お化け屋敷の女たち

瀧けんたろう

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お化け屋敷の女たち(前編)

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お化け屋敷の女たち(前編)
瀧 けんたろう




狭い階段を地下に下りると、廊下が左右に伸びている。そこは、人がひとりやっと通れるほどの幅しかない。昼間でも暗くて、裸電球に照らされて空間は、壁全体が黒っぽくすすけていて、寒々としていた。
左手に折れるとすぐにドアがあり、突き当りにもドアがあった。よく見ると、右手にも二つドアがある。狭い空間に、ひしめき合うようにして部屋があるのだった。
『マスカット』は、いちばん奥まったところにあった。
木製のドアは、特注のようで、凝った意匠で、ビーズ状のモールディングが施されていた。暗くて定かではないが、材質もしっかりしていそうだった。ドアノブは、鉄製のアンティークなもので、触ると重厚感があった。
「舞衣子ちゃん、もう来ていたの?」
 ドアには、鍵がかかっていなかった。亜希が店に入ると、カウンターの奥で、女が化粧をしていた。
「ああ、部屋に戻るの、面倒くさくて」
 舞衣子は、亜希の方は振り返らずに、熱心にアイシャドゥを塗っている。カウンターに立てかけられた手鏡に、女の目が映っていた。首のあたりからうなじにかけて、色香があった。
「今日は彼と?」
「そう、夕方の飛行機で帰ったわ。それまで会おうって、空港の近くのホテルでさっきまで」
 舞衣子の付き合っている男は、台北に駐在している。月に一度くらいの頻度で東京に帰ってくる。男は、既婚者で単身赴任だった。
「また、寂しくなるわね」
「そうね、でも、もう慣れたわ」
舞衣子の言い方は、淡々としていた。わざとそういう言いかたをしているのかもしれなかった。
「今回は、何日いたの?」
「日曜から、三日間」
「毎日、会えた?」
「帰国した日に空港まで迎えに行って、次の日は彼の仕事のあとで。お店が休みだったでしょう。今日は、昼くらいから会っていたわ」
「ずっとホテルで、あれ?」
 亜希がふざけて言うと、舞衣子は笑ってうなずいた。
「あの人、欲求不満の塊みたいなところがあるから」
「それならあなた、いまは腰砕けね」
「そうなのよ。いい年をして、バカみたいでしょう」
 舞衣子は舌を出したが、嬉しそうだった。化粧でつくられた顔が、心なしか輝いているように見えた。
 なかなか彼と会えないのは寂しいだろうと思うが、会ったときに、時間を惜しむように激しく求めあえる関係。そんなことをしている舞衣子のことを、亜希はうらやましいと思った。
「あちらの奥様とは、もうないのかしら」
 亜希は、余計なことだとは思いながら、つい気になったことを口にした。
「さあ、何年もそういうことはないと言っているけれど、本当のことはわからないわ。男はみんな、そう言うから」
 舞衣子の言う通りだと思った。
 たまに帰国しても、家にはほとんど帰らずに、舞衣子に会っている男のことを考えた。ときには、帰国したことを家族に知らせずに、舞衣子の部屋に寝泊まりして、帰っていくこともあるらしい。そこまでして舞衣子に会うのもすごいと思うが、それでも、家庭を守ろうとするのが、男の本性なのだろうかと思った。
「離婚したらいいのにね」
 亜希にしてみたら、覚悟すればいいだけだという気がした。
「その気は全然ないみたい」
 舞衣子はそう言うと、肩をすくめた。
 そんなものだろうか。舞衣子がそれでいいと思っているわけはない。亜希は、舞衣子の気持ちを思いやった。
 しばらくすると、ドアが開いた。
「あら、いらっしゃい」
 吉田さんだった。
「もう、いいかい?」
「ええ、どうぞ」
 亜希はそう言って、温かいタオルを差し出した。
「今日は早いのね」
 六時を過ぎたばかりだった。サラリーマンが多い界隈だったので、仕事が終わった客たちが店にやってくるのは、だいたい八時を過ぎてからだった。
 吉田さんは近くに住んでいる資産家だった。このビルのオーナーであり、他にもいくつかのビルを持っている。七十を超えたくらいだろうか。いいお爺さんだった。
「アキちゃんとマイコちゃんの顔を見たくてね」
 調子の良いお世辞のようなことをよく言う人だった。人柄がよくて、親切だった。亜希も舞衣子も、嫌いではなかった。テナントの景気でも確認しているのだろうけれど、こうして顔を出しては、高いボトルを入れてくれたりした。
亜希は、アテの一品を吉田さんの前に出した。キノコのマリネだった。簡単な煮物やこういったマリネのようなものを自分でつくって、ときどき客に出していた。
「これはうまい」
 𠮷田さんは、一口食べると、目を見張るような表情をした。
亜希はほほ笑んだ。黒コショウを多めに入れて、味を濃くしていた。こんなふうに、味をほめてくれる人もいて、そういうときは嬉しかった。
「しかし、ふたりは、よく似ている。そして、ほんと美人だね」
 吉田さんが、亜希と舞衣子を見比べるようにして言った。
「よく言うわ」
「こんな嫁さんをもらえばよかったと思うよ」
「あら、わたしたちのどっちを見て言っているのかしら」
 舞衣子がふざけて切り返すと、吉田さんは目尻に深い皺をつくった。
「どっちもだよ」
 そう言いながら、その目は舞衣子に注がれていた。
「奥様は、お元気なのでしょう?」
「ああ、ぴんぴんしている。しばらくは、死にそうにない」
「そんなこと言って」
 亜希はたしなめた。
「あれでも、昔はなかなか美人だった、コマドリ姉妹に似た感じでね。知っているかい?」
「聞いたことはあるわ」
 亜希が答えた。
「ザピーナッツみたいな、双子の歌手でしょう?」
「そうそう、あの、ハスキーな歌い方が色っぽくてね」
 亜希や舞衣子たちと、吉田さんとは世代が違う。どちらかというと親の世代に近い。亜希は、もうずいぶん前に亡くなった父のことを、吉田さんに重ねることがあった。痩せた体格と、細くて優しい目の感じが似ていた。
「ここも、ずいぶん古くなった」
 吉田さんは、店内を見回すと、しみじみ言った。内装は、数年前に新しくしていたので、クロスやカウンターは新しかった。しかし、天井のダクトや水回りは、いかにも昭和のたたずまいだった。
「早く取り壊してしまえと、みんなに言われる」
「あら、そんなことをされたら、わたしたち困ってしまうわ。他のテナントさんだって」
 亜希がそう言うと、𠮷田さんはからかうようにして笑った。焼酎がよく進む。年の割に、よく飲む人だった。
「父から譲られた土地で、最初に建てたビルがここだった。だから、ここには思い入れがあるんだ」
「だったら、しばらくは大丈夫ね」
 舞衣子がそう言うと、吉田さんは両手をあげた。
「どうかな、君たちみたく、格安の家賃で貸しているテナントばかりじゃ採算がね。いまは息子が社長だから、そのうちに追い出されて、取り壊されてしまうかもしれないな」
 半ば冗談のような、本気のような口ぶりだった。
いずれにしろ、こんなに古いビルを、いつまでも使い続けていけるはずもなかった。そうなったら、亜希はどうやって生活をしていけばいいのだろうか。また新しい店を探して、一から立ち上げていくことなんて、できるとも思えなかった。
この店にしても、なんとかやってはいるものの、決して順風とはいえなかった。舞衣子と、週末だけ店に出る、かなえと三人で、店を回していた。売り上げから、テナントの家賃と経費、それから、舞衣子とかなえに払う給料を差し引いたら、亜希の手元に残るのは、三十万か、それくらいだった。そこからアパートの家賃と自分の生活費がかかる。一人で暮らしていくのには、ようやくやっていけるレベルだった。
亜希は、あらためて店内を見回した。改装して、一見きれいではあるが、古さは否めない。亜希は、天井の配管がむき出しになっている箇所を眺めながら、あらためてそう思った。
このあたりには、昔からの飲食店がひしめき合っている。築三十年、四十年という雑居ビルも珍しくない。その中でも、このビルの古さは際立っていた。吉田さんは、築五十年は経っていると言っていた。そうだとしたら、亜希が生まれたころに建てられたものだ。
そして、古いということ以上に、おどろおどろしい外観だった。モルタルが剝がれた外壁には、無造作に蔦が絡み合い、無秩序に取り付けられた看板が、汚れたり欠けたりしていた。廃墟のようだった。
夜、ネオンに照らし出されているうちはまたいいが、朝や昼間に明るいところで見ると、破れかけた雨戸やサッシもボロボロで、ひどいものだった。亜希は、初めてこの物件を見たとき、心の中でつぶやいた。まるで、お化け屋敷だ。



