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第一話 辞めさせていただきます。
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パーン!
今朝も【私】は、いつもと変わらぬ穏やかな日常……を迎えるはずだった。
しかし、夢から覚めた時に、ふと違和感を感じたのだ。
――【俺】は【こんなところ】で、何をしている?
その瞬間、水風船をパーンと叩きつけられたように、俺の視界も思考も、イタ気持ちいい爽快感とともに、クリアになったのだ。
思い出したのだ。前世を。
俺は日本という国に住んでいた。
パソコンに詳しかったため、情報技術者としての道を歩み、有名空調会社のシステムエンジニアとして、それなりに成功を収めた。
高い地位にもついた。給料もたくさん貰えた。上司に褒められるのが嬉しくて身を粉にして働いた。
そして倒れた。
俺が倒れている間にも、会社の業務も世の中もクルクルとよく回っていた。代用はいくらでもいるのだ。なにもかも虚しくなった。
四十歳を迎えて、俺は人生の岐路に立たされた。
このまま会社へ戻るか、新たな自分探しを始めるか……。
当分の蓄えはあったので、会社を辞めて、俺は喧騒とした都会から逃げ出した。
よくある話である。
そして旅先で、やがて妻になる女性と出会った。
これもよくある話だ。
平凡人生で何が悪い。平凡万歳。
妻はお世辞にも美人とはいえなかったが、笑顔がとてもチャーミングで、ぽっちゃりとした底抜けに明るい人だった。
俺は落ち込むたびに、妻に背中をバンバカ叩かれて、それはもう陽気に鼓舞された。背中についた赤い紅葉の分だけ、俺は前を向いて頑張れた。
そしてようやく、自分の性格に合った安住の地を見つけた。
俺は、キャベツ農家の婿養子となったのだ。
慣れない作業に、腰も膝もやられたが、土を触り、風に吹かれ、虫と戦い、水をまき、汗をかきながら収穫する……そのルーチンを踏むのがたまらなく楽しかった。
妻の親族も、ご近所のお年寄りたちも、新参者の俺をあたたかく迎えてくれた。
村は若い者が少なかったので、田舎ならではの行事にもすすんで参加した。
七夕や盆踊り大会、近所の子供たちと餅つきもしたっけ……、どれも新鮮で楽しかった。
しかし俺は、田舎暮らしの本当の恐ろしさを知らなかった。
村人に受け入れられたことで、大自然を理解した気になっていた。
恐怖はほんのすぐ裏の山に潜んでいた。
そしてそれは、油断しきっていた俺に突然牙をむいてきた。
キノコ狩りにいった俺は、大きなイノシシと鉢合わせをした。
ドンとやられてそのまま崖から転げ落ちた。
――【俺】の前世の記憶はそれで終わりだ。
ここからは、現世の【私】の話をしよう。
大貴族の次男として生まれた【私】は、生まれながらに癒しの能力をもち、なんやかんやあって、多くの人々を救ってきた。
そして現在、十七歳の若さでありながら、【黒神子(くろみこ)様】と呼ばれ、大神殿で、多くの人間にかしずかれて生活している。
黒蜜(くろみつ)ではないよ?
黒神子(くろみこ)だよ?
ごめんなさい。言いたかっただけです。
しかも、両性具有で生まれた【私】は、子供を産める身体ということで、やがては第一王子の【妻】となり、【王妃】となって、この国を背負っていく身の上らしい。
なるほどなるほど。
これで俺の人生バラ色……って、なってたまるか!
こんちきしょうっ! 冗談じゃねえよ!
【俺】は、布団の中で……、違うか、いまはベッドか……の中で、震える体をぎゅっと抱きしめた。
落ち着け……まずは落ち着くんだ……。
――もうすぐ【奴】がくる。
いまは【私】の、おかしな様子を気づかれてはならない。
奴の【私】に対する観察眼は、”普通ではない”のだから。
カチャリ。
ノックせずに静かにドアを開ける音がした。
来たぞ!
瞬時にまぶたを閉じて、穏やかな顔で寝たふりをする。
俺は出来る子! やれば俺は出来る子!
薄暗がりの中、奴は窓際の豪奢なカーテンを少しだけ引いた。
俺が眩しくないように、足下にだけ朝の光が差し込んでくる。
「おはようございます、カルス様」
あっ、ちなみに現世の【私】の名前はカルスです。
びっくりするほど、しっくりこない!
