19 / 41
5-2 一波纔かに動いて、万波随う(1)
しおりを挟む
「晋祐殿ッ!!」
「利良殿ッ!!」
乾いた土に無数の足音が響くと、一斉に砂埃が舞う。
前も見えないほど舞い上がった砂は視界を遮り、故郷の桜島が撒き散らす火山灰を彷彿とさせた。
川路利良と有馬晋祐は、刃と刃がぶつかる音を直近に感じながら、蛤御門に近い櫓へと走り抜ける。
京都・乾御門から南下し、激戦の地・蛤御門へと移動した利良等薩摩藩の軍勢は、抵抗する長州藩にかなり手こずっていた。
〝長戝・#来島又兵衛__きじままたべぇ__を打て!〟
薩摩藩の指揮官・西郷隆盛の命を受け、利良と晋祐は近くの櫓を目指す。傍でぶつかり合う鋒が、鎧もつけずに走る自分達に、いつ向けられるかわからない混乱の中。小声で名前を呼び合い、互いの無事を確認し直走った。
「……行っど!」
利良の言葉に、晋祐が頷く。
二人は目配せをすると、櫓の梯子に手をかけた。
周囲の建物より一段高い櫓からは、一進一退を繰り広げる戦況が詳細に見て取れる。
鉢巻を結び直し、利良は乱れる髪を抑えた。
背中に背負ったミニエー銃を構えると、ハッと小さく息を吸い片目を瞑る。ゆっくりと息を吐きながら、砂埃のその先にある標的に照準を合わせた。
利良の銃口が追うのは、槍を振るい、群がる志士を次々と薙ぎ倒す大柄の男--来島又兵衛だ。
無双する来島の胸部と銃口、そして利良の目。それぞれの点が、一つの線となって一直線に繋がった。
--捉えた……!
直後に。
一発で仕留めなければ、と強い重圧が利良に襲いくる。
不安が一気に広がり、利良の気持ちに弱さを生じさせる。弱さを含んだ気持ちに比例するように、次第に強く鼓動する心臓。ほどよい緊張を通り越し、様々な負の感情を増幅させた。
それにつられて、引鉄を握る手が強張り冷たくなる。強張りは全身に達し、じっとりとした重たい汗が、引鉄をにぎる指先にまで及んだ。
利良は小さく呟く。
「晋祐殿」
「なんだ、利良殿」
「俺が外しもしたら、あとは頼もんど」
「弱気になるな!」
晋祐は利良の言葉に同意し「分かった」と返してくれる。そう踏んでいた利良は、晋祐の意外な答えに思わず片目を開けた。
「弱気になるな! 利良殿ならできる!! 大丈夫だ!」
敵襲に備え、利良と背中を合わせ銃を構える晋祐は静かに力強く言った。
晋祐の言葉は、とても単純だ。
単純であるのに、強く利良の中に入り込む。入り込んだ晋祐の言葉は、荒ぶる利良の鼓動や弱い部分にまで染み渡った。そして、不思議なほど利良の緊張を沈ませ、気持ちを落ち着かせるのだ。
思わず口元を緩める。
その刹那、利良は二年前に小坂通りで感じた晋祐の暖かさを思い出していた。
(あの時も、今も。俺は晋祐殿に、救われている)
背中から伝わる晋祐の温もりと思いが、利良の不安を払拭していく。同時に、心臓の音など気にならないほどに、利良の全身の感覚が冷たく鋭くほどに研ぎ澄まされていくのを感じた。
冬の冷たい空気を纏う晴天の空のように、視界も思考も澄み渡る。砂埃が舞う混沌とした世界が、驚くほど明瞭となった。
よい集中をしている、と自分で思うほど。余計な感情が入らない。
一つ息を吸い短く止めると、利良は再び片目を閉じる。
「……大丈夫。出来っ」
晋祐の言葉を噛み締めるように唱え、利良は引鉄を引いた。
……ダァァァン。