     2
 亜希の住むあたりには緑が多い。この辺りは、江戸の鬼門にあたり、丘陵の高みには徳川家の菩提寺の寺域が広がり、その西側には都立の霊園があった。周辺には寺院が多く、丘陵の谷には、ひしめくように家が建ち並んでいた。戦火にも免れて、古い家も多かった。
亜希はかつて、この辺りに両親と住んでいた。亜希にとっては、小さいころから慣れ親しんだ土地でもあった。そして、亜希の両親は、この霊園に眠っている。すぐに墓参できるというのも、この界隈に部屋を借りた理由だった。
霊園の脇を走る幹線道路があり、その先で首都高につながっていた。そのせいか、トラックや商用車の通りが多かった。ちょうど、丘陵から下ってくる急な坂があって、自転車などに乗っていると、スピードが落ちなくて、危なかった。
坂は、桜坂とも呼ばれていた。
坂に沿って、道の両脇に桜が何本も植えられていて、満開の季節には、花のトンネルのようになる。わざわざ撮影に来る人も多かった。枝振りがよいので、あたりは暗くなる。夜はなおさらだった。そのせいで見晴らしが良くないこともあり、事故の多い場所でもあった。
つい先日も、坂を下ってくる乗用車にはねられて老人が亡くなった。桜と墓地と死亡事故。そういうものがひとつのイメージに重なって、この坂に不思議な印象を与えていた。
亜希の住むアパートは、坂道のすぐわきにあった。新しい建物ではなかったが、広めの2DKは快適だった。
 西の空に、夕日が沈みかけていた。坂の桜はもうほとんどが散りきっていた。
そろそろ部屋を出ようかと思っていたときに、スマートフォンにメッセージが届いた。舞衣子からだった。
『ごめんなさい、風邪をひいてしまったらしいわ。熱もあって。今日はお休みしていいかしら』
 台湾から帰国していた男と会っていて、精力を使い果たしてしまったのだろう。月に一度あるかないかの時間に、すべてを注ぎ込んでいる舞衣子の生き方が、亜希にはうらやましく思えた。
『了解。今日はかなえちゃんも手伝いに来てくれると思うから、ゆっくり休んで』
 そう返信すると、ありがとう、とスタンプが返ってきた。それから、すぐに別のメッセージが飛んできた。
『そういえば、この前売上を締めたとき、金額がちょっと少なかったのよ。かなえちゃん、気をつけたほうがいいかも』
 亜希は、メッセージを読んで暗い気持ちになった。亜希も、同じことを感じたことがある。何万円という額ではなかったが、すこし足りないと感じることがあった。お客毎に伝票をつけているし、伝票には通し番号があるので、間違うはずもないのだけれど、たしかにそういうことがあった。
 かなえには、フワっとしていて、何を考えているのかわからないようなところがある一方で、話しているうちに早口になり、神経質さを感じることもあった。高い声がよく通り、細い目がときどき妖艶に光った。顔立ちは、美人の部類だと思う。そして、何よりも、胸が大きかった。会話もよくできて、客受けも悪くない。遅れてきたり、無断で休んだりということもなかったので、亜希はわりと頼りにしていた。
 かなえについて、あまり詳しいことは知らない。東北の出身で、東日本の震災のときに、旦那が行方不明になったと聞いたことがある。結婚してすぐで、かなえは出産で実家に帰っているときだった。その後、両親も他界し、知り合いを頼って東京に来たということだった。小学生の子供が一人いるはずだった。
 その話を聞いたとき、亜希は、かなえの気持ちを想像して、深い同情を覚えた。大切な人が、ある日を境に消えてしまう。口にするのは簡単だが、誰もが経験することではなかった。
亜希は、これまで何度も繰り返してきた問いかけを、自分の心に反芻した。あの人は、どうして死んでしまったのか。突然に奪われてしまう理不尽さを前にして、亜希は無力だった。かなえも、そういう思いをしたのだろう。
亜希はかつて、ある男とこのアパートで暮らすことを夢見ていた。その夢は、もうすこしで実現するかに見えた。ところが、ある日を境に、男と連絡がつかなくなった。そして、数週間後、男が急死したことを聞かされた。
はじめは、信じられなかった。会いたくない言い訳に、男がそう言わせているのかと疑った。しかし、交通事故で入院したことや、意識が戻らないまま数週間後に亡くなったこと、告別式の場所や時間まで教えてもらううちに、納得しないわけにはいかなかった。
亜希は、心に空洞ができたようだった。現実を、どう受け止めたらいいのか、わからなかった。結局、男の告別式が執り行われるというセレモニーホールに足を運ぶこともできずに、亜希は自分の心を封印するしかなかった。
それから、誰とも会わず、部屋にこもりきりの生活が、しばらく続いた。そのとき、亜希の心を支えてくれたのは、舞衣子だった。彼女に勧められて、働きにも出るようになった。
働けるなら、どこでもよかった。普通の事務などできなかったので、たまたま募集の出ていたスナックバーを訪ねた。いわゆる、熟女バーだった。
そこで、二年ほど働いていたとき、店のママが引退したいと言い出して、そのまま亜希が店を引き継ぐことになった。名前ごと引き継いだのが『マスカット』。常連客もいて、それなりにやっていくことはできた。

