「君を愛していくつもりだ」と言った夫には、他に愛する人がいる。

夏八木アオ

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1巻

1-2

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 教育係からはベッドの上で負担をいられるのは女性だけだと聞いていた。男性はこの行為に痛みを覚えるものではない、と。
 しかしノアは何かに耐えるように眉を寄せて、呼吸を荒くしている。

(また教えてもらったことと違うじゃないの!)

 ねや教育をしてくれた未亡人の顔が思い浮かぶ。気のいい人だったが、彼女の話は不十分だ。

「分かったわ」

 イリスも圧迫感でつらいし、動くことで早く終わるならばそれに越したことはない。

「ありがとう」

 ノアは彼女に覆い被さるように身をかがめる。そのせいで繋がったところがさらに奥に入り、イリスは息苦しさに顔をしかめた。

「んっ……」
「イリス、イリス……っ」
「うっ、ん! はぁ……っ、あぁ……!」

 ノアが興奮した様子でイリスの名を呼び、中を激しく突く。彼女は苦しさと熱さを誤魔化すために、その背中に手を回して力を込めた。
 イリスは夫ほどこの行為に夢中になれない。自分が自分でなくなるような感覚に強い不安を抱く。

(苦しい、早く終わって……!)

 しばらくするとイリスの中でノアが飛沫しぶきを吐き出す。自分と違う脈拍を体内で感じるのは奇妙な感覚だ。
 ノアが少し硬さのなくなったものを引き抜いた。

「イリス、大丈夫?」

 イリスの名を呼び、気遣うように彼女の前髪をでて耳にかける。
 彼の柔らかい瞳が見つめている。あまり大丈夫ではなかったが、イリスはうなずいておいた。

(愛してるとでも言ったほうがいいのかしら)

 求められれば口にするつもりだったが、ノアは何も言わない。

「服を着ようか」
「ええ」

 足の間に垂れてきた体液を拭き取って服を着る。そうしている間にもノアの視線を感じて居心地が悪かったが、黙々と身支度をした。彼はイリスが気遣うのをあまりよしとしない価値観を持っているようなので、お望みどおりに振る舞う。

「イリス」

 支度が終わった頃、ノアがイリスの名前を呼ぶ。
 彼女が振り向くと、手を引かれた。イリスは抵抗せずに導かれるままベッドに膝をつく。
 彼はイリスのひたいにキスをして、おやすみ、と告げた。イリスも同じようにあいさつだけを返す。
 二人は手を繋いだまま横になった。

(寝にくくないのかしら?)

 軽く指を動かしても、解放される気配がない。イリスは諦めて目をつむった。
 ベッドの上で起きることは、全て夫に任せなければならないと教わっているからだ。
 下半身には違和感が残っていて、そのせいで眠れなくなるかと思ったが、疲労が勝って、彼女はしばらくして意識を手放した。


   ◇ ◇ ◇


 翌日。
 イリスは誰に起こされるでもなく目を覚ました。
 いつもメイドに声をかけられる前、カーテンの隙間から日が差す頃にはベッドから出るようにしている。
 身体を起こすと、隣に昨日初めてまともに顔を合わせた夫が寝ていた。寝顔は起きている時よりも幼く見える。赤みがかったブラウンの髪が光を浴びて夜よりも淡い色をしていた。

(マホガニーよりはラセットブラウンが近いかしら)

 イリスはベッドに腰掛けて、朝の冷えた空気の中に素足をさらす。ふぅ、と息を吐いたところで後ろから手を引かれた。そのままやわらかい寝具の中に引き戻される。
 ノアが後ろからイリスを抱きしめていた。

「寒いよ。めくらないで」
「ちゃんと掛け直したわ」
「でも風が入ってきた」

 彼の声には笑い声が混じっている。揶揄からかわれているのだと気づいて、イリスはむっと顔をしかめた。
 かかっている寝具をひっくり返して風にさらしてやろうかしら、と一瞬頭によぎったがやめる。
 そんなことをして、使用人の間で噂になり、実家に告げ口でもされては困る。

