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第3章「消失」⑧
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僕の勢いに看護師さんは困惑しているのがわかる。もしかすると、これ以上粘ると警察を呼ばれてしまうかもしれない。けれど、そんなことは関係なかった。ここで引くわけにはいかなかった。
「お願いです、知りたいだけなんです! 誰か、誰か20年前のことを知る人はいませんか。知ったら、すぐに帰りますから」
休日の待合室のせいか声が響いたのだろうか、看護師さんやスタッフの人たちが様子を見に訪れる。僕はその人たちにも恵美さんの名前を叫ぶ。彼女のことを教えてほしい、と何度も叫んだ。知らない間に涙が流れてきた、それでも僕は名前を呼び、忘れてしまった彼女のことを教えてほしい、と叫び続けた。
「あの・・・」
1人の中年女性が声をあげた。
「あなた、恵美ちゃんの知り合いの人?」
恐る恐る声を出した彼女に僕は、そうです、高校時代の友人なんです、と言った。
「教えてほしい、と言われても・・・」
「守秘義務、ですよね。僕は病気のことが知りたいんじゃないんです。文句を言いたいわけでもない。言える範囲のことを教えてほしいんです」
彼女はしばらく悩んだうえで僕に言った。
「わかりました、もうすぐ休憩時間になるので、それからで良ければ」
最初に応対した看護師さんが、いいんですか、と問う。彼女は、大丈夫よ、と言った。
「大の大人が泣くほど知りたいんだから」
僕は両腕で頬を拭って、彼女に深くお辞儀をした。
待つと言っても、見舞客用の待合室まで入ることは許されなかった。それは僕を不審者として扱うからでなく、入院患者に近いところへは何人たりとも立ち入ることが許されない。僕が感染症に罹っているかもしれないからだ。入口の待合スペースでしばらく待つと、さっきの看護師さんが来た。少し距離をとって座り、仕事で決まりなので、ごめんなさい、と謝った。この距離で話せば、ある程度は聞こえるかもしれない、それでも良いか、と訊かれたので、僕は全く問題無い、と答えた。
「それで、恵美ちゃんの何を知りたいんですか」
「彼女は、どんな子でしたか?」
どんな子? という質問に彼女は驚いたようだった。けれど僕ももう慣れている。僕は彼女に恵美さんの記憶だけがすっぽりと抜け落ちていることを説明した。彼女はとても驚き、信じられない、という顔をしたが、信じなくてもいいので、教えてほしい、と言った。
「恵美ちゃんは優しくてとても良い子だったわ」
彼女は思い出すように語り出した。
彼女の語った恵美さんはおおよそ次のようなことだった。詳しい病状は家族でないから言えないが、入院してきたときには相当まずかったらしい。望みをかけて手術をしたけれど、手の施しようがない状態だった。それから色々な治療法を試しながら頑張っていたけれど、春が近づいた冬のある日、容態が急変し、そのまま数日後に息を引き取った、と。それでも彼女は入院当初からずっとニコニコしていたらしい。苦しい治療にも全く弱音を吐かずに、見舞いに来る人にもずっと笑顔で接していた。だから、家族と病院関係者以外は誰も彼女の病状が深刻だなんて思っていなかった。私たちにも彼女は笑顔で接してくれた。どの看護師も、彼女の部屋に行くと笑顔で戻ってきた。私もそうだった。どんなに疲れていても、彼女の部屋に行くと嘘のように疲れがなくなっていた、と。
これはクレープ店でも聞いたことだった。だから僕は彼女に、どうして疲れがなくなっていたか覚えているか、と訊くと、彼女はしばらく考えたうえで、いや、それは覚えていない、と言った。それも昨日と同じだった。
良く顔を出す男の子がいたとも言っていた。顔は覚えていないが、頻繁に来ていたことは覚えていたらしい。多分、それは僕のことなのだろう。もちろん僕は覚えていない。
「最後に見舞いに来たのも、その男の子ですか」
と訊くと、違う、と答えた。家族以外で最後に見舞いに来たのは、女の子だと言う。その子も男の子ほどではないが、頻繁に来ていたそうだ。その子が来てから、恵美さんは何かに取り憑かれたようにノートに何かを書き始めた。看護師さんが見せてほしいと言うと、それは断られたらしい。そして数日後に容態が急変した。ノートの中身は結局何だったのか、と訊くと、見ないままに家族に渡したので分からない、と言った。