亜希のアパートから店までは、地下鉄に乗って十五分ほどの距離だった。
その日は、金曜日だったので、夜の街は賑わいを見せていた。八時ころになると、客がぽつぽつと入ってきた。ここに来るのは、たいてい一人か二人だった。歌うのが目当てで、カラオケを何曲も歌っていく人もいれば、飲み放題の水割りをお代わりしながら、女たちと雑談していくだけの人もいた。
持ち込み無料でボトルを入れることもできるので、そういう客は、わりと頻繁に顔を出してくれた。周りには、似たようなスナックバーがたくさんあり、料金もだいたい同じようなものだったから、他の店が満席のときは、そこから流れてくる客もあった。
 湯沢も、ときどき顔を見せる客だった。あまり酒は飲まないが、よく歌った。歳は四十の後半というところだろうか。細身でわりと伸長があり、若作りの顔をしている。歌は、かなりうまく、亜希も聞きほれるくらいだった。
「今日は何を歌ってくれるの?」
 湯沢の水割りを作りながら、かなえが相手をしていた。湯沢は、連れを伴っていた。
「まずはこの人から歌ってもらってよ」
 連れの男は、湯沢よりも年上みたいだった。亜希と同じくらいだろうか。あまり饒舌ではないらしく、湯沢が喋ることをだまって聞いていた。上司という感じでもなかったが、同僚という感じでもなかった。
「かなえちゃん、そのワンピ、エッチだね」
 湯沢は、すでにどこかで飲んでいたらしく、上機嫌だった。彼が、かなえを気に入っているのは、態度でわかる。この店に来るのも、かなえが出勤する木曜日か金曜日に限られていた。
 亜希や舞衣子と比べたら、かなえはずいぶんと若い。三十代の半ばくらいだろう。同じ熟女にくくってしまうのはかわいそうだった。
「ちょっと、胸が強調されすぎでしょう?」
 かなえは、カウンターの中で、男に媚びるようなしぐさをした。ワンピースは、胸が大きく割れて、バストが半分くらい露出していた。かなえのバストはほんとうに大きい。何カップだろうか。規格外かもしれなかった。
「そこの谷間に挟まりたいよ」
 湯沢は、連れに同意を求めるようにして笑った。笑い方が卑猥だった。
「しかし、そんなに大きいと、肩がこるだろう」
 湯沢が言うと、かなえはフフと笑った。
「みんな、同じことを聞くけれど、そんなこともないのよ」
 かなえはそう言って、澄ました顔をした。
「ねえ、隣に座ってよ」
 湯沢が、言った。
「駄目よ、そういうことはしてはいけないことになっているのだから」
「歌うときだけでいいよ」
 かなえが、男に首を振りながら、ちらりと亜希の方を見た。
 そのとき、湯沢の連れが入れた曲が始まった。よく耳にする演歌だった。静かな、語るような歌い方だった。その歌い方もあるが、亜希は、男のもつ何とも言えない色気が気になった。彫りの深い顔立ちに、優しさとこだわりのようなものが混じり合っていた。
連れの男に続いて、湯沢がマイクを取った。尾崎豊だった。いつもながら、うまかった。声に張りがあり、別格な歌唱力だった。その歌声に、かなえが歓声をあげて、手を叩いてはしゃいでいた。
二人は、二時間ほどで帰っていった。
入れ替わりに別の客が入り、すぐに次の客も入ってきた。七席しかないカウンターは、ほとんどが埋まっていた。亜希は、かなえが来てくれてよかったと思った。一人だったら、とても回せなかった。
お酒のお代わりをつくり、つまみを用意して、カラオケのリクエストをエントリする。それから、トイレに立つ客におしぼりを持っていく。その合間に、グラスを洗ったりしながら、客の相手をする。
カウンターの中は狭いから、おのずと相手をする客は決まってくる。それぞれの客毎に、セットの時間を記し、自分たちが飲んだお酒の回数をカウントして、それらを伝票に書き込んでいく。
亜希は、かなえが伝票にボールペンで数字を書き込んでいる様子に、ときどき目をやった。舞衣子がメッセージで注意していたことが気になっていた。伝票の冊子はひとつだ。通し番号が振られているので、抜けがあったらわかるし、一度書き込んだ金額は修正することができない。おかしな細工は、できないはずだった。
 最後の客が帰ったのは、一時を過ぎたころだった。
「おつかれさま、あとはやっていくからいいわよ」
 亜希は、後片づけをしながら、かなえに声をかけた。
「そうですか、ではお先に」
 かなえは、自分でもかなり飲んだらしく、足元がすこしおぼつかなかった。
「タクシーの請求、遠慮しないでしてね」
 かなえは、ありがとう、と言って、店を出ていった。
 亜希は、グラスを洗ってしまうと、売り上げをまとめた。伝票と金庫の現金を付け合わせた。
そのとき、ちょっと少ない気がした。伝票の通し番号を確認したが、抜けはない。それぞれの伝票の金額にも、おかしいところはなかった。やはり気のせいだろうか。



     3
 舞衣子は、カレンダーを眺めながら、今年は何度、洋介と会えるだろうかと考えた。
日に日に、時間が経つのが早くなったように思う。気が付いたら、五月になっていた。
ほんとうなら、この連休で洋介は帰国するはずだった。こんどは、二人で二泊くらいの温泉旅行でもしようかと話していた。しかし、予想に反して、洋介の妻が娘を連れて、台北に遊びに行くと言い出した。洋介も、断るわけにもいかなかったようで、舞衣子に申し訳ないと伝えてきた。
 結局、家族が優先なのだ。わかっていたことであるし、考えても仕方のないことだった。それでも、やはり寂しかった。
 ゴールデンウィークだけのことではなかった。長い連休はいつもそうだった。正月にも、同じような寂しさを感じた。去年の暮れには、年末年始の休暇で洋介が帰国した。帰国の前後で、舞衣子は洋介に会えたが、大晦日から三が日、洋介は自宅で過ごした。
帰る日には、空港まで見送りに行ったが、何時間かを洋介と過ごし、抱かれるだけで、飛行機に乗って去っていく彼を見送る。そして、また次に会える時間を待つ。そういうことを繰り返していることに、ときどき言いようのない空しさを覚えることもあった。
洋介は優しいし、舞衣子への気遣いを惜しみなくしてくれる。しかし、それは彼ができる範囲でのことでしかなかった。そういうとき、舞衣子は自分に言い聞かせた。これは、自分で選んでやっていることだ。いやになったら、いつだってやめたらいい。
自分は洋介のことが好きだから、いまはこうしてまでして会いたい。けれど、いつでも別れることができるし、それは舞衣子が決められることだ。しかし、そう思いながら、月日だけが過ぎていた。

