石になった少女

雲黒斎草菜

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4) 町へ……

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「美味しぃねぇ。あたし初めてキジ料理食べたけど、こんなに美味しいとは思ってもみなかったよ。ね、テル?」
「あぁぁ。やっぱ肉が新鮮なんだろうな」
 イチが作ったキジ鍋はすっげぇ美味かった。

 クルミと名乗った少女も、俺の対面で小さな口を一生懸命モグつかせている。
「かぁさまの言うとおりです。実食するって感激ですね。初めてですけど、食べた物が喉を通る瞬間がたまりませんもの」
 この子は何を言っているのだろう。キジ料理が初めてと言っているのか?
 まさか初めて物を食べるなんてことを言っているんじゃないだろうな。

 イチ同様、この子も異色な感じがするのは俺だけじゃないだろう。
「なぁ。どう思う?」
 隣で黙々と口を動かしているサクラをこっそりうかがって脱力した。キジの手羽肉を両手で掴み、満面の笑みを浮かべて一心不乱に頬張っていた。

「………………………」

 まぁこいつのことだ、何にも感じていないのはいつものことだ。この中でまともな神経をしているのは俺だけだからな。

 キジ鍋の最後は、俺が持ってきた白米を入れて、再びおかゆにしたが、同じ鶏系統でも昨夜の焼き鳥おかゆとは比べ物にならない濃厚な旨味が出ていた。
 ただひとつ。クルミの脇に置かれた鍋からピンクのパスタが、全部消えているのが無性に気になる──。

 やっぱ喰ったんだろうな……。

 ついでに、ふと思い出した。
「そうだ。帰り道が分からなくなったんだ」
 今頃言うほうも言うほうだが、
「え、そうなの?」とサクラ。
 ニコニコしてやがる。

 互いにここまで能天気だと、とても情けないものを感じる。
 まぁそれほどキジ鍋が美味かったということにして──なぜかワイシャツ少女も無邪気にはしゃいでいた。
「あとでわたしたちと遊びましょうよ。せっかくお知り合いになれたんですよぉー」

 幼稚園かよ──。

「いや、悪いけどさ。俺たち今日帰るんだ」
「えぇぇー」
 不服そうに口を尖らせるサクラ。何に考えてんだこいつ……。
「当たり前だろう。お前がでっかい荷物になっているのに気がつかないのか」
「荷物って?」
 バカヤロめ……不思議そうな顔できょとんとするんじゃねえ。

「お前は手ぶらで、それも女だてらに山へ入って来てだな……」
 俺の言葉など上の空。サクラの視線はワイシャツ一丁で蝶々を追いかけているクルミへと向いていた。
 釣られて俺も見る。

 少女は背の低い草っ原を意味もなく駆け回っている。行動はまるで幼児だが、容姿が艶かしい。ワイシャツがひらりひらりと捲れ上がって、目が離せない。
「何してんだ、あの子?」
 涼しげな表情で眺めているイチに訊いた。
「姫様は珍しいのだ」
 頭ん中覗いてみてえな。おそらく珍しいモノが見えるだろう。何しろ男物のワイシャツ一丁で山をうろついてんだからな。

「違う。見るものすべてを珍しがっておられる」
「まぁ。なんでもいいけど、あんたのお姫様だったら山の中に入る時ぐらいは、ちゃんとした物を着せてやれよな」

 イチは怪訝な表情を浮かべると、鋭い視線で俺を射抜き、ぴしゃりと言い切る。
「それはオマエのせいだ」

 やけに乾いた口調で言いやがったな。
 でも、もうどうでもいい。疑問は湧くが、俺たちには関係ない。
「サクラ帰るぞ。テントをたたもうぜ」
 春先によく湧きそうな、こいう連中に関わるとろくなことにならない。だいたい、あのクルミという少女が最も胡散臭い。あの手の輩(やから)におっさん連中は引っかかって、転落の人生を歩むんだ。俺はそんなスケベを露呈するようなことはしない。

「ほら、お前も手伝え」
「ちぇぇぇぇぇぇっ」
 サクラはガキみたいに口先を突き出すものの、納得はしているのだろう、ボチボチとテントを折りたたみに掛かった。その向こうの草っ原らでは飛び去る小鳥をクルミが無邪気に追いかけている。

 いまどきこんな純真無垢な子がいるはずない。そのように見せているんだ。この裏には絶対に何かある。例えば、手を出そうとするとイチの野郎が、『俺の女に……』ってやつだ。美人局(つつもたせ)っていうんだよな、こいうの……。でも何でこんな山奥なんだ?

 どこまでもひねくれるのは仕方が無い。何せ、美少女アイドルがいきなり髪の毛を剃って坊主頭になる時代だからな。

「あっ」
 俺の見ている前でクルミは漫画のように石につまずき、ポテンと転がってワイシャツの裾(すそ)を派手に捲り上げた。
 瞬間、鼓動が頂点まで達したあと、瞬時に平常時に戻る。
 ちょっとがっかりしている俺はバカ正直だ。ワイシャツの下には黒く短いスパッツを穿いていた。

 スパッツ──あるいはレギンス。
 名称はどうでも、期待させるだけさせておいて、目にした途端、一気に奈落の底へ突き落とす、短めの──こういうのはパッチて言うんだ。言い方を変えれば、モモヒキって言ってもいいだろう。
 違うのか? 俺の爺ちゃんが白いやつ穿いていたぞ。
 同じアンダーウエアーなのに、魅惑のパン●ィと違って、なぜこうも扱いが違うんだろう。
 まったく世の中にゃ、不可思議なことが満ちているもんだ。

