上 下
36 / 59

第三十六話 どうにも止まらなくなりました。

しおりを挟む
「お久しぶりですな、黒神子様。お戻りになられて間もないというのに、この年寄りのために貴重なお時間を取らせてしまい、誠に申し訳なく思っております」

 椅子から立ち上がり、ドワイラクスが胸に手を当てて頭を下げてきた。
 アーチーも……、扉を開けたときに一瞬だけ目が合ったような気がしたが、すぐに顔は伏せられ、いまは無言のまま同じように後ろで頭を下げている。
 こちらからはまるで表情が見えない。

「……お久しぶりです老師。このようなところにまで足を運んでいただき恐縮です。またお逢い出来てとても嬉しく思います。お変わりないようで安心いたしました。頭を上げてどうぞお座りください」
「いたみいります。では失礼して……」

 条件反射のように、黒神子として応対していた。
 これは現実なのだろうか? ……俺はいまうまく喋れてる?

 ドワイラクスは、やや折れ曲がった腰を、再びゆっくりと椅子に沈めた。

「後ろに控えておりますのは、弟子のアーチーと申します。とても優秀な若者でしてな。医学の知識に加えて武術の腕も相当に長けております。ワシの警護がてら、見聞を広めるために何かと連れ回しておるところです。アーチー、こちらが黒神子様じゃ。ご挨拶をなさい」
「……アーチー=エイリアスと申します。お目にかかれて光栄です。……黒神子様」
「……カルス……と申します……」

 アーチーが目を伏せたまま挨拶を述べた。
 身分が低い者は、高い者の許しもなく顔を凝視することは不敬とされる。
 彼は何も間違っていない。

 だが……俺の方がもう限界だった。

 【ユキ】ではなく【カルス】と名乗った途端……、声が出せなくなった。
 俺がずっと怖れていた光景を、覚悟する間もなく、今まざまざと見せつけられている。

 ずっとずっと……この二年間、心の片隅でずっと怖れ続けていた。

 あの村は……、俺には優しすぎたんだ。

 居心地が良くて幸せな分だけ、年々不安も増していった。
 俺は弱くなっていないか? 失うことに耐えられるのか?
 正体がばれて、村の人々の態度が一変したら……そんな悪夢にうなされることが何度もあった。

 ――まだ覚悟なんか、全然決まっていなかったんだ。

 なのにいきなり目の前に現れて……現実を突きつけられて……。

 アーチーはどうしてここにいる?
 俺は初対面のフリをした方がいいのか?
 
 でもごめん、もう駄目だ……もう無理だ。
 泣きたくなんてないのに、視界がどんどん滲んでくる。

 ……だって、アーチー。

 おまえと俺は……昨日まで肉を分け合って食べてた仲じゃないか。
 手まで繋いで……一緒に祭りを楽しんだだろう?

 なんなんだよ、そのよそよそしい態度は……。
 俺が悪いのはわかってるけど……、嘘ついてた俺が全部悪いけど……。

 なんなんだよ……アーチーの馬鹿野郎。
 バカバカバカバカ……俺に頭なんて下げるなバカ。

 ぽろぽろと次から次へ涙がこぼれ落ちてしまう。もう制御不能だ。
 俺の涙腺が完全に壊れてしまった。老師もいるのに変に思われる。アーチーにも迷惑がかかってしまう。
 でも止まらないんだ。どうしよう。止めなくちゃ。

 両手で目をゴシゴシとこする。駄目だ、止まらない。
 ハンカチがないから、ヒラヒラとした服のソデでぬぐってみる。初めてヒラヒラが役に立った。でもぬぐってもぬぐっても、涙がどんどん溢れてくる。
 どうしよう。止まらないんだ。

「……もう泣くな、ユキ」

 逞しくて大きなぬくもりに包まれる。

 後頭部に回った手のひらが、あやすようにゆっくりと、俺の髪を撫でてきた。
 その優しい感触に、俺の涙腺は崩壊の一途をたどる。
 ますます止まらなくなっちゃったじゃないか。どうしてくれる。
 
「……アーチーの馬鹿野郎……」
「そうだな……俺は馬鹿だ。大馬鹿だ」
「……おたんこなす……あんぽんたん……ウンコたれ」
「ふっ、なんだよソレ……酷すぎないか?」

 耳元で吹き出す音がした。
 息が耳にかかってくすぐったい。やめれ。

 俺は涙と鼻水でグチャグチャの顔を、アーチーの胸にたっぷりと押し付けてやった。

 ちょっとスッキリした。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

聖女召喚!・・って俺、男〜しかも兵士なんだけど・・?

BL / 完結 24h.ポイント:2,356pt お気に入り:386

能力1のテイマー、加護を三つも授かっていました。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:10,289pt お気に入り:2,216

アナザーワールドシェフ

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:207

鉱夫剣を持つ 〜ツルハシ振ってたら人類最強の肉体を手に入れていた〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,052pt お気に入り:160

俺を裏切り大切な人を奪った勇者達に復讐するため、俺は魔王の力を取り戻す

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:5,583pt お気に入り:91

好きの距離感

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:11

異世界ライフは山あり谷あり

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:688pt お気に入り:1,554

処理中です...