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悪女の居る街①
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あれからどれほど空を飛び続けているのか、体中に風を感じながら、生まれて初めて空から地上を見下ろした。
アーチャが作り出したこの鉄錆色の翼竜は"錬金術"で作り上げたモノだそうだ。人間や魔獣などの高度な生物を材料にすることで、より能力の高いモノを創る事ができるという。
人間は沢山の術を持っていて、それらを駆使して今の文明や生活基盤を整えているのだとアーチャは言った。ただし、誰もが魔法や錬金術を使えるわけではなく、そう言った魔力なり霊力なりを使える人間は特別で、この世界では非常に重宝されるそうだ。
アーチャに殺された偉そうな鎧の人間は風の魔法を操る事ができ、王国の騎士将軍ではかなりの有力者だった。そんな特別な強さを持つ人間を簡単に殺してしまったアーチャは、本当に何者なのだろうか。
「俺たちは何処に向かっているんだ」
「私の知り合いの"悪女"がいる街だよ」
「あくじょ…?」
「あ~、悪い女の人ってこと」
「悪いのか」
「激悪よ!だけど軍事協力もしてるから罪人扱いされないでのうのうと悪いことしてるの」
「…悪い奴なのに、悪くないのか」
「そうなのかも」
アーチャは眉間に皺を寄せ、んーっと唸り声をあげて考え込んでしまった。何か困らせるようなことを言ってしまったのか、これ以上は"あくじょ"については聞かないようにしておこう。
それからまたしばらく空を飛んでいると、森の向こうに高い塀の中に霧に包まれた大きな街が見えてきた。まだ明るいのに、その街だけが暗い。不思議な場所だと見ていると、アーチャがその方向に指を指した。
「あれが目的地だよ」
「あそこは何というんだ?」
「ジョルマザ公国、首都は通称"魔女の街・アントワネット"。マトリア王国よりは小さいけど、ここは魔法使いや貴族が国を治めてるの」
「きぞく…それも魔法を使うのか」
「使う事のできる人間もいるかもしれないけど、貴族ってのは身分…えっと、普通の人間よりも偉い人間ってこと」
「そうなのか」
竜は街から離れた森の中に降下し始めた。森のひらけた場所に降り立つと、アーチャは俺に竜から降りるように促した。俺が降りると、アーチャもぴょんっと飛び降り、竜に向き直ると両手を顔の前に伸ばした。
ぱんっ!
と軽快な音を立てて、両手を鳴らした。その音が鳴ると同時に竜は地面に寝そべり、そのままサラサラと砂になって跡形も無く消えた。竜がいた場所には、砂山があるだけになっていた。
「何故、街まで行かないんだ」
「こういうのはね、目立つからこのまま街に入ると怪しまれちゃって自由に動けなかったりするの」
「そうなのか」
「錬金術師は魔法使いよりも珍しいから、こんな存在しないモノに乗ってたらすぐ国の有力者に目をつけられちゃうもん」
「ふむ」
アーチャはおもむろに近くの木の葉っぱを数枚ぶちぶちとむしり始めた。背の低いアーチャは、精一杯背伸びをして木に手を伸ばす。俺は見ていられなくて、アーチャが取ろうとしている葉っぱを代わりにむしってやった。
「わぁ、ありがとう魔神さん!」
「何故、葉っぱをむしる」
「これから必要になるから、たくさん集めてほしいの」
「分かった」
2人でせっせと葉っぱを拾えるだけ拾った。アーチャの腰ほどの高さ、小さな山ができるくらいの量を集め終えると、アーチャは地面に片膝をつき両手を地面についた。葉っぱを囲うように魔法陣が現れ、葉っぱは宙に浮き緑色の塊となってぐねぐねと動く。アーチャはその中にポイっと小さな赤いネズミの死骸を投げ入れる。そんなものを何処で拾っていたのか、持ち歩いていたのかと疑問が残るが、俺は黙ってその塊を見ていた。
塊は手のひらくらいの2つの長方形の塊になり、怪しく光りながら地面に落ちた。光が消えると、小さな赤い表紙の本のようなものが2冊現れた。アーチャはそれを拾い上げると、俺に1つ手渡した。
「はい、入国審査証」
「にゅうこく…何かに必要なものか」
「これがないと色んな国に入れないの、あとはアナタの名前が必要なんだけど…」
「名前はない」
「ん~そうなんだよね」
アーチャは腕を組んで難しい顔をした。
名前がないということは、人間の世界ではとても都合の悪いことなのだということなのだな。渡された入国審査証の表紙には金の翼の紋様と、なにか文字が書いてある。
「…名前とはどうやって与えられるのだ?」
「えっ、普通は産みの親とかが…」
そこまで言いかけ、アーチャは口元に手を当てた。
「魔獣とかの名前だったら、その特徴から発見した人間とかが付けるかも」
「なら、アーチャがつけてくれ」
「えっ!?」
「俺に親はいない。だったら俺を連れ出したアーチャが責任を持って名付けるべきだ」