僕は最後に来た女の子のことと、ノートの中身が気になったけれど、これ以上は訊いても分かりそうになかった。ただ、ひとつだけ分かったことがあった。それは、恵美さんの話をしているときの看護師さんの顔がとても優しかった、ということだった。そういえば、僕がここに戻ってから恵美さんのことを話す人の顔は誰もが同じく優しかった。柳町さんでさえ、恵美さんのことを思い出すとき、穏やかな顔をした。そういうことだ。彼女の人となりは。それは確かなことだった。
僕は彼女にお礼を言い、そして彼女は仕事へと戻って行った。僕が思い出すことは出来なかったけれど、彼女のことを知ることが出来た。そして、僕と彼女は付き合っていたのだ。忘れてしまった理由は分からないけれど、きっと僕は幸せだったに違いない。それだけで僕の心は少し落ち着いたように感じた。
病院を出て、駅へと向かうことにした。もう充分だった。自動ドアの先で感じた外の空気は来る時よりも澄んでいる。
「君さ、恵美ちゃんの彼氏さんだった人だよね」
不意に声を掛けられて僕は振り返った。入口の陰のところで若い看護師さんが僕を呼んだようだった。えぇ、そうです、覚えていないんですが、というと彼女は笑う。
「さっきも叫んでたけど、覚えてないってどういうこと?」
説明が面倒で、忘れたから思い出しに来たんだ、と言うと、彼女は良く分かんないけど、と言ってから
「恵美ちゃんのこと、教えてあげよっか」
と言った。恵美さんのことを知っているのか、と訊くと、
「一緒の時期に入院してたから知ってる、
だから君のことも知ってる」
と言う。そして僕の名前を言った。間違いなく彼女は僕たちのことを知っていた。
「知っていることがあれば知りたい、
教えてもらえませんか」
「その前に、さっき池崎さんからは
なんて教わったの?」
池崎さんとは、さっきまで僕が話していた看護師さんの名前のようだ。僕は彼女にさっき話したことの大枠を話した。すると彼女はまた笑って、やっぱりそうか、と言った。
「私はここの看護師の北川よ。
教えてあげてもいいけど・・・」
と勿体ぶるような素振りで僕を見た。
「そんなに良い話じゃないわよ、
それでも良い?」
「お願いです、知りたいだけなんです! 誰か、誰か20年前のことを知る人はいませんか。知ったら、すぐに帰りますから」
休日の待合室のせいか声が響いたのだろうか、看護師さんやスタッフの人たちが様子を見に訪れる。僕はその人たちにも恵美さんの名前を叫ぶ。彼女のことを教えてほしい、と何度も叫んだ。知らない間に涙が流れてきた、それでも僕は名前を呼び、忘れてしまった彼女のことを教えてほしい、と叫び続けた。
「あの・・・」
1人の中年女性が声をあげた。
「あなた、恵美ちゃんの知り合いの人?」
恐る恐る声を出した彼女に僕は、そうです、高校時代の友人なんです、と言った。
「教えてほしい、と言われても・・・」
「守秘義務、ですよね。僕は病気のことが知りたいんじゃないんです。文句を言いたいわけでもない。言える範囲のことを教えてほしいんです」
彼女はしばらく悩んだうえで僕に言った。
「わかりました、もうすぐ休憩時間になるので、それからで良ければ」
最初に応対した看護師さんが、いいんですか、と問う。彼女は、大丈夫よ、と言った。
「大の大人が泣くほど知りたいんだから」
僕は両腕で頬を拭って、彼女に深くお辞儀をした。
待つと言っても、見舞客用の待合室まで入ることは許されなかった。それは僕を不審者として扱うからでなく、入院患者に近いところへは何人たりとも立ち入ることが許されない。僕が感染症に罹っているかもしれないからだ。入口の待合スペースでしばらく待つと、さっきの看護師さんが来た。少し距離をとって座り、仕事で決まりなので、ごめんなさい、と謝った。この距離で話せば、ある程度は聞こえるかもしれない、それでも良いか、と訊かれたので、僕は全く問題無い、と答えた。
「それで、恵美ちゃんの何を知りたいんですか」
「彼女は、どんな子でしたか?」
どんな子? という質問に彼女は驚いたようだった。けれど僕ももう慣れている。僕は彼女に恵美さんの記憶だけがすっぽりと抜け落ちていることを説明した。彼女はとても驚き、信じられない、という顔をしたが、信じなくてもいいので、教えてほしい、と言った。
