もどらぬもの

小目出鯛太郎

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アレックス・カーン

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 残り香と呼ぶには強すぎる香りの中で涙と痛みと共にアレックスは目覚めた。自分の状態を確認するのは頭が拒んだ。頭だけでなく心も現実を拒絶したがった。何が起きたのかどうなったのかを全てシャワーの水で洗い流した。

 温かいお湯は人肌を思い出させた。
 冷たい水を浴びてもジョセフの香りと、身体の火照り、感じた身体の重みや身体の奥の痛みは消えない。
 何が起きたのかを必死に押し流そうとするのに、部屋に抱き上げて運んでくれて、アレックスに会えなくて寂しかったとジョセフが呟いて唇が近づいて来た後のことがどうしても信じられない。
 熱い身体に抱きしめられて?俺は何をした?アレックスは濡れて曇った鏡に映る男の顔を見た。…抱かれて、抱かれて…独りで目覚めた。

 気が狂うのではないかと思うほど感じたのに独りだった。
 思い出せない…。

 この狂った熱を身体に注いで行ったのはジョセフなのか?
 鏡に額を押し当てたまま、アレックスは冷たい水を浴び続けた。

 

 思えばこの日から友だと思っていた者と疎遠になり、可愛がっていた弟の存在さえ抱きしめることもできなくなってしまった。…厭わしく感じ始めたのだ。同性の愛、劣情、性的な欲求の全てを唾棄するようにアレックスはなってしまった。
 身体が受け付けなかった。

 手袋が無ければ握手さえしたくない。


 おりしも国の情勢が一気に悪化した時だった。隣国でレベリオが敷設した鉄道施設や工場の爆破事件、クーデター、軍事介入、国内外での軍事派閥の対立で親交路線から侵攻へと一気に真逆に舵が切られた。


 対外侵攻に用いられた事の無い強化兵の投入で短期に圧倒的な勝利を収めたように見えたが、国家間の思想主義の対立やほぼ植民地化されていた属州の独立、解放戦争などが勃発し泥沼の戦争時代へと突入していった。

 
 王宮の警護であれば戦地への従軍は避けられたのに、アレックスは望んで志願した。父が反戦派であったが父の意に反いた。
 自身は戦いに身を置くことに何の躊躇いも無かったが、弟のローレンスが疾病によって徴兵の規格に受からなかったという案内を聞いた時、安堵した。
 
 弟を戦争へ送りたいなどと思うことは一切なかった。ただ深く安堵して、思い出の中にあるような温かな平和な場所に安穏と暮らして欲しいと思った。

 世論から静かに弾圧された欠格の青少年が望んで非合法の強化兵手術を受けるなどと、アレックスは思ってもいなかった。その志願者の中に弟のローレンスの名があるなどとは想像もしていなかったのだ。


 ほぼ戻る事の無かった実家から、荷物が届いていると案内があったのは何時だったか気にも止めていなかった。



 戦局は一層激しくなり、アレックスは戦地で胸を撃たれた。即死してもおかしくない致命傷だった。



 夢だとわからぬほど近くにローレンスの顔があった。今何歳だ、17、18?大人になろうとしても瞳の大きさばかりが目立つ。寂しい微笑みを浮かべてアレックスを見つめていた。暗いのか逆光のせいなのかローレンスの瞳の色がアレックスには分からなかった。

 幽鬼のように漂う希薄な足取りで、アレックスを置いて歩いて行こうとする。薄く頼りない背中が揺れていた。独りで行かせられる訳が無かった。

「ローレンス!」
 名前を呼んだ後に何と言って良いか分からずにアレックスはただその姿を見つめた。

「にいさま、僕指輪を落としちゃったんだよ。ねえあの指輪覚えてる?あの指輪探してくれる?」


 いつも遠慮がちで何かをねだったり頼ったりする事のない子だった。ローレンスは指輪など持っていただろうか、アレックスの記憶の中にアクセサリーを身につけた弟の姿は覚えが無かった。


「遊戯場で星がついた指輪をくれたでしょう?それがないんだ。にいさまあっちで探してくれる?」
 弟の姿は遠ざかって行く。

 呼び止めようとしたアレックスの声は爆音に掻き消された。
 譜面の無い調子っ外れのような音楽は、遊戯場で流れていたものに似ているようでまるで違っていた。こんな耳を引き裂くような音では無かった筈だ。


 あの時笑い声が響いて皆歌に合わせてキスをしていた。隣の人にキスをして、と。誰かがアレックスのに口付ける。金色の雨のように紙吹雪が散らされて、風船が飛んで行った筈だ。


 狭い視界には、風船の替わり不恰好な飛空挺が飛び、遠くに撒き散らされたのは敵に向かっての焼夷弾だった。


 誰かに引きずられながら耳にするのは激しい被弾音で誰の声も聞こえない。
 髑髏の飾りと天使の羽が交互に目前に迫るような幻覚にアレックスは襲われた。


 ここから生きて戻れたら、ローレンスの元へ帰ろうとアレックスは思った。そして戻って治療を受けた。軍の病院には家族では無い一般人を呼ぶことは出来ない。ローレンスに会えないままアレックスは擦り切れた封筒を一つ受け取った。日付は一年も前。


