもう一度よく見てみたけれど、僕にはそれが誰か分からない。もしかすると誰かと間違えられているのか、と思って答えようとしたけれど、
「20年近く経つのかしら…あの子とは会えなくなったけれど、あなたは立派になられた」
と続けて話す女性の目は潤んでいるように見え、一瞬人違いだと答えることを躊躇ってしまった。20年ぶりということは僕は高校生であり、地元にいたから、多分本当に人違いなのだろう。けれど、あまりに優しく嬉しそうに微笑む女性の姿を見て、僕はここで自分がその人ではない、と言うことが残酷なのではないか、と言い知れぬ罪悪感が襲ってきたのだ。
「ご結婚は」
と訊かれて、僕は首を横に振った。
「そうですか、それは…。気にしなくていいので、早く良い人を見つけてくださいね」
幸せそうな顔が少しだけ曇る。僕が結婚していないことで誰かが悲しそうな顔をするなんて人生で経験がなかったから、僕は戸惑った。戸惑いを消すように財布を取り出すと、
「会えて嬉しかったのでサービスです、お代はいりません」
と制された。僕は人違いの罪悪感も相まって、でも、と引き下がらずにいたけれど、
「いいんです、だから、また姿を見せてください」
と言われ、ありがとうございます、と深々とお辞儀をし、店を後にした。

 不思議な体験だった。浮いたお金で帰り道にビールを買い、帰路につく。人違いでもらった寿司を片手に僕は先ほどの女性のことを何度も何度も頭の中で巡らせた。本当に人違いなのか、僕が忘れているだけなのではないか、もし忘れているとしたら、彼女は一体誰なのか、色々な考えが頭に浮かんでは論理性や根拠のない空想で消えていった。威勢のいい中に感じた声の優しさは確かに聞き覚えがあった。彼女は僕に20年ぶりだと言った。遠く離れた故郷にいるはずの僕が彼女と接点を持つことが可能だろうか。もしかしたら彼女も僕と同じ故郷にいたのかもしれない、そこまで空想を巡らせたけれど、結局何も思い出すことが出来ずに、最終的にはやはり人違いなのだ、という結論になった。だとしたら彼女にとても悪いことをした。彼女は僕ではない誰かに20年ぶりに再会し、その嬉しさに心を躍らせたに違いない。そして半額になっているとはいえ寿司を無料にしてくれた。それが全部僕の嘘だったのだ。だとして、寿司を受け取ってしまった以上、もう今更謝ることもできない。
    ならせめて、ボロが出ない程度に、また知り合いのふりをして寿司を買いに行くことが僕の贖罪になるような気がした。今度はちゃんと半額でなく定価で寿司をたくさん買おう。それでチャラだ。
 頭の中ではもう彼女が知り合いかもしれない、という考えは消えていた。少しは残っていたのかもしれないが、もう忘れてしまったのだから思い出せない。だって忘れる、というのは跡形もなく消えてしまった後の状態で、思い出そうとしても、もうそこには何も残ってないのだから。それに僕は夢でも言われたとおりに忘れっぽいのだ。忘れてしまったことにいつまでも気持ちを囚われてはいられない。

 そうしてもうすぐ家に着く、という頃、僕は忘れっぽいという性格とは裏腹に、さっき見た夢のことを鮮明に覚えていることを不思議に思った。

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