「半刻後に起こしに参ります」
奴はベッド脇に立ち、寝ている(ふりをしている)俺に、小さく声をかけた。
そして、頭をそっと3回程撫でたあと、シーツに散らばった髪をひとふさ手にとり、キスをして部屋から出て行った。
寝たふりをしていたので、キスの場面までは見えなかったが、【私】はもう何度もその場面に遭遇しているから、たぶん今回もやっているに違いない。
でもまだ、油断がならない。奴の足音が聞こえなくなるまで、俺は息をひそめながらしっかりと確認した。
よっしゃ! 第一関門突破!
勢いよく、俺は跳び起きる。
この神殿の使用人は、毎朝段階を踏んで、【私】を起こしにきてくれる。
理由は至極簡単で、【私】の寝起きが最悪だからだ。低血圧の神子は、朝はまったく使い物にならないのだ。
これは【私】が全面的に悪い!
毎朝、いらぬ手間をかけさせて、非常に申し訳ないと思っている。そこは素直に謝りますとも!
でもね。でもね。
なんで【私】は、朝から野郎に、寝顔を撫でまわされとるんですかね? 髪の毛にチューまでくらっとるわけですよ。
萎えるわ! 朝なのに萎えるわ!
そもそも奴は、かなり高位の神官で、俺を起こしにくるような立場ではないのだ。
それなのに、嬉々として【私】の世話をやきにくる。隙をみつけては、【私】の身体に触れてきやがるのだ。
【私】が、第一王子の婚約者であることを知っていながらだ。
神殿も王宮も、そんな常識はずれの遊び人ばっかりなのだ。
いやいや無理!
こんな権力と色欲でドロッドロの、伏魔殿で暮らすのは絶対に無理ですから!
しかもなんで俺、こんな面倒くさい容姿に生まれ変わっちゃったのっ?
黒髪に黒い目は、この世界では「神の御使い」として、敬われている。ここ数百年、一度も現れてはいなかったらしい。
とどめに【私】は、なかなかに綺麗なお顔で、生まれてきてしまいました。
そのせいか、セクハラされるのが慣れっこな人生に……あぅあぅ。ここまで純潔を守れたのは、もはや奇跡に近いだろう。
【私】は、この見た目と治癒能力をもっていたことで、多くの人の病気や怪我を、当たり前のように治してきた。
自分の命をすり減らすようにして、顔も知らない人々を救ってきた。それが神子たる者の使命だと、神殿にそう教わってきたからだ。
救えなかったことで、祈りが足りないのだと責められたこともあった。
全てを、己の罪として受け入れてきた。
【私】はな!
ついさっきまでの、お人よしな【私】はな!
水風船パーンした【俺】からすれば、そんなの知ったこっちゃない。
なんで俺一人が、そんな多人数の命を預からなくちゃいかんのだ。荷が重すぎるのにも程がある。圧死するわ!
そう!
これは前世のあのときと同じだ! このままでは俺は確実に倒れる!
同じ轍(てつ)は二度と踏むものか!
俺は好きに生きたい!
両性具有だけど、気立てのよいお嫁さんが欲しい! 前世の時のように、あたたかい家庭が欲しい!
悔いのないように、自分に合った生活スタイルを取り戻すのだ!
そう!
俺はこれから、【野菜農家】になる!
そうと決まれば、とっととトンズラするしかない。
だいたい神殿って怖いんだよ! なんなんだよ!
そこかしこ怖い彫刻や裸の宗教画ばかりだよ! 俺よく、こんなところで暮らせてたな! 一気に夢から冷めたわ。ドン引きだわ。
よくよく考えれば、【私】の周りにいた人々も怖い輩(ヤカラ)だよ。
散々【私】を、蝶よ花よと育てあげてさ。おだてるだけおだてて、結局は日々監禁状態じゃねえか。そのあげく、たったひとりの神子に、ただただ民を治療させてるんだぜ? それで神殿の格がうなぎ上りで、政治にまで口出ししてるんだぜ?
王宮も、数百年に一度の神子フィーバーで、上から目線で他の国にやりたい放題だ。
俺は客寄せパンダか!
冗談じゃねえ! やってられるか!