まるで遠くで響いているように、発砲音は耳元で微かにこだまする。対照的に火を吹く銃の衝撃は、利良の肩にずしりと沈みこんだ。
元治元年(一八六四年)八月。
ミニエー銃の大きな発砲音が、京都の街に響いた。
その音は熱を伴い、気流を作り巨大な波となる。放たれた弾丸は一条の軌道を作り、激戦の蛤御門に渦巻く熱量を巻き込んで突き抜けた。
京都の暑さまでを凌駕する激動のその波は、幕末を生きる利良等を最も簡単に飲み込むのだ。
事の発端は、文久三年(一八六三年)五月。
小攘夷派(攘夷急進派)の多い長州藩が、外国船を砲撃したことに始まる。
公武合体といいながら、なかなか攘夷へ煮え切らない態度の幕府に小攘夷派の長州藩は、苛立ちを募らせていた。
長州藩は幕府への当てつけの如く、外国船を砲撃。武力による攘夷を実行した。この長州藩の行動に、流石の幕府も堪忍袋の尾が切れたのだ。
同年、八月十八日--早朝。
幕府及び大攘夷派の会津藩と薩摩藩が、京都の御所全ての門を封鎖した。小攘夷派の長州藩は御所に入れぬまま、幕府は次々と大攘夷派に有利な約定を決めてしまう。
これを『八月十八日の政変』という。
攘夷には、二つの派閥がある。
一つは、長州藩が推す『小攘夷派(急進派)』鎖国を推進し武力を持ってしてでも、日本から諸外国を全て排除することを掲げた派閥だ。
そしてもう一つは、会津藩や薩摩藩が推す『大攘夷派(穏便派)』富国強兵を目指し、諸外国と対等に外交を行いながら攘夷を実行することに重きを置いた派閥だ。
薩摩藩も以前は、小攘夷派の考えが主流であった。
しかし、薩英戦争以後、その方針が一八〇度変わる。
激しい戦いを繰り広げた薩摩藩とイギリスは、和睦の談判を重ねるうちに互いを認め、良好な関係を築いていた。薩摩藩はイギリスから様々な高度な技術を学ぶうちに、小攘夷の考えを根底から見直さざるをえなかったのだ。
『八月十八日の政変』により、攘夷の主流は大攘夷派に大きく傾いた。
小攘夷を主張していた長州藩は、半ば追い出されるように攘夷に係る主導権を失う。さらに、外国船の砲撃による報復を受けた長州藩は、諸藩からの援軍も得られず、ますます孤立を深める結果となってしまった。
しかしそれで黙っている長州藩ではない。長州藩の中でも過激な思考を持つ小攘夷の一派が、京都を中心に尊皇攘夷を掲げ、勢力拡大に暗躍し始めたのだ。
京都守護職・松平容保は、京都の治安維持を名目として、小攘夷派排除の先鋒である『新撰組』を京都に設置する。
元治元年(一八六四年)、六月。
新選組は、京都三条木屋町の旅籠・『池田屋』に潜伏していた長州藩及び土佐藩等の小攘夷派の志士を襲撃した。
秘密裏に会合に参加していた小攘夷派の志士の多くが、この襲撃により死亡・捕捉。ほぼ勢力を拡大していた小攘夷派は、目に見えて壊滅的な状況となった。これが、かの『池田屋事件』である。
この事件に、せっかちな性格が幸いし、難を逃れたのが桂小五郎。後の木戸孝允だ。
池田屋事件の一報が長州藩にもたらされると、長州藩は当然の如く激怒した。そして、元凶である京都守護職・松平容保の排除を目指して挙兵したのだ。
これを阻まんとするのは、幕府と大攘夷派で構成された諸藩の軍勢。長州藩の小攘夷派を京都で待ち構えぶつかり合う。
この事件を『蛤御門の変(禁門の変)』という。
大砲も投入されるほどの激しい戦闘に発展した市街戦は、京都市中の約三万戸が焼失した。
