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5-2 一波纔かに動いて、万波随う(1)

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晋祐殿しんすけどんッ!!」
「利良殿ッ!!」
 乾いた土に無数の足音が響くと、一斉に砂埃が舞う。
 前も見えないほど舞い上がった砂は視界を遮り、故郷の桜島が撒き散らす火山灰を彷彿とさせた。
 川路利良と有馬晋祐は、刃と刃がぶつかる音を直近まぢかに感じながら、蛤御門はまぐりごもんに近いやぐらへと走り抜ける。
 京都・乾御門いぬいごもんから南下し、激戦の地・蛤御門へと移動した利良等薩摩藩の軍勢は、抵抗する長州藩にかなり手こずっていた。
〝長戝・#来島又兵衛__きじままたべぇ__を打て!〟
 薩摩藩の指揮官・西郷隆盛の命を受け、利良と晋祐は近くの櫓を目指す。傍でぶつかり合うきっさきが、鎧もつけずに走る自分達に、いつ向けられるかわからない混乱の中。小声で名前を呼び合い、互いの無事を確認し直走ひたはしった。
「……行っど!」
 利良の言葉に、晋祐が頷く。
 二人は目配せをすると、櫓の梯子はしごに手をかけた。
 周囲の建物より一段高い櫓からは、一進一退を繰り広げる戦況が詳細に見て取れる。
 鉢巻を結び直し、利良は乱れる髪を抑えた。
 背中に背負ったミニエー銃を構えると、ハッと小さく息を吸い片目を瞑る。ゆっくりと息を吐きながら、砂埃のその先にある標的に照準を合わせた。
 利良の銃口が追うのは、槍を振るい、群がる志士を次々と薙ぎ倒す大柄の男--来島又兵衛きじままたべえだ。
 無双する来島の胸部と銃口、そして利良の目。それぞれの点が、一つの線となって一直線に繋がった。
--捉えた……!
 直後に。
 一発で仕留めなければ、と強い重圧が利良に襲いくる。
 不安が一気に広がり、利良の気持ちに弱さを生じさせる。弱さを含んだ気持ちに比例するように、次第に強く鼓動する心臓。ほどよい緊張を通り越し、様々な負の感情を増幅させた。
 それにつられて、引鉄ひきがねを握る手が強張り冷たくなる。強張りは全身に達し、じっとりとした重たい汗が、引鉄をにぎる指先にまで及んだ。
 利良は小さく呟く。
晋祐殿しんすけどん
「なんだ、利良殿」
おいが外しもしたら、あとは頼もんど」
「弱気になるな!」
 晋祐は利良の言葉に同意し「分かった」と返してくれる。そう踏んでいた利良は、晋祐の意外な答えに思わず片目を開けた。
「弱気になるな! 利良殿ならできる!! 大丈夫だ!」
 敵襲に備え、利良と背中を合わせ銃を構える晋祐は静かに力強く言った。
 晋祐の言葉は、とても単純だ。
 単純であるのに、強く利良の中に入り込む。入り込んだ晋祐の言葉は、荒ぶる利良の鼓動や弱い部分にまで染み渡った。そして、不思議なほど利良の緊張を沈ませ、気持ちを落ち着かせるのだ。
 思わず口元を緩める。
 その刹那、利良は二年前に小坂通りで感じた晋祐の暖かさを思い出していた。
(あの時も、今も。俺は晋祐殿に、救われている)
 背中から伝わる晋祐の温もりと思いが、利良の不安を払拭していく。同時に、心臓の音など気にならないほどに、利良の全身の感覚が冷たく鋭くほどに研ぎ澄まされていくのを感じた。
 冬の冷たい空気を纏う晴天の空のように、視界も思考も澄み渡る。砂埃が舞う混沌とした世界が、驚くほど明瞭となった。
 よい集中をしている、と自分で思うほど。余計な感情が入らない。
 一つ息を吸い短く止めると、利良は再び片目を閉じる。
「……大丈夫。出来でくっ」
 晋祐の言葉を噛み締めるように唱え、利良は引鉄を引いた。
 ……ダァァァン。
 まるで遠くで響いているように、発砲音は耳元で微かにこだまする。対照的に火を吹く銃の衝撃は、利良の肩にずしりと沈みこんだ。
 
 元治元年(一八六四年)八月。
 ミニエー銃の大きな発砲音が、京都の街に響いた。
 その音は熱を伴い、気流を作り巨大な波となる。放たれた弾丸は一条の軌道を作り、激戦の蛤御門に渦巻く熱量を巻き込んで突き抜けた。
 京都の暑さまでを凌駕する激動のその波は、幕末を生きる利良等をいとも簡単に飲み込むのだ。