「私、そういうの苦手なんだけど…」
「苦手なだけで出来ないわけではないのだろう?」
「うぐっ!」
変な声をあげてアーチャは体をのけぞらせ、みるみるうちに青い顔をして固まってしまった。
「魔神さんって、見かけによらず意地悪ね」
「いじわるなのか」
「人を困らせる事を言ったりしたりすること」
俺は今、アーチャに意地悪をしたのか。
だが、もしかしたら初めて名前をもらえるかもしれない、このなんとも言えない背中がぞわぞわするような感覚に俺は期待していた。そんな俺の顔を見て、アーチャはアタマを掻き、大きなため息を吐いた。
「そうだなぁ…ん~…とりあえず目的地に着くまでの間に考えようかな」
「あぁ」
森を歩き始め、また時間が経った。進めば進むほどに、この森は暗く冷たくなっていく。変な生き物や虫もたくさんいたが、どれも遠くからこちらを見て居るだけで寄っては来ない。
「あの生き物たちは何故襲ってこない」
「動物とか魔獣ってのはね、自分より格上と感じた生き物を無闇やたらと襲ったりはしないの」
「そういうものなのか」
「竜の口に飛び込むネズミはいないんだよ」
「だが、アーチャは子供だ。見た目だけなら弱そうだ」
「私じゃなくて、アナタを見てるの!」
「む?」
アーチャは立ち止まり、勢いよく俺の方を向いた。顔は不服そうで、鼻息を荒くしながら腰に手を当て、俺に指を指しながら話し出す。
「アナタにつけたその指輪は、魔力に反応して幻覚を作り出す"現の夢"っていう魔道具なの。それは人間を欺くためのものだから、他の生き物にはアナタは本来のアナタに見えてるの」
「…万能ではないんだな」
人間以外には俺は元の姿に見えているなら、怯えられて当然か…なら、俺は動物を触ることはできないのか。あれから時間とともに魔術が効いたのか、俺の目にも俺の体が人間に見えるようになった。自分の手を握って開いてを繰り返しても、俺の手は見慣れない人間の手になっているのに…。
「あ、えっと!動物とかはあれでも、人間とはきっと親しくなれるから!ね?」
「うむ…」
「ジョルマザに着いたら、宿に行ってご飯食べよ!」
「やどとはなんだ」
「旅人が体を休めるお家みたいなところだよ」
「ほぅ」
「ご飯は…そうだな、私のオススメのお店に連れて行ってあげるからね!」
「あぁ、よろしく頼む」
人間の住む家か…、興味深い。気づけば辺り一面が暗く、足元が見えにくくなってきた。日もだいぶ傾き、霧が濃くなってきたせいもあるのだろう。
辺りを見渡していると、目の前がぼうっと橙色に光った。光に目をやると、アーチャの手にいつの間にか火を入れたガラスの器のような物があった。
「暗くなってきたから、森とか洞窟とかは明るくしてないと人間は不利になるの。人間は暗いところでは目が効かないから」
「そのための灯りか、納得した」
じっとアーチャの手にある光を眺めていた。
「持ってみる?」
「いいのか?」
アーチャはにっこりと笑って、光を俺の前に差し出した。近くで見るとまた不思議な光だ。
「錬金術で出したランタンだよ!この持ち手の部分を持ってたら熱くないから」
「らんたん」
アーチャからランタンを受け取る。器の中で光る炎はふわっと暖かい。左右に振ると光も移動して、辺りを俺が動かす通りに動いている。
俺がランタンを動かしていたら、アーチャが笑いながら俺の反対の手を掴んだ。
「ほらほら!早く行こう」
「あぁ」
アーチャが手を引いてくれ、導かれるままに進んでいくとだんだんと大きな塀が近づいてきた。塀は所々が苔生していて、植物が絡みついている。アーチャは俺から入国審査証を受け取ると、何かを書き込み始めた。それが終わると、また入国審査証を渡された。
「そろそろ門だから、そこの門番にそれを出すように促されたら出してね」
「分かった」
「あとは私の話に合わせてくれたら大丈夫」
塀に沿って歩くと、槍を持った人間が1人と大きな石の上に座っている槍を持った人間が1人いた。どちらも鎧を着ており、頭は出ているから男だと分かった。アーチャはその男たちに声をかけた。
「すみませーん!入国審査お願いします!」
「入国審査証は」
「ありますよ~」
アーチャは目線だけを俺に向けると、自分の入国審査証をヒラっと振って見せた。頷いて俺も自分の分の入国審査証を取り出すと、アーチャはそれを取り男の1人に渡した。
男は入国審査証を開き、チラチラと俺とアーチャを見ている。何が書かれているのか分からないが、とりあえず男が喋るのを待った。
「アーチャ・クリムゾン と…」
「はい!」
クリムゾン …?
確かアーチャの性はそんな名前ではなかったと思ったが、返事を返しているアーチャを見て口を挟むのはやめた。
「あと、ブラッド・クリムゾン」
……なんだそれは。
「も~旦那様ったら!ちゃんとお返事しなきゃ!」
「む?」
「お名前を呼ばれたら元気よく返事!」
名前…これが、俺の名前…?
