舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

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episode.7(2007/3/24)

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2007年3月24日

 へぇーという声を挙げながら朝美は僕の持参した中学のアルバムを眺めていた。昨晩、朝美からの質問を返さないでいた後に見た夢のことが気にかかっていた。今日朝美に会って、夢で見た光景は更にも増して鮮明になり、それは夢の中の一場面とは到底言い難く、間違いなく朝美と二人で話した最初の記憶であることはもう明らかとなっていたのに、初めて話したことだけはどうしても思い出せなかった。人は忘れていく生き物なんだと思う。嬉しいことも悲しいことも余程でないと覚えていない。覚えていないのか、覚えようとしていないのか、その取捨選択をするまでもなく、僕は色々なことを覚えずに、忘れていくことで自我を保っている。記憶を失くした朝美は若返ったように見えた、と僕は思った。僕はどうだろうか。そうして色々なことを忘れて言っているというのに、それで外面上も年齢を重ねて言っているように思う。そうすると、やはり年齢は記憶や経験ではなく、年月なのだろうか。いや、そうではないのだ。僕は忘れていきながらも、反面できちんと覚えているのだ。嬉しいことも悲しいことも、表面上忘れてしまっただけで、それを全て覚えているのだ。深層心理なんて格好良いもんじゃない。悲しいことを意識して忘れようとしているだけで、どれもこれも覚えているのだ。悲しいことを忘れようとして、嬉しいことだけを残すことに倫理的な違反を感じてしまうから、もうまとめて全部忘れてなかったことにしているだけなのだ。だから、嫌なことも全部全部本当は覚えている。恐らく私の性格が屈折しているのはそこに由来している。僕は決して良い人間だからこうして朝美の記憶回復につきあっているのではない。それは僕自身が1番良くわかっていた。

 朝美は脇目も振らずアルバムを観ていた。バスケ部のユニフォームを着ている自分を見ては首を傾げていた。

 朝美の記憶が戻ったら、僕たちの関係は元に戻ってしまうのだろうか。ここ数年、会うこともなく、話すこともない、そんな関係に戻ってしまうのだろうか。アルバムの写真に疑問を持っては、そのことについて逐一質問してくる朝美と話しながら、僕は漠然とそんなことを考えていた。僕は朝美の記憶を回復することで感謝されたいのだろうか。それをきっかけに関係を回復させたいのだろうか。いや、朝美の記憶が全部戻ってしまったら、僕らはきっと、やはり元の関係に戻ってしまうのだと思う。僕の知っている朝美はそういう女性だった。そうであれば、記憶が戻らなければ、こうしてずっと話し続けていられるのかもしれない。朝美の母親がいつまで僕に任せてくれるかはわからないが、少なくとも今はこうして朝美と共に時間を過ごすことができている。そうであれば、僕にとっては朝美の記憶は戻らないほうが良いのではないだろうか。想い出を失くした朝美と、ここからまた関係を作り直せはしないだろうか。

 そう考えながらも、僕の倫理観はそれでも僕に自制を促してくる。頼りにしてくれた以上は全力を尽くして記憶を回復させるべきだ、と。けれどそれは表面上の自分であって、屈折した本当の自分が僕に語りかけてくる。僕は所詮、表面上だけの人間で本当は屈折したズルくて汚い人間なのだ、そうでなければ朝美とはもう話すことなどできないのだ、と。どっちの自分が勝つかなんて火を見るより明らかだった。

 そう想い出なんか消えたらいい。
 記憶が戻れば、君はまた僕から離れていくのだから。


<3/24 18:47 ASAMI>
 今日はアルバムありがとうございました。気のせいだとしたらごめんなさい、今日はずっと難しい顔していたような気がしますが、どうかしましたか
 それと、今日、質問し忘れましたが、サッカー部の写真を見たときに、少し変な気持ちになりました。どう表現したらいいかはわかりませんが・・・これって記憶と何か関係あるのでしょうか

<3/24 19:02 YUYA>
ちょっと考えごとしてたんだ、全然気にしなくていいよ。あと、写真の話、あまり深く考えない方がいいと思う。しっかり思い出すまでは寝かせた方が良いよ。もし思い過ごしだったら、記憶が余計に混乱すると思うので。



 サッカー部と言われて僕は自分の眉が動いていることを自覚した。
 無視できなかった。
 僕はそのことを朝美に隠すことにした。


 その日も夢をみた。どうやら私は夢で朝美との日々を順に辿り直しているらしい。それは中3の初秋だった。私と朝美は同じ友達グループにいた。男女合わせて7人。派手な面々ではないが、気の合う者同士仲は良かった。その中に2学期からの転校生も入っていた。綾瀬知里、関西弁の調子のいい子だった。私たちは朝は早くに登校し、放課後は最後まで教室に残り話した。毎日が楽しかった。もし時計を戻せるならあの時に戻りたい・・・しかし、既に悲劇は幕を開け、序章を終えようとしているのだった。
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