「……さっ、帰るぞ」
 たたんだテントを突っ込んだバッグをサクラに背負わせ、他のキャンプツールを入れたリュックは俺が担いで坂を下る。広場は草と樹木に閉ざされているが、とにかく傾斜に沿って下り始めた。

「この先、道は無いぞ」
 地面の上で胡座を掻いていたイチが背後から平坦な声を掛けてきたけど、無視をかました。
「ねぇ、テル。道無いって言ってるよ」
「いや。在(あ)ったんだ。お前だって昨日の今日だ、ここを登ってきたことぐらい憶えているだろう?」
「う~ん。確かにこんな感じの坂だったね」

 しかし坂を下って十数メートル。俺は地面に半分埋まった地蔵のように動けなくなった。どっちを見ても原生林が密集している。ぐるりと同じ景色が続いており、進むべき方向が定まらないのだ。
「有り得ない。こんな茂みの中を俺たちが上がってきたなんて……」
「だねぇ……テル。道間違ったね」
「一旦、引き返そう」

 サクラはキョロキョロ周りを見渡し、最後に地面を指差した。
「この芽を出したばかりの小さな木、見て」

 草のあいだから少し芽を伸ばした淡い緑の新芽が風に揺れていた。雑草に囲まれているにもかかわらず妙に引きつけられ、その先端にサクラがそっと指を出す。
「熱いよ~。すごい芽吹きを感じさせるパワーだよ。ほら触ってみてテル」
 ひどく興奮している様子だったので俺も触れてみる。
「はぇ? 何が? ただの草の芽だぜ。冷たいままだ」
 摘んで引き抜きかける手をサクラが強く制した。

「ダメだって。この子はここらの草と違う。すごいパワーを感じる。きっと昨日見たような大きな樹になるのよ。抜いたらあたしが許さない」
 サクラの勢いにちょっちたじろぎ、
「な、なに真剣になってんだよ。ビビるじゃねえか」


「──サクラさんは綺麗な心をお持ちなんですね」

「「どぉぁぁぁぁっ!」」

 肩口から声をかけられて、俺たちは怒声と悲鳴を混ぜたような声を上げて飛び上がった。

 振り返ると、イチとクルミが真後ろに立っており、その後ろにはハスキー犬が付いていた。
「お、脅かすなよあんたら。まったく気配が消えてたぜ」

「あの……」
 赤らめた頬をしたクルミが潤んだ瞳でサクラを見つめている。
「どうしたの?」
「お願いがありますぅ……」
 小首をかしげるサクラに、少女は澄んだ瞳から無色透明の光をこぼしながら訴えた。

「わたしたちもお供させてくださぁーい」

 クルミは願うような仕草で無心に両手を揃えた。その姿を見てちょっと胸を痛めるものの、
「ゴメンな。俺たちは家に帰るんだ。君らも帰れよ」

 正直なところを伝える俺へ、イチは自分の弟を諭すような優しげな口調で言う。
「テル。その先は道が無い。どうしてもというのならテツに案内させるが……」
 しんがりにいたテツが、草を掻き分け悠々と俺の前へと進み、原生林が続く茂みの先を睨んだ。

 現地の人が言うのならそのとおりなんだろう。じゃあどこで道を間違えたんだ?
 腑に落ちない気分だが、ここでは俺たちのほうがよそ者だ。だったら地元の人に従うのが正しいというものだ。
「別に俺たちは、あんたらを嫌っているわけではないんだ……」
 その言葉に、ぱぁっと白い花が咲いたようにクルミの表情が明るくなった。
「よかったですぅ。嫌われたらもう存在が消えちゃうんですよぉ」

「……………………?」

 どこか涼やかで可憐な声だが、綴られたそのセリフは不思議さで満杯だった。
 よく意味が分からないが、とりあえず要求だけはしてみる。
「まず、広野ダムに出たいんだ」
 日本語が通じるのは確認済みだからな……イチ。

「広野ダムなら、まだ完成していない」
「ほらみろ。ダムがあること、ちゃんと知ってんじゃないか」
 へっ。知らないフリしてやがったな、このイケ面野郎。いけ好かないヤツだ……。


 だいぶ時が経ってからだろうか。
「えっ!」と顔上げ、
 イチの言葉をゆっくり吟味する。

(まだ完成していない?)

「でええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
 絶叫した。

 ええぇ~~、
 ぇぇ~~、
 ェェ~~、
 ェ~~ぇ~~~~~~~
 ぇ~~~~~~~~~~
 俺の声が山々を木霊して行く。

「うっさぁぁぁ~い」
 耳元でわめいた俺へ、拳骨を挙げて飛びついてきたサクラを振り払い、イチへと向き合う。
「い、今なんちゅった?」
「広野ダムが建設されるのは、四百十九年先の話だ」
「な、何を言ってんだ? じゃ今は何年だと言うんだ」

「慶長一年」
「なんだよその年号。聞いたこと無いぞ……」

「──────────────」
 風が止まり、野原が静寂に沈んだ。耳の奥が痛い。

「冗談言わないでくれよ……。俺たちは広野ダムからバスに乗る。そしてJRの今庄駅から列車に乗って家に帰るんだ。悪いが道を教えてくれないか」

 イチは能面のように無表情で白い顔を向け、俺の耳にはっきりと宣言した。
「慶長一年。関が原の戦いの四年前。安土桃山時代だ」

「………………っ!」
 身も凍るような冷たい視線で睥睨され、一気に気温が五度は下がった気分だ。

 でもヤツは平然と繰り返す。
「西暦一五九六年。戦国の時代にJRもバスも無い。現実を見つめろ」
「そんな………バカ……な」
 頂から吹き降ろしてきた冷たい空気が俺の首筋を走り抜けて通った。それはまるで秋のような澄んだ冷風だった。
 ぶるっと身震いしながら、