俺が黙っていると、アーチャが俺を見上げながら、繋いだ手をぎゅっと握った。
「は、はい!」
「随分年の離れた夫婦だな。こんな女の子を娶るなんざ、アンタ相当の好きもんか?」
男はにやけながら、肘で俺の胸を小突いた。
言っている意味はほとんど分からなかったが、名前を呼ばれたことに、体の中がドクドクと激しく揺れているような初めての感覚に困惑した。
「も~おじ様ったらぁ!」
「はは、兄ちゃん困らせちまったか?」
「旦那様はシャイなんだからね?困らせちゃダメダメだよ!」
「悪い悪い、それで?この国には何の用だ?」
「お買い物!」
「お買い物だ~?」
「旦那様との結婚式に、薔薇のワインが欲しくって」
「おぉ、そうかそうか」
男は持っていた木の筒のような物をポンポンと入国審査証に押し付けた。
「ほら!判を押しておいたぞ、良い結婚式になるように祈ってるよ!」
「ありがとう!旦那様行こう!」
「む、あぁ」
アーチャは笑顔で俺の手を強く引き、門の中へと早足で向かった。俺はなんだかふわふわした気分で、足がちゃんと動いているのかも分からない状態のまま連れていかれた。
街の中はクネクネと曲がった高い柱に、ランタンがいくつもついたものがいくつも生えている。建物の屋根は全て黒、レンガ造りの赤茶色の建物がいくつも並んでおり、その中には蔦が絡まったものや、建物の色が赤や紫のものもあった。辺りには人間、人間、人間…随分活気のある街だ。
「さぁーて、まずは宿に行こう!」
アーチャはしっかりと俺の手を握りながら、スタスタと歩いていく。辿り着いたのは、木の板に文字が書かれたものがぶら下げられている建物。他の建物よりも大きく背が高い。眺めている時間はなく、アーチャは扉を開けた。
カランカランと金属が鳴る。建物の中は開けていて、奥の方に若い人間の女が1人ニコニコしながら待ち構えていた。
「いらっしゃいませ~」
「空いてる?」
「お二人様ですか~?」
人間は指を2本立ててまたニコニコしている。
「うん」
「はい~ご用意できますよ~」
「お願い」
「はい~では、こちらお部屋の鍵になります~。お部屋は3階の2号室になります~」
アーチャは鍵を受け取ると、宿から出た。
「お部屋に行かないのか?」
「まずはご飯食べなきゃ!」
「ご飯か」
「人間は朝、昼、晩って1日に3回はご飯を食べて生きてるんだよ」
「そんなに食べるのか」
「そ、燃費悪いの」
「それで何を食べるんだ」
「むっふっふ、とっておきのお店よ」
アーチャはニヤリと何かを企んでいるような怪しい笑顔でそう言った。宿から離れ、連れてこられたのは沢山の臭いが混じる場所。アーチャはここは飲食店街というところで、ここで人間は飲んだり食べたりするそうだ。
周りの人間はテーブルを囲み、ガラスのコップに入った液体を浴びるように飲んでいたり、大きな肉なんかをガツガツと獣のように食べて騒いでいる。
何百年も身を潜めていた俺には、この喧騒は落ち着かない。俺が顔を顰めていると、アーチャは真っ赤な建物に沢山の明かりがついた建物に入った。そこは丸いテーブルがいくつも置かれ、人間がこれでもかと言うほどひしめいていてる。
「ここは…」
「私のオススメのお店なの」
「おすすめなのか」
「ちょっと待ってて!」
アーチャはそれだけ言うと人混みに消えて行った。
俺はこの人混みの中でどうしたらいいのか分からず、ただアーチャに言われた通りにそこで立ち止まっていた。そんな俺の肩を誰かが叩き、振り返ると見知らぬ人間の女が俺の肩に手を置いて俺を見ている。
「お兄さん1人ぃ?私と良いことしない?」
オレンジ色の長くくねくねした髪に、瞼が青く光っている。唇は不自然に赤く光っていて、アーチャとはだいぶ違う顔をしている女は、肩からするすると手を滑らせながら俺の腕に手を絡めてきた。
「良いこととはなんだ?」
「やだぁ!そんなこと女に言わせちゃう~?」
「??女は言えないのか」
「お兄さんたらそれワザと?それとも天然なのかなぁ~かわいいんだけど~」
女はコロコロと笑い声をあげる。
そしてぐっと俺に体を近づけて密着してきた。人間の体はこんなに柔らかくて少し温かい、噛み付いたら簡単に肉が裂けてしまいそうだ。
「おい…」
低い呼び声、カチャリと金属の音、振り向くと女の頭にピッタリと銃口を向ける恐ろしい顔をしたアーチャがいた。青い目が夜のように深く、眉間に数え切れないほど皺が寄っている。手には何やら大きめの紙袋を持っており、これを取りに行ってきたようだ。
「このガバ◯ンクソ女…人の旦那様に何してんだよ」
「ひっ!!?」
