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第三十六話 どうにも止まらなくなりました。
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「お久しぶりですな、黒神子様。お戻りになられて間もないというのに、この年寄りのために貴重なお時間を取らせてしまい、誠に申し訳なく思っております」
椅子から立ち上がり、ドワイラクスが胸に手を当てて頭を下げてきた。
アーチーも……、扉を開けたときに一瞬だけ目が合ったような気がしたが、すぐに顔は伏せられ、いまは無言のまま同じように後ろで頭を下げている。
こちらからはまるで表情が見えない。
「……お久しぶりです老師。このようなところにまで足を運んでいただき恐縮です。またお逢い出来てとても嬉しく思います。お変わりないようで安心いたしました。頭を上げてどうぞお座りください」
「いたみいります。では失礼して……」
条件反射のように、黒神子として応対していた。
これは現実なのだろうか? ……俺はいまうまく喋れてる?
ドワイラクスは、やや折れ曲がった腰を、再びゆっくりと椅子に沈めた。
「後ろに控えておりますのは、弟子のアーチーと申します。とても優秀な若者でしてな。医学の知識に加えて武術の腕も相当に長けております。ワシの警護がてら、見聞を広めるために何かと連れ回しておるところです。アーチー、こちらが黒神子様じゃ。ご挨拶をなさい」
「……アーチー=エイリアスと申します。お目にかかれて光栄です。……黒神子様」
「……カルス……と申します……」
アーチーが目を伏せたまま挨拶を述べた。
身分が低い者は、高い者の許しもなく顔を凝視することは不敬とされる。
彼は何も間違っていない。
だが……俺の方がもう限界だった。
【ユキ】ではなく【カルス】と名乗った途端……、声が出せなくなった。
俺がずっと怖れていた光景を、覚悟する間もなく、今まざまざと見せつけられている。
ずっとずっと……この二年間、心の片隅でずっと怖れ続けていた。
あの村は……、俺には優しすぎたんだ。
居心地が良くて幸せな分だけ、年々不安も増していった。
俺は弱くなっていないか? 失うことに耐えられるのか?
正体がばれて、村の人々の態度が一変したら……そんな悪夢にうなされることが何度もあった。
――まだ覚悟なんか、全然決まっていなかったんだ。
なのにいきなり目の前に現れて……現実を突きつけられて……。
アーチーはどうしてここにいる?
俺は初対面のフリをした方がいいのか?
でもごめん、もう駄目だ……もう無理だ。
泣きたくなんてないのに、視界がどんどん滲んでくる。
……だって、アーチー。
おまえと俺は……昨日まで肉を分け合って食べてた仲じゃないか。
手まで繋いで……一緒に祭りを楽しんだだろう?
なんなんだよ、そのよそよそしい態度は……。
俺が悪いのはわかってるけど……、嘘ついてた俺が全部悪いけど……。
なんなんだよ……アーチーの馬鹿野郎。
バカバカバカバカ……俺に頭なんて下げるなバカ。
ぽろぽろと次から次へ涙がこぼれ落ちてしまう。もう制御不能だ。
俺の涙腺が完全に壊れてしまった。老師もいるのに変に思われる。アーチーにも迷惑がかかってしまう。
でも止まらないんだ。どうしよう。止めなくちゃ。
両手で目をゴシゴシとこする。駄目だ、止まらない。
ハンカチがないから、ヒラヒラとした服のソデでぬぐってみる。初めてヒラヒラが役に立った。でもぬぐってもぬぐっても、涙がどんどん溢れてくる。
どうしよう。止まらないんだ。
「……もう泣くな、ユキ」
逞しくて大きなぬくもりに包まれる。
後頭部に回った手のひらが、あやすようにゆっくりと、俺の髪を撫でてきた。
その優しい感触に、俺の涙腺は崩壊の一途をたどる。
ますます止まらなくなっちゃったじゃないか。どうしてくれる。
「……アーチーの馬鹿野郎……」
「そうだな……俺は馬鹿だ。大馬鹿だ」
「……おたんこなす……あんぽんたん……ウンコたれ」
「ふっ、なんだよソレ……酷すぎないか?」
耳元で吹き出す音がした。
息が耳にかかってくすぐったい。やめれ。
俺は涙と鼻水でグチャグチャの顔を、アーチーの胸にたっぷりと押し付けてやった。
ちょっとスッキリした。
椅子から立ち上がり、ドワイラクスが胸に手を当てて頭を下げてきた。
アーチーも……、扉を開けたときに一瞬だけ目が合ったような気がしたが、すぐに顔は伏せられ、いまは無言のまま同じように後ろで頭を下げている。
こちらからはまるで表情が見えない。
「……お久しぶりです老師。このようなところにまで足を運んでいただき恐縮です。またお逢い出来てとても嬉しく思います。お変わりないようで安心いたしました。頭を上げてどうぞお座りください」
「いたみいります。では失礼して……」
条件反射のように、黒神子として応対していた。
これは現実なのだろうか? ……俺はいまうまく喋れてる?