「──マジで言っているのか?」

 やっぱりこいつらだいぶおかしいぞ。やばい連中にとっ捕まっちまったもんだ。ある意味、怖ぇえぜ……って、こ、こらサクラ。こっちが真剣に議論を交わしているというのに、クルミをテツの背中に乗せて遊んでんじゃない。
「なんで……?」
 二人と一匹がゆっくりと顔をこちらにひねる。能天気な女どもは二人揃って屈託の無い笑みを浮かべていた。

「サクラ、一旦キャンプ地に戻って別ルートを探そう」
 俺はイチの言葉を無視して、サクラの手を引き元のキャンプ地に戻った。

 土を掛けて消した焚き火からまだ煙が薄っすらと立ち昇っている。
「勘違いしているかも知れない。実際は上から下ってきたのかも……上に登ってみるぞ」
「焚き木を拾いに、上のほうはだいぶ歩き回ったけど、道なんて無かったよ、テル」
 首を横に振るサクラ。栗色のポニーテールが小動物の尻尾のように揺れていた。

「見落としたんだ。ちょっと待っとけよ。俺が見てくる」
 イチとクルミは消えた焚き火を見つめて、こっちの動向をうかがっている様子で、テツはくんくんと鼻を鳴らして辺りを警戒している。その空気が異様に寒かったのでひと言釘を刺した。
「イチ。俺がいないあいだサクラに手を出すなよ。お前であっても、こいつ容赦しないぜ。気をつけろよ。強ぇ女だからな」
「変なこと言わないでよテル……。あのね、あたしはか弱い女の子なのよ。ね、イチさん」
 ワザとらしく乙女を装うサクラ。何であいつに念を押す? 

 妙に輝く目の色が気になった。
「やっぱ一緒に行こう」
 なんだか嫉妬心を剥き出しにしたみたいで勘違いされそうだったが、サクラの腕を引っ張って登り傾斜にある茂みを掻きわけ中へ入った。
 サクラは終始機嫌がよかった。口笛なんかを吹いて俺の後をついてくる。
 なんでこいつはそう能天気でいられるんだ?
 こっちは焦るばかりだ。どちらを見ても深い原生林が続いており、林道に出る気配がまったく無い。

「な……んっ……だ?」
 唐突に、かつ忽然と気づいた。地面ばかり見ていたから気がつかなかったんだ。
 視線を上げた俺は驚愕すると共に凍りついた。ブナの大木が真っ赤に色づき、風に踊らされパラパラと葉を落としている異様な光景に。

 朝起きてイチたちと出会い、まだ数時間しか経っていないが、途中で朝食を取ったりしているのに、まったく気づかなかったとは、俺としたことがうかつだった。
 周りをよく見ると、赤茶けた葉をつけた樹木が多い。そういえば今日は冷えた風が舞っている。山奥だといっても、夏ならそろそろ暑くなってきてもいいはずだが。

 季節がおかしいのか?
 空を見上げると夏の入道雲ではなく、抜けるような青空に白いすじ雲。
「なぁ。サクラ、秋っぽく感じないか」
「何が? まだ夏休みは終わってないよ」
「そんなこと分かってるよ」
 こんなバカ相手にすると、余計に疲れる──。

 結局、二十分ほど山の中をうろついて、また焚き火の場所へ戻って来た。

 連中は俺たちが戻ってくるのが分かっていたようで、イチは焚き火の前で胡座を掻いているし、クルミは相変わらず鳥を追いかけている。そしてテツはその姿を鏡のように澄明な瞳に映していた。

 焚き火の燃えカスを棒切れで突っついていたイチが戻ってきた俺に気づき、ふっと顔を上げた。
「どうだ? 林道は無かったろ?」
 その言葉を聞いて、なんだか無性に腹が立ってきた。
「なんで、知ってて黙ってたんだ」
「それがしは姫様の到着を待っていた。それまでは安心できないから」

 やっぱし意味が分からん。
 テツも、とすとすと、体格の割に小さな足音を立てて寄ってきた。
 俺はリュックを地べたに下ろし、その上に腰掛ける。サクラも真似て背中からテントのバッグを下ろすと、それへと腰を落とした。
「このままだと、俺たちは遭難だ」
 ワザとらしく少し大きな声を上げた。
 やっとサクラは事の重大性に気づいたのだろう。真剣な表情で俺を見つめた。
 でもまだ余裕だ。方法はいくらでもある。太陽の方向から北は分かる。無理やりにでも茂みの中を通って山を下りて行けば、広野ダムのどこかに出る。
 しかし、さっきイチが口に出した信じがたい言葉が現実だと、広野ダムには行き着かないことになる。

「イチさんとやら……朝は美味いキジ鍋をご馳走になり感謝している。あんな美味いものは生まれて初めてだ」
「そうか。今晩はもっと美味いものを馳走致すぞ」
「夜まではここにいない。マジな話をしよう。道を教えてくれ。あんたら地元の人しか知らない、抜け道でもあるんだろ?」
 俺の言葉が向こうにまで聞こえたのだろう。クルミが白いワイシャツの裾をパタパタと跳ね上げつつ、急いで駆け戻ってくると、草の上へ膝からダイブして正座をした。勢いで捲りあがったシャツの端を直して、両手を太ももの上で重ねた少女は、邪気の無い丸い瞳で交互に俺とイチを見ている。