女はガタガタと震えながら俺からゆっくり離れ、両手を小さく挙げた。顔は瞼のように青く、カチカチと歯と歯を鳴らして涙やら鼻水、体から雨のように汗が出ている。
「戻ったのか、アーチャ」
アーチャはチッと舌打ちすると、銃を女から離してクイっと顎で指図をした。女はよたよたと腰が抜けたのか、色んなものにぶつかりながら人混みに消えて行った。
アーチャは女が消えたのを見届けてから、俺をじとーっとした目で見上げ頬を膨らませる。
「何してるの!」
「アーチャを待っていた」
そう答えると、アーチャは目を見開いた後に大きくため息を吐いて頭を掻いた。そして、紙袋を抱えながらそっぽを向いて面白くなさそうな顔をした。
「私が居ない間に他の女が来てもすぐ追いはらわなくちゃダメ!」
「わかった」
怒られたようだ。
何故かは分からないが俺は頷いて答えた。
「も~!」
アーチャは地団駄を踏むと煮え切らない顔のまま、俺の手を掴んでずんずんと人をかき分けて歩いて行った。どんどんと街を進んでいき、俺はアーチャの姿だけを目で追い、またどこか知らない場所に連れて行かれた。
気づけば街明かりは薄れて、淡い色の花が一面に咲く小さな丘のようなところに来た。振り向けばさっきまでいた街が遠くに一望できる。風がそよそよと吹いて、髪の毛が揺れているように見えるのも幻覚なのだろうが、本当に自分が人間になったような気にさせる。
アーチャの方を見れば、小さな布を錬金術で大きな赤い布に変えていた。その布の上によじよじと座り、紙袋を開けてから俺を手招きして呼んでいる。
「お~い、こっちこっち」
隣の空いたスペースをポンポンと叩く。そこに座ると、黄色い紙に包まれた温かいものを手渡された。両手に乗るほど大きい。
「ジョルマザに来たらレッドソウルのハンバーガー!これ絶対!」
「はんばーがー、これは食べ物か」
「すっごく美味しいよ!」
アーチャはニコニコして紙を剥がす、俺はその動きをじっと見ながら同じように紙を剥がした。紙を剥がすと中からふわっと肉や草の匂いと、甘いような匂いがして、これは何なのかを尋ねた。
「この挟んでるものがパンで、パンに挟まれてるのがハンバーグとチーズとトマト、レタス、あとはすっごく美味しいソース!」
「それが全て合わさってのハンバーガーか」
「うん!食べてみて、びっくりするよ」
アーチャはいただきますと言って、大きな口を開けてハンバーガーに噛り付いた。ん~っと幸せそうに頬に手を当てハンバーガーを味わって食べるアーチャを見届けてから、俺も自分のハンバーガーを一口食べた。
途端、口の中に色んな感覚が広がった。
もふもふ、しゃきしゃき、どろどろ、とろり…アーチャが初めてくれた飴とは違い、複雑に様々な味と食感が入り混じっていながら、全てがまとまっている。人間はこんなに素晴らしい食べ物を毎日3回も食べているのか。
「美味しいでしょ!」
「すごくおいしい」
「ポテトもあるよ~」
黄色い長細い食べ物を差し出された。それを一つ摘んで口に入れる。噛むとカリッと音がなり、熱くてほくほくしていて、絶妙な塩加減ハンバーガーの味を邪魔しない。これもとてもおいしい。
「フライドポテトって言って、切ったジャガイモを油で揚げてお塩をかけた究極のハンバーガーのお供なの」
「ふらいどぽてと…おいし。」
「たくさん食べていいよ」
俺は黙々とハンバーガーとポテトを交互に食べ続けた。何百年まともに料理など食べた事がなかったから、久しぶりの感覚に満たされた。気づけばポテトはほとんど俺が食べてしまった。アーチャは笑いながら気にしなくていい、と言ってくれたから良かった。
おいしい…その余韻に浸り、ぼーっとしていると食べ終わったらごちそうさまと言うのだと教えてくれた。
「ごちそうさま」
「そうそう、食べるときはいただきます!食べ終わったらごちそうさま!って言うのが食事のマナーなの」
「わかった」
「あ~、今日は一日動き回ってたから疲れた~」
アーチャは体を後ろに倒し、両手で突っ張りをするように力の抜けた格好をした。その顔はニコニコと満足そうで、俺はそんな姿に張り詰めていたものが少しだけ安らいだ。
「お外は楽しい?」
「あぁ、色んなものを初めて見た。人間がこんなにおいしい食べ物を作れること、食べてることに驚いた」
「なら良かった」
「こんなに白いポピーが咲いている丘に来れたのも良かった」
そこら中にたくさん咲き、夜でも星のように淡く存在を主張する白いポピーは風に遊ばれるように右に左にゆるく揺れ動いている。足元のポピーに目を向け、アーチャの方をくるっと向くと大きな目をさらに大きくして俺を見ていた。
「どうした?」
「魔神さん…よくこの花の名前を知ってたね」
「珍しいのか?」
