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最終章「彷徨」前編

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 芽以から呼び出されたことなんて、恐らく僕が覚えている限り一度もない。忘れている訳でもない。僕たちは仕事上のパートナーであり、それ以上でもそれ以下でもない、プラーベートに踏み込まないことで良好な関係を築いてきたのだ。指定された店は渋谷のダイニングバーだった。長いこと渋谷とは関わりがあるけれど、そこは僕が行ったことのない場所だった。芽以はライブ以外で渋谷に来ることはほとんどない、と言っていた。ライブハウスが多く、休日や平日の夜には同業者やライブ帰りのお客さんがいるから、と言っていた。芽以はこの店をどうして知ったのだろうか。どうしてこの場所なのだろうか。考えれば不思議なことだらけだったけれど、今はそれよりも芽以に会いたい気持ちのほうが勝っていた。会って話したいことがあった。訊きたいことがあった。
 店は道玄坂の途中にある映画館の地下にあった。ほぼ時間通りに到着し、入口で名前を言うと、奥のテーブルへと通された。そこに芽以は座っていた。いつもより服装が落ち着いているように見える。私服の雰囲気が違うだけで、緊張感が増す。戻ってきたばかりでお呼びしてすみません、と芽以は謝った。僕は、全く問題ない、と返す。
「君から呼ばれなくても、僕も話したいことがあったから、きっと連絡をしていたと思う」
と言うと、芽以は、そうですか、とだけ答えた。メニューを渡され、飲み物を注文する。料理は既に頼んである、と芽以は言った。フレンチとイタリアンだと聞いているので、僕はウェイターに赤ワインのお薦めを訊き、それを注文した。ほどなくしてワインが運ばれ、僕たちは乾杯をした。テーブルには料理が運ばれてくる。前菜に運ばれてきたのはバーニャカウダであった。それに手をつける間もなく、いくつか皿が運ばれてくる。深めの皿には細切れにされた野菜やソーセージが並んでいる。浅めの皿にはローストビーフが、カゴにはフランスパンが無造作に、しかし規則的に並んでいる。真ん中には大きめの鍋が置かれて、僕の嗅覚が一瞬で支配された。チーズフォンデュか、とすぐに分かる。
「望月さん、チーズは苦手じゃなかったですよね」
確認するように芽以が訊く。多分、以前にそんな話をしたのだろう。芽以の言うことは間違っていなかった。僕が忘れているところを考えると、最近言ったことではない。芽以の記憶力に感服する。
「ところで、話があるんだけど」
と僕が切り出すと、芽以は、チーズが適温になるまで待ちましょう、と言った。出鼻をくじかれて少しイラッとしたけれど、確かに慌てても仕方がないし、僕自身もは話す順番がまとまっていなかったから、少し落ち着いて考えることにした。チーズの鍋の底から気泡が浮かんでくる。煮えてきている証拠だろう。その気泡のペースが速くなると、芽以が、食べ頃です、と言い、僕に先に食べるように勧めた。僕は芽以から食べるように言ったけれど、譲らなかったので、埒が明かなくなるのを嫌って、先に食べることにした。けれど、こんなに並んでいるものから、いざ食べるとすると何から食べたら良いのか迷ってしまう。迷い箸にするのもいけないので、僕は芽以に、ミニトマトが食べられるかを訊いた。食べられないならミニトマトから食べるつもりだった。芽以は、ミニトマトが好きだ、と言うので、僕はそれを避けてブロッコリーから食べた。チーズの鍋にブロッコリーを入れて、すぐに出すと、湯気とともにチーズを纏ったブロッコリーが顔を出す。何度か息を吹き掛け頬張ると、口いっぱいにチーズの香ばしい薫りが広がる。美味しい、僕は思わず声を出したい気持ちになったけれど、その一連をすべて芽以が凝視していて、なんだか言うのが恥ずかしく、何故か緊張してしまった。どうかしたのか、と訊くと、何もありません、と芽以は目をそらす。けれど、その表情はどこか嬉しそうだった。どこにそのポイントがあるのかわからずに、僕は混乱するけれど、これから話すことを考えると、深追いしないことにした。
「それで、話したいことってなんですか」
芽以から訊いてきた。僕は落ち着いて整理したことをその順序に沿って話して言った。