連休に入って二日目だった。舞衣子は、身支度を整えると、アパートを出た。
店に来る客の中には、外で会おうと誘ってくる男も多い。舞衣子は、食事を付き合うくらいは応じていたが、休みの日に時間をつくってまで会うことはしなかった。
白井は、熱心に舞衣子を誘ってくる男のひとりだった。歳は舞衣子よりも若くて、四十半ばくらいだろうか。ハンサムで、洋服などのセンスもよくて、お金ももっていそうだった。一緒に過ごしたら、楽しませてくれるだろうと予感させる男だった。
そして、白井は妻子持ちだった。夫婦関係はどうなのか知らない。そこそこうまくいっていて、適当な女と浮気をしたいだけだという気もした。
それがわかっていて、白井からドライブに誘われたとき、付き合ってもいいかと思ったのは、長い連休で、ひとりで部屋にいるのは退屈だと思ったからだった。
 よく晴れた日で、陽ざしは汗ばむほどだった。白井は、パールホワイトのベンツで現れた。よく手入れがされていて、白井らしいセンスの車だった。
「白井さん、奥様とは、仲良くやっているの?」
 舞衣子は、男の反応を見ながら問いかけた。こういう問いをすると、男の本音がよくわかる。
「妻は、空気のような存在です。会話もほとんどない」
 奥さんとのことを、そういう言い方をする男性は多い。洋介も、似たようなことを言う。夫婦が憎み合っているわけではない。しかし、仲良しということもない。最低限の役割を果たしている。しかし、それは言い方によってはうまく行っているということなのだ。
「でも、彼女はいるのでしょう?」
「いませんよ。いたら舞衣子さんを誘ったりしない」
 男は、まじめな顔をした。しかし、本当のことを言っているのかはわからない。
「今日は連休でしょう? よく家を出て来られたわね」
「ゴルフに行くことにしています」
 そうかと思った。そういう言い訳でもしなければ、休日に家を出てくることはできない。だから、ドライブの行先も、ゴルフ場の多い千葉なのだと合点した。
 連休で、道路は混んでいた。それでも、朝が早かったので、比較的順調に走って、房総半島の外れまでやってきた。
 車を止めて、近くの農園でいちご狩りをした。思ったよりも甘くて、おいしかった。家族連れが多かったが、若いカップルもいた。舞衣子たちのようなカップルは、見当たらなかった。
 すぐ近くにワイナリーがあったので、そこでランチをしながら、地元の食材のコース料理を食べた。
「そんなに飲んで大丈夫なの、運転があるでしょう」
 舞衣子は、ボトルを入れて、おいしそうにワインを飲む白井を見ながら、すこし心配になってきた。
「酔いがさめるまで、ゆっくりしましょう」
 白井は、頬を赤くしながら快活だった。愉快な男だったが、それだけだという気もした。
「ゆっくりって、このあたりに何かあるかしら?」
「さっきのインターの付近に、ホテルがいくつかありましたよ」
「そんなことを考えていたの?」
 舞衣子はあきれた。軽い女だと思われているのだろう。誘いに乗ったということは、そういうものだと理解しているのだろうか。ずいぶんと安く見られたものだと思った。
「わたし、いやよ」
 舞衣子は、はっきりと言った。言いながら、自分が情けなかった。十代や二十代の売れ盛りの女でもなかった。男へのガードにも、分相応というものがある。しかし、いい加減に扱われるのは、やはり嫌だった。
「冗談ですよ。近くに牧場とかありますから、そういうところでのんびりしましょう。こんなに天気もいいことですし」
 白井は、取り繕うようにそう言ったが、内心はそういうことを考えているのだろうと思った。舞衣子は、気軽に誘いに応じたことを後悔し始めていた。
このあたりに電車は走っているだろうか。駅があるなら、一人で帰ってもいいと思った。そう思う一方で、それも大人気ないという気もした。男がどうしてもそうしたいというなら、一度くらい相手をしてもいいとも思った。
そんなことを悩みながら男と付き合うなんて、舞衣子は自分でも信じられなかった。主婦をやっていたころは、こうして外で男と会うこともなかったし、男に誘われて、自分の貞節について考えることもなかった。人生とは、こんなにも大きく変わるものかと思った。
「もうすこし、飲めますか」
 白井は、赤くなった顔を照れる風でもなくゆがめた。その言いかたが、いやらしかった。
ワイナリーのレストランには、家族連れも多かった。昼間の明るい陽ざしが店内の奥まで差し込んでいる。光の帯の中で、無数の細かい埃が舞っているのが見えた。ああこの埃を自分は吸っているのだと思いながら、舞衣子はグラスの中のワインを見つめた。メルロー品種だと言われた。色も濃いし、味も濃かった。
わたしはこうして、たいして知っているわけでもない客の男から誘われて、千葉までドライブに来ている。自分が拒まなければ、男との関係は深まるだろう。でも、その先に何があるのか。
白井は、これからも、『マスカット』に顔を出しくれるだろう。金払いの良い白井のような客はありがたかった。ときどきこうして誘われて、美味しいものを食べられるのも、どこかへ連れて行ってもらえるのも、考えようによっては楽しめばよかった。
でも、と思った。わたしは、この人のことが好きなのだろうか。求められるから、応じているだけという気もした。しかし、そう考えたら、洋介との関係だって、同じなのかもしれない。
洋介は帰国に合わせて舞衣子に連絡をくれる。そして、短い時間を惜しむようにして会う。それは、二人にとって、特別な時間だとはいえたが、同時にまた、セックスをして、男が欲求を満たすだけという一面もあった。
ウェイターが来て、メインの料理を運んできた。
「もう一本、入れましょうよ」
 舞衣子は、そう言って、白井に向かってほほ笑んだ。
「そうね。でも、酔っぱらってしまったわ」
 あのとき、どうしてわたしは離婚したのだろうかと、今になって舞衣子は思うことがある。結婚生活に、取り立てて不満があったわけではなかった。
自営業をやっている夫の手伝いをしながら、家事と育児に追われて年月を重ねてきた。そういうことに、疑問も感じていなかった。
しかし、気が付いたら、五十に差し掛かっていた。子供たちも成長して、手がかからなくなっていた。
そんなときに出会ったのが、洋介だった。洋介は、亜希が付き合っていた男の同僚だった。亜希に誘われて、軽い気持ちで参加して、四人で飲み歩いているうちに、次第にそういう関係になった。
舞衣子は、自分が不倫をするなんて、それまで考えてもいなかった。ただ、籠の中の鳥のような生活に、変化が欲しかった。洋介は、スマートで見た目もカッコよかった。舞衣子はすぐに夢中になった。ただ、それが浮気では済まないくらいに、舞衣子の心は燃え上ってしまった。
高校時代からの友人である亜希が離婚したのと、舞衣子が離婚したのは、ほとんど同じ時期だった。亜希の真似をしたということもないのだが、彼女が思い切って家を飛び出したと知ったとき、舞衣子の中で、何かがはじけた。
しかし、それからすぐに、亜希の彼は突然死してしまった。舞衣子にとっても、ショッキングなことだった。それに、舞衣子が離婚したら、洋介もそうしてくれるのかと期待していたが、そんな素振りもなかった。それどころか、会社の命令で急に台北への駐在が決まり、単身赴任してしまった。
それから、亜希がスナックバーのママをやるという話を聞いて、舞衣子も手伝うことにした。それまで、外で働いたことなどなかったので、ある意味冒険だった。亜希がいなかったら、舞衣子がこの世界に踏み込むこともなかったと思う。
そう思うと、舞衣子と亜希は、何かに翻弄されて生きているように感じた。まるで大きな流れに流されている枯葉のようだった。