 この子、膝っ小僧が痛くないのか?
 サクラも同じように、ぽかんとした表情に戻っていた。何なんだこいつら。力が入らねぇな。

「テル……。それがしの話を聞いてくれぬか」
 覚悟を決めたような口調。やっと腹を割って話そうっていうつもりなのか、焚き火の跡を突っつきながら切れ長の目を輝かせて、俺を横目で見た。
「いいぜ」
「信じられない話をする。ちゃんと聞いてくれ」
「あぁ。俺たちもこのままだと遭難だ。道を教えてくれるのならなんだって聞いてやるぜ」

 イチはひと呼吸して、
「オマエたちはテツに選ばれし、スーパークラスの人類だ」
 じっと俺の目を見た。

「へはぁ?」
 ハ行エ段の変形になっちまった。何を言っているんだ、このイケ面野郎は──。やっぱイカレているんだ。真剣にやばいぜ。

「なんだクラスって……? 学校のクラスのことか? 俺は2のBだ」
 うざったい話だ、まったく。
 溜め息混じりで答える俺の肩にサクラの震えた手が乗せられた。
「て、テルぅ……」
「ん?」
 それほど暑くもない気温なのに、妙に汗を噴き出したサクラ。 「痛いよぉテル。お腹が痛くなってきたよぉ」
「なっ!」
「お腹が痛いの」
 何の前触れも無く、サクラが苦しみ出した。

 出かけようとして、いきなり玄関の敷居でつまずいた気分だ。サクラ、お前のタイミングはいつも絶妙だぜ──とか、感心している場合じゃない。ここに来ての腹痛はやばいぞ。もしかしたらあれだ──いや絶対あれだ。
「だ、だから言っただろ。生でミミズなんか食うからだ。どうすんだこんな山の中で……病院なんてねえぞ」
 慌てた俺はついイチに当たった。
「お前が妙なモンを食わすから、サクラがおかしくなっちまったじゃないか!」
「あれは高たんぱくの食料だ。腹痛などにはならぬ」
「お前らはそうかもしれないが。俺たちは都会人だ。ミミズなんて食わない」
 ちょっと口調がきつかったかもしれないが、俺はひどく焦っていた。言葉なんて選んでいる余裕は無かった。

「……と、とにかく一回トイレ行って来い」
「うん。わかった」

 まぁなんだ──。サクラはサバイバル部の副部長として、抜擢(ばってき)しただけのことはある図太い神経を持っている。山ん中で平気な顔してトイレに行ける女子って、ある意味貴重な存在で、かつ心強い。

 だけどガサガサ茂みに入って行くサクラの背中越しに、ひと言だけ忠告する。
「ケツを草の先に触れないようにすんだぞ」
「なんで~? テル?」
 遠くからサクラの声が返ってきた。

 恥じるという言葉を知らんヤツだな。でもこういう女となら山に入っても気が楽だ。
「吸血虫にケツやられっぞぉ」
 ばたばたとジーンズを引き上げ、茂みの中から飛び出したサクラは急いで俺の元へと走って来た。
「な、何それ? 刺されたらバンパイヤになるの?」
「お前な。漫画の読みすぎだ。そんなモンになるか。まぁそうだな。一週間ぐらい痒いぐらいだ」
 なぜかイチはにやにやとして、クルミは相変わらずきょとんとしている。


 ──
《森へ入ると、各種いろいろな吸血虫が襲ってくるのである。都会では蚊などが主だが、山ではそれ以外に、ブヨ、アブなどが空中から襲ってくる代表選手。どちらも刺されると非常に痛い。そして、テルが言う吸血虫とは、地面から襲ってくるやっかいな連中のことを示している。それがクサダニである。
 こいつらは草の先に待機していて、付近を通る獣に張り付き、血を吸い続けるという、まさにダニのようなヤツラである──っていうか、ダニだし……。

 作者は山の中でおケツを出すのが得意な人種なので(おいおい……)こいつらの被害に、しょっちゅう遭っている。一度喰いつかれると、周期的に激しい痒みが一週間から十日は続く。
 クサダニの中にはツツガムシ病という死に至る怖い病気を発症させる輩がおり、昔は山形や秋田の風土病とされていたが、最近はほとんどの地域で新型ツツガムシ病というのを発症させるダニが混ざっているので、要注意の害虫である。
 山でおケツを出したい方は、できる限り草をなぎ倒し、皮膚に先端がつかない姿勢で過ごすことをお勧めするのである。

 ちなみに──。
 森ガール的なファッションのまま、本気で山に入る人はいないと思うが、スカートをぴらぴらさせて草の中を歩くことは、連中の前でディナーを差し出しているのと同じであるので、ひと言ご忠告申し上げるのであ~る》


 ──クサダニの怖い話は忘れてもらうことにして──だったら書くな──。
 俺はその間にイチから信じられない話を聞いていた。

 その一。
 今はマジで西暦一五九六年。慶長一年、安土桃山時代で、季節は秋。十月だという。

 その二。
 こいつらは時間族とかいう、特殊な生命体で、サクラの拾ったオレンジ色の石のパワーを利用して、俺たちの潜在意識から実体化(インスタンス化)したと……。

 その三。
 クルミはその時間族のお姫様で、社会勉強を兼ねて時間跳躍をして来た、ということ。
 最悪なのは、時間族の王室の連中──つまりクルミのことだ──彼女は跳躍能力に長けており、自分自身だけではなく広範囲の物体を引き連れて時間跳躍が可能だという。だから俺たちまで巻き添えを喰らったんだと言った。