なお、この大事件が『蛤御門の変(禁紋の変)』と言われる所以は、京都御所の門(禁門)を中心に戦われたこと。中でも川路利良等が死闘を繰り広げた蛤御門周辺が、最激戦地であったことによるものだ。
利良や晋祐も、激しく刃が重なる戦の地に身を置いていた。
故郷を離れ、遠い知らぬ土地。
その土地でいつ命を落としてしまうやも分からぬ、一寸先の未来。
互いの背中に触れる体温のみが、利良と晋祐が感じる唯一の〝生きている〟証であった。
「長戝・来島又兵衛が倒れたどッ!!」
櫓まで響く声に、晋祐と利良は顔を見合わせた。一進一退を繰り広げていた眼下の蛤御門の流れが、瞬く間に変わる。求心力を失った長州藩の軍勢は、薩摩の軍勢に押されて後退。次々と潰走していった。
「……やったぞ! 利良殿!」
「あぁ!!」
二人は櫓の上で互いの拳を強くぶつけた。
「行くぞ、利良殿!」
「もう一息じゃ!!」
櫓を降りた二人はミニエー銃を背負うと、腰に携えた刀をスラリと抜く。
大きく息を吸った利良と晋祐は、一瞬だけ視線を交わすと長州の軍勢へと走り出した。
並んで走る晋祐を横目で見ながら、利良は心の中で「大丈夫」と繰り返す。
晋祐の声で繰り返されるその言葉に、興奮した自身の心が異常に凪いでいくのが分かった。不思議と恐怖を感じない。
「チェストーッ!」
「チェストーッ!」
二人は、大きく息を吸って叫ぶ。気合いと共に刀を上段に構えた。利良と晋祐は砂埃を巻き上げながら混乱の中へと突き進む。
この『蛤御門の変』により、幕府および諸藩の力に屈した長州藩は、尊王攘夷派の急進的指導者の大半を失った。長州藩の権力の原動を担っていた小攘夷派の欠落は、長州藩の勢力を脆弱なものとし、大きく後退せざるを得ない結果となってしまう。
激動の時代がまた一つ大きな波になり、塗り変えられていく。混迷を期す時代の小さな一波は、利良と晋祐を飲み込んだまま、その勢いを増して大きくなっていった。
「利良殿ッ!!」
乾いた土に無数の足音が響くと、一斉に砂埃が舞う。
前も見えないほど舞い上がった砂は視界を遮り、故郷の桜島が撒き散らす火山灰を彷彿とさせた。
川路利良と有馬晋祐は、刃と刃がぶつかる音を直近に感じながら、蛤御門に近い櫓へと走り抜ける。
京都・乾御門から南下し、激戦の地・蛤御門へと移動した利良等薩摩藩の軍勢は、抵抗する長州藩にかなり手こずっていた。
〝長戝・#来島又兵衛__きじままたべぇ__を打て!〟
薩摩藩の指揮官・西郷隆盛の命を受け、利良と晋祐は近くの櫓を目指す。傍でぶつかり合う鋒が、鎧もつけずに走る自分達に、いつ向けられるかわからない混乱の中。小声で名前を呼び合い、互いの無事を確認し直走った。
「……行っど!」
利良の言葉に、晋祐が頷く。
二人は目配せをすると、櫓の梯子に手をかけた。
周囲の建物より一段高い櫓からは、一進一退を繰り広げる戦況が詳細に見て取れる。
鉢巻を結び直し、利良は乱れる髪を抑えた。
背中に背負ったミニエー銃を構えると、ハッと小さく息を吸い片目を瞑る。ゆっくりと息を吐きながら、砂埃のその先にある標的に照準を合わせた。
利良の銃口が追うのは、槍を振るい、群がる志士を次々と薙ぎ倒す大柄の男--来島又兵衛だ。
無双する来島の胸部と銃口、そして利良の目。それぞれの点が、一つの線となって一直線に繋がった。
--捉えた……!
