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5-1 有馬手記(5)
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「あらあら、こんなとこで寝ちゃって」
まだ日も昇り切らぬ午前四時。
佐伯家の朝は早い。
リビングのソファーで電池が切れたように寝ていている長男を横目に。佐伯家の一切を掌握する清香は、やかんに水を入れ火にかけた。
それが、清香の一日の始まりのスイッチだ。
夜遅く帰宅し、朝早く出勤する夫のために弁当を、そして、若干大きくなりすぎた子ども達のために朝ご飯を拵える。
家族が家から出て行くと、洗濯と掃除をこなし、涼しい午前のうちに庭の手入れを済ませる。たまにご近所の奥様方とランチに行き、夕方にはまた、家族のために家事をこなしたら、清香の一日が終わる。
それが清香の一日で、三六五日なのだ。
「あ、英祐がいたんだったわ」
独り言を言いながら、冷蔵庫からいつもの人数以上の鮭の切り身を取り出した。
あっという間だったような気がする。
上京し、結婚し、子どもを産んで育ててきた。今でこそワンオペ育児なんて言葉があるが、ワンオペ育児自体、昔から存在する。
勤労・終身雇用が尊まれ、それが全てだと言われていた時代。子育てや家を守ることは、母親の役目だとずっと思っていたし、清香自身、そう教えられてもきた。
仕事で夫が帰って来なくとも。運動会でビデオを回しながら、親子競技をしようとも。それが当たり前だと思っていた。
やかんの口から勢いよくでる湯気。それを見ながら清香は、じんわりと自身の母親の顔を思い出す。
「『薩摩女子』ん気質を忘れんごつな」
佐伯家に嫁ぐ前、母がいつになく厳しい表情で言っていた。
『薩摩女子』とは鹿児島の方言で、「鹿児島の女性」を指す。
優しく芯のあり、まっすぐな心を持つ女性。というイメージがあるが、それだけでないと清香は思う。
いつも忙しく、家にいることが少なかった父。清香の母は、毎日文句一つ言わず……。
いや、たまには。何やらグチグチは言っていたし、激震が起こるほどの雷も落としていたけれど。愛情深く、五人の子どもを育てててきた。
そんな母親に、自分の年齢が近づいてきている。もうすぐ、子育ても終わる。母はどんな気持ちで、毎日台所に立っていたのだろうか。
(そうだ、母さんは……)
目が回るほど忙しい子育てが終わった母は、急に絵を描きだした。
昔から、油絵をやってみたかったそうだ。清香達が使っていた子ども部屋が、母のアトリエとなる。南国ならではの鮮やかな色彩で表現される桜島や庭の植物の油絵が、かつて勉強机が並んだ部屋を埋め尽くした。
清香は母の絵に触れて、ドキリとしたのを思い出す。母の見ている世界は、こんなにも鮮やかで明るいのか、と。母の内面にある情熱や激情を、絵を通して初めて知った気がした。
「あの絵も、もう処分されちゃったのかしらね」
ソファーで眠る英祐の胸に置かれた古書を見ながら、清香は独言る。
古書は引き継がれていくのに。
母の思いや感情の塊である絵は、大流の歴史に刻まれることなく失い、忘れ去られていく。
そう、『薩摩女子』の一生そのものだ。
西郷隆盛や大久保利通等、薩摩の偉人達は後世に名を残す。しかし、その陰には時代を生きた多くの『薩摩女子』達の支えがあったに違いない。名も残さず、時代の流れに忘れ去られてしまった彼女等にも、それなりに強い思いはあったはずだ。
日本の黎明期を担う偉人を支えた。
この事が激動の時代を懸命に生きた女性の誇りとして、今も根付き語り継がれているからこそ。県外に嫁ぐ娘に、母が「『薩摩女子』ん気質を忘れんごつな」と厳しめの口調で言ったのだろう。
いつも柔和に笑う女性らしい表面の裏には、南国に襲来する台風をも跳ね返す強い精神。
三歩下がって追従しているようで、実のところ、手の内で殿方を転がすほどの聡明さと頑固さを隠す。
真っ直ぐに、流されることなく、自分の信じた道を歩むこと。
清香は、母の背中を見て『薩摩女子』のなんたるかを学んだような気がする。
今、自分のするべきことをやりたい。
清香の場合、それがたまたま〝家族のため〟ということ。今の時代流れには、きっとそぐわないかもしれない。そぐわないかもしれないが、後悔はしていない。
母のように何かを始めたいという気持ちは、未だ湧かないが。何かを始めるのに、遅すぎることもないだろう。子育てがひと段落つき、自分の時間が持てるようになったら。その時にやりたい事をやればいい。そう思うと、自分の中に維新が始まるような気がして、清香はなんだか気持ちが熱くなった。
決めたら、全力でやる。それだけのこと。
それが、自身の根底に流れ根づく『薩摩女子』の気質なのだ。
「母さんに比べたら。私なんか、まだまだよねぇ」
清香はまた独言ると、やかんの火を止めドリップコーヒーにお湯を注ぐ。ゆっくりとコーヒーを口に含みながら、未だ夢の中にいる長男の顔に視線を落とした。