 その四。
 これまで時間族は山の守り神、テツと呼ばれるハスキー犬──じゃなく、エグゼっていうらしい──が、選んだ小動物に変身していたという。大型獣、特に精神力の高い人間は邪悪な心の持ち主だ、と時間族の賢者のあいだで噂されており、時間跳躍能力を悪用されると信じられていたため、人間のインスタンスになることはタブーとされていた。しかし、その真相を探るべき、クルミの母親、お妃様からの命令で、今回初めてテツが俺たちを選んだらしい。これは光栄な話だという……。


「ばっか野郎ぉー。こっちは大迷惑だ!」

 ──じゃあ何か?
 目の前で天高く旋回しているトンビか鷹を好奇な目で見上げているこの少女が、俺の潜在意識の中から人間の身体データを抜き取り、実体化した時間族のお姫様だというのか?

 う~む。ストレートロングの黒髪で、幼げ……。
 確かに好みではあるが、ここまで子供みたいな、どこかのネジが数本抜けている女子が俺の趣味だというのか……これじゃまるでロリじゃないか……。

 ならイチはサクラの理想というわけなのか?
 ──俺は少々ほくそ笑む。

「妥当なところだ……」
 子供の頃に読んでいた漫画が元になっている、というあたりが、単細胞なサクラらしい。それに比べたら、クルミのほうが細かい部分までリアルにできているぜ。

 俺の勝ちだな…………。

 しかしこの話を聞いて納得するということは──イチを信じたことになる。
「──うぅぅんにゃ!」
 信じねぇ。ここは信じたフリをして、町まで連れて行ってもらうのが正解だろう。町に出たら、サイナラ……だ。

 俺って天才──。

 こっちのどす黒い策略とは裏腹に、クルミは瞳の奥から透明な光を放出していた。
「わたしはこの世界をもっと見て歩きたいのです。やっぱり、かぁさまの仰せのとおり人間のインスタンスになったのは正解れすね。教えられてきた世界とはまったく違いますもの。テルさまぜひお願いします。あなたの行きたいところへイチがご案内しますから、もうしばらくわたしにお供させてくらさい……。それにこう見えて、イチはいろいろな時代を跳び歩いていますので、頼りになりますよぉぉ。お願いです……」

 男物のワイシャツ一丁の立ち姿で、そこまで深々と頭を下げられたら、堪らん………いや恐縮するちゅうもんだ。
「ね? お願い……」
 何度も頭を下げるクルミの背中から、長い髪の毛がしなだれ落ち、やんわりと地面に触れている。

 でもイチは最初、「道に迷った」って言ったんだ──簡単に口からでまかせを言うヤツを信じろと?
 クルミは訝しげに見つめる俺の心が読めるのか、頭をもたげ、暗い表情で上目遣いに見つめてきた。

 黒々とした硬質ガラスのような煌く瞳をドキドキしながら覗き込んでいると、じんわりと潤んでさらに光を増してくる。
 そうなったらもうアウト。俺の庇護欲が大爆発。
「わ、わかったよ」
 ぎゅっと心臓を鷲掴みにしてくるその幼げな表情。見つめられるだけで息苦しくさえ感じる。
 昔からこういう子に弱いんだ。同じ可愛い系でもサクラみたいに強気の女ならビシバシ突っ込めるんだがな……。

「ちょっとだけなら付き合ってやるよ」
 彼女の表情がさっと明るくなり、天使のような微笑みに切り替わった。
「ありがとぉー。テルさまぁ」
 濡れた丸い瞳ですがり寄られ、
 うぅ。か、可愛い……。
「とりあえず俺は何をしたらいいんだ?」

 イチは繰り返す。
「精神状態を安定にして、何が起きても常に平常心でいて欲しい。オマエたちの精神状態が我々の存在を左右する。姫様の社会勉強の期間はできるだけ落ち着いた気持ちでいてくれ」
「たやすいことだ。俺は都会より山の生活が性にあっている。ここならいつも静かに安定しているんだ。まっ、仙人みたいなもんだぜ。大船に乗ったつもりでいてくれ」

 イチが意味ありげに唇の端を持ち上げ、
「姫の到着が遅れたのは、オマエがミミズで慌てふためいたからだ」
「ば、バカヤロ。俺はミミズを怖がったんじゃない。口に入れるのを拒んだだけだ」
「それに比べて、あの女性はたいしたもんだ」
 サクラが用足しで潜んでいるであろう、茂みに向かってカッコいい流し目を飛ばしやがって──その物の言い方、なんか気にいらねえな。

「あいつはバカなだけだ………とにかく俺は北へ行きたい。絶対にその方向に人が住んでるんだ」
「了解した。しかし……村なんか行っても無駄だぞ」
 その言葉の真相を理解する気力がこの時点ではまったく無かった。だって俺の部員(サクラ)が、もしかしてやばい状態かも知れないからだ。
「それより、あいつミミズで腹を下したんだ。下痢止めの薬は持ってきているが、食中毒だったらどうすんだ。急いで病院へ行かなきゃなんねえぞ。近道教えろよな」
 内心、いい手だと思った。これを理由にもっと早く町へ戻ることができる。

 ───という俺の策略はこの後、みごとに滑ることになった。

「しかしこいつは……んとに、真正のバカだな」
 俺の横で木の枝を指揮棒代わりに鼻歌なんぞを奏でて歩いているバカは、ただの便秘だったと打ち明けた。しかも「あぁすっきりした」とまで言って茂みから出てきたんだ。
 こいつ女か?
 乙女の恥じらいはどこ行ったんだ?