直後に。
一発で仕留めなければ、と強い重圧が利良に襲いくる。
不安が一気に広がり、利良の気持ちに弱さを生じさせる。弱さを含んだ気持ちに比例するように、次第に強く鼓動する心臓。ほどよい緊張を通り越し、様々な負の感情を増幅させた。
それにつられて、引鉄を握る手が強張り冷たくなる。強張りは全身に達し、じっとりとした重たい汗が、引鉄をにぎる指先にまで及んだ。
利良は小さく呟く。
「晋祐殿」
「なんだ、利良殿」
「俺が外しもしたら、あとは頼もんど」
「弱気になるな!」
晋祐は利良の言葉に同意し「分かった」と返してくれる。そう踏んでいた利良は、晋祐の意外な答えに思わず片目を開けた。
「弱気になるな! 利良殿ならできる!! 大丈夫だ!」
敵襲に備え、利良と背中を合わせ銃を構える晋祐は静かに力強く言った。
晋祐の言葉は、とても単純だ。
単純であるのに、強く利良の中に入り込む。入り込んだ晋祐の言葉は、荒ぶる利良の鼓動や弱い部分にまで染み渡った。そして、不思議なほど利良の緊張を沈ませ、気持ちを落ち着かせるのだ。
思わず口元を緩める。
その刹那、利良は二年前に小坂通りで感じた晋祐の暖かさを思い出していた。
(あの時も、今も。俺は晋祐殿に、救われている)
背中から伝わる晋祐の温もりと思いが、利良の不安を払拭していく。同時に、心臓の音など気にならないほどに、利良の全身の感覚が冷たく鋭くほどに研ぎ澄まされていくのを感じた。
冬の冷たい空気を纏う晴天の空のように、視界も思考も澄み渡る。砂埃が舞う混沌とした世界が、驚くほど明瞭となった。
よい集中をしている、と自分で思うほど。余計な感情が入らない。
一つ息を吸い短く止めると、利良は再び片目を閉じる。
「……大丈夫。出来っ」
晋祐の言葉を噛み締めるように唱え、利良は引鉄を引いた。
……ダァァァン。
まるで遠くで響いているように、発砲音は耳元で微かにこだまする。対照的に火を吹く銃の衝撃は、利良の肩にずしりと沈みこんだ。
元治元年(一八六四年)八月。
ミニエー銃の大きな発砲音が、京都の街に響いた。
その音は熱を伴い、気流を作り巨大な波となる。放たれた弾丸は一条の軌道を作り、激戦の蛤御門に渦巻く熱量を巻き込んで突き抜けた。
京都の暑さまでを凌駕する激動のその波は、幕末を生きる利良等を最も簡単に飲み込むのだ。
事の発端は、文久三年(一八六三年)五月。
小攘夷派(攘夷急進派)の多い長州藩が、外国船を砲撃したことに始まる。
公武合体といいながら、なかなか攘夷へ煮え切らない態度の幕府に小攘夷派の長州藩は、苛立ちを募らせていた。
長州藩は幕府への当てつけの如く、外国船を砲撃。武力による攘夷を実行した。この長州藩の行動に、流石の幕府も堪忍袋の尾が切れたのだ。
同年、八月十八日--早朝。
幕府及び大攘夷派の会津藩と薩摩藩が、京都の御所全ての門を封鎖した。小攘夷派の長州藩は御所に入れぬまま、幕府は次々と大攘夷派に有利な約定を決めてしまう。
これを『八月十八日の政変』という。
攘夷には、二つの派閥がある。
一つは、長州藩が推す『小攘夷派(急進派)』鎖国を推進し武力を持ってしてでも、日本から諸外国を全て排除することを掲げた派閥だ。
そしてもう一つは、会津藩や薩摩藩が推す『大攘夷派(穏便派)』富国強兵を目指し、諸外国と対等に外交を行いながら攘夷を実行することに重きを置いた派閥だ。
薩摩藩も以前は、小攘夷派の考えが主流であった。
しかし、薩英戦争以後、その方針が一八〇度変わる。
激しい戦いを繰り広げた薩摩藩とイギリスは、和睦の談判を重ねるうちに互いを認め、良好な関係を築いていた。薩摩藩はイギリスから様々な高度な技術を学ぶうちに、小攘夷の考えを根底から見直さざるをえなかったのだ。