 事の発端は、文久三年(一八六三年)五月。
 小攘夷派(攘夷急進派)の多い長州藩が、外国船を砲撃したことに始まる。
 公武合体といいながら、なかなか攘夷へ煮え切らない態度の幕府に小攘夷派の長州藩は、苛立ちを募らせていた。
 長州藩は幕府への当てつけの如く、外国船を砲撃。武力による攘夷を実行した。この長州藩の行動に、流石の幕府も堪忍袋の尾が切れたのだ。
 同年、八月十八日--早朝。
 幕府及び大攘夷派の会津藩と薩摩藩が、京都の御所全ての門を封鎖した。小攘夷派の長州藩は御所に入れぬまま、幕府は次々と大攘夷派に有利な約定を決めてしまう。
 これを『八月十八日の政変』という。
 攘夷には、二つの派閥がある。
 一つは、長州藩が推す『小攘夷派(急進派)』鎖国を推進し武力を持ってしてでも、日本から諸外国を全て排除することを掲げた派閥だ。
 そしてもう一つは、会津藩や薩摩藩が推す『大攘夷派(穏便派)』富国強兵を目指し、諸外国と対等に外交を行いながら攘夷を実行することに重きを置いた派閥だ。
 薩摩藩も以前は、小攘夷派の考えが主流であった。
 しかし、薩英戦争以後、その方針が一八〇度変わる。
 激しい戦いを繰り広げた薩摩藩とイギリスは、和睦の談判を重ねるうちに互いを認め、良好な関係を築いていた。薩摩藩はイギリスから様々な高度な技術を学ぶうちに、小攘夷の考えを根底から見直さざるをえなかったのだ。
 『八月十八日の政変』により、攘夷の主流は大攘夷派に大きく傾いた。
 小攘夷を主張していた長州藩は、半ば追い出されるように攘夷に係る主導権を失う。さらに、外国船の砲撃による報復を受けた長州藩は、諸藩からの援軍も得られず、ますます孤立を深める結果となってしまった。
 しかしそれで黙っている長州藩ではない。長州藩の中でも過激な思考を持つ小攘夷の一派が、京都を中心に尊皇攘夷を掲げ、勢力拡大に暗躍し始めたのだ。
 京都守護職・松平容保は、京都の治安維持を名目として、小攘夷派排除の先鋒である『新撰組』を京都に設置する。
 元治元年(一八六四年)、六月。
 新選組は、京都三条木屋町の旅籠はたご・『池田屋』に潜伏していた長州藩及び土佐藩等の小攘夷派の志士を襲撃した。
 秘密裏に会合に参加していた小攘夷派の志士の多くが、この襲撃により死亡・捕捉。ほぼ勢力を拡大していた小攘夷派は、目に見えて壊滅的な状況となった。これが、かの『池田屋事件』である。
 この事件に、せっかちな性格が幸いし、難を逃れたのが桂小五郎。後の木戸孝允だ。
 池田屋事件の一報が長州藩にもたらされると、長州藩は当然の如く激怒した。そして、元凶である京都守護職・松平容保の排除を目指して挙兵したのだ。
 これを阻まんとするのは、幕府と大攘夷派で構成された諸藩の軍勢。長州藩の小攘夷派を京都で待ち構えぶつかり合う。
 この事件を『蛤御門の変(禁門の変)』という。
 大砲も投入されるほどの激しい戦闘に発展した市街戦は、京都市中の約三万戸が焼失した。
 なお、この大事件が『蛤御門の変(禁紋の変)』と言われる所以ゆえんは、京都御所の門(禁門)を中心に戦われたこと。中でも川路利良等が死闘を繰り広げた蛤御門周辺が、最激戦地であったことによるものだ。
 利良や晋祐も、激しく刃が重なる戦の地に身を置いていた。
 故郷を離れ、遠い知らぬ土地。
 その土地でいつ命を落としてしまうやも分からぬ、一寸先の未来。
 互いの背中に触れる体温のみが、利良と晋祐が感じる唯一の〝生きている〟あかしであった。


「長戝・来島又兵衛が倒れたどッ!!」
 櫓まで響く声に、晋祐と利良は顔を見合わせた。一進一退を繰り広げていた眼下の蛤御門の流れが、瞬く間に変わる。求心力を失った長州藩の軍勢は、薩摩の軍勢に押されて後退。次々と潰走していった。
「……やったぞ! 利良殿!」
「あぁ!!」
 二人は櫓の上で互いの拳を強くぶつけた。
「行くぞ、利良殿!」
「もう一息ひといっじゃ!!」
 櫓を降りた二人はミニエー銃を背負うと、腰に携えた刀をスラリと抜く。
 大きく息を吸った利良と晋祐は、一瞬だけ視線を交わすと長州の軍勢へと走り出した。
 並んで走る晋祐を横目で見ながら、利良は心の中で「大丈夫」と繰り返す。
 晋祐の声で繰り返されるその言葉に、興奮した自身の心が異常に凪いでいくのが分かった。不思議と恐怖を感じない。
「チェストーッ!」
「チェストーッ!」
 二人は、大きく息を吸って叫ぶ。気合いと共に刀を上段に構えた。利良と晋祐は砂埃を巻き上げながら混乱の中へと突き進む。
 この『蛤御門の変』により、幕府および諸藩の力に屈した長州藩は、尊王攘夷派の急進的指導者の大半を失った。長州藩の権力の原動を担っていた小攘夷派の欠落は、長州藩の勢力を脆弱なものとし、大きく後退せざるを得ない結果となってしまう。
 激動の時代がまた一つ大きな波になり、塗り変えられていく。混迷を期す時代の小さな一波は、利良と晋祐を飲み込んだまま、その勢いを増して大きくなっていった。
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