 死亡通知だった。
 記された名前はローレンス・ホワイト。


 馬鹿な、あの子は疾病を理由に兵役を免れた筈だと、手紙を見返す。戦死したと思われる戦地名は強化兵が大量投入された激戦地だった。
 別人だと思い、封書の住所を見る。

 見覚えがあった。ゴードンが借りてくれて兄弟として住んだ家の場所。退院の手続きもしないまま痛む身体でそこへ向かった。そして誰も住んではいない事実に突き当たった。


 伝手を使って実家に連絡を取ると、荷物が届いているという案内以外、ローレンスの詳細についてまるでわからなくなっていた。もう何年も前に戸籍を分たれた弟の事をアレックスでは調べる事が出来なかった。
 終戦に近づいていたとはいえ、あまりにも多くの成人が亡くなりありふれたホワイト姓、ありふれたローレンスという名前は膨大な死者の数に埋もれてしまっていた。

 
 実家に戻ったアレックスはくすんだ荷物を一つ目の前にしていた。アレックス宛のそこそこ大きな包みだった。包み紙を外し、二重になった箱を開けると色褪せて擦り切れた赤いマフラーで少し縁の欠けたマグカップが包んであった。カップの中には古びたキーホルダー。ステラNT1、スピカNWと打刻されたペン。少しだけ日に焼けた跡のある列車のジオラマ、箱の底には列車の本。そして手紙。

 
 強化兵の適合手術を受けて、戦役に就くことになり家を引き払う事になった事、赴任先の地名を見た時にアレックスの手から一枚目の手紙が落ちた。

 預ける先が無いので戻ってくるまでこの箱を暫く預かって欲しいと書かれていた。


 戦争が終わったら皆でもう一度遊戯場に行きたいね、それから王宮の参賀の日にはにいさまの正装が見れたらいいなぁ。時間ができたら手紙を書きます。

 無事を祈る言葉で締められた短い手紙だった。

 当初すぐに終わると予想された戦争が長引いたのは、敵勢力が想定外に銃器を所持していた事だった。もっと後になってから武器商の敵国への横流しが発覚してその責任が激しく追求された。流れた血を巨万の富に変えた武器商は発覚する前にレベリオから逃亡していた。軍の内部で提出された書類にはゴードンの父の名が記されていた。戦犯として追われる者の中には連名してゴードンの名も記されていた。


 アレックスは激しい虚脱感に襲われ、全ての職を辞そうと思ったのだった。何もかも放り出してあてもなく何処かへ彷徨いたい気分になった。

 王宮の前部署からは復職の要請が届いていた。世話になった上司に挨拶だけはしようと向かった先で、アレックスは不意に立ち止まった。
 暗闇の中を赤いダリアの花を提灯のように手にして頼りなさげに歩く子供が自分の体の中を通り過ぎて行く。

 白昼夢とはこういうものの事を云うのか、あるいは願望が見せた幻覚だったのか。
 そのあどけない顔があまりにも似過ぎていた。


 ローレンス。





 辞めようと向かった筈なのに、その口で復職を希望していた。
 アレックスは王宮の警護職に戻った。

 戦役についた事で階級が上がり、制服の肩には飾緒しょくしょと襟や胸元には銀色の徽章が星のように輝く。


 星の指輪は無いが、この星ならあげるよ、だから戻っておいで。アレックスはあの白昼夢の影がまた訪れるのではないかと王宮でその姿をひっそりと待つ。


 どうしてあの子が生きている間に抱きしめなかったのだろうと、その答えは自身が良くわかっていた。
 自分がホテルで抱かれたからこそ分かった。

 あれと同じ欲望をずっとローレンスに感じていた。

 抱き寄せて膝の上に乗せる時、眠りにつく前に頬や鼻先にキスする時にずっとそれでは足りないと思っていた。同じ家に住んで分かった。このままではいつか間違いを起こしてしまうと。
 まだ十代のしかも自分を信頼しきっている弟に感じて良い欲望ではなかった。

 
 失ってから、離さなければ良かったと後悔に襲われローレンスのキスを思い出す度に苦い煙草を吸うようになった。

 
 抱いていれば良かった、家に閉じ込めておけばよかったと不埒な空想をする。


 その日は何の日でもなかった。何かの記念日でも誕生日でも、弟の命日でもなく、あの白昼夢を見た月でもなかった。

 夜間の警備を交代し部屋に戻ったその直後に弱々しい哀願するような声が聞こえた気がした。
 まだ灯りさえ点けていない部屋のなかだった。

『…はあなたが好きです。あなたを抱きしめて、抱きしめられたい』
 躊躇うようにそっと伸びてきた温もりのない手がアレックスに触れた。

 縋りついた手の力は弱く伸び上がって、アレックスの胸に頭を預ける感触がある。

 馬鹿な、とアレックスは思いもしたがさらりとした髪の感触とホットミルクのような、ほんのりと甘いような香りがした途端、こんな風に自分の胸に顔を寄せる存在はたった一つしかないと思ってしまった。

 離さない、もう離さないと抱きしめて頬擦りをした。何度もローレンスが帰ってくる夢想をした。にいさまあの案内は誤報だったんだよ、ホワイトって姓はたくさんあるから。にいさまおかえりなさい。それから、ただいま、そう言って照れ臭そうに笑うローレンスを抱きしめて顔中にキスの雨を降らせる。戻って来てくれれば歳はもう18を過ぎている。愛していると告げて捕らえてしまおう、愛していると告げて抱いてしまおうと、そんな悲しい妄想を。

 きっと驚いて逃げようとする筈だ、ちょうど今腕の中にあるこの幻覚のように…
 悲鳴をあげて、もがいて、その影のような感触はアレックスの腕の中から消えてしまった。


 急いで灯りをつけてもそこには誰の気配もなく、アレックスは虚しく立ち尽くした。

 叶うならばずっと抱きしめていたかった。





 
 
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