さっきの神官もそうだ。
このごろ、輪をかけて調子にのってやがる。
【私】は、奴にずっと恋心を抱いていた。
いわゆる【初恋】というものだ。
しかし、第一王子の婚約者なのだからと、頑張って忘れようと努力していたのだ。それはもう健気に純粋に……。部屋で泣いていたことも、何度もあったっけ。
そんな純粋な神子の恋心を、敏感な奴はとうに把握していたはずだ。
にもかかわらず、奴は自分に依存するように囲い込み、時には嫉妬させ、時には冷たくあしらい、大人の男の余裕で、日々恋の手管を楽しんでいる。
このままでは、【私】はあの鬼畜な狼に食べられてしまう運命だ。
あの神官もなかなかの美貌だからな。王子がライバルだろうが、恋の成就に絶対的な自信があるのだろう。
【俺】には通用しないがな! ざまあみろ!
もううんざりだ。
【私】は充分、国に尽くした。
もういいだろう。ほとほと疲れましたよ。
転職させてもらいます!
俺は、尻にかかるほど伸ばした髪を、うなじの後ろで躊躇なくバッサリ切った。
こんなに伸ばしていては、農作業ができないからだ。
はあ、すっきりした。
切った髪はベッドの下へと隠した。
【私】は、刺繍が唯一の趣味だった。
そのおかげか、危険なハサミも、身近におかせてもらえたのだ。
よかった。信用構築って大事だよね。
この世界には、カラーコンタクトも、サングラスもない。
目の色はどうにもできないが、髪の色はカツラでも手に入れれば大丈夫だろう。
黒いカツラを売るのは、神を冒涜する行為で禁止されているが、他の色ならば街のどこにでも売っている……らしい。これはおしゃべりな使用人から聞いた話だが、たぶん合っているだろう。
しかしなんなのだ、このなまっチロイ足は。
俺……こんな足で走れるのか? 働けるのか?
定住先をみつけたら、まずは筋トレだな。農業は身体が資本だからな。
両性具有なせいか、全然すね毛も生えていない。どこもかしこもツルッツルだ。
自分のなまめかしさに、少しドキドキしちゃうってどうなのよ。でも胸はペッタンコなので助かった。
乳首ピンクだけど……あぅあぅ。
金は手元にはないが、売れそうな宝石や調度品ならばたくさんある。
これをいくつかカバンへ……カバンがない! 当たり前か、俺はカバンすら自分で持ったことがないからな。
仕方がない。こんなときこそ、風呂敷だ! シーツのすみっこを適当に切って……と、こーしてあーして、日本人の文化に乾杯!
さてと、これで準備オーケーだ。
もうすぐ【奴】が、ひとりで俺をまた起こしにやってくる。
フードつきの神官服を、ここではいつも羽織っているはずだ。
丁度いい。そいつをかっぱらって、そのまま脱出させてもらおう。
【私】は、治癒術をちょいと変換すれば、相手を昏倒させることもできるのだ。奴がベタベタ触ってきたときに、即実行だ。
あとは金と度胸さえあれば、出国もなんとかなるだろう。
賄賂が横行している国だからな。門番も買収できるだろう。
やばい!
切った髪の毛は、一緒に持っていかねば! みすみす捜索のヒントを置いていくところだったぜ。危なかった。
奴を昏倒させたら、部屋も少し荒らしていこう。 第三者の痕跡めいたものも、残しておくにこしたことはない。モノを壊すような乱暴なことは、黒神子様は絶対にしなかったからな。
さあ、もうすぐ【奴】がくる。
切ったシーツは見えないようにして、寝たふり寝たふり。
緊張するけど、俺はやれば出来る子!
さっきも出来た! 大丈夫!
よし! 作戦実行だ!
みてろよ!
必ず自由になってみせる!
こうして、【俺】は無事に逃げ切り、念願かなって野菜農家になれたのだが……。
まさか数年後に、同じ神官や王子どもから、貞操を奪われかけ、求婚される羽目になるとは、このときの自分は欠片も想像してはいなかった。
おまえらヤンデレ化してるじゃねえかっ!
いい加減、俺のことは放っといてくれませんかね? 顔が良ければ何でも許されると思うなよ!
俺はお嫁さん募集中なの!