     4
地下に降りると、廊下には花柄のクッションクロスが敷かれている。色はくすみ、あちこちに破れもあった。周囲には、なんとも言えない、カビ臭い空気がこもっていた。
瀬川は、突き当りにあるアンティーク調のノブに手をかけた。ゆっくりと回すと、音を立ててドアが開いた。
「こんばんは」
 カウンターの中で作業をしていた女が目をあげた。食器を洗っていたようだった。カウンターだけの店で、六、七人も座ったら満席になる。客はおらず、女がひとりだった。
「閉店ですか?」
 十二時を過ぎていた。
「いいえ。だいじょうぶですよ」
 女が、口元に笑みを浮かべた。女の顔に、見覚えがある。
 ひと月ほど前に、ここを常連にしている部下に連れてきてもらった。場所が、駅から少し離れて、込み入った袋小路にあったので、たどり着けるか怪しかった。
「水割りでいいかしら」
 女が言った。
「ああ、ロックにしてもらえますか」
 女はうなずくと、酒棚からウイスキー瓶を取り出して、グラスに継いだ。瀬川は、その様子をじっと見ていた。
「前にもいらしてくれたでしょう。たしか、湯沢さんと」
「ええ」
「彼は、よく来ますか?」
「ええ、でも、来るのは木曜か金曜かしら」
「それはどうしてだろう?」
「若い子がお手伝いに来る日なの。もし、その子がお目当てでしたら、ごめんなさいね。今日はわたしだけ」
「いや。僕は、あなたが素敵だと思って」
 男は、恥ずかしそうにそう言った。
「あらうれしい。これはわたしからのサービス」
 女はそう言って、グラスを差し出した。飲み放題で提供しているニッカではなく、バランタインを注いでくれた。
 瀬川は、匂いを嗅ぐようにして、グラスに口をつけた。刺激のある花のような、深みのある香りだった。
「お仕事の帰り?」
「ええ、明日の会議資料を作っていたら、こんな時間に。なんとなく、まっすぐ帰りたくなくて」
 女が、目を細めた。
「それはお疲れさまでした。何か口にしますか。たいしたものはありませんが」
「いえ、大丈夫です」
 瀬川はそう言うと、ウイスキーを半分くらい飲んだ。若くはない女の様子が、どういうわけか気になった。自分と同じ年代だろうか。ふくよかな頬の感じと、すっと切れ長の目が、エキゾチックだった。そして、透き通るように肌が白かった。しかし、その白さには、暗さもあった。どうしてそう感じるのか、よくわからなかった。
「お名刺、頂いていなかったかしら」
 女が言うので、ああといって、カバンから名刺入れを取り出した。その一枚を渡すと、彼女はまじまじとそれを見つめた。
「瀬川さん」
「ええ」
 男は、うなずいた。
「婿養子なので、旧姓は上原といいます」
 わざわざそういう説明をするところに、男のこだわりがあるようだった。
「部長さん、なんですね」
「名前だけですよ」
「だって、こんな大きな会社でしょう。すごいわ」
「わたしのパソコン、御社のものよ」
「それは、ありがとう」
 亜希の声は、張りがあって、明るかった。さざめくような笑い声も良かった。彼女と話していると、自分でも思っていた以上に饒舌になっているのが不思議だった。
瀬川は、もともと社交的なタイプではない。こういうスナックバーにも、ひとりで来ることなどほとんどない。どうして今日ここへ足を向けたのか、自分でも不思議だった。
職場のあるビルを出たとき、暗い空を見あげて、息をついた。空は、暗かったが、街の灯りを反射して、ぼんやりとしていた。初夏の夜らしく、やわらかい風があった。
疲れてはいたが、まっすぐには家に帰りたくなかった。かといって、騒がしい居酒屋のようなところにも行きたくなかった。そのとき、たまたまポケットに入っていた『マスカット』の名刺を見つけた。そこに、亜希という名前が印刷されていた。
店に行ったのは、一か月以上も前のことだったが、この女のもつ雰囲気に惹かれた記憶だけは鮮明だった。きれいな女だとは思ったが、それよりも、女のふくよかな頬と、白い肌の印象が強かった。
「誰かに似ていると言われることは?」
 瀬川は、カウンターに立つ亜希を直視した。
「いろいろ言われるけれど、有名な演歌歌手とか、もうずいぶん昔のことですけれど」
 誰のことだろうかと考えていると、女が困ったように口を尖らせた。女の唇は、肉厚だった。その感じに、温かみがあった。
「そんなにじっと見て、わたしが誰かに似ていますか」
 瀬川は、慌てた。そう思って見ていたわけではなかった。
「奥様は、どんな方?」
「どうって、普通ですよ」
「普通って、それでも色々あるでしょう」
 亜希は、小首をかしげるようにして目を向けた。
「興味がありますか?」
「ええ」
「小田原にある海鮮の商いをやっている店のひとり娘で、ちやほやされて育った女です。見栄ばかり張っていて、子供を私立に入れることしか考えていない」
「すいぶんと冷たい言いかた」
女が、気の毒そうな顔をした。
「大学の恩師の紹介で見合いをして、一緒になりましたが、いまでも、会社をやめて家業を継いでくれといわれています。でも、僕にそんな気はありません。商売なんて、できるとも思えないし。僕の稼ぎが少ないのがいけないのでしょうが」
「そんなことないでしょう」
「メーカーなんて、びっくりするくらい薄給ですよ」
 瀬川は、自嘲するように言った。
「今のお仕事が、合わないとか?」
「仕事は好きです。毎シーズンに新製品を開発して、競合と買ったとか負けたとか、売れ筋ランキングで何位に入ったとか。子供みたいなことですが」
「夢があって、面白そう。やりがいがあるのでしょうね」
 亜希の言いかたには、温かみがあった。瀬川は、自分が肯定されているようで、うれしかった。
「わたしも一杯、いただいても?」
 瀬川がうなずくと、亜希は冷蔵庫からワインボルトを出して、チューリップグラスに注いだ。濃い赤色が、揺れていた。
「前に来たときも気になっていたのだが」
 瀬川はそう言うと、酒棚とは反対側の壁に目をやった。白いクロスに、額がかかっていた。
「朝顔ですね」
 三十センチ角ほどの額に、色紙が入れてあった。
「ええ、酒井抱一の朝顔。とっても好きなのでこうして飾らせてもらっています。お店の雰囲気には、ちょっと合わないのですけれど」
どこかの美術展覧会で購入したものらしかった。
「琳派ですね、酒井抱一といえば姫路の大名家の息子ですね」
「あら、詳しいのね」
 瀬川は、恥ずかしそうに笑った。
「線と色味が、とてもいい。僕も好きです」
 瀬川は、壁の朝顔図と亜希の顔を見比べながら、なんだかうれしくなってきた。ここには、共感できるものがあるような気がした。
「何か、歌いますか」
瀬川は、時計を見た。
「そろそろ、電車がなくなるから」
「あら、ごめんなさい」
 亜希は、申し訳なさそうに言った。
「あなたは、帰れるの?」
 そう問いかけると、かすかに、亜希の目が光ったように見えた。
「わたしは、近いから、遅くなったらタクシーで」
 瀬川はうなずくと、店を出た。瀬川は、店の外まで見送りに出てくれて亜希に手を振ると、路地の角を曲がった。亜希は、瀬川の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
空には雲がかかり、遠くに細く欠けた月が出ていた。おぼろげな光り方が、怪しげだった。振り返ると、いままでいたビルが亡霊のように建っていた。
壁面は零れ落ちそうで、そこに蔦が生い茂り、どうも不気味な建物だった。前に来たときも、同じようなことを感じた。ここに足を運んだのは、もしかしたら、その雰囲気のせいかもしれなかった。どうも、現実の世界のものではないものに出会ってしまったような気がした。
目を上げると、駅の向こう側に、高層ビル群が見えた。深夜であるのに、煌々と灯りがついている。あのビルの一つに、瀬川の事務所はある。まだ、働いている部下たちがあそこにいる。そのことを考えると、気が重くなった。
上空には、風があるようだった。雲の動きが早かった。出ていた月が、雲にかき消されて、あたりが暗くなった。春霞というのだろうか。夜が更けて、心なしか、肌寒さが増してくるようだった。
ポケットを探ると、亜希からもらった新しい名刺があった。薄いマスカット色をしている。そこには、携帯の番号とアドレスが手書きされていた。顔を近づけると、甘い匂いがした。