                    ◇ ◇ ◇


 テツの先導はまるで優秀なシェルパか、プロの山岳ガイドのようで、下草がほとんど無い歩きやすいブナの林を選んで、俺たちを誘導してくれた。まるで森林公園の遊歩道のような景色が続いた。

 地表は、ぶ厚く柔らかな苔がびっしりと引き締められ、豪華な絨毯の上を歩いているようで、くるぶしに何の負担も掛からない。むしろ心地よい振動が脳髄に伝わって来る。
 快適な気分で歩いていると、色づいた木々から脱ぎ捨てられた枯れ葉が、うず高く盛っている窪みが目の前に広がった。

 サクラはその中に飛び込んで転げまわりたい衝動を抑えている。その目の輝きを見るだけで腹の中が読めた。
 クルミはしゃがんで両手で拾い上げ、空中に舞い上げて遊んでいるし。
 どいつも子供みたいにはしゃいでいるけど……ヘタすりゃ、俺たち遭難だというのに気楽なヤツどもだぜ。

「サクラさん。荷物はテツの首に掛けるといいですぅ」
「サンキュー、クルミちゃん。助かっちゃう。テルのヤツこんなか弱い女の子に、重たい荷物持たせて平気なんだよ。鬼みたいなヤツでしょ」
「その鬼を片手でねじ伏せるくせに……。どこがか弱いんだ」

 クルミは丸い目をきょとんさせた。
「すっごーい。サクラさん強いんですね」
「あ、いやぁ……ま、ねぇ~」
 否定しろよバカ。頭掻いて喜んでいる場合じゃないだろ。お前はそれを隠すのに苦労しているくせに。
 少しだけ教えてやろうか。サクラはクラスメートの前ではわざと弱々しく見せてぶりっ子をかましているだ。んでもって俺の前では地を出す。この野郎、じゃない、この女は。

 手ぶらになった馬鹿サクラは、早速クルミと腕を組んでスキップを踏んでいるし──森の絨毯を飛び跳ねるワイシャツ一丁の少女とチラチラと見え隠れする黒いスパッツ。

 む~ん。やっぱ目の毒だな──。

 俺の視線がさっきからクルミを離れようとせず、二度ほど木の根っこにつまずいている。そのたびにイチが腕を取って怖い顔をしながらも、俺の問いには素直に答えてくれた。

「クルミの社会勉強って、どういう意味なんだ?」
「時間族の男性は十八才、女性は十五才頃になると、時(とき)を跳べるようになるが、最初は制御ができないのだ。まぁ誰でもその道を通る。そうだな……。ハシカみたいなもんだ。そして初めて三次元世界を知る。これが社会勉強だ」

「つまり、クルミのハシカのせいで、俺たちは四百十九年も過去に飛ばされたということか……。えらい迷惑な話だな……」
 彼らにとって、インスタンスとして選ぶスーパークラスの知能の優劣は関係なく、それは実体化する入れ物に過ぎない。従って機敏に動けるボディをした森の小動物がインスタンスの対象になるらしい。

 森の中には何人もの時間族が、野ウサギやリスなどに変身して時間を飛び歩いているという。もしかしたら昨晩無性に悲しそうに鳴いていた鹿は仲間とはぐれた時間族のインスタンスかもしれない。


 林を抜け、崖を這い上がり、野原を突っ切って再び原生林の中を進むこと数時間。先頭のテツが止まって、後を付いて来る俺たちへと首をひねった。

 銀の毛並みを涼風がさやさやと撫でて通る。その姿は威厳に満ちた輝きを放っていて、森がかしずくようにしんと静まり返っていた。

「お昼ご飯ですよぉ~」
 誰も何も言っていないのに、クルミがそう言った。

 木々の隙間を縫って、小さなせせらぎが横弛(たゆ)むコケの絨毯の上に腰掛ける。
「ふぅぅぅー。しんど……」
 自然と口から息が漏れた。
「──てぇぇぇって! こらイチ! 町はまだかよ! もうだいぶ歩いたぜ」
 片膝をついてクルミの隣に寄り添う、いけ好かないイケ面野郎に怒声混じりで問いかけた。
 ヤツは涼しい顔をして、冷たい視線を俺へと振って答える。
「この先あと少しだ。その前に腹ごしらえをする」
 んなこと言ったって、お前ら手ぶらじゃないか。何か喰うものを持っているのか?
 まさか俺の持参する貴重な食料をあてにしているのではないだろうな……。

 まだ遭難したとは断定できないが、俺もサバイバル部の部長だ。こういう緊急時を考慮して、非常食を準備はしているが、サクラにしろこいつらにしろ、手ぶらの同行者がこんなに増えるとは思ってもいない。焦るのは当然だろ。まったく……。

 手持ちの食料は、缶詰が三個とチョコレート一枚。米が残り一合ほど。四人と一匹で分け合ったら一日分にも満たない。

「ごっはん~。ごっはん~。今からごっはん~」
 能天気なサクラは、俺のリュックからほいほい食料を取り出して地べたに並べていく。
「何よ~テル。これだけ?」
 丸い目を俺へと向けてもう一度。
「どうすんのよ。お腹いっぱいにならないよぉ」
「満腹になること考えているのか! お前は……」
「うん。そうだよ」
「んがっ!」