可及的速やかに、どうぞおかえりください。
おととい、きやがれ。
今朝も【私】は、いつもと変わらぬ穏やかな日常……を迎えるはずだった。
しかし、夢から覚めた時に、ふと違和感を感じたのだ。
――【俺】は【こんなところ】で、何をしている?
その瞬間、水風船をパーンと叩きつけられたように、俺の視界も思考も、イタ気持ちいい爽快感とともに、クリアになったのだ。
思い出したのだ。前世を。
俺は日本という国に住んでいた。
パソコンに詳しかったため、情報技術者としての道を歩み、有名空調会社のシステムエンジニアとして、それなりに成功を収めた。
高い地位にもついた。給料もたくさん貰えた。上司に褒められるのが嬉しくて身を粉にして働いた。
そして倒れた。
俺が倒れている間にも、会社の業務も世の中もクルクルとよく回っていた。代用はいくらでもいるのだ。なにもかも虚しくなった。
四十歳を迎えて、俺は人生の岐路に立たされた。
このまま会社へ戻るか、新たな自分探しを始めるか……。
当分の蓄えはあったので、会社を辞めて、俺は喧騒とした都会から逃げ出した。
よくある話である。
そして旅先で、やがて妻になる女性と出会った。
これもよくある話だ。
平凡人生で何が悪い。平凡万歳。
妻はお世辞にも美人とはいえなかったが、笑顔がとてもチャーミングで、ぽっちゃりとした底抜けに明るい人だった。
俺は落ち込むたびに、妻に背中をバンバカ叩かれて、それはもう陽気に鼓舞された。背中についた赤い紅葉の分だけ、俺は前を向いて頑張れた。
そしてようやく、自分の性格に合った安住の地を見つけた。
俺は、キャベツ農家の婿養子となったのだ。
慣れない作業に、腰も膝もやられたが、土を触り、風に吹かれ、虫と戦い、水をまき、汗をかきながら収穫する……そのルーチンを踏むのがたまらなく楽しかった。
妻の親族も、ご近所のお年寄りたちも、新参者の俺をあたたかく迎えてくれた。
村は若い者が少なかったので、田舎ならではの行事にもすすんで参加した。
七夕や盆踊り大会、近所の子供たちと餅つきもしたっけ……、どれも新鮮で楽しかった。
しかし俺は、田舎暮らしの本当の恐ろしさを知らなかった。
村人に受け入れられたことで、大自然を理解した気になっていた。
恐怖はほんのすぐ裏の山に潜んでいた。
そしてそれは、油断しきっていた俺に突然牙をむいてきた。
キノコ狩りにいった俺は、大きなイノシシと鉢合わせをした。
ドンとやられてそのまま崖から転げ落ちた。
――【俺】の前世の記憶はそれで終わりだ。
ここからは、現世の【私】の話をしよう。
大貴族の次男として生まれた【私】は、生まれながらに癒しの能力をもち、なんやかんやあって、多くの人々を救ってきた。
そして現在、十七歳の若さでありながら、【黒神子(くろみこ)様】と呼ばれ、大神殿で、多くの人間にかしずかれて生活している。
黒蜜(くろみつ)ではないよ?
黒神子(くろみこ)だよ?
ごめんなさい。言いたかっただけです。
しかも、両性具有で生まれた【私】は、子供を産める身体ということで、やがては第一王子の【妻】となり、【王妃】となって、この国を背負っていく身の上らしい。
なるほどなるほど。
これで俺の人生バラ色……って、なってたまるか!
こんちきしょうっ! 冗談じゃねえよ!
【俺】は、布団の中で……、違うか、いまはベッドか……の中で、震える体をぎゅっと抱きしめた。
落ち着け……まずは落ち着くんだ……。
――もうすぐ【奴】がくる。
いまは【私】の、おかしな様子を気づかれてはならない。
奴の【私】に対する観察眼は、”普通ではない”のだから。
カチャリ。
ノックせずに静かにドアを開ける音がした。
来たぞ!
瞬時にまぶたを閉じて、穏やかな顔で寝たふりをする。
俺は出来る子! やれば俺は出来る子!
薄暗がりの中、奴は窓際の豪奢なカーテンを少しだけ引いた。
俺が眩しくないように、足下にだけ朝の光が差し込んでくる。
「おはようございます、カルス様」
あっ、ちなみに現世の【私】の名前はカルスです。
びっくりするほど、しっくりこない!
