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【10】汚れた靴 その2
しおりを挟む膨らんでもいない胎に、正直母性本能なんてものはない。ただ、この胎にやどる命は彼との絆だ。その彼の子を守れない。引き離されるなどアンドレアスには考えられなかった。
ああ、いまさらだ。本当に今さら、彼のことを本能ではなく好きだと思うなんて。
「わたくしの愛妾になりますね」
女王は訊ねたが、それは命令だった。アンドレアスが『はい……』と口を開きかけたそのとき。
バン!と扉が開いた。そこに立っているのは息を切らしたローランだ。常に身だしなみに気をつかう、彼の髪は乱れて、その濃い翡翠色の瞳には常にない激情の炎が宿っている。真っ直ぐにアンドレアスを見るのに思わずうつむいてしまった。
その彼が大股に歩み寄る。アンドレアスの視界にはいつもはピカピカの靴が泥で汚れているのが見えた。
紳士たるもの靴の先まで気をつかうのは当たり前だと言っていたのは、彼だ。その彼がなりふり構わず、駆けに駆けてここまでやってきた。
妙に胸が熱くなった。
「アンドレアス」
座るアンドレスの足下に彼は片膝をついた。そして、俯く彼の片手を両手でそっと握りしめる。
「愛してる」
伊達男らしい飾り言葉もなく、あまりにも率直で真摯で、そして唐突すぎる言葉にアンドレアスは、ぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、口を開いた。
「いつから?」
それはかなり間の抜けた質問だった思う。だけどローランが「いつからなんてわからない」とこれもまた、真面目過ぎるほどに馬鹿正直に答えた。
「君の本当の素顔を見たあの婚約破棄の夜会のときだったかもしれないし、君と初めて行ったオペラ座で舞台を見る君の横顔だったかもしれない。
だけど、君をこの腕に抱きしめたときには、とっくの昔に君を愛していた。
本当は君に友達を続けたいと言われたあのときに、真っ直ぐに告げるべきだったんだ。だけど、告げて君に嫌われてはいけないと引いた、俺が馬鹿だった」
「友人で居続ければ、いつか君の心も……なんて考えた俺がズルくてかっこ悪いよね」とまるで懺悔するように、アンドレアスの手を握りしめて、そのひたいを押し当てる男を愛しいと思う。
だが、アンドレアスがローランと友で居続けたいと思ったのは……。
「私はあなたの負担になりたくなかったのです」
「負担?」
「だって、あなたはオメガだけは抱かないと言っていたでしょう?」
その言葉にローランが息を飲む。『責任をとりたくない』と最低なことを公言してはばからなかったのは彼だ。
「それは俺の事情で……ああ、こんな言い訳を言いたくはないな。君だけは特別って言うのもズルイのか。でも、アンドレアス、君がオメガだからじゃなくて、君だから好きなんだ。
どうか、俺を信じて、君だけを好きな気持ちは本当だ」
法廷では弁舌爽やかな彼がしどろもどろになっているのに、アンドレアスはクスリと思わず笑ってしまう。
いつだって斜に構えて最高にかっこいいこの男が、自分の前ではたしかにかっこ悪い。
だけど可愛い。
「仮の番なんて俺は嫌だ。俺の本当の番になって」
「俺には生涯、君だけだ」と懇願されてアンドレアスが「はい」と答えようとしたところで。
「二人とも、わたくしがいることを忘れていませんか?」
そう横から声がした。
女王フランソワーズだ。
「ローラン、アンドレアスはわたくしの愛妾とすることにしました。あなたは退きなさい」
「お断りします。彼はもう俺の番です。いや、番じゃなくても、俺の永遠に愛する人だ。いくら女王陛下でも『はいそうですか』と物のように渡すことなど出来ません」
「王命でもですか?」
「それこそお断りします。国のためにアンドレアスを犠牲にするなんて、俺は絶対に許さない」
「このわたくしに逆らうなど、よい度胸ですね」
「ええ、あなたに育てられた、甥ですからね」
二人のあいだに見えない火花が飛んだ……と表現したいところだが。二人とも強力なアルファ同士だ。それは見えないどころか、物理的な力となる。
実際、部屋の隅に控えていた侍従達は、そのぶつかり合う圧に膝をつき、床にうずくまってしまっている。
アンドレアスは開いた扉の向こうで、近衛の屈強な騎士が三人倒れているのに、いまさら気づく。おそらくローランがこの部屋に入るのに、女王の護衛の彼らをアルファの威圧で倒したに違いない。
そして、今、自分を挟んでこの国で一番だろう、アルファ二人が見えない力で攻防を繰り広げている。
本来なら、オメガのアンドレアスなど一番に影響を受けて失神してるはずなのだが、嵐の中心で彼は平然としていた。
やはり自分はオメガとしては異端なのだと自覚する。
と同時に、まだ膨らんでもいないし気配もないはずの、胎の奥からおびえが伝わってきた。自分の中に宿るもう一つの命。
おそらくこの子はアルファだ。今、ぶつかっている二人と同じく強力な。だけど、小さな命。成長したどう猛な獣達を前に、幼獣が怯えるのは当然のこと。
守らねばならないと思った。
これは母の自覚だ。
「二人ともいい加減になさってください。私のお腹の中には大切な御子がいるのですよ!」
けして大きくはないが毅然とした声。
それにぶつかり合っていた、二つのアルファの気が霧散した。
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