「さて、私も頑張らなきゃね。動いてなんぼ! 働かざるもの食うべからず!」
物理的な維新を起こすわけでもないが。一日の小さな変化を楽しみながら、今日も佐伯清香の一日が始まる。
まだ日も昇り切らぬ午前四時。
佐伯家の朝は早い。
リビングのソファーで電池が切れたように寝ていている長男を横目に。佐伯家の一切を掌握する清香は、やかんに水を入れ火にかけた。
それが、清香の一日の始まりのスイッチだ。
夜遅く帰宅し、朝早く出勤する夫のために弁当を、そして、若干大きくなりすぎた子ども達のために朝ご飯を拵える。
家族が家から出て行くと、洗濯と掃除をこなし、涼しい午前のうちに庭の手入れを済ませる。たまにご近所の奥様方とランチに行き、夕方にはまた、家族のために家事をこなしたら、清香の一日が終わる。
それが清香の一日で、三六五日なのだ。
「あ、英祐がいたんだったわ」
独り言を言いながら、冷蔵庫からいつもの人数以上の鮭の切り身を取り出した。
あっという間だったような気がする。
上京し、結婚し、子どもを産んで育ててきた。今でこそワンオペ育児なんて言葉があるが、ワンオペ育児自体、昔から存在する。
勤労・終身雇用が尊まれ、それが全てだと言われていた時代。子育てや家を守ることは、母親の役目だとずっと思っていたし、清香自身、そう教えられてもきた。
仕事で夫が帰って来なくとも。運動会でビデオを回しながら、親子競技をしようとも。それが当たり前だと思っていた。
やかんの口から勢いよくでる湯気。それを見ながら清香は、じんわりと自身の母親の顔を思い出す。
「『薩摩女子』ん気質を忘れんごつな」
佐伯家に嫁ぐ前、母がいつになく厳しい表情で言っていた。
『薩摩女子』とは鹿児島の方言で、「鹿児島の女性」を指す。
優しく芯のあり、まっすぐな心を持つ女性。というイメージがあるが、それだけでないと清香は思う。
いつも忙しく、家にいることが少なかった父。清香の母は、毎日文句一つ言わず……。
いや、たまには。何やらグチグチは言っていたし、激震が起こるほどの雷も落としていたけれど。愛情深く、五人の子どもを育てててきた。
そんな母親に、自分の年齢が近づいてきている。もうすぐ、子育ても終わる。母はどんな気持ちで、毎日台所に立っていたのだろうか。
(そうだ、母さんは……)
目が回るほど忙しい子育てが終わった母は、急に絵を描きだした。
昔から、油絵をやってみたかったそうだ。清香達が使っていた子ども部屋が、母のアトリエとなる。南国ならではの鮮やかな色彩で表現される桜島や庭の植物の油絵が、かつて勉強机が並んだ部屋を埋め尽くした。
清香は母の絵に触れて、ドキリとしたのを思い出す。母の見ている世界は、こんなにも鮮やかで明るいのか、と。母の内面にある情熱や激情を、絵を通して初めて知った気がした。
「あの絵も、もう処分されちゃったのかしらね」
ソファーで眠る英祐の胸に置かれた古書を見ながら、清香は独言る。
古書は引き継がれていくのに。
母の思いや感情の塊である絵は、大流の歴史に刻まれることなく失い、忘れ去られていく。
そう、『薩摩女子』の一生そのものだ。
西郷隆盛や大久保利通等、薩摩の偉人達は後世に名を残す。しかし、その陰には時代を生きた多くの『薩摩女子』達の支えがあったに違いない。名も残さず、時代の流れに忘れ去られてしまった彼女等にも、それなりに強い思いはあったはずだ。
日本の黎明期を担う偉人を支えた。
この事が激動の時代を懸命に生きた女性の誇りとして、今も根付き語り継がれているからこそ。県外に嫁ぐ娘に、母が「『薩摩女子』ん気質を忘れんごつな」と厳しめの口調で言ったのだろう。
いつも柔和に笑う女性らしい表面の裏には、南国に襲来する台風をも跳ね返す強い精神。
三歩下がって追従しているようで、実のところ、手の内で殿方を転がすほどの聡明さと頑固さを隠す。
真っ直ぐに、流されることなく、自分の信じた道を歩むこと。
清香は、母の背中を見て『薩摩女子』のなんたるかを学んだような気がする。
今、自分のするべきことをやりたい。
清香の場合、それがたまたま〝家族のため〟ということ。今の時代流れには、きっとそぐわないかもしれない。そぐわないかもしれないが、後悔はしていない。
母のように何かを始めたいという気持ちは、未だ湧かないが。何かを始めるのに、遅すぎることもないだろう。子育てがひと段落つき、自分の時間が持てるようになったら。その時にやりたい事をやればいい。そう思うと、自分の中に維新が始まるような気がして、清香はなんだか気持ちが熱くなった。
決めたら、全力でやる。それだけのこと。
それが、自身の根底に流れ根づく『薩摩女子』の気質なのだ。
「母さんに比べたら。私なんか、まだまだよねぇ」
清香はまた独言ると、やかんの火を止めドリップコーヒーにお湯を注ぐ。ゆっくりとコーヒーを口に含みながら、未だ夢の中にいる長男の顔に視線を落とした。
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