「ううん、知らないことばかりじゃないよね」
アーチャは、首を左右に振る。
知っているものは確かに少ないが、俺はどこでこの花の名前を覚えたのだろうか。ずっと昔に聞いたのか、まったく覚えていない…俺が暮らしていた山の中は荒野だったからほとんど草木なんてものは生えていなかった。
だが俺はどこかでこの花の名前を…
名前…
「聞きたいことがある」
「ん?どしたの」
俺は入国審査証を出した。
「俺の名前は、ブラッド・クリムゾン でいいのか」
アーチャはドキッ!と目を丸くして身を固くした。そして腕を組み、眉間にシワを寄せてあーんーと困ったような顔をして体を前後に揺する。
「ん~と、気に入ったの?」
「気に入った…とはよく分からないが」
不意に初めて呼ばれた名前はとても衝撃的で、初めて与えられた贈り物で、それは初めて自分の存在を認めてもらえた瞬間だったんだ。
「…嬉しいとは思う」
「魔神さん笑うんだね。…そっかそっか、なんだか人に喜んで貰えるのってむず痒いな~」
「ブラッドだ」
「え…」
「ブラッドだ、魔神さんじゃない」
「そ、っか」
アーチャは両足を小さくパタパタと動かし、くすぐったそうに小さな声で笑った。眉を下げ困ったような顔だったが、頬はほんのり赤く口元は笑っている。
少しの沈黙のあと、アーチャは子供のような笑顔で体をねじり、俺に右手を差し出した。
「じゃあこれからよろしくね、ブラッド」
「あぁ」
俺はその手をぐっと握り返した。
宿に戻り、与えられた部屋の戸を開ける。部屋の中には小さな椅子とテーブル、そして真ん中に大きなベッドが一つ置かれていた。アーチャは靴を脱ぎ捨てると、大きくジャンプしてベッドの上にゴロゴロと寝転んだ。
「やっほーい!ふっかふかのベッドだー!」
ベッドの上で暴れているアーチャを眺めていると、俺に気づいたアーチャがベッドに座りポンポンとベッドを叩いた。これはこっちに来るようにという合図だったなと思い、俺はベッドに上がりアーチャの隣に座った。
俺が座るのを確認すると、むふふふと満面の笑みで両手を組み体をくねくねと左右に動かし始めた。俺はそれが何の行動なのか分からず首を傾げる。
「どうした?」
「夫婦になって初めての夜なんだから、やる事はひとつしかないじゃないの~」
「何かやる事があるのか」
「とりあえず一回その指輪外しましょうか」
俺が返事をするよりも早く、アーチャは俺の手から素早く指輪を奪い取った。ぐらっと景色が歪み、自分の手を見ると見慣れた俺の姿に戻っている。少々残念だ。
「じゃあ旦那様、両足を広げて座ってくださーい」
アーチャは両手を高々と上げてそう言った。
俺は言われるがままベッドの上に両足を投げ出すように座る。するとアーチャは目をギラギラと輝かせ、俺の足の間に四つ這いになって近づいてきた。はぁはぁと荒い息をしながら、ゆっくりと俺の足の間に手を伸ばす。
「何をするんだ?」
「むふふふふ、ナニを拝むのですよ」
「なに…?」
ズボッ
アーチャは俺の足の間の毛に手を突っ込んできた。突然のことに体がビクッと跳ね上がり、何かを探しているのか足の間の毛の中を容赦なく触られまくる。
わしゃわしゃわしゃ
「ん?」
わしゃわしゃわしゃ
「ん?んん?」
目を輝かせながら口から涎を垂らし、はぁはぁと俺の足の間を弄り続けていたアーチャの顔がどんどん真顔になっていく。遂には俺の足をガッと両手で押さえ込み、顔を足の間に押し込んできた。そのまま入り込みそうな勢いで顔をグリグリと押し付け、俺は後ろに倒れこみそうになるのを腕で堪える。
「むわっ」
バサッ
毛の中から顔を出したアーチャは、青白い顔をした。そして頭を垂れてぶつぶつと何かを話している。俺は心配になり、足を閉じて立ち膝の格好でアーチャに声をかけた。
「どうかしたのか」
「なんで…」
「ん?」
俺が聞き取れなくてさらに前のめりになると、アーチャはいきなり顔を上げ、ガシッと俺の胸に両手を置き吠えた。
「なんでち○ちんがついてないのーーー!!?!」
「!?」
外まで響き渡るような大声でアーチャはそう言い放ち、目からは滝のように涙が流れている。よく分からないが、俺は何かとんでもないことをしてしまったのかと思う。オロオロしていると、アーチャは俺にしがみつきながら話を続ける。
「ち○ちんも金○マもついてない!雄じゃないなら雌かと思っても尿道も生殖器も何にもついてない!!」
「ち…ち○ちん?」
「お尻の方にも何にもない!穴すら空いてない!!突っ込める武器もなんにもない!」
「ん?ん?」
アーチャは俺の胸をガシッと掴む。
「おっぱいもない!!」
そのままアーチャは俺の胸に顔を埋め、ズルズルと尻を突き出すように滑り落ちていった。