ドワイラクスは、やや折れ曲がった腰を、再びゆっくりと椅子に沈めた。
「後ろに控えておりますのは、弟子のアーチーと申します。とても優秀な若者でしてな。医学の知識に加えて武術の腕も相当に長けております。ワシの警護がてら、見聞を広めるために何かと連れ回しておるところです。アーチー、こちらが黒神子様じゃ。ご挨拶をなさい」
「……アーチー=エイリアスと申します。お目にかかれて光栄です。……黒神子様」
「……カルス……と申します……」
アーチーが目を伏せたまま挨拶を述べた。
身分が低い者は、高い者の許しもなく顔を凝視することは不敬とされる。
彼は何も間違っていない。
だが……俺の方がもう限界だった。
【ユキ】ではなく【カルス】と名乗った途端……、声が出せなくなった。
俺がずっと怖れていた光景を、覚悟する間もなく、今まざまざと見せつけられている。
ずっとずっと……この二年間、心の片隅でずっと怖れ続けていた。
あの村は……、俺には優しすぎたんだ。
居心地が良くて幸せな分だけ、年々不安も増していった。
俺は弱くなっていないか? 失うことに耐えられるのか?
正体がばれて、村の人々の態度が一変したら……そんな悪夢にうなされることが何度もあった。
――まだ覚悟なんか、全然決まっていなかったんだ。
なのにいきなり目の前に現れて……現実を突きつけられて……。
アーチーはどうしてここにいる?
俺は初対面のフリをした方がいいのか?
でもごめん、もう駄目だ……もう無理だ。
泣きたくなんてないのに、視界がどんどん滲んでくる。
……だって、アーチー。
おまえと俺は……昨日まで肉を分け合って食べてた仲じゃないか。
手まで繋いで……一緒に祭りを楽しんだだろう?
なんなんだよ、そのよそよそしい態度は……。
俺が悪いのはわかってるけど……、嘘ついてた俺が全部悪いけど……。
なんなんだよ……アーチーの馬鹿野郎。
バカバカバカバカ……俺に頭なんて下げるなバカ。
ぽろぽろと次から次へ涙がこぼれ落ちてしまう。もう制御不能だ。
俺の涙腺が完全に壊れてしまった。老師もいるのに変に思われる。アーチーにも迷惑がかかってしまう。
でも止まらないんだ。どうしよう。止めなくちゃ。
両手で目をゴシゴシとこする。駄目だ、止まらない。
ハンカチがないから、ヒラヒラとした服のソデでぬぐってみる。初めてヒラヒラが役に立った。でもぬぐってもぬぐっても、涙がどんどん溢れてくる。
どうしよう。止まらないんだ。
「……もう泣くな、ユキ」
逞しくて大きなぬくもりに包まれる。
後頭部に回った手のひらが、あやすようにゆっくりと、俺の髪を撫でてきた。
その優しい感触に、俺の涙腺は崩壊の一途をたどる。
ますます止まらなくなっちゃったじゃないか。どうしてくれる。
「……アーチーの馬鹿野郎……」
「そうだな……俺は馬鹿だ。大馬鹿だ」
「……おたんこなす……あんぽんたん……ウンコたれ」
「ふっ、なんだよソレ……酷すぎないか?」
耳元で吹き出す音がした。
息が耳にかかってくすぐったい。やめれ。
俺は涙と鼻水でグチャグチャの顔を、アーチーの胸にたっぷりと押し付けてやった。
ちょっとスッキリした。
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