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業の国
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しおりを挟む凩が少年の気配を頼りに闘技場のあの部屋へ立ち戻った時、全ては終わっていた。
遅すぎた。
その場にいて何ができたわけでもなく、いても同じように払われて顔や身体が砕けただけかもしれなかったが、凩は自身の不甲斐なさと無念さに震えた。
『…殴られたのか』
少年の濡れて腫れた頬にふうっと息を吹きかける。
血の滲んだ唇にも、噛み痕の残る首にも、無数の鬱血の痕も血と白いものとどろどろとした何かで汚れた下肢を拭ってやることも何かをかけて隠してやる事も出来ない。
西洋甲冑にしたように傷を癒やしてやる事も出来ない。
クルスの涙の跡に息を吹きかけるのは二回目だった。
あの時と同じように目があったような気がした。
「…お…まえ、蝋燭の火…みたいに小さくなってる…ゆれずに、じっとしてろ…よ」
こんなのなんてことない、そう言った少年の瞳から涙がこぼれた。
涙の膜を張った青とも茶色ともつかぬその瞳に、凩は自分の姿が白い靄のように映っているのが見えた。
「…ふしぎだ…まえよりずっと…近い気がする」
クルスの震える指先を凩はきゅっと握った。凩も同じ気持ちだったからだ。
美しい声は嗄れていた。辛そうに息をするのを見て、何とかしてやりたかったが、凩にはただ側にいて指を握っていることしかできなかった。
部屋の外から叫びとも喚きとも言える男の声が騒々しく近づき、どんと扉を叩いた。クルスがあれ程に押しても引いても開かなかった扉は簡単に開いた。
「ああああああ!!!」
目の周りに赤黒い痣、鼻血を垂らした顔の男がよろよろと近づいてくる。
「…ぼっちゃん、あぁぼっちゃんなんてことだ…」
寝台の上で動く事もままならない傷ついた姿を見てアディムは叫んだ。
そして寝台の上に落とそれていた黒い額当てを掴むと、怒りのままそれを投げ捨てた。
「ズオルトめ!!」
クルスの喉から細いため息が漏れた。
クルスを手酷く蹂躪し、俺の顔を本当に知らないのかと言ったその男は最後まで名を名乗らなかった。
ズオルトだった…。
「…アディム、わざとじゃないよね?…わざと僕を置いていったんじゃないよね?」
クルスの声は震えていた。
「誓って!!そんなことは決して、こんなひどいことが…ぼっちゃん…」
アディムは噎び泣きながら、クルスの身体を拭くものをおろおろと探した。だが結局は寝台の布の汚れた部分を避けて、少しでも綺麗な部分でそっと身体を押さえた。
見ればアディムの服も殴られたのか蹴られたのか酷い有様だった。
「…ぼっちゃん、さ、これを飲んで」
アディムは下げていたネックレスの飾りを取り出す。小さなどんぐりのような飾りの傘の部分を捻ると、下の小指の先程の容器をクルスの口元に近づけた。
あまり良い匂いではなく、しかも黒くどろっとしている。クルスは躊躇った。
「これは竜の肝です。小さい傷なら立ちどころに治す薬だ、さ」
不味そうな見た目通りの酷い味だった。舌が痺れそうに苦い。
クルスは手招いた。
アディムは気遣わしげに屈んだままだ。
「アディム、もうちょっとこっちに…まだ身体が痛くて」
それを聞いたアディムは慌ててクルスの方に身を寄せた。黒髪と殴られた赤黒い痣のせいで余計に暗鬱な眼、鼻血の滲んだままの大きな鼻。見目の良い姿ではない。しかも今は襤褸を纏ったような女装で。
しかし自分の姿のことなどいっこうに構わずに一途にクルスを見つめている。
粘着くような視線で見られた時も、厭うべき傷跡に吸い付かれた時もアディムは欲望に正直でクルスを求めていた。
クルスは、王にこそこうして求められたかった。欲しがって貰いたかった。
落とされ騎士に対する感情は、男らしさと強さへの憧れで、愛ではない。
自分がどんな姿でも、汚れても、傷ついても、心の中に醜いものを抱えていてもただひたすらに求められたかったのだと。心の奥底で思う。
クルスは腕を伸ばしてアディムの頭を引き寄せると、その肉厚な唇の間に自分の痺れた舌を滑らせた。
アディムが大きく眼を見開く。そのびっくりまなこが可笑しくてクルスは眼だけで笑い返す。
踏み躙られても息をしている、傷ついても笑える、心の中は嵐でも生きていけるのだなと、アディムの手を借りてクルスはゆっくりと起き上がった。
残された時間は多くない、しかし今は二人とも休息が必要だった。
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