 呆れて声も出んワ……。

 クルミが缶詰を手に持って、珍しいものでも見るように小首を傾けている。
「みなさんは、金属を食するのですか?」
「……………………」
 別の意味で声が出んし……。

 お姫様だか、お嬢様だか知らんが、ふつう缶詰ぐらいは知っているだろ。こっちが首をかしげるっちゅうもんだ。
「この中に食べ物を詰めて保存しているの」
 サクラが丁寧に缶詰の説明をするが、
「あぁ。亜空間保存ですか……なるほろぉぉ」
「ま、そんなもんね。空気が抜けてるもん」
「人間の世界って、進んでるんですねぇぇ」
 互いにちぐはぐな会話になっているわりに、うなずき合っている。

 で、なんだ? 亜空間って……。

 横からイチが割り込む。
「姫様とそれがしには、気を使わなくていい。それはオマエらで分け合え」
 俺の食料を──何でお前に指図されなきゃいけないんだ。

「大丈夫よ。夜までに町に着けばいいの……みんなで食べよ」
 だから。俺の食料だと言っているだろサクラ。
 イチは忍者のクセに、「ノーサンキュー」と告げて火を熾しに掛かり、俺から鍋だけを借りて湯を沸かしだした。
 相変わらず手際がいい。みるまに炎が安定して炭が熾る。

「…………………………」
 俺は焚き火の横で体育座りをして、立ち昇る煙をぼんやりと眺めていた。

「本気のサバイバル生活みたいになってきやがったな……」
「おもしろいね、テル」
 はぁ? 何言ってやがる──お前のお気楽さには頭が下がるぜ。まったくよー。
 脱力し切って、炎に視線を戻した。

 クルミとイチは、俺の考えていたサバイバル生活というモノを根底から打ち崩してくれた。二人はミミズを地面からほじくり出すと、せせらぎの清水でささっと洗って口にぽい。枯れ葉をめくって節足動物多足亜門、つまり、ムカデ、ヤスデ、ゲジゲジの類を見つけると、いちど湯がいて、やっぱり口ん中にぽいだ。

 さすがのサクラも、もちろん俺だって震え上がった。
 こいつら蛇なんか見つけた日には、大漁躍りをするに違いない。
 世紀末的な世界からやって来たとしか思えない二人を見て、サクラは自分の瞳が煌めいていることに、ちっとも気づいていない。
「ねぇテル……。妖精とか森の精霊とかって、この人たちのことなのよ。絶対にそうよ」

 バカは単純でいい──妖精がミミズやゲジゲジを食うかよ──フェアリーがゲテモノ食いだったなんて、幻滅だろ。ばぁ~か。北欧神話のファンが怒鳴り込んでくるぜ。

 しかしサクラの手前、ビビッてばかりでは部長の名がすたるというもんだ。
「へっ! 俺だってサバイバル部の部長だ」
「正式にはワンダーフォーゲルでしょ」
「そんなこたぁ、どうでもいい。あのな、俺は菜食主義なんだ」
 キジ鍋は美味かったけど………。

「──あいつらみたいに蠢くものは喰わないんだ。喰えないじゃないぞ。喰わないんだ」
 俺は清水の流れに群生していた草を指さし、
「これを見ろ、セリだ。な、こういうモノはうまいんだぜ」

 ひと株ほど引き抜き、サクラの鼻先に突き出した。

「湯がいて、おひたしにしたら、なんともいえない香りがいいんだ。花が咲いちまって時期的に育ち過ぎだけど、まだ食えるぜ」
「へぇ~。すごいなぁ、テル」

 さっきからイチの無表情な白い面がそれへと据え置かれていた。

 何が言いたいんだよ……。

 心の叫びが聞こえたのだろうか、整った鼻をふっと鳴らすと、冷たい口調で言い切った。
「やめておいたほうがイイぞ。それは有毒のドクゼリ(セリ科)だ」


 ──
《セリもドクゼリも水辺に群生し、よく似た葉をしているので間違えやすいので注意しよう。夏ごろにどちらも白い花を咲かすので、さらに間違いやすくなる。セリは特有のいい香りのする山菜であるのに対し、ドクゼリは有毒で、食べると目まい、嘔吐、呼吸困難などを起こして、死亡率も高いので絶対に口入れてはいけないのである。見分け方は、ドクゼリは山ワサビと間違われることもあるぐらいの大きな根茎を持っている。対してセリはふつうの根なので見分けが付く。さらにドクゼリは葉の形も細長いのである》


「えっ? これがドクゼリなのか?」
「あぁぁ。それを食うと、三日三晩、嘔吐と腹痛に苦しみ……」
「し、死ぬのか?」
「いや、収まる」
「な、なんだよぉ……」
「しかし、体力は著しく衰え、その後……」
「し、死ぬんだな……」
「腹が減る」
「うっせぇぇぇ。知るかっ!」
 しかし俺は黙って手を洗い、タオルで拭いた。

「サクラ、ドクゼリは本気で死ぬから気をつけろ。俺のような者でも間違えやすい物が、山にはたくさんあるからな……」
「うん。わかった」

「ほぉぉ。これは珍しいぞサクラ。ギョウジャニンニクだ」
 日陰の少し湿った地面に緑鮮やかな楕円形の葉が、これも群生している。
「ギョウジャニンニクはニンニク臭がして天婦羅などにしたら美味いんだ」
 一本地面から抜いて、匂いを嗅ぐ。
「ん? おかしいな臭わないぞ?」