「…すまない」
「うっうっ、ぐす、ち○ちん…」
「その」
「なかったらどうやってエッチするの~」
「そのち○ちんと言うのを手に入れればいいのか?」
俺がそう聞けば、アーチャはお尻を突き出し突っ伏したままの情けない姿で首を横に降る。
「ち○ちんは、ぐすっ他人のじゃダメなの」
「そ、そうか…」
「う、うっぶぅう~」
「どうやったらち○ちんは生える」
「……生える…?」
ガバッとまたアーチャが顔を上げた。
目の周りを真っ赤に染めて、悪どい笑顔で肩を震わせて笑っている。ひっひっひと引き攣った笑い声を漏らしながら、1人呟く。
「そうよ、この街にはアイツがいるのよ」
アーチャはふらふらと体に骨が入っていないような動きで立ち上がった。
「ないなら作ればいいのよ…アイツならできる!きっと!」
「ア、アーチャ…?」
名前を呼ぶとアーチャはぐるんとその場で体を回転させたかと思えば、そのまま俺に飛びつく。首に手を回し、ぎゅーっと抱きついてきた。
「明日すぐにあの女のところに行こうね!」
「む?」
「あーもう!早くお風呂に入って寝よう」
アーチャは俺に指輪をはめ直すと、風呂場に向かった。だが俺の大きさでは中に入れないと分かり、アーチャは指輪に細工をしてくれた。見た目と共に法則という良くは分からないが、俺の大きさを人間の見た目まで小さくしてくれるらしい。俺の周辺の空間を歪ませているとかなんとかで、俺にはまだ難しい話だ。
手際よくというか剥がされたと言った方がいいのだろう、あっという間に裸にされたかと思えば浴室に押し込まれた。タイル張りの風呂場は広く、湯船にはお湯がはってあって浴室はとてもポカポカしている。
「お待たせ~!」
戸を開ける音と共にアーチャは手にタオルを持ち、ニコニコしながら入ってきた。
「…裸だ」
「そりゃお風呂だもん!」
真っ白い肌、俺と違って体には毛が生えていない。ふにふにしていてとても柔らかそうな体をしている。じーっと頭の先から足の先までを何度か往復して見ていたら、アーチャが両手で胸を隠し身をよじった。
「も~新妻の体をそんなにまじまじ見ちゃって~!ブラッドのエッチ!」
「すまない」
「うふふ、冗談だよ」
それからのお風呂はすごい体験だった。石鹸といういい匂いのする石を擦ると泡が出た。それで人間は体を洗うらしく、今日は初めてのお風呂だからとアーチャが俺の体を石鹸とタオルを使って洗ってくれた。
「水が黒い…」
「何百年分の汚れかな~綺麗にしちゃうよ!」
人間の見た目では肌は確かに褐色だが、体から流れる水はどう見ても黒い。アーチャに長い時間頭から足の先までを洗ってもらうと、徐々に水が綺麗になっていった。俺の体がピカピカになったら、アーチャは先にお風呂に入るように促した。俺はそれに従い、お風呂に浸かる。ザバーっとお湯が溢れて、肩まで浸かると体全体が温まる。
「素晴らしい…」
「お風呂気持ちいもんね~」
ちらっと目を向けると、アーチャが鼻歌を歌いながら体を洗っていた。もこもこした泡に包まれていても金の髪と白い肌がよく映える。今日見た人間の中でもアーチャの容姿は優れているということが俺にも分かった。
見た目が美しくても、アーチャはたくさんの罪を犯し、俺の目の前でたくさんの人間を殺している。子供のような見た目でも、俺の知らないことをたくさん知っていて特別な術をたくさん使える。
「アーチャ」
「なに?」
「アーチャはすごい人間だ」
「あはは!どうしたのいきなり」
体を洗い終えたアーチャが俺に背を向けるようにお風呂に入った。またザバーっとお湯が溢れて、アーチャは俺に寄りかかるようにくつろぐ。
「ふぃ~」
「今日だけでも色んなことを教えてくれた」
「どういたしまして」
「自分の足で歩けて、自分の目で見えることがこんなに凄いことなんだと学んだ」
「これからもっと色んなことを学んで、それから私と子作りして、アナタがどうやったら死ぬのか考えなきゃ」
アーチャは両手を後ろに伸ばして俺の顔や首を優しい手つきで触れる。こちらに振り返ることはなく、ただスルスルと手を動かした。
「明日はち○ちんを生やさなきゃ」
「うむ」
お風呂の時間は終わり、寝支度を整えてベッドに入った。初めてのベッドはふかふかで心地が良い。あの穴の中で土を背に寝ていた時とは違う、包み込まれるような感覚に瞼が重くなってきた。天井を向いて寝ようとする俺の手を、アーチャがぎゅっと握る。
「ん?」
「ブラッド、眠る時はね"おやすみなさい"って言うんだよ」
「おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
満足そうなアーチャの顔を見て、俺は瞼を閉じた。
。
アーチャが作り出したこの鉄錆色の翼竜は"錬金術"で作り上げたモノだそうだ。人間や魔獣などの高度な生物を材料にすることで、より能力の高いモノを創る事ができるという。
人間は沢山の術を持っていて、それらを駆使して今の文明や生活基盤を整えているのだとアーチャは言った。ただし、誰もが魔法や錬金術を使えるわけではなく、そう言った魔力なり霊力なりを使える人間は特別で、この世界では非常に重宝されるそうだ。
アーチャに殺された偉そうな鎧の人間は風の魔法を操る事ができ、王国の騎士将軍ではかなりの有力者だった。そんな特別な強さを持つ人間を簡単に殺してしまったアーチャは、本当に何者なのだろうか。
「俺たちは何処に向かっているんだ」
「私の知り合いの"悪女"がいる街だよ」
「あくじょ…?」
「あ~、悪い女の人ってこと」
「悪いのか」
「激悪よ!だけど軍事協力もしてるから罪人扱いされないでのうのうと悪いことしてるの」
「…悪い奴なのに、悪くないのか」
「そうなのかも」
アーチャは眉間に皺を寄せ、んーっと唸り声をあげて考え込んでしまった。何か困らせるようなことを言ってしまったのか、これ以上は"あくじょ"については聞かないようにしておこう。
それからまたしばらく空を飛んでいると、森の向こうに高い塀の中に霧に包まれた大きな街が見えてきた。まだ明るいのに、その街だけが暗い。不思議な場所だと見ていると、アーチャがその方向に指を指した。
「あれが目的地だよ」
「あそこは何というんだ?」
「ジョルマザ公国、首都は通称"魔女の街・アントワネット"。マトリア王国よりは小さいけど、ここは魔法使いや貴族が国を治めてるの」
「きぞく…それも魔法を使うのか」
「使う事のできる人間もいるかもしれないけど、貴族ってのは身分…えっと、普通の人間よりも偉い人間ってこと」
「そうなのか」
竜は街から離れた森の中に降下し始めた。森のひらけた場所に降り立つと、アーチャは俺に竜から降りるように促した。俺が降りると、アーチャもぴょんっと飛び降り、竜に向き直ると両手を顔の前に伸ばした。
ぱんっ!
と軽快な音を立てて、両手を鳴らした。その音が鳴ると同時に竜は地面に寝そべり、そのままサラサラと砂になって跡形も無く消えた。竜がいた場所には、砂山があるだけになっていた。
「何故、街まで行かないんだ」
「こういうのはね、目立つからこのまま街に入ると怪しまれちゃって自由に動けなかったりするの」
「そうなのか」
「錬金術師は魔法使いよりも珍しいから、こんな存在しないモノに乗ってたらすぐ国の有力者に目をつけられちゃうもん」
「ふむ」
アーチャはおもむろに近くの木の葉っぱを数枚ぶちぶちとむしり始めた。背の低いアーチャは、精一杯背伸びをして木に手を伸ばす。俺は見ていられなくて、アーチャが取ろうとしている葉っぱを代わりにむしってやった。
「わぁ、ありがとう魔神さん!」
「何故、葉っぱをむしる」
「これから必要になるから、たくさん集めてほしいの」
「分かった」
2人でせっせと葉っぱを拾えるだけ拾った。アーチャの腰ほどの高さ、小さな山ができるくらいの量を集め終えると、アーチャは地面に片膝をつき両手を地面についた。葉っぱを囲うように魔法陣が現れ、葉っぱは宙に浮き緑色の塊となってぐねぐねと動く。アーチャはその中にポイっと小さな赤いネズミの死骸を投げ入れる。そんなものを何処で拾っていたのか、持ち歩いていたのかと疑問が残るが、俺は黙ってその塊を見ていた。
塊は手のひらくらいの2つの長方形の塊になり、怪しく光りながら地面に落ちた。光が消えると、小さな赤い表紙の本のようなものが2冊現れた。アーチャはそれを拾い上げると、俺に1つ手渡した。
「はい、入国審査証」
「にゅうこく…何かに必要なものか」
「これがないと色んな国に入れないの、あとはアナタの名前が必要なんだけど…」
「名前はない」
「ん~そうなんだよね」
アーチャは腕を組んで難しい顔をした。
名前がないということは、人間の世界ではとても都合の悪いことなのだということなのだな。渡された入国審査証の表紙には金の翼の紋様と、なにか文字が書いてある。
「…名前とはどうやって与えられるのだ?」
「えっ、普通は産みの親とかが…」
そこまで言いかけ、アーチャは口元に手を当てた。
「魔獣とかの名前だったら、その特徴から発見した人間とかが付けるかも」
「なら、アーチャがつけてくれ」
「えっ!?」
「俺に親はいない。だったら俺を連れ出したアーチャが責任を持って名付けるべきだ」
「私、そういうの苦手なんだけど…」
「苦手なだけで出来ないわけではないのだろう?」
「うぐっ!」
変な声をあげてアーチャは体をのけぞらせ、みるみるうちに青い顔をして固まってしまった。
「魔神さんって、見かけによらず意地悪ね」
「いじわるなのか」
「人を困らせる事を言ったりしたりすること」
俺は今、アーチャに意地悪をしたのか。
だが、もしかしたら初めて名前をもらえるかもしれない、このなんとも言えない背中がぞわぞわするような感覚に俺は期待していた。そんな俺の顔を見て、アーチャはアタマを掻き、大きなため息を吐いた。
「そうだなぁ…ん~…とりあえず目的地に着くまでの間に考えようかな」
「あぁ」
森を歩き始め、また時間が経った。進めば進むほどに、この森は暗く冷たくなっていく。変な生き物や虫もたくさんいたが、どれも遠くからこちらを見て居るだけで寄っては来ない。
「あの生き物たちは何故襲ってこない」
「動物とか魔獣ってのはね、自分より格上と感じた生き物を無闇やたらと襲ったりはしないの」
「そういうものなのか」
「竜の口に飛び込むネズミはいないんだよ」
「だが、アーチャは子供だ。見た目だけなら弱そうだ」
「私じゃなくて、アナタを見てるの!」
「む?」
アーチャは立ち止まり、勢いよく俺の方を向いた。顔は不服そうで、鼻息を荒くしながら腰に手を当て、俺に指を指しながら話し出す。
「アナタにつけたその指輪は、魔力に反応して幻覚を作り出す"現の夢"っていう魔道具なの。それは人間を欺くためのものだから、他の生き物にはアナタは本来のアナタに見えてるの」
「…万能ではないんだな」
人間以外には俺は元の姿に見えているなら、怯えられて当然か…なら、俺は動物を触ることはできないのか。あれから時間とともに魔術が効いたのか、俺の目にも俺の体が人間に見えるようになった。自分の手を握って開いてを繰り返しても、俺の手は見慣れない人間の手になっているのに…。
「あ、えっと!動物とかはあれでも、人間とはきっと親しくなれるから!ね?」
「うむ…」
「ジョルマザに着いたら、宿に行ってご飯食べよ!」
「やどとはなんだ」
「旅人が体を休めるお家みたいなところだよ」
「ほぅ」
「ご飯は…そうだな、私のオススメのお店に連れて行ってあげるからね!」
「あぁ、よろしく頼む」
人間の住む家か…、興味深い。気づけば辺り一面が暗く、足元が見えにくくなってきた。日もだいぶ傾き、霧が濃くなってきたせいもあるのだろう。
辺りを見渡していると、目の前がぼうっと橙色に光った。光に目をやると、アーチャの手にいつの間にか火を入れたガラスの器のような物があった。
「暗くなってきたから、森とか洞窟とかは明るくしてないと人間は不利になるの。人間は暗いところでは目が効かないから」
「そのための灯りか、納得した」
じっとアーチャの手にある光を眺めていた。
「持ってみる?」
「いいのか?」
アーチャはにっこりと笑って、光を俺の前に差し出した。近くで見るとまた不思議な光だ。
「錬金術で出したランタンだよ!この持ち手の部分を持ってたら熱くないから」
「らんたん」
アーチャからランタンを受け取る。器の中で光る炎はふわっと暖かい。左右に振ると光も移動して、辺りを俺が動かす通りに動いている。
俺がランタンを動かしていたら、アーチャが笑いながら俺の反対の手を掴んだ。
「ほらほら!早く行こう」
「あぁ」
アーチャが手を引いてくれ、導かれるままに進んでいくとだんだんと大きな塀が近づいてきた。塀は所々が苔生していて、植物が絡みついている。アーチャは俺から入国審査証を受け取ると、何かを書き込み始めた。それが終わると、また入国審査証を渡された。
「そろそろ門だから、そこの門番にそれを出すように促されたら出してね」
「分かった」
「あとは私の話に合わせてくれたら大丈夫」
塀に沿って歩くと、槍を持った人間が1人と大きな石の上に座っている槍を持った人間が1人いた。どちらも鎧を着ており、頭は出ているから男だと分かった。アーチャはその男たちに声をかけた。
「すみませーん!入国審査お願いします!」
「入国審査証は」
「ありますよ~」
アーチャは目線だけを俺に向けると、自分の入国審査証をヒラっと振って見せた。頷いて俺も自分の分の入国審査証を取り出すと、アーチャはそれを取り男の1人に渡した。
男は入国審査証を開き、チラチラと俺とアーチャを見ている。何が書かれているのか分からないが、とりあえず男が喋るのを待った。
「アーチャ・クリムゾン と…」
「はい!」
クリムゾン …?
確かアーチャの性はそんな名前ではなかったと思ったが、返事を返しているアーチャを見て口を挟むのはやめた。
「あと、ブラッド・クリムゾン」
……なんだそれは。
「も~旦