「半刻後に起こしに参ります」
奴はベッド脇に立ち、寝ている(ふりをしている)俺に、小さく声をかけた。
そして、頭をそっと3回程撫でたあと、シーツに散らばった髪をひとふさ手にとり、キスをして部屋から出て行った。
寝たふりをしていたので、キスの場面までは見えなかったが、【私】はもう何度もその場面に遭遇しているから、たぶん今回もやっているに違いない。
でもまだ、油断がならない。奴の足音が聞こえなくなるまで、俺は息をひそめながらしっかりと確認した。
よっしゃ! 第一関門突破!
勢いよく、俺は跳び起きる。
この神殿の使用人は、毎朝段階を踏んで、【私】を起こしにきてくれる。
理由は至極簡単で、【私】の寝起きが最悪だからだ。低血圧の神子は、朝はまったく使い物にならないのだ。
これは【私】が全面的に悪い!
毎朝、いらぬ手間をかけさせて、非常に申し訳ないと思っている。そこは素直に謝りますとも!
でもね。でもね。
なんで【私】は、朝から野郎に、寝顔を撫でまわされとるんですかね? 髪の毛にチューまでくらっとるわけですよ。
萎えるわ! 朝なのに萎えるわ!
そもそも奴は、かなり高位の神官で、俺を起こしにくるような立場ではないのだ。
それなのに、嬉々として【私】の世話をやきにくる。隙をみつけては、【私】の身体に触れてきやがるのだ。
【私】が、第一王子の婚約者であることを知っていながらだ。
神殿も王宮も、そんな常識はずれの遊び人ばっかりなのだ。
いやいや無理!
こんな権力と色欲でドロッドロの、伏魔殿で暮らすのは絶対に無理ですから!
しかもなんで俺、こんな面倒くさい容姿に生まれ変わっちゃったのっ?
黒髪に黒い目は、この世界では「神の御使い」として、敬われている。ここ数百年、一度も現れてはいなかったらしい。
とどめに【私】は、なかなかに綺麗なお顔で、生まれてきてしまいました。
そのせいか、セクハラされるのが慣れっこな人生に……あぅあぅ。ここまで純潔を守れたのは、もはや奇跡に近いだろう。
【私】は、この見た目と治癒能力をもっていたことで、多くの人の病気や怪我を、当たり前のように治してきた。
自分の命をすり減らすようにして、顔も知らない人々を救ってきた。それが神子たる者の使命だと、神殿にそう教わってきたからだ。
救えなかったことで、祈りが足りないのだと責められたこともあった。
全てを、己の罪として受け入れてきた。
【私】はな!
ついさっきまでの、お人よしな【私】はな!
水風船パーンした【俺】からすれば、そんなの知ったこっちゃない。
なんで俺一人が、そんな多人数の命を預からなくちゃいかんのだ。荷が重すぎるのにも程がある。圧死するわ!
そう!
これは前世のあのときと同じだ! このままでは俺は確実に倒れる!
同じ轍(てつ)は二度と踏むものか!
俺は好きに生きたい!
両性具有だけど、気立てのよいお嫁さんが欲しい! 前世の時のように、あたたかい家庭が欲しい!
悔いのないように、自分に合った生活スタイルを取り戻すのだ!
そう!
俺はこれから、【野菜農家】になる!
そうと決まれば、とっととトンズラするしかない。
だいたい神殿って怖いんだよ! なんなんだよ!
そこかしこ怖い彫刻や裸の宗教画ばかりだよ! 俺よく、こんなところで暮らせてたな! 一気に夢から冷めたわ。ドン引きだわ。
よくよく考えれば、【私】の周りにいた人々も怖い輩(ヤカラ)だよ。
散々【私】を、蝶よ花よと育てあげてさ。おだてるだけおだてて、結局は日々監禁状態じゃねえか。そのあげく、たったひとりの神子に、ただただ民を治療させてるんだぜ? それで神殿の格がうなぎ上りで、政治にまで口出ししてるんだぜ?
王宮も、数百年に一度の神子フィーバーで、上から目線で他の国にやりたい放題だ。
俺は客寄せパンダか!