『八月十八日の政変』により、攘夷の主流は大攘夷派に大きく傾いた。
小攘夷を主張していた長州藩は、半ば追い出されるように攘夷に係る主導権を失う。さらに、外国船の砲撃による報復を受けた長州藩は、諸藩からの援軍も得られず、ますます孤立を深める結果となってしまった。
しかしそれで黙っている長州藩ではない。長州藩の中でも過激な思考を持つ小攘夷の一派が、京都を中心に尊皇攘夷を掲げ、勢力拡大に暗躍し始めたのだ。
京都守護職・松平容保は、京都の治安維持を名目として、小攘夷派排除の先鋒である『新撰組』を京都に設置する。
元治元年(一八六四年)、六月。
新選組は、京都三条木屋町の旅籠・『池田屋』に潜伏していた長州藩及び土佐藩等の小攘夷派の志士を襲撃した。
秘密裏に会合に参加していた小攘夷派の志士の多くが、この襲撃により死亡・捕捉。ほぼ勢力を拡大していた小攘夷派は、目に見えて壊滅的な状況となった。これが、かの『池田屋事件』である。
この事件に、せっかちな性格が幸いし、難を逃れたのが桂小五郎。後の木戸孝允だ。
池田屋事件の一報が長州藩にもたらされると、長州藩は当然の如く激怒した。そして、元凶である京都守護職・松平容保の排除を目指して挙兵したのだ。
これを阻まんとするのは、幕府と大攘夷派で構成された諸藩の軍勢。長州藩の小攘夷派を京都で待ち構えぶつかり合う。
この事件を『蛤御門の変(禁門の変)』という。
大砲も投入されるほどの激しい戦闘に発展した市街戦は、京都市中の約三万戸が焼失した。
なお、この大事件が『蛤御門の変(禁紋の変)』と言われる所以は、京都御所の門(禁門)を中心に戦われたこと。中でも川路利良等が死闘を繰り広げた蛤御門周辺が、最激戦地であったことによるものだ。
利良や晋祐も、激しく刃が重なる戦の地に身を置いていた。
故郷を離れ、遠い知らぬ土地。
その土地でいつ命を落としてしまうやも分からぬ、一寸先の未来。
互いの背中に触れる体温のみが、利良と晋祐が感じる唯一の〝生きている〟証であった。
「長戝・来島又兵衛が倒れたどッ!!」
櫓まで響く声に、晋祐と利良は顔を見合わせた。一進一退を繰り広げていた眼下の蛤御門の流れが、瞬く間に変わる。求心力を失った長州藩の軍勢は、薩摩の軍勢に押されて後退。次々と潰走していった。
「……やったぞ! 利良殿!」
「あぁ!!」
二人は櫓の上で互いの拳を強くぶつけた。
「行くぞ、利良殿!」
「もう一息じゃ!!」
櫓を降りた二人はミニエー銃を背負うと、腰に携えた刀をスラリと抜く。
大きく息を吸った利良と晋祐は、一瞬だけ視線を交わすと長州の軍勢へと走り出した。
並んで走る晋祐を横目で見ながら、利良は心の中で「大丈夫」と繰り返す。
晋祐の声で繰り返されるその言葉に、興奮した自身の心が異常に凪いでいくのが分かった。不思議と恐怖を感じない。
「チェストーッ!」
「チェストーッ!」
二人は、大きく息を吸って叫ぶ。気合いと共に刀を上段に構えた。利良と晋祐は砂埃を巻き上げながら混乱の中へと突き進む。
この『蛤御門の変』により、幕府および諸藩の力に屈した長州藩は、尊王攘夷派の急進的指導者の大半を失った。長州藩の権力の原動を担っていた小攘夷派の欠落は、長州藩の勢力を脆弱なものとし、大きく後退せざるを得ない結果となってしまう。
激動の時代がまた一つ大きな波になり、塗り変えられていく。混迷を期す時代の小さな一波は、利良と晋祐を飲み込んだまま、その勢いを増して大きくなっていった。
0
あなたにおすすめの小説
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる