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私は勇者ではない
しおりを挟む私に頭を下げる必要はない。
私を讃える必要も、崇める必要もないのだ。そして怯える必要もない。
私が手に入れた宝も、お前達が差し出したこの報酬も、いまここにある平和な世界も本来これを享受すべきなのは我が師であるべきなのだ。
家族も金も何も持たず記憶すらない私を時に優しく、時に厳しく鍛えて下さった師は、苦難に満ちた長い旅路の末あの忌まわしき魔王と共に眩き光に包まれて霧散してしまわれた。
師は不思議なお方だった。お歳を召されず、尋ねれば勇者を探す道行で魔女の雪の森に迷い、遭難しかけた時に森に住まう隠者から一杯の施しを受けたというのだ。
その場所は明るく、暖かく、美しい音楽が流れて、円卓の騎士が座すのを待つかの如く椅子が並べられていたそうだ。そんな場所で師は隠者から両手が一瞬のうちに温まるような椀を渡され、その器の中の肉を食んだと云う。
えもいわれえぬ香ばしいかおりが立ち廻り、肉の甘味と旨さが滝の本流のように流れて、いつまでも舌の上に留めておきたかったのにあっと言う間に胃の腑に落ち、熱き血潮が冷えた身体を駆け巡り、さながら死の淵から蘇ったようであったと…。そう仰った。師の言葉を一字一句間違えることなく覚えている。
それから歳を取らなくなってしまわれたというのだ。
おそらくそれは神か、神の僕が隠者のかたちをとって師に祝福を与えられたのではないかと思うのだ。
生き残ってしまった私が勇者だと持て囃されているが、彼の方こそが正しき勇者であったと私は思うのだ。
師は優しい方だったが、私を…心の奥底では恨んでいらっしゃるようだった。
私が何かとんでもない事をしたせいで、師はその隠者様…いや神の御使い様と離ればなれになってしまったのだと仰ったのだ。酒の席で珍しく深酔いされて思わず口が滑ったというようだったが確かに私は聞いた、この耳で。
私はなんという事をしてしまったのだろう…。
私の師、私の希望、私の目標、私の生きるよすがである師に…。
私はなんという取り返しのつかぬ事をしでかしてしまったのか…。
恐れながら、私が憎くないのかと聞くと師は私の黒髪に手を触れて優しく撫でてくださった。私の黒い目を見て微笑んでこう言われた。
この黒髪と黒い瞳を見るたびに、あの方を思い出して憎んでも憎みきれなかったと。
ああ、なんという事だ。
今まで私に向けられてきたあの優しい眼差しは、微笑みは、よくやったとこの黒髪の頭を撫でてくださる手はもしかして…。私に向けられたものではなく、ああ、まさか、そんな…。
失意の内から私はすぐに立ち上がった。泣いている暇などなかった。
もし私がその御使い様を超えるような存在になれれば、あるいは貴方は私を見てくださるかもしれない。
大それた願いだと分かってはいたが私はこれまで以上に剣に魔法に打ち込み励んだ。
ああ、なのに私の願いは叶わなかった。
私の伸ばした手は、貴方に届かなかった。
戦いの地で、貴方は魔王と共に眩い光に包まれて消えてしまった。
どこか懐かしさを覚える光だった。
私は勇者ではない。
私は聖者でもない。
あの時、あともう少し私が指を伸ばせば届いたのだ、貴方の手に。師よ、貴方の伸ばした指に。
私は見たかったのだ。
師よ、貴方が私だけを見つめ、必死に求めるのを。
貴方が私を愛することはないと悟った日から、その姿だけを見たいと思っていた。
そしてその姿を瞼に焼き付けて生きていく。
師よ、もし貴方が私を選んでさえくださればこの栄華は、この富も財宝も全て貴方のものになったのに。
私は足元にあった肉塊を蹴り落とした。
かつては王であった男が王座の階段を転がり落ちて行く。
動いている者はいる、だがじきに死ぬだろう。優雅にダンスを踊るはずの大広間に自分の内臓を巻き散らかして、皆生き絶えるだろう。
師よ、貴方がいなければこの世界に何の意味もない。
私は独り、冷たい石の王座に腰をおろした。
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