     5
 瀬川は、ときどき『マスカット』に顔を出すようになった。
いつも、十二時を回ったくらいに店に現れて、一時間ほど飲み、歌を数曲歌った。あまり多くをしゃべらず、亜希や舞衣子の冗談に笑いながら、静かに飲んでいる。そういう客だった。
ところが、夏くらいから、しばらく姿を見せなくなり、再び現れたのは、十月になったある日のことだった。
その日も、十二時を過ぎたころだった。
夏の空気はあとかたもなく消えて、しんとした秋の空気が街に漂っていた。金曜日だったので、店は混んでいた。舞衣子とかなえと三人で、満席の客の相手をしたが、十二時を過ぎて、ようやく客足が落ち着いた。
「久しぶりですね、どこで浮気していたのかしら」
 亜希が、温かいおしぼりを瀬川に手渡すと、横から舞衣子が軽口を叩いた。
「ちょっと仕事で海外に行っていたんです」
「あら、どちらに?」
「台湾です」
 瀬川の言葉に、亜希と舞衣子は顔を見合わせた。
「台北かしら」
 舞衣子が言うと、瀬川がうなずいた。
「開発や製造を委託する話があって、向こうの企業のアセスメントなんかをやることになって」
 しかし、そう言う瀬川の口ぶりは、あまり楽しいものではなさそうだった。
「長く、いらしたの?」
「二か月くらいかな。工場も中国本土やあちこちにあって、そういうのを見て回ったので」
「美味しいものが、たくさんありそうね」
 亜希がそう言うと、瀬川は、あいまいにうなずいた。
「今回は、観光する余裕はあまりなくて、・・・」
 かなえが、お先に、と言いながら帰っていった。店に残っている客は、瀬川だけになっていた。
「紅葉ですね」
 瀬川に言われて、亜希は壁の額に目をやった。半月ほど前から、額の色紙を取り換えていた。青い波に、紅葉が鮮やかに映えている構図だった。
「横山大観ですか」
「よくわかりますね」
 亜希は、驚いた。色紙は、部分を切り取っただけなので、六曲一双の屏風絵の一部でしかない。しかし、紅葉の朱と流れの青の鮮明さは、際立った絵だった。
 赤く色づいた葉の描き方が、亜希は好きだった。一枚一枚に、子供が丁寧に描いたような素朴さがあった。
「島根にある美術館でこれを見ました。会社の工場が近くにあるので、ときどき足を運びます」
 瀬川は、振り返って額の絵を眺めながら、目を細めた。彫りの深い顔が、柔らかかった。
 舞衣子も帰ってしまったので、店には瀬川と亜希だけになった。
「そろそろ閉めないと」
 亜希が言うと、瀬川は、ああという顔をした。
「もう電車もないでしょう。僕もタクシーで帰るので、もうすこしどこかで飲みませんか」
 その言い方が、控えめだがしても自然だった。亜希は、うれしくなった。
「ええ。いいわ」
 店を出て、すこし歩いたところにあるショットバーに入った。その店は、明け方近くまでやっていた。
「会社を、辞めようと思っているんだ」
 カウンターに並んで座り、お酒をオーダしたあど、不意に瀬川が言った。
「あら、何かあったの?」
 亜希は、慎重に尋ねた。
「僕らが手掛けてきた事業が、工場ごと売却されることになった」
 亜希は、黙って次の言葉を待った。
「それで、台湾に」
 瀬川はうなずいた。
「会社の方針だから仕方ないが、社長や一部の幹部の一存で、そういうことが決まってしまうことが納得できない。それで株価は上がっているから、経営としてはいいのかもしれないが、・・・」
 瀬川は、誰に言うともなく、そう言った。
「わたしには、難しいことはわからないけれど、それを大切にしてきた人が、たくさんいるということでしょう」
 瀬川が亜希を振り向いた。そして、微笑んだ。その笑い方が、なんだか泣いているようにも見えた。
「亜希さんは、優しいことを言ってくれる」
 瀬川はスコッチを、亜希はカシスのカクテルを飲んでいた。
「お腹、空きませんか?」
「そうね」
「串カツ、食べに行きませんか」
「こんな時間から?」
「オールナイトでやっているところがあるんです。昔は、よく徹夜で仕事をして、そういうときに食べに行った」
亜希は、若いころの瀬川を想像した。ひとつのことに、こだわりをもって取り組んできた男の姿が見えてくるようだった。
ショットバーを出たとき、亜希は瀬川に抱き寄せられた。そして、キスをされた。瀬川がこんなことをするとは思っていなかったので、亜希はすこし驚いた。瀬川からは、何の匂いもなかった。男くささも、汗のにおいも、なかった。かすかな、石鹸のような匂いがあるだけだった。
 瀬川の唇を感じながら、亜希は思った。もしこの人とそういうことになったら、自分たちはどうなっていくのだろうか。これまでも、亜希に言い寄ってくる男はいた。純粋に恋を求めている人もいれば、愛人になってくれないかと言ってくる人もいた。
中には、亜希が心を動かされる男もいた。そういう男と、深い関係になりかけたこともある。しかし、そのあとが続かなかった。店に繁く通ってくれても、もう一歩が踏み込めなかった。トラウマだと言えばそうだが、そもそも何かを乗り越える勢いも足りなかった。
そうやって、すれ違ったまま、遠ざかってしまうのだろうか。しかし、瀬川とは、すこし違うような気もした。何か違うのか、はっきりとはわからなかった。

亜希は、三年前に、二十年連れ添った夫と離婚して家を出た。生まれて初めてのひとり暮らしをすることになった。
離婚のきっかけは、亜希に男ができたことだった。それまで亜希は、夫以外の男と接したことなどなかった。三人の娘を育てながら、疑いもなく専業主婦をやってきた。
 しかし、今思えば、亜希は籠の中の鳥だった。そういう話を、舞衣子とよくしたのを覚えている。
夫はサラリーマンで、一部上場の企業に勤めていたが、ほとんど家にはいなかった。出張も多くて、泊まる日も多かった。何をしているのか、疑問にも思わなかった。そういうものだと、思っていた。
 クレジットカードは自由に使わせてもらったが、現金は持たせてもらえなかった。夫はそうやって、亜希のことを縛っていたのだと思う。子供が大きくなると時間もできたが、パートもするなと言われていたので、カードで決済できるスポーツジムや習い事をして過ごした。
しかし、やがてそれもつまらなくなってきた。そして、ふとしたきっかけで、出会い系のサイトで知り合った男と親しくなり、世界が変わってしまった。
 亜希は、昼間しか家を出ることができなかったので、男がそれに合わせて時間をつくってくれた。そういう密会が、二年くらい続いた。それは夢を見ているような、楽しい時間だった。
 しかし、あるとき、そういったすべてが夫の知るところとなってしまった。話し合った末に、離婚を決意した。亜希は、子供たちを残して家を出て、アパートに暮らすようになった。
 ところが、ある日を境に、すべてが変わってしまった。
 そのころの記憶が、いまは曖昧だった。男が突然にいなくなってしまって、亜希は自分が寄って立つものを失ってしまった。それから、ずっと何かが欠けたままの状態で、時間だけが過ぎてきたように思う。
近頃は、すこしずつ現実も見えてきた。やはり、寂しいと思うこともあった。夫とは一切係わりがないが、娘たちはときどき顔を見せてくれた。男をつくって家を出て行った自分に、母親としての後ろめたさもあったが、それにも慣れた。三人いる娘たちは、それぞれに独り立ちしていて、心配はなかった。むしろ彼女たちが、家を出て行った母親を気遣ってくれた。
五十を過ぎて、充分な蓄えがあるわけでもなかった。離婚のとき、将来の年金や遺産を一切放棄するという条件で、夫からもらった一千万円は、目減りして七百万くらいになっていた。そこから、減りもしないが、増えもしなかった。
 贅沢な暮らしがしたいわけではなかった。ただ、未来に不安はあった。いっそ、誰から世話になって、楽に生きようかと考えることあった。そういうことを言ってくれる人もいた。何人かの男の顔が思い浮かんだ。しかし、そこまでだった。
 自分の中に、いつも何か暗いものがあるようだった。それが、亜希の心をふさいでいるような気がした。
ふと、化粧が濃くなったと、自分で感じることがある。丈の短いスカートも、平気ではけるようになった。男に媚びを売ることも、自然とできるようになって、夜の女になってきたのだと、自分でも思った。
そういうことが、別に嬉しくも哀しくもなかったが、こうやって人は環境に順応していくのだと思った。もう、普通の主婦には戻れそうもないし、戻りたいとも思わなかった。