「恵美ちゃんは優しくてとても良い子だったわ」
彼女は思い出すように語り出した。
彼女の語った恵美さんはおおよそ次のようなことだった。詳しい病状は家族でないから言えないが、入院してきたときには相当まずかったらしい。望みをかけて手術をしたけれど、手の施しようがない状態だった。それから色々な治療法を試しながら頑張っていたけれど、春が近づいた冬のある日、容態が急変し、そのまま数日後に息を引き取った、と。それでも彼女は入院当初からずっとニコニコしていたらしい。苦しい治療にも全く弱音を吐かずに、見舞いに来る人にもずっと笑顔で接していた。だから、家族と病院関係者以外は誰も彼女の病状が深刻だなんて思っていなかった。私たちにも彼女は笑顔で接してくれた。どの看護師も、彼女の部屋に行くと笑顔で戻ってきた。私もそうだった。どんなに疲れていても、彼女の部屋に行くと嘘のように疲れがなくなっていた、と。
これはクレープ店でも聞いたことだった。だから僕は彼女に、どうして疲れがなくなっていたか覚えているか、と訊くと、彼女はしばらく考えたうえで、いや、それは覚えていない、と言った。それも昨日と同じだった。
良く顔を出す男の子がいたとも言っていた。顔は覚えていないが、頻繁に来ていたことは覚えていたらしい。多分、それは僕のことなのだろう。もちろん僕は覚えていない。
「最後に見舞いに来たのも、その男の子ですか」
と訊くと、違う、と答えた。家族以外で最後に見舞いに来たのは、女の子だと言う。その子も男の子ほどではないが、頻繁に来ていたそうだ。その子が来てから、恵美さんは何かに取り憑かれたようにノートに何かを書き始めた。看護師さんが見せてほしいと言うと、それは断られたらしい。そして数日後に容態が急変した。ノートの中身は結局何だったのか、と訊くと、見ないままに家族に渡したので分からない、と言った。
僕は最後に来た女の子のことと、ノートの中身が気になったけれど、これ以上は訊いても分かりそうになかった。ただ、ひとつだけ分かったことがあった。それは、恵美さんの話をしているときの看護師さんの顔がとても優しかった、ということだった。そういえば、僕がここに戻ってから恵美さんのことを話す人の顔は誰もが同じく優しかった。柳町さんでさえ、恵美さんのことを思い出すとき、穏やかな顔をした。そういうことだ。彼女の人となりは。それは確かなことだった。
僕は彼女にお礼を言い、そして彼女は仕事へと戻って行った。僕が思い出すことは出来なかったけれど、彼女のことを知ることが出来た。そして、僕と彼女は付き合っていたのだ。忘れてしまった理由は分からないけれど、きっと僕は幸せだったに違いない。それだけで僕の心は少し落ち着いたように感じた。
病院を出て、駅へと向かうことにした。もう充分だった。自動ドアの先で感じた外の空気は来る時よりも澄んでいる。
「君さ、恵美ちゃんの彼氏さんだった人だよね」
不意に声を掛けられて僕は振り返った。入口の陰のところで若い看護師さんが僕を呼んだようだった。えぇ、そうです、覚えていないんですが、というと彼女は笑う。
「さっきも叫んでたけど、覚えてないってどういうこと?」
説明が面倒で、忘れたから思い出しに来たんだ、と言うと、彼女は良く分かんないけど、と言ってから
「恵美ちゃんのこと、教えてあげよっか」
と言った。恵美さんのことを知っているのか、と訊くと、
「一緒の時期に入院してたから知ってる、
だから君のことも知ってる」
と言う。そして僕の名前を言った。間違いなく彼女は僕たちのことを知っていた。
「知っていることがあれば知りたい、
教えてもらえませんか」
「その前に、さっき池崎さんからは
なんて教わったの?」
池崎さんとは、さっきまで僕が話していた看護師さんの名前のようだ。僕は彼女にさっき話したことの大枠を話した。すると彼女はまた笑って、やっぱりそうか、と言った。
「私はここの看護師の北川よ。
教えてあげてもいいけど・・・」
と勿体ぶるような素振りで僕を見た。
「そんなに良い話じゃないわよ、
それでも良い?」
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