 再び冷たい視線とともにイチが告げる。
「それはバイケイソウだ。………死んでもいいのか?」

「………………………………」



「山で食うものはなんでも美味いな、サクラ」
「そうだねテル」
 俺たちの足元に二個の空き缶が転がっていた。残りの米とサバ缶、チョコレートは取っておくことにする。


 昼食後、再び行進が始まった。いくつもの長い森を抜け、幾本かの川も渡り、ようやく平たい場所に出た。
 日差しがだいぶ弱まり、夕暮れ間近の冷気が肌寒く差し込んでくる。重く垂れたススキの葉が乾いた音を上げていて、確かにこれは秋の景色だった。足元から伝わる「ルルルルル」と小さな生き物の鳴き声もリアルだ。

 広場の真ん中でテツが止まると、お座りをしてクルミを優しい瞳でじっと見据えた。
「今日は、ここで野宿でぇぇーす」
 テツから報告されたかのように、クルミが明るい声で伝える。

「いやいや、おかしいって……」
 我慢できず戸惑いの声を上げた。可愛く首を傾けるクルミではなく、イチへ向かってだ。

「俺たちは広野ダムから二時間の距離にいたんだ。その下の町までだって、四時間も歩けば着くだろ? 今日一日歩き続けたぜ」

「村ならここが入り口だ。見ろ」
 頑強そうなわりに形のいいイチの指の先。そこには道らしきものが見えた。
「おぉほんとだ。やっと着いたぜ。さぁサクラ、帰るぞ」
 クルミと一緒に座り込もうとする彼女の腕を引き上げる。
「えぇぇ? もう一泊してから帰ろうよぉぉ」

 ガキみたいな駄々に付き合っている暇は無い。
「今なら、まだ列車が走っている時間だ。最終までに神戸へ帰れるぞ」
 クルミとイチのほうへ身体を向けて、ほとんど後ろ歩きになっているサクラの腕をぐいぐい引っ張って砂利道へ出た。
 このとき気づくべきだった。轍(わだち)が無いことに。

 イチは焚き火の準備に掛かり、テツがクルミに寄り添い、当の彼女はただこちらを丸い瞳でキョトキョトと見つめていた。寂しげな姿がなんだか気になるが、俺の目的はサクラを連れて家に帰ることだ。

「なんかさぁ。せめてサヨナラだけでも、ちゃんと言いたかったのに、」
「ここから言えよ」
 サクラがあいつらに入れ込む姿が、なんだか無性に気になるんだ。

「クルミちゃ~ん。イチさぁぁ~ん。またねぇ」
 サクラが横でピョンピョン飛び跳ねながら、大声で手を振っている。俺も振り返り、とりあえずキジ鍋の礼ぐらいはと手を振った。
 イチは無視して枯れ木を拾い続け、クルミは輝く目を向けて、子供のように手のひらを広げて見せていた。
「ほら、急ぐぞ」
「うん。分かったよ、テル」

 しかし──。
 俺たちの足が止まるのに、数分と掛からなかった。

「な、なんだよ……ここは……?」

 町の端に到着したのだろう、数件の家屋が姿を現したのだが、どれも異様にひっそりとしている。まるで生活感が無い。しかもどの家も見慣れた現代風の瓦ではなく藁葺(わらぶ)きだった。それにそれほど大きくもない。小屋に毛が生えたようなものなのだが、それらは地面に横たわる陰みたいに暗く、かつ黒くひっそりとしていた。

 あまりの静けさが不気味になり、二軒目の家を覗き込んだ。
「農機具を入れておく納屋でもないね。確かに家だよ、テル」
「ほんとだ。扉が開いていて、ほら、土間が見えるぜ」
 作りは簡単だが、炊事場も調理をするカマドも揃っている。田舎の写真で見たことがある古臭いものだが、それほど年代を感じさせられないのは、まだ新しいからか? 今どき新築にこんな古式な調理器具を使うとは、変わり者なんだろうか。

「こん……ちわぁ~」
 おいおい。
 サクラはちゃっかり中に入って行く。俺も帰りを急ぐ身なのだが、この異様な雰囲気は気になる。人が住んでいるという設えになっているにも関わらず、その気配が皆無なのだ。
 炊事場なのに水道が無いのも気がかりだった。
「井戸が外にあったよ」
 よく見ているなサクラ……。
 観察力も俺より優れているのか? バカのくせに腹の立つやつだ。
 だけど井戸だけってのも、少しおかしくないか?

 土間の奥、一段高い場所に畳みの部屋が見える。しかし障子を見て動けなくなった。ボロボロなのだ。激しく破られて木の骨まで折れているところもあり、黒いものがべったりと付着している。
「ま、まさか……」
 先を行こうとするサクラの腕を引き、俺の背後へ回した。なんだかとてつもなくやばそうな気配がしたからだ。
 サクラもそう思ったのだろう。素直に後ろへ回り、肩越しに顔を覗かせた。

「ねぇ。テル、これって……」
 能天気さが消え、怒り顔以外で真顔を俺にさらすサクラを見るのは、初めてだった。

「それ以上深入りするな!」

「「ぎょほぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」」
 静けさを引き裂く鋭い声に、俺とサクラが同時に飛び上がった。


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