舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

文字の大きさ
上 下
12 / 53

episode.11(2007/3/28)

しおりを挟む
2007年3月28日
 
 朝美の家を訪れると、朝美の母親がいつものように出迎えてくれる。リビングに通されると、紅茶を出してくれた。部屋にほのかに香る紫陽花の香りと紅茶の爽やかさが上手く調和している。ここが福岡県の片田舎であることを忘れさせてくれる。
「昨日の件なのですが」
母親はそう言いながら僕の前に腰を下ろした。
「とりあえず履修登録だけお願いいたします。大学の方にはこちらから連絡をいたしますので」
と、履修する亜目をリスト化したメモを僕に手渡した。大学とは違って、大学院では履修モデルも限られているから、本当にメモ程度だった。わかりました、と受け取ると、お手数かけてすみません、と母親は頭を下げた。
「昨日、娘と話し合って決めました。中村さんが帰ってくるまで、出来る限りのことをしよう、そして記憶を戻して、GW明けから大学に戻れるといいね、という話になりました」
GW明けから戻れるとしたら、休学よりは履修登録をしておいた方が良い選択だった。それでいて朝美はとても頭が良いし、真面目で、それまでの遅れなんて簡単に取り戻せるだろう。と、言っても僕の記憶の中の話なのだが。なので、僕も履修登録をするようにアドバイスをしようかと思っていたので、この判断に全面的に同意した。

 朝美はいつものように机に静かに腰を落ち着けていた。今日はアルバムではなく、本を読んでいた。何を読んでいるのか尋ねると、よくは分からないけれど、本棚にあった本だと朝美は答えた。現代小説家が書いた薄めの恋愛小説だった。確か朝美がいつか熱心に読んでいた本だった。

「母から聞きました、中村さん、明後日に戻るんですよね」
その声はとても落ち着いていた。むしろ僕の方が返答にあたふたしてしまった。上手くいけばまた4月末にはこっちに来られるとか、大学の手続きをしに行くだけとか、そういうことを並べて言い訳をする。
「いえ、大丈夫です、私のことは心配しないでください」
小説に目を落としたまま言うと、そのままそっと栞を挟み、
「と、言いたいところですが・・・、正直、早く戻って来てほしいです」
と真っ直ぐに僕を見て言った。少し涙ぐんでいるように見える。
「母と出来る限りやってみますが・・・不安で仕方がないんです、出来れば行ってほしくないくらいです」
かつてこんなに彼女が僕に頼ってきたことがあっただろうか。僕は何度か朝美に頼られてきたし、何度も見つめられる機会があった。でも今回はどちらも経験したことがない、懇願に近いものだった。急に僕の自尊心が満たされ始め、僕は慌てて夢から醒めようとする。
「大丈夫、必ずすぐに戻ってきます。そして、一緒に記憶を戻しましょう」
落ち着いて言ったはずが、僕は言い切る前に激しい胸の高鳴りを感じた。朝美が僕の手を取っていたのだ。
「本当ですか、本当に戻って来てくれますか」
僕は必死で上擦りそうな声を抑えながら、もちろん、と答える。
「私の記憶が戻っても、ですよ」
高なった鼓動は尚も収まりそうになかった。何とか意識を逸らすために僕は机上の小説に目をやる。そうだ、思い出した。あれは確か高校受験のあたりで朝美が読んでいたのだった。

けれど、それは僕に思い出したくないことを思い出させることになった。



 高校受験を控えた冬の中頃、僕は朝美に頼まれて放課後に勉強を教えていた。数学が苦手なのだと言う。僕からしてみれば朝美の学力は既に志望校のボーダーを超えていたのだけれど、僕も朝美に頼られることに悪い気がしなくて、勉強に付き合っていた。この日も勉強を終えて帰る準備をしていた。朝美は塾があるということで、僕より先に教室を飛び出していた。机に目をやると小説が置いてある。恐らく朝美が忘れていったものだった。手を取りどうしようかと考えていると、廊下から足音が聞こえた。こちらに近づいてくる。朝美が忘れたことに気づいて戻って来たのだろう、と思った。

 しかし、それは綾瀬知里だった。知里は僕がいることをわかっていたように、教室に一人でいる僕に驚きもせず、こちらに近づいて来た。
「それ、朝ちゃんが読んでたやつやん、どうしたん?」
僕は、忘れたみたいだ、と答えた。届けるん? と知里が訊くので、朝美は塾に行ってしまったから迷っている、と答えた。
「そんなら明日でもいいか」
知里は一人で納得するように言った。
「なんか、最近楽しそうやな、中村くん」
何のことを言っているかが分からずに、僕は、そんなことないよ、と答えた。
「朝ちゃんが桂木くんと別れてから楽しそうに見えるんやけど」
僕はハッとして知里を見た。知里はたまに見るドラマの悪役のような何かを企んだ顔をしている。知里は一体何を言わんとしているのだろうか。僕の気持ちに気づいているのだろうか。


「あ、でも、そうでもないか、ダブルデートの付き添いとはいえ、せっかく朝ちゃんと遊びに行ける機会がなくなってしもたんやし」


 知里は完全に僕の気持ちに気づいている。僕は言葉を失ってしまった。

しおりを挟む

処理中です...