 それからも、瀬川はときどき店に顔を出した。いつものように、十二時を過ぎてからのときもあれば、早い時間のときもあった。
彼は決して、性急ではなかった。しかし、奥手ということでもない。相手との間合いを意識しながら、亜希が想像する通りのことをしてくれた。それが、亜希には心地よかった。瀬川といると、自分がとても素直になれる気がした。
 わたしは、瀬川のことが好きなのだろうかと、亜希は自問した。瀬川の性格や、雰囲気が好きだった。彫りの深い顔立ちも好きだった。亜希は、自分がこんな気持ちになることもあるのだと驚いた。かつて、男がいなくなってしまったとき、もうそういう気持ちになることはないだろうと思っていた。
「こんど、ここに行きませんか」
 ある日、瀬川は、チケットを差し出した。国立美術館で開催している、日本画の展覧会だった。江戸から明治にかけての琳派の系譜を企画展として展示していた。大手の新聞社が主催していて、テレビのコマーシャルなどでも宣伝していたので、亜希も知っていた。
「うれしいわ」
 展覧会に足を運ぶのは、いつ以来だろうか。そう考えたとき、亜希の記憶の襞の中で、かすかにうずくものがあった。あの頃、男に連れられて、あちこちにある日本画を見て回った。企画展があれば、地方にも足を運んだ。ショップで色紙を買い、額に入れて部屋の壁に掛けた。季節に合わせて、画を架け替える作業が楽しかった。
『マスカット』の壁に掛かった額の色紙は、秋草図に変わっていた。酒井抱一の秋草図屏風の部分画だった。月があり、幾種類もの草があった。赤い実のようなものもあり、色づいた葉は、宙を舞っていた。一瞬、駆け抜けた風を感じさせる絵だった。



     6
 洋介が『マスカット』に顔を出すのは、半年ぶりくらいだろうか。十一月になったばかりの、金曜日だった。洋介は、カウンターの一番の奥に座って、客あしらいをしている舞衣子たちをぼんやりと見ていた。
 舞衣子は、やはりこの顔を見ると、自分の心が揺れてしまうのを感じないではいられなかった。男の横顔が、ミラーボールの明かりに照らされて、青っぽく光っていた。
 五月に、白井に誘われて、千葉でいちご狩りをして、ワイナリーでランチをした。そのあと、インター近くのホテルに入ってしまった。
 白井は、そのあとも、何度か店に顔を出してくれたが、亜希は注意して彼がまた誘ってこようとすることを避けた。白井は、舞衣子との距離を縮めたがっているように見えたが、舞衣子は深入りはしたくなかった。店の客として、通ってくれるなら歓迎するが、それ以上の関係にはなりたくなかった。
白井のことは、いやではない。ホテルに入ったことも、後悔はしていない。白井は、女の扱いがうまかった。しかし、何かが違う気がした。たとえば彼と二人きりで、部屋でひがな一日過ごせるのかといえば、想像ができなかった。
舞衣子が曖昧な態度をとっているうちに、白井の足は遠のいていった。それでいいと思った。ただ、空寒い感じはあった。それもこれも、洋介がそばにいないからだと、自分に言い聞かせていた。
「こんど、台北にいくことにしたわ」
 客足がひけたとき、舞衣子は亜希に向って言った。
「あら、いいわね。いつ?」
「月末に連休があるでしょう、亜希ちゃんも、行かない?」
「えっ、わたし?」
 亜希は驚いた。カウンターの奥にいる、洋介の顔を見た。洋介は、かなえと何かを話しながら、笑っていた。
「観光もいろいろあるわよ、どう一緒に?」
「だって、お邪魔でしょう」
「いいのよ。みんなで行く方が楽しいわ。もちろん、ホテルは別にとってもらうけれど」
 そう言って、舞衣子はくすみ笑いをした。
 確かに、楽しい想像だった。しかし、自分だけがお荷物のようについていくのは、やはり抵抗があった。
「亜希ちゃんも誰か連れて言ったらいいのよ。いないの、そういう人」
 亜希は、あいまいにうなずいた。そのとき、カウンターの端から、亜希のことをじっと見ている洋介の視線に気づいた。
 三年前に、男の訃報を知らせてくれたのは、洋介だった。あのとき、洋介は泣いていた。本当のことを、亜希に伝えるべきか悩んだとも言っていた。伝えられたことは辛かったけれど、洋介には感謝していた。
「台北に、いくの?」
 かなえが聞きつけて、割り込んできた。
「ええ、あなたもどう?」
 舞衣子は、調子を合わせた。
「楽しそう、でも、子供もいるし無理かしら」
 かなえはそう言って、肩をすくめた。その日のかなえは、タイトな、ブルーのタートルニットを来ていて、巨乳がいつも以上に際立っていた。さっき洋介と楽しそうに笑っていたのは、そのことを冷やかされていたみたいだった。
 そのとき、どこかで雷鳴が聞こえた。地下にある店まで、音が響いてきた。
「外はすごい雨みたい」
 かなえが、肩をすくめるようにして言った。
「めずらしいわね、この季節に夕立なのかしら」
 舞衣子は言うと、カウンターの奥の洋介が言った。
「最近は、おかしな天気が多い。台北でも、五月くらいに降るスコールが、季節構わず降ったりしている」
 秋の雨と言えば、静かに降るものだと思っていた。舞衣子は、壁にかけた色紙に目をやった。十一月に入ってから、亜希が額の色紙を入れ替えていた。秋風に吹かれて、幾種類もの草花が揺れていた。絵のことはよくわからないが、その一瞬の不安定さが、舞衣子も好きだった。

 十二時を過ぎると、客はいなくなった。外の雨は、まだ激しく降っているようだった。
「そろそろ、帰らせてもらいます」
 かなえがそう言って、店を出ていった。
「かなえちゃん、雨だからタクシー使って」
 亜希がそう声をかけると、かなえは嬉しそうにうなずいた。
 かなえが店を出て行ってしまうのを見届けると、舞衣子は声を落とした。
「かなえちゃん、その後どう?」
 亜希は、舞衣子の言いたいことがわかったようで、眉をしかめた。
「それとなく見てはいるのだけれど、・・・よくわからないわ。なんだか、ちょっと少ないような気がすることもあるのだけれど、伝票の枚数も、金額もおかしくないのよ」
「そう」
 舞衣子は、すこし考えて、思いついたように言った。
「知っていた? あの子、吉田さんとできているらしいの」
「えっ?」
 亜希が目を見張った。ビルのオーナーの吉田さんは、七十は過ぎている。亜希や舞衣子にとっても、父親のような存在だった。かなえなら、孫みたいな年齢になる。
「このまえ、吉田さんから、いろいろ相談されちゃった」
 舞衣子は、カウンターの奥にいる洋介をちらりと見た。
「彼女、シングルマザーでしょう。いろいろ大変みたいで、吉田さんが援助しているみたい」
 舞衣子は、最近になって、吉田さんから聞かされたことを口にした。吉田さんとの関係は、ずいでん長いらしかった。舞衣子は、そんなことに全く気付かなかった。
「でも、なんで舞衣子に相談を?」
 亜希に言われて、舞衣子はうなずいた。
「奥様と別れて、籍を入れてくれって、かなえちゃんから迫られているらしいのよ」
 そう言うと、亜希は固まったようになって、舞衣子を見つめ返した。
「なかなかしたたかじゃないか。まるで、後妻業だ。あれだけの体なら、男も迷うだろうが」
 洋介が、水割りを口にしながら言った。その言いかたが、女をバカにしたように聞こえて、舞衣子は嫌な気がした。