冗談じゃねえ! やってられるか!
さっきの神官もそうだ。
このごろ、輪をかけて調子にのってやがる。
【私】は、奴にずっと恋心を抱いていた。
いわゆる【初恋】というものだ。
しかし、第一王子の婚約者なのだからと、頑張って忘れようと努力していたのだ。それはもう健気に純粋に……。部屋で泣いていたことも、何度もあったっけ。
そんな純粋な神子の恋心を、敏感な奴はとうに把握していたはずだ。
にもかかわらず、奴は自分に依存するように囲い込み、時には嫉妬させ、時には冷たくあしらい、大人の男の余裕で、日々恋の手管を楽しんでいる。
このままでは、【私】はあの鬼畜な狼に食べられてしまう運命だ。
あの神官もなかなかの美貌だからな。王子がライバルだろうが、恋の成就に絶対的な自信があるのだろう。
【俺】には通用しないがな! ざまあみろ!
もううんざりだ。
【私】は充分、国に尽くした。
もういいだろう。ほとほと疲れましたよ。
転職させてもらいます!
俺は、尻にかかるほど伸ばした髪を、うなじの後ろで躊躇なくバッサリ切った。
こんなに伸ばしていては、農作業ができないからだ。
はあ、すっきりした。
切った髪はベッドの下へと隠した。
【私】は、刺繍が唯一の趣味だった。
そのおかげか、危険なハサミも、身近におかせてもらえたのだ。
よかった。信用構築って大事だよね。
この世界には、カラーコンタクトも、サングラスもない。
目の色はどうにもできないが、髪の色はカツラでも手に入れれば大丈夫だろう。
黒いカツラを売るのは、神を冒涜する行為で禁止されているが、他の色ならば街のどこにでも売っている……らしい。これはおしゃべりな使用人から聞いた話だが、たぶん合っているだろう。
しかしなんなのだ、このなまっチロイ足は。
俺……こんな足で走れるのか? 働けるのか?
定住先をみつけたら、まずは筋トレだな。農業は身体が資本だからな。
両性具有なせいか、全然すね毛も生えていない。どこもかしこもツルッツルだ。
自分のなまめかしさに、少しドキドキしちゃうってどうなのよ。でも胸はペッタンコなので助かった。
乳首ピンクだけど……あぅあぅ。
金は手元にはないが、売れそうな宝石や調度品ならばたくさんある。
これをいくつかカバンへ……カバンがない! 当たり前か、俺はカバンすら自分で持ったことがないからな。
仕方がない。こんなときこそ、風呂敷だ! シーツのすみっこを適当に切って……と、こーしてあーして、日本人の文化に乾杯!
さてと、これで準備オーケーだ。
もうすぐ【奴】が、ひとりで俺をまた起こしにやってくる。
フードつきの神官服を、ここではいつも羽織っているはずだ。
丁度いい。そいつをかっぱらって、そのまま脱出させてもらおう。
【私】は、治癒術をちょいと変換すれば、相手を昏倒させることもできるのだ。奴がベタベタ触ってきたときに、即実行だ。
あとは金と度胸さえあれば、出国もなんとかなるだろう。
賄賂が横行している国だからな。門番も買収できるだろう。
やばい!
切った髪の毛は、一緒に持っていかねば! みすみす捜索のヒントを置いていくところだったぜ。危なかった。
奴を昏倒させたら、部屋も少し荒らしていこう。 第三者の痕跡めいたものも、残しておくにこしたことはない。モノを壊すような乱暴なことは、黒神子様は絶対にしなかったからな。
さあ、もうすぐ【奴】がくる。
切ったシーツは見えないようにして、寝たふり寝たふり。
緊張するけど、俺はやれば出来る子!
さっきも出来た! 大丈夫!
よし! 作戦実行だ!
みてろよ!
必ず自由になってみせる!
こうして、【俺】は無事に逃げ切り、念願かなって野菜農家になれたのだが……。
まさか数年後に、同じ神官や王子どもから、貞操を奪われかけ、求婚される羽目になるとは、このときの自分は欠片も想像してはいなかった。
おまえらヤンデレ化してるじゃねえかっ!
いい加減、俺のことは放っといてくれませんかね? 顔が良ければ何でも許されると思うなよ!
俺はお嫁さん募集中なの!
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