「もうすぐメイドが来るから起きないといけないわ」
「来ないよ。来ないように言ってある。今日はこのまま昼までベッドで過ごそう」
「まぁ、なんてたいな!」

 イリスが怒ると、ノアは堪えきれないといった様子で声をあげて笑い出した。

「元気だね。昨晩もっと無理をさせればよかった」

 イリスは少し遅れてその言葉の意味を理解して、顔を赤くする。

「貴方、貴方……、なんだか性格が悪いわ」

 昔から聡明だと言われた彼女にしては幼すぎる文句が出てきた。ノアはきょとんとしている。

「そうかな? いつもどちらかというと、人はいいって言われるんだけど」
「私もそう聞いていたけれど、少なくとも私にはいい人には思えないわ」
「そう?」

 彼は新妻の言葉に目くじらを立てることはなかった。少し照れたように笑う。

「つまり私が浮かれてるってことか」

 意味が分からず、イリスは真意を探るように見つめた。警戒した猫みたいな彼女の視線を受けて、ノアはさらに笑う。

「妻が想像していたよりずっと可愛い人で驚いてる」

 その言葉がお世辞ではないのは分かるが、だからこそイリスは反応に困る。
 彼女は家柄がよく美しい母から高貴な血と整った顔立ちを受け継いでいる。デビュタント以降、美しいと言われることはあっても可愛いと評価されることはなかった。

「寝癖がついているよ」

 ふいにノアがイリスの頭をでる。彼女ははっとして頭を押さえた。
 結婚したら、朝一番に顔を合わせるメイド以外にこの夫にも整える前の姿を見せなければならないのだと理解する。

「メイドが来ないから直せていないのよ。早く人を呼んで……」
「来ないって言っただろ? このままゆっくりしようよ」

 朝起きて、着替えもせずにベッドで会話。
 信じられない文化に言葉を失った。そんなイリスの様子を見て、ノアが苦笑いする。

「やっぱり先に着替えて、朝食を食べたら話をしようか。庭を案内するよ」

 今度はまともな提案だ。イリスはほっとしてうなずいた。


 話をすると言ったわりに、ノアは特に会話の内容を決めていないようだった。お互いに身支度して、庭に出て、ゆっくり散歩をしながら昨日の夜のように中身のない会話をする。
 将来の王妃として厳格な教育を受けてきたイリスと違い、彼は随分のんびり育てられたようだ。
 庭を一周して、二人はガゼボの中のベンチに腰掛けた。風が吹くと、ノアは心地よさそうに目をつむる。けれど、イリスは落ち着かない。
 朝起きて、着替え、意味もなく庭を歩き回り、ただゆっくりと時間が過ぎ去っていくなど、今まで経験したことがなかった。

「明日からしばらく視察でここを離れるんだ。君は何をして過ごしたい? 準備しておいたほうがいいものはあるかな?」
「えっ」
「なんでも遠慮なく言ってよ」

 イリスはすぐに答えられなかった。何かを聞かれたらいつだって迷いなく正解を言えるように教育を受けてきたはずなのに、ノアの前では上手く振る舞えない。
 美しく聡明で完璧で、王太子妃になるはずだったイリス。
 ノアと結婚してから、その姿がまぼろしの、中身のないものだった気がしている。
 明日の予定すら自分で決められない幼さが自分の中にあったなんて、これまで知る機会がなかった。

(王太子殿下は私のこの欠陥を見抜いていらしたから、聖女様との婚約を望んだのかしら)

 ふとそんな考えが頭に浮かんで、彼女は首を横に振った。
 イリスとの婚約が決まった時と同じように、聖女との結婚も、王太子が自ら望んだものではない。おそらくは国王が決めたことだ。

「イリス?」
「……分からないわ」
「分からない? それもそうか。ごめん、ここに来たばかりじゃ何ができるかも知らないし、いきなり言われても困るね」

 ノアは見当違いな謝罪をした。

「そうだな、何ができるだろう。ここは王都と比べると行商人も少なくて流行はやりの店もないし、女性が喜びそうな場所がないんだ」

 首をかしげなからぶつぶつとつぶやく。あれはどうだろう、これはどうだろう、と案を出しては自分で否定していった。

(人がいいのは間違いないのかもしれないわね)

 揶揄からかうようなことばかり言うから、イリスはノアを意地悪だと感じていた。しかし彼女のために一日の過ごし方を真剣に考えてくれる様子を見ると、その印象がわずかに塗り替えられる。
 夫がどんな人なのか、まだイリスにはよく分からない。

「貴方の視察に同行することはできるの?」
「私の?」
「ええ。私は公爵領について浅い知識しかないから学びたいわ」
「そう? よく知っているなと思ったけど」

 先ほど歩きながら、領地についても話をした。彼はその時のことを言っているようだが、イリスは自分に求められている水準が低いことに戸惑う。
 嫁ぎ先の領地について書籍やひとづてに分かる程度のことを学ぶのは最低限だ。
 当たり前のことをしただけなのに褒められるとどうしていいか分からない。見くびられている気もするが、ノアに悪気がないことも伝わってくる。

「興味があるなら一緒に連れていってあげたいんだけど……君は馬には乗れる?」
「ええ、もちろん」
「野営したことは?」
「野営? ないわ」
「腕は……剣の扱いはできないよね」

 不穏な気配がしてきた。イリスはゆっくりと首を横に振る。ノアは困ったように眉を下げた。

「じゃあ、ちょっと、今回は危ないかもしれないな。まともな場所に行く時には声を掛けるよ。山は好き?」
「……ええ」

 イリスは嘘をついた。
 山は危なくて汚れるから、立ち入り禁止だった。遠くから見ているだけでは、好きも嫌いも分からない。
 加えてノアが常日頃から〝まともではない場所〟に足を運ぶ機会があるらしいことに驚く。

「ここのことを知りたいと思ってくれてありがとう」

 彼はまぶしそうに微笑ほほえんだ。

「本を用意するよ。それから、母に君のことを頼んでおく。きっと退屈しないはずだ」

 イリスはヴェルディアに関連する一般的に手に入れられる書籍は全て読んでしまっていた。

(本やひとづてに分かることなら、もう知っているわ)

 ――知っているかどうかは大事なことではないの、イリス。今のは会話とは呼べないわ。貴女は知識をひけらかしただけよ。
 イリスの頭に古い記憶がよみがえった。もう前後の会話はほとんど覚えていないのに、心臓が止まるような強いしゅうしんと悔しさ、母に見限られたくないという焦りだけは覚えている。

「ええ、ありがとう。勉強させていただくわ」

 イリスが美しく微笑ほほえむと、ノアも笑顔でうなずいた。


 義母のヴァンデンブルク公爵夫人はほがらかな笑顔の、ノアの強引さを二倍強めたような人だった。
 イリスは夫が屋敷をってから連日、彼女に引っ張り回された。
 妃教育で一日中忙しかった実家での日々とは少々おもむきは異なるが、それでも忙しい日々を送る。そうして、ノアが不在にしている期間はあっという間に過ぎた。
 一週間ほどが過ぎた朝、夫が視察から戻り、久しぶりに顔を合わせる。

「お帰りなさい」

 ノアは屋敷に戻ってイリスと顔を合わせると、軽く目を見開いて嬉しそうにあいさつを返す。

「うん、ただいま!」
「何を驚いているの?」
「君が家にいること。ほら、結婚はしたけど、ほぼ一日しか顔を合わせなかっただろ。なんだかまぼろしみたいで」

 いい意味なのか悪い意味なのか分からず、イリスはとりあえず微笑ほほえんでおいた。ノアはもう一度じっと彼女を見つめてから、はにかむように笑う。

「夢じゃなくてよかった」

 どうやら悪い意味ではなかったらしい。イリスはほっと息を吐く。

「ええ、現実よ。視察はどうだったの?」
「順調だったよ。ここで立ち話もなんだし、一緒に部屋に戻ろう。君の話も聞かせてよ」

 ノアが彼女の手を取った。子供のように手を引かれて屋敷の中を歩くのを恥ずかしく思って、イリスの頬にさっと熱が集まる。
 屋敷内の一室で二人、ソファに並んで座り、イリスはじっくりノアの話を聞く。一通り彼の一週間について聞いた後、「君は?」と尋ねられて、主に夫人と過ごした時間を共有した。

「楽しんでくれてよかった。母上はちょっと……いや、かなり強引な人だけど、この場所が大好きなんだ。最初に母上と一緒に見て回れば、君にもうちの領地のいいところが伝わるかなと思って」
「とても素敵な場所だと思ったわ」
「よかった。ありがとう」

 イリスがこの一週間でヴェルディアをいい場所だと思ったのは本当だ。王都や生家の領地のように人があふれておらず、のんびりとした雰囲気。人々は実直で気さくな雰囲気を持ち、控えめな態度が好ましい。
 今回のノアの気遣いは、イリス自身はありがたいものとして受け入れた。
 しかし、嫁入りしたばかりで義母と二人きりにされるのを、多くの妻はありがた迷惑だと思うはずだ。イリスは他人に気を遣うことに慣れているし、夫人は強引なようでよく気づく人。最初の印象ほど一緒にいるのが負担になるわけではなかった。
 それでも疲れることは、疲れる。
 あの強引な義母でさえ、「新妻を置いて視察に出かけた上に最初から義母と二人にするなんて、気が利かないにもほどがあるわ。悪気のない鈍感男って最悪。ごめんなさいね」と謝罪から入った。その上で、「でも一緒に楽しみたいの。付き合って」とイリスを連れ出すような人だった。
 イリスは率直な義母の言葉を嫌だとは思わなかった。とうのように過ぎたこの一週間を思い出すとすでに懐かしく感じて、軽く頬をゆるめる。
 その様子をノアがじっと見つめていることに気づいて首をかしげる。

「どうかしたの?」
「え? ……うーん、少し後悔をしているというか」
「後悔?」
「やっぱり私が最初に案内をすればよかった」
「まぁ」

 勝手に義母に押しつけておいて、自分が案内すればよかったなどと言う。支離滅裂なことを言う夫に呆れたが、顔には出さない。するとノアが柔らかく笑った。

「母上といる時はそんなふうに楽しそうにしてたんだね。いい時間を過ごせたみたいでよかった」

 イリスはなんと答えていいか分からず、じっと彼を見つめ返してしまう。彼女が返答しないことを特に気にした様子もなく、ノアは窓の外に目を向けて話題を変えた。

「明日からしばらく雨が続くらしい。雨の日はいつも何をするの?」
「雨の日は、そうね、人に会ったり、講義を受けたり、読書をしたり…………刺繍をするわ」
「刺繍? 好きなんだね」
なぐさみにちょうどいいの」

 集中して長時間できるし、声をかけられればすぐに手を止められる、都合のいい作業。好きかと言われるとよく分からないけれど。

「そうか。刺繍枠はあるはずだけど、あまり糸の種類がないかもしれないな。取り寄せておくよ」
「ありがとう。でも大丈夫よ。お義母様にお願いしてみるわ」

 刺繍は男の領域ではない。だから気を遣って提案したのに、ノアは残念そうだ。どうやら今の回答は不正解らしい。

(ほぼ初日から私をお義母様に押しつけたくせに、何よ)
「完成したら貴方にも見せるわ」

 これで満足かと問うような威圧的な態度になる。イリスは自分の発言を後悔したが、ノアは嬉しそうに「楽しみにしてるよ」と笑った。


 ヴェルディアでの日々は、幸い嫁入り直後に想像したほどは暇にはならなかった。
 イリスは実家にいた時に学んだことを生かして様々な人に会い情報収集をして、それを夫に話す。
 彼は多忙でほとんど屋敷に寄りつかない。

「貴方ってとても忙しいのね」

 仕事の疲れからベッドでぐったりしている夫に、イリスは話し掛けた。彼は起き上がって眉を下げる。

「なかなか君との時間を作れなくてごめん」

 彼女は謝罪を望んでいたわけではない。慌てて説明を追加した。

「違うの! 責めているわけじゃないの。何か私に手伝えることはないかと思っただけなのよ」
「ありがとう。手伝いだなんて、もうすでにすごく助かっているよ」
「そう」

 感謝されても素直に喜びきれず、なんと返していいか分からない。そのまま口をつぐんだ。
 ノアがその顔を覗き込む。

「イリス?」
「なんでもないわ」
「本当に?」

 じっと見つめられて、イリスはたじろいだ。ノアはおしゃべりだが、こういう時は根気強く無言でいる。彼女は観念して口を開く。

「その、私、少し時間を持て余していて……いいえ、正直に言うわ。暇なの」
「そっか。娯楽も少ないし、確かに時間を使うのに苦労するかもしれないね」
「この場所が悪いわけではないわ!」

 ノアが申し訳なさそうな顔をするので、イリスは言葉を被せて否定した。

「私は生まれた時からずっと妃教育を受けていて、余暇のない日々を過ごしていたと言ったでしょう? ここへ来てからのんびりしている時間が多すぎて……落ち着かないのよ。貴方の仕事で手伝えることはない?」

 ベッドサイドから刺繍枠を取る。

「見て。暇すぎて刺繍ばかりしているから、腕が上がってしまったの。試しにずっと昔に作ったものと同じ図案を刺してみたら、こんなに完成度が上がっていたのよ」

 そして、同じ花の図案の刺繍をほどこしたハンカチをノアに見せた。

「とても美しいね。えーと、新しいのは……こっちだよね」

 ノアが迷いながら右側を指差す。彼はきちんと正解を差したが、イリスは迷われたことに眉をひそめた。

「合ってる?」
「合っているけれど、迷われたのが納得いかないわ」
「だってどちらも上手だから。イリスはすごいな。昔のものもすごく素敵だと思う」
「やめて。ふちがガタついてしまっているし、ステッチの幅にもひどいばらつきがあるわ」
「厳しいな! 私が見たことがある趣味の刺繍なんて母上とアンナのくらいだけど、二人とも下手すぎて何を刺したか分かったものじゃな……」

 そこでノアはぴたりと口をつぐんだ。

(アンナ、ね)

 社交の場で彼と従妹いとこの噂を耳にしていたのに、彼自身からは最初の夜に彼女から話題にした以外、その名前を耳にしないことを、イリスは不自然に感じていた。
 こうして、思わずという形で名前が出ると、やはりノアの生活にはアンナがいるのが当たり前だったのだと分かって、納得感がある。

「ごめん」
「やましいことがないなら謝罪するべきではないわ」
「やましいことはないよ。でも君に少しでも不快な思いをさせたなら謝るべきだ。それとも、不快にも思ってくれない?」

 ノアがじっとイリスを見つめた。

(勝手に他の女の名前を出しておいて、ずるい人)
「分からないわ」

 彼女は正直に答えた。ノアが困ったように笑う。

「分からないか。……君は集中して細かい作業をするのは得意?」
「ええ」
「それなら帳簿の管理や、中央に提出する書類を任せてもいいかな。もちろん最初は一緒にやるし、やってみて好きじゃなかったら他を探そう。仕事はいくらでもあるからね」

 イリスはうなずいた。

「助かるよ。君にそれをお願いできたら、きっともう少し時間ができる。そしたら二人で遠出しよう。どこへ行きたいか考えておいて」

 行きたい場所などぱっと思い浮かばない。そんなことを聞かれても困る、というのが顔に出ていたのか、ノアが目を細めた。

「思いつかなかったら、私のお気に入りの場所を案内するよ。……そろそろ灯りを消そうか。おやすみ、イリス」
「おやすみなさい」

 彼はイリスのひたいにキスをしてから横になった。
 イリスが知っている場所など、実家の領地の一部と、王都の一部、そしてこの広大な公爵領の一部だけ。知らない場所ばかりだ。少ない選択肢から頭の中に浮かぶ場所をひねすより、ノアの〝お気に入り〟だという場所を知りたいと思う。

(アンナ嬢はそこに行ったことがあるのかしら)

 ふとそんなことが頭をよぎる。考えても仕方ない疑問を打ち消すように、イリスは頭を横に振った。
 横になると、ノアがベッドサイドのランプに手を伸ばし、部屋が真っ暗になる。イリスは暗闇の中で夫がいるはずの場所に視線を向けた。

(今日もしないのかしら)

 最初の夜以来、彼はあまりイリスを抱こうとしない。

(私との間に世継ぎをもうける気がないの?)

 嫁入りして期待されているイリスの一番の役割は、世継ぎを残すことのはずだ。そのために、病弱なアンナではなく彼女を迎えたはず。
 アンナを〝妹のように思っている〟という夫の言葉の真偽をイリスが確かめようとしたことはない。
 ノアは宣言したとおりにイリスを愛そうとしているように見える。イリスの話に耳を傾けて、できるだけ望みを叶えようとする。親切で、大切にしようとしてくれていると感じる。
 だが、それだけだ。
 夜会で見かける男女のように、イリスに夢中になっているような熱っぽい視線を向けられたことはなかった。彼の視線に名前をつけるなら、気遣いが一番近い。

(アンナ嬢にはどんな視線を向けるのかしら。抱きたくて仕方ないと思ったりする? 相手が彼女だったら、一晩中離さないのかしら)

 頭の中に浮かんだ疑問を打ち消すように、イリスは首を横に振る。そしてノアに背を向けた。

(馬鹿馬鹿しい。こんなこと、考えても仕方ないじゃない。夫婦の役割を果たせないのは困るわ。貴方もそれは同じじゃないの?)

 しばらく落ち着かずに何度か寝返りをうち、やがて目を閉じた。


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