 一時近くになって、店を閉めようかというときに、瀬川が店に現れた。
「いいですか?」
 瀬川は、店を見回して、遠慮がちに言った。カウンターの外れに洋介が座っているのを見て、すこし気おくれしたみたいだった。誰も客がいないと思っていたのだろう。
 瀬川は、洋介に向って軽く頭を下げると、洋介もそうした。そういえば、二人ともこの界隈に勤めている。もしかしたら知り合いかもしれない。しかし、これだけサラリーマンがいるのだから、そういうこともないだろうと思った。
「そうそう、瀬川さん、台北にいっていたのでしょう?」
 舞衣子が、いたずらっぽく、声をかけてきた。
「ええ、夏に二か月くらいいましたよ」
「だったら、詳しいでしょう?」
 瀬川は手を振った。
「観光は、ほとんどしていないんです」
「そしたら、こんど、皆で行かない?」
 そう言って、そこにいる四人の男女を順番に指さした。
「皆で?」
 瀬川は、戸惑ったような顔をした。
「いきなりそんなこと、困っているじゃない」
 亜希はたしなめた。そして、洋介が台北に駐在していること、今度の連休に皆で行こうと話していることを、順序だてて説明した。
「いいですね」
 話を聞いて、瀬川は嬉しそうに言った。



     7
 その日、亜希が伝票を手にしたとき、違和感があった。きれいに閉じられている冊子が、すこしだけずれていた。A6サイズの伝票の冊子を逆さにして、パラパラとめくると、一枚だけはがれて落ちた。
 あとから差し込まれたようだった。考えてみたら、その辺の文房具店でうっている市販の伝票なので、どこでも手に入れることはできる。あらかじめ差し込んでおいて、あとで抜いてしまえば、その伝票はなかったことになる。
店が混んでいる木曜や金曜なら、一枚や二枚の伝票がなくても気づかないだろう。相応の金額を抜いてしまえば通し番号も矛盾しないし、辻褄はあう。なんとなく少ないと感じたのは、そういうからくりだったのだと気づいた。
亜希は、そのことを舞衣子に相談した。
「よく考えたものね」
 舞衣子は、感心したように言った。すこし様子を見ることにした。
その翌週、かなえが出勤する木曜に、亜希は、同じようにして差し込まれた伝票を見つけた。そのとき、店には客はいなかった。
亜希は、舞衣子に目で合図をして、かなえに話しかけた。
「かなえちゃん、この伝票は何かしら?」
 客にメッセージを送っていたかなえは、顔をあげた。塗りたてのアイシャドゥが濃かった。
「何ですか?」
 亜希が、伝票の冊子から抜き取った伝票を見せて、からくりを説明すると、かなえはすこしだけ目の色を変えた。
「こうやって細工して、伝票ごとお金を抜いていたの?」
 かなえは、黙っていた。それから、意を決したように、亜希を直視した。
「何のことかわかりません」
「とぼけないでよ」
 舞衣子が口をはさんだ。亜希は、舞衣子を制するようにして、かなえに向かって、優しく語りかけた。
「やったことを認めて、お金を返してくれたら、このことは、・・・」
 そう言ったとき、かなえはきっと亜希を睨みつけた。
「泥棒呼ばわりですか」
 高い声が、すこし震えていた。
「わたしがそうしたという証拠でも? 舞衣子さんがやったのかもしれないじゃないですか」
舞衣子が、ちょっと、と言って座っていた椅子から立ち上がる。
かなえは、持っていたスマートフォンをポケットにしまうと、わたし帰ります、と言って、ハンドバッグとコートをつかみ、店を出て行ってしまった。
「どうするの?」
 亜希は、舞衣子と顔を見合わせた。かなえがやったことに、間違いないだろう。ただ、簡単に罪を認められない気持ちもわかる気がした。
「警察に通報する?」
 舞衣子がそう言ったが、亜希は首を振った。
「通報したところで、お金は戻ってこないと思うわ」
 かなえは、もうここには来ないだろう。お金を取られたことよりも、ずっと騙されていたことが悲しかった。それに、かなえがいたことで、店が助かっていたのも事実だった。別の女を探さないといけないと、亜希は頭の中で考えた。
「あの子、昔からやっていたのかもしれないわ」
 舞衣子が、ぽつりと言った。
 亜希は、前のママから『マスカット』を引き継いだとき、サービスの料金体系や会計のやり方も踏襲した。伝票も同じものを買い足して、使っていた。もしかしたら、そのころから、かなえはそういうことをしていたのかもしれないと思った。

 そのとき、ドアが開いて、客が入ってきた。湯沢だった。
「かなえちゃんは、まだ?」
 亜希と舞衣子しかいないのを見て、湯沢は言った。
「ごめんなさい。今日は、お休みなのよ」
 舞衣子が、取り繕うように言うと、湯沢は、残念そうな顔をしながら、カウンターに座った。
「今日は年増二人で、ごめんなさいね」
 舞衣子が、軽口を言った。
「そんなことはないですよ。二人とも美人だから、僕はこうして飲めたら、楽しいです」
 湯沢が、すこし気まずそうに言うのがおかしかった。
「かなえちゃんとは、どうなっているの?」
 舞衣子は遠慮がない。湯沢に振舞われて、舞衣子はビールを飲んでいた。吉田さんとのことを、この人は知らないだろう。そういうことを知ったら、男はどう思うだろう。
「彼女とは、何もないですよ。ていうか、何かあったら、こんなところには働いていないと思いますよ」
「どういうこと?」
 湯沢は、すこし首をかしげるようにして言った。
「小学生の男の子がいて、それがなんというか、自閉症って言うんですか。学校に行けなくて、施設みたいなところに通っているらしいんですけれど、その費用とか大変で、いつも愚痴っていました。早くお金持ちと結婚したいって言っていましたよ。もし彼女とそういう関係になったら、僕は離婚する覚悟をしないと。ただ、そこまではね」
 湯沢はそう言うと、細面の顔をとぼけたようにゆがめた。
「そんなことを言って、都合よく遊ぼうと狙っているのでしょう?」
舞衣子は容赦がなかった。
「まさか、僕にそんな度胸はありませんよ」
 亜希は、かなえの事情を聴いて、彼女のことが気の毒に思えてきた。しかし、あんなことをしてしまっては、どうしようもなかった。これから彼女はどうするのだろう。吉田さんも、彼女との関係には距離をおきたいみたいだ。
 やがて、湯沢はマイクを取って歌い始めた。尾崎豊とチェッカーズだった。いつものことだが、聴きほれるくらいにうまかった。
「歌手のオーディションとかに、出たらいいのに」
 舞衣子が、しみじみと言った。
「むかし、NHKのど自慢に出たことがあるんですよ」
 湯沢は、すこし照れたようにして笑った。
「へえ」
 舞衣子は、身を乗り出した。
「それで、どうだったの?」
「鐘ふたつ、その程度のものなんですよ」
 湯沢は、自嘲するように言ったが、自分では納得していないみたいだった。
 誰にでも、秘めたものはある。普段は外に見せていない、別の顔を持っている。こうではない人生があったと思いながら、目の前の人生を生きている。わたしはどうだろうかと亜希は思った。何かを期待して、未来に何かがあると空想して、生きていた時期もあった。しかし、今はそんな余裕もなかった。
 一寸先は、闇だと思った。これからどうなっていくのか、わからなかった。このビルも、老朽化して、いつ追い出されるかわからない。かなえがやめてしまえば、しばらく舞衣子と二人でこの店をやっていかなければならない。その舞衣子だって、いつ仕事をやめたいと言い出すか、わからなかった。
「ところで、瀬川さん、あれからときどき見えるわよ」
 亜希が言うと、湯沢は意外だという顔をした。
「あの人が、ここに?」
 亜希は、うなずいた。
「いつも遅い時間に、一人で来られるわ」
「あの人、いまはたいへんだと思います」
 湯沢はそう言うと、しかめ面をして、押し黙った。
「立場もあるから、ご苦労も多いのでしょう」
亜希は、当たり障りのない言いかたをした。そして、瀬川が会社を辞めたいと言っていたことを思いあわせながら、しかし、口にはしなかった。

(後編に続く)
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