舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

文字の大きさ
52 / 53

Epilogue.finale(2020/7/4②)

しおりを挟む
    紫陽花を持ったまま、僕は新宿の裏通りを歩いていた。自然と足があの駐車場に向いた。胸はざわざわするけれども、言葉にはならない。だからこの胸のざわめきも気のせいかもしれない。そこから歩いてあのクラブハウスに向かう。クラブハウスはとうの昔に摘発を受け、姿を消してしまった。けれどビル自体は残っていて、屋号が変わっていた。居抜きなのかどうかは知らない。もしかして箱が変わっただけで中身は変わらないのかもしれない。そんなことはわからない。けれど僕は過去の自分に語りかける。君は間違っていなかった、と。
 小説はあの1作だけと思っていたと思っていたけれど、あれをきっかけに他にも書くことができて、結局僕は小説家を続けることが出来ている。少しだけ形は変わってしまったけれど、皮肉なことに僕は今、自分のやりたいことができている。

 香織に全てを明らかにされた日、僕は1つだけ言わなかったことがあった。僕はそれを誰にも言わなかった。香織はあの小説を『朝美にとっての半自伝小説』と言った。それは間違いじゃない。

 けれどそれだけじゃない。僕は朝美とのことで敢えて書かなかったことがあった。僕にとっても『半自伝小説』だったのだ。


 それは高3の梅雨。

 知里の件があって、もう随分と朝美と話していなかった。竹下との一件も全て終わった後だった。朝美との放課後の教室で一緒になった。降り出した雨で僕は帰ることが出来ず、教室で雨止みを待っていた。部活の生徒はもう部活に行ってしまったし、部活をやっていない生徒はとうの昔に帰ってしまった。図書館でもたもたとしていた僕は完全に帰るタイミングを失い、大人しく雨止みまで待つしかなかった。
 図書館に戻っても良かったのだけれど、何となくぼんやりと暗い空を窓越しに眺めていると、窓越しにぼうっと映る朝美の姿が見えた。僕は慌てて振り返る。朝美は一瞬入ることを戸惑ったけれど、他に行く場所もないし、ここで拒否をするのも気不味いと思ったのだろう。意を決したように、けれど極力動じていない様子で入ってきた。席に着いてノートを広げる朝美は何も言わずに明日の予習をしているようだった。僕も特段話すきっかけも内容もなく、かといって窓の外を見続ける気分にもなれず、僕は先程借りてきた小説を読むことにする。芥川龍之介の小説を読みたかったはずなのに、その鋭い研ぎ澄まされた文章が全く頭に入ってこない。その鋭さは感性ではなく、僕の心に物理的に攻撃をしてくる。この沈黙をお前は破らないのか、破れないのか、僕は追い立てられる。こんなことなら漱石を借りてくるべきだった。ロマンチックな台詞のひとつでも参考にできるかもしれないのに。太宰でも良い。太宰ならどんな状況でも女性との沈黙を破る一手を持っているに違いないのだ。

「中村くんは結局部活やらなかったの」
沈黙を破ったのは朝美の方だった。朝美はノートに目線を移したままだった。一瞬、僕に語られたものであるのかわからなかったし、幻聴かもしれなかった。返答に困っていると、今度は僕の方を見てもう一度同じ質問をしてきたので、やはり僕に向けてのものだった。
「あー、うん。うちの学校、軽音無いから」
「そっか、音楽好きだったもんね」
また一瞬の沈黙が走る。今度こそ何か話さないと、と思っていても、朝美には敵わない。
「まだ駅で歌ってるの」
「あー、うん、たまに」
「どんな歌を歌うの」
「あー、GLAYとかサムエルとかGRAPEVINEとか」
「ゆずは」
「やらない」
「そうなんだ。自分の曲ってあるの」
「あるよ、たまに歌う」
そっか、というと僕の持つ小説に目をやり、
「中村くん、頭良いもんね。難しい本も読むし」
「頭の良さは音楽とは関係ないよ」
「頭が良いのは否定しないんだ」
「言葉のあやだよ」
ちょっとムッとする僕に朝美が微笑む。朝美が僕に向けて笑うのなんていつぶりだろう。コンクリートを打つ雨の匂いが教室を支配する。紫陽花の咲く頃に朝美と待ち合わせしていた匂いと同じだった。
「どちらにしても中村くんはそういうの向いてるよ」
「そうかな」
朝美はポケットから携帯電話を取り出すとさっと確認をして片付けを始めた。恐らく迎えが来たのだろう。うちの学校は携帯電話の持ち込みは禁止されている。朝美は守っていると思っていたけれど、どうやら僕の知る朝美とは少しずつズレがでているらしかった。
「私はね、世の中は『伝える人』と『伝えられる人』で分けられると思うの。その違いはハッキリとはわからない。でもそれは努力でどうにかできるものじゃなくて、雰囲気とか感じとか、そういうのでわかるの。私にはわかる」
カバンに荷物を詰めた朝美は立ち上がり、雨と一緒に言った。

「そして、中村くん、あなたは『伝える側』だと私は思う」

教室を出ようとする朝美を見ながら、僕はぼんやりとこれで最後なんだろうな、と思った。朝美と話すのはこれで最後だという強烈な思いが胸を支配して、僕は思わず立ち上がった。
「オレ、なるよ」
その声に朝美は振り返って立ち止まる。
「ミュージシャンでも小説家でも脚本家でも、芸術家でも、何になるかは全然わかんないけど、オレはなるよ、『伝える側』に」
そう、と微笑む朝美は世界の誰よりも美しくて瑞々しかった。朝美は雨だと思った。
「そして有名になったら、今日のことがきっかけだった、って言う」
「言うの?」
「いつになるかはわからないけど」
「その頃には忘れてるよ」
「忘れない」
「忘れた方が良いよ」
「20年でも30年でも覚えてる」
「それは…重いなぁ」
「それじゃ18年。今の倍生きるまでは覚える。そしたら忘れる」
朝美はそれを拒否しなかった。
「じゃあ18年後の今日には忘れていてね。今日の日付は忘れない?」
「忘れるわけないだろ、だって今日は」


 高校時代に朝美と話したのは僕の予感どおり、あの日が最後だった。そして大学でも話すことなく、朝美が記憶を失うまで、僕は朝美と接点を持つことは無かった。そして約束の日が明日になった。僕は36歳になった。朝美も明日で36歳になる。朝美が歳を重ねる前に、僕は約束どおり朝美を忘れることにする。
 手に持つ紫陽花の香りを吸い込む。雨の香りが僕の中を埋め尽くす。
    雨の匂いがする季節に生まれたかった。改めて僕はそう思った。オレンジ色の空から夕立が庭の土もアスファルトも屋根も街も全部濡らして、その後に残った少しまとわりつくような空気の中、濡らされた様々なものたちが放つ香りが混ざった、あの匂いが好きだった。僕は朝美の生まれた季節が好きだった。そんな簡単な理由から目を背け、最もな理屈で言語化できない自分を正当化した。肝心なことは言葉にできないんじゃない、僕が言葉にしなかっただけだった。

「僕は朝美が好きだった」

言葉にするとこんなに僕を表すものは無かった。忘れる直前にようやくわかった。僕は朝美が好きだったのだ。朝美の関わる世界の全てが好きだったのだ。

 これで忘れられる、そう思った。もう朝美の記憶は塗り替えられている。朝美にとって思い出したくない記憶も、僕が誰にも言わなかった思い出も、もう朝美の中には無く、僕の中だけにあるものだった。今日まで僕が引き受けていた記憶だった。今日、僕はこれを忘れる。僕が忘れたら世界からその記憶はなくなり、事実が完全に変わる。僕だけの持つ真実は時間に埋もれ、やがて僕と朝美という存在だけが残る。朝美はとうに朝美の未来を歩き、新しい事実に積み重ねる。僕は今日から新しい事実の上にこれからを積み重ねていく。朝美のいない、朝美に拘らない未来を。

    さよなら、呟いた僕は紫陽花の花弁を手に掴むとそれを宙に放った。薄紫と白のコントラストが歌舞伎町の湿った空気の中を舞っていく。周囲から笑い声が漏れ聞こえる。何やってるんだ、と中傷じみた声も聞こえる。けれどこのコントラスの世界は僕だけのもので、その声は概念になって消えていく。そして風景も消えていく。世界は今、僕と記憶だけになった。
 声が消え、風景が消え、僕は記憶にもう一度さよならを告げる。薄紫と白のコントラストは段々と高度を低くし、やがてそれも消えていく。花びらが舞い落ちて、消えると、その後に消えていた風景が戻ってくる。僕の耳にも声が戻ってくる。

 不意に僕の名前を呼ぶ声がした。
    聞き馴染みのある声だった。

 きっと彼女の声だ。
 振り返った先に彼女が立っていた。

                                       (了)

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

#秒恋9 初めてのキスは、甘い別れと、確かな希望

ReN
恋愛
春休みが明け、それぞれに、新しい生活に足を踏み入れた悠里と剛士。 学校に向かう悠里の目の前に、1つ年下の幼なじみ アキラが現れる。 小学校時代に引っ越した彼だったが、高校受験をし、近隣の北高校に入学したのだ。 戻ってきたアキラの目的はもちろん、悠里と再会することだった。 悠里とアキラが再会し、仲良く話している とき、運悪く、剛士と拓真が鉢合わせ。 「俺には関係ない」 緊張感漂う空気の中、剛士の言い放った冷たい言葉。 絶望感に包まれる悠里に対し、拓真は剛士に激怒。 拗れていく友情をよそに、アキラは剛士をライバルと認識し、暴走していく―― 悠里から離れていく、剛士の本心は? アキラから猛烈なアピールを受ける悠里は、何を思う? いまは、傍にいられない。 でも本当は、気持ちは、変わらない。 いつか――迎えに来てくれる? 約束は、お互いを縛りつけてしまうから、口にはできない。 それでも、好きでいたい。 いつか、を信じて。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

処理中です...