 回りくどい言い方は若い子に嫌われる、と岡村から聞いていたので、僕はまず、結論から言う。僕は自分の記憶が恐らく全て戻ったことを伝えた。「恐らく全て」と言ったのは、何処まで思い出せば「全部」なのか答え合わせが出来ないからだった。芽以はまったく驚かなかった。むしろ、でしょうね、という表情で微笑んでいた。それから僕は故郷での出来事を順を追って話した。同窓会はなくなったけれど、仲間数人で集まったこと。そこで改めて僕と恵美が付き合っていたのではないか、という話になったこと。後で来た同級生から2件目に誘われ、そこで僕と真奈(この間ライブに来た元彼女)との想い出を話させられた後、同級生から「その想い出は恵美とのものだ」と言われ、もう一度想い出の場所を回って確認をしていたこと(その為に帰りの日程が遅れた)。そして巡っていくうちに、その想い出が恵美とのものだ、という人と真奈とのものだ、という人の両方がいて、いよいよ分からなくなっていったこと。最後に恵美が入院していた病院に行くと、恵美を知る人がいて、詳しく教えてもらったこと。恵美がどうやら変なおまじないのようなものを使っていたのではないか、という人がいたこと。
 迷惑をかけた、という気持ちがあったせいか、出発前に事情を話していたせいか、単に話したかっただけかはわからないけれど、とにかく僕は全てを話した。料理もお酒もどんどんと無くなっていった。それも手伝って饒舌になっていたのかもしれない。芽以はその全てを何かを確認するような仕草を見せながら聞いていた。さすがにおまじないのくだりは信じてもらえないかと思ったけれど、芽以は少し驚いただけで、特に反論もしなかった。
「それで僕は新幹線に乗って、君のライブを観たんだ」
そうですか、とだけ芽以は言った。今日の芽以は、それしか言わなかった。
「正確にはあまり覚えていないんだけどね、君のライブを観ていたら、なんだか段々失ったものが戻ってくるような気がして」
「それで、気がついたら僕は思い出していたんだ」
だから、僕は芽以のライブの最後の方を覚えていない。
「それで、君に訊きたいんだ」
芽以は、その質問すらもわかっていたように静かに僕を見る。
「君は僕に『ライブを観てほしい』と連絡してきたよね。君がそんなことを言うことは珍しかった。それでこれさ」
「君はどこまでわかっていたんだ。偶然とは思えない。どこまで狙い通りだったんだ」
芽以のリアクションを見ても、もはや芽以が何かを知っていることは明らかだった。そうではないか、と思って来たけれど、確信を持って訊いた。
「全部ですよ」
芽以は笑ってあっけらかんと言った。それは意地悪な笑みではなくて、まじりっけのないものだった。
「私の曲を聴けば、きっと望月さんの記憶が戻ると思っていました」
ライブの後に確認で芽以から歌詞が送られてきた。抽象的ではあったけれど、この歌詞はあまりに色々なフレーズが今回のものに合っていた。偶然ではありえない。そう思った。
「でもどうやって? 少なくとも今回のことは前に話してから今日話すまで、僕は何も言ってないよね」
と言うと、
「実は前回のライブに真奈さんが来ていました。そこで聞いたんです」
と答えた。そうか、真奈か、と納得をする。そうであるなら知っていても不思議はない。
「そしたら、真奈から僕の記憶を戻す方法を聞いたってこと?」
「いいえ、それは真奈さんからじゃありません」
どういうことだ、僕の頭は混乱してくる。
「真奈さんから聞いたことは、ほとんど今、望月さんが話してくれたことです。だから事情を知っていただけですよ」
「君は真奈とどこまで話をしたんだ」
「だから望月さんが知っていることくらいまでです」
と言った後で、あっ、と漏らし、
「望月さんは、恵美さんが最後に会ったのが真奈さんだと聞いたんですよね」
と確認するように訊いたので、そうだ、と答える。
「最後に2人がした会話は聞きました」
恵美との真奈が最後に病室でした会話だ。僕は慌てて内容を尋ねる。
「恵美さんは…自分が死んでしまった後に、望月さんと付き合ってくれないか、と頼んだんです」
恵美が…。言葉にならなかった。それから芽以は恵美と真奈のその後のやりとりを細かく話してくれた。これでハッキリした。僕が恵美を忘れていた理由が。そして、真奈が僕と付き合い、別れた理由が。でも、理由はわかったけれど、真奈のことがわからない。たとえ故人の生前最後の願いとはいえ、付き合うなんて願いを承諾するだろうか。そんなの上手くいくわけがない。まぁ、実際上手くいかなかったんだけれど。
「わからないな」
「なにがですか」
「真奈はどうしてそれで僕と付き合ったんだろう…いくら恵美の願いとはいえ、そんな状況で付き合っても、損しかないだろうに…」
僕は正直な気持ちを言った。僕ならそこまでできない。

 すると、アルミの乾いた音がテーブルに響いた。音のする方を見ると、芽以がフォンデュフォークを落としていた。
「わからないんですか?」
「本当にわからないんですか?」
その目は怒っているようにも悲しんでいるようにも見えた。芽以にはわかると言うのだろうか。
「そんなの望月さんのことが好きだからに決まってるじゃないですか」
「そう真奈が言ったの?」
「真奈さんはそんなこと言いません」
「言わなくたって、わかるでしょ、望月さん、どこまで鈍感なんですか!それに…」
芽以はカバンの中を探り始めた。
「さっき、望月さんの記憶を戻す方法を誰から訊いたか、って言いましたよね」
「教えてくれたのは、恵美さんです」
芽以はカバンから数枚の紙を取り出した。升目からいって、ノートを破ったもののようである。
「望月さん、前に人違いにあった話をしてくれましたよね?」
人違い? 確か…あのお寿司のサービスをされたやつか。
「人違いじゃなかったんです」
「彼女は、恵美さんのお母さんです」
後頭部をひどく殴られたようなショックが全身を襲う。あの人がお母さんだと言うのか。顔を必死で思い出す。あの時は恵美のことを忘れていたからかもしれないけれど、確かに面影があった。
「お母さんから恵美さんの書いた手紙を預かりました。次、また望月さんと会えたら、渡す予定だったそうです。私も読んで良いと許可をもらいました」
そして、ノートの切れ端と思われる手紙を僕のほうに差し出した。

「それを読めばわかります、今回のことが全て」

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