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壱章 切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ
肆話 武士道の片鱗
しおりを挟む「……相手は手負いだ。無理せず同時に行くぞ」
今回のようなことは慣れているのか、敵は焦らずにゆっくりと左右に散る。ざっざっ、と摺り足の音が耳朶を叩いた。
ああ、視界が明滅する。どんどん気が遠くなっていくのが分かった。痛みを感じる器官がぶっ壊れてしまったのか、それともメーターが振り切れてしまったのか、身体の重さと身体が浮くような熱しか感じられない。
だけど敵の一挙一動だけは驚くほど見えていた。
俺から見て左の敵は、躊躇なく俺を斬りつけてきた人間である。他の二人に指示を出していたためリーダー格であることが窺える。それに二人より腕に自信があるのか、こちらに近付く動きは大胆だ。
右の男はあまり剣術は得意じゃないらしい。切っ先はブレているし、死にかけの俺の刀にビビって腰が引けている。
「うおおおお!」
雄叫びを挙げながら二人が斬りかかる素振りを見せる。だから俺もそれに呼応するかのように一歩前へと出た。
「な!?」
自分に反撃がくるとは思わなかった右の男が焦って動きを止めた。
左の男は味方と挟撃するつもりだったのだろう。左から横薙ぎの一撃を振るうも、一歩前に出た俺に刃は当たらない。
「くっ」
すぐさま腰を引いて刃を当てようとするが遅い。既に俺の刀は男の喉仏を一閃していた。
「がはッ!?」
信じられないといった表情を浮かべながら崩れ落ちる男を一瞥し、残った一人に目を向ける。
「……まだやるか?」
そんなことを言う暇があるならたった一歩踏み出して斬り捨てればいい。だが俺は敢えて刀を向けて威嚇した。
「ひっ、ひぃ!」
元々剣に自信がなかったやつだ。あっという間に握った刀を放り投げ、街の方へと走って行く。
そういえば最初に太ももを斬ったやつはどうしたのだろうかと視線をやると、ショック死でもしたのか既に事切れていた。これにて一件落着というやつである。
ちなみに最後の一人を何故斬らなかったと言うと。
もう、そんな余力はどこにも残っていなかったからだ。
「げぼっ……ぐ」
ぼたりぼたりと、手のひらからこぼれた臓物が腐った葉の上に落ちる。我ながら何故生きているのか不思議なくらい深手を負っていた。
「……死ぬのか」
こんなところで。何も分からないまま、ただ己の非力さだけを呪って。
「……ぐ」
もはや足すら動かせず、そのまま倒れ込む。衝撃で意識が吹き飛びかけるがなんとか堪えた。
堪えて、どうして耐えてしまったのかと自問する。今意識を失えば楽になれたのだ。だというのに何故耐えてしまったのか。
「……武士道、とは……死ぬ事と、見つけたり……」
それは祖父が好きだった言葉の一つである。「葉隠聞書」という、言わば侍の教科書なる書物、その中でも有名な一文だ。
こんな死が武士道なのか。そう問われれば否としか言いようがない。思えば、だから耐えたのかも知れない。しかしそうは言っても、もはや絶命は必然。
「こんな、ところで……!」
死んでたまるか、と目前に生えている草を掴んで無理やり前へと進む。ぶちぶちと音を立てて掴んだ雑草が千切れた。それでも他の草を掴み、前へと進む。進んだ先に何があるのか、進んだところで何になるのか……そんなものは分からなかった。
ただ「死」という運命から逃れるように、俺は前へと進む。
「……?」
どのくらい進んだだろうか。きっと一メートルも進んでいないだろうが、そこで俺に影が差した。
不思議に思ってわずかに首を上へ向けると――――俺を見下ろすようにして、女が立っていた。
全身真っ黒な……いや、真っ暗な女。
俺の目の前、つまり足元まで伸びる真っ黒な黒髪、それに負けないほど暗い純黒のドレス。フリルもリボンも、装飾は全て黒い。
しかし肌は雪のように真っ白で、唇は鮮血のように真っ赤だった。
「……っ」
あんたは誰だ、そう問いたかったが、既に言葉を話すような体力はない。気を抜けばいつでも意識がブラックアウトしてしまいそうだ。
……ああ、もしかしたら目の前の女が黒いのではなくて、俺の意識が闇に塗り潰されようとしているだけなのかも知れない。
「……の?」
薄れゆく意識の中、女が俺に向かって何かを言った。厚い官能的な唇が小さく動いている。しかし俺はその言葉を聞き取ることができなかった。
反応を示さなかった俺に多少のいらつきを見せながら、女は再び言葉を発する。
「あなた、死ぬの?」
そりゃあ、死ぬだろう。出血多量どころか、生命の維持に必要な臓器すらないのだから。
だけど俺は、だからこそ俺は。
嘘偽りのない自分の想いを、目の前の女に吐露した。
「死にたく……ない」
こんなところで。
「死ぬわけには……いかな――――」
俺の意識は、そこで途切れた。
夢を見ていた。
それは間違いなく悪夢だろう。何故なら夢の中で俺は腹を切ったのだから。
俗に言う切腹というやつだが、しかし本当に腹を切ったわけじゃない。切腹ということはつまり俺は罪人であるはずだが心象は穏やかで、渡された扇子を短刀に見立てて腹に押し付けただけである。
それを合図に介錯人が素早く俺の首を落とした。
腕の立つ介錯人によって斬られた首はわずかに皮一枚残し、醜く血を撒き散らすこともない。
死んだというのに満足で、喜びすらあった。俺は義に殉じたのである。自分が主と仰いだ方の無念を晴らし、そして武士として死ぬことができた。
御先祖様方、どうか御照覧下さい。私は、――――は、見事武士の本懐を遂げました! 詳しい話はそちらで、一緒に向かう四十六人の仲間たちと――――
ふっ、と唐突に目が覚めた。夢の内容はなんとなく覚えている。
俺は、赤穂内蔵助は、その名の通りあの赤穂義士の血を継ぐ人間だ。主君の無念を晴らすため、わずか四十七人で吉良邸に討ち入った侍……その誰の末裔か、祖父はついぞ語ってはくれなかったが、間違いなく俺はその誰かを祖先に持つ。
赤穂という名は、きっと生まれ育った地を忘れないために変えた名前だろう。
だからあの夢は、その誰かが切腹した時のものだ。もちろん俺の中に眠る遺伝子が記憶を持ち続け、俺にそんな夢を見せた……なんてことは思っていない。事実、夢の主が俺なのか先祖様なのかは最後まで分からなかった。
夢は、ただの夢でしかない。
だけどもし、俺に……俺にも仕えるべき主君とやらがいれば、あんな死を迎えることができるのだろうか。
少なくとも賊に斬られて死を迎えるような、あんな絶望は――――
「……?」
そこまで考えて、ようやく俺の頭が正常に働き出した。
「ここは……?」
俺が寝ていたのは五畳ほどの和室だった。昼なのか、障子越しに差す光で部屋は明るい。
布団と箪笥と、小さな机しか置いていない簡素な部屋だ。その真ん中に敷かれた布団に俺は寝ている。
斬られた場所に痛みはない。誰かに着替えさせられたのか、いつの間にか身につけていた羽織の胸をはだけさせ、斬られた腹の傷を触る。
触っても痛みはない。わずかな痒みと、肌を引っ張るようなぴりぴりとした鈍い痛みがあるだけ。傷ですら、目を凝らさないと気付かないほどのものしかない。
臓物をこぼすような傷は、ほとんど完治していた。
「……どうなってんだ」
思わず口からこぼれた疑念は俺の本心である。うっすらとではあるが傷痕がある以上、俺が斬られたことは夢じゃない。
だが夢ではないというのなら、あんな傷を負って何故俺は生きているのだろうか。あれはたとえ現代の技術でも手遅れな、致命傷というやつだった。
狐につままれたかのように腹を晒したまま呆けていると、不意に障子がスライドする。
「ん?」
「えっ」
開けられた障子の奥から現れたのは、水を汲んだ盆とタオルを持った同い年ほどの少女だった。
癖のないさらさらとした黒髪が肩の上で踊っており、白い肌と伏せられた丸い瞳はまるで日本人形を彷彿とさせる。
そんなお人形のような少女は起きていた俺の顔を見て目を見開き、そして視線がはだけた胸元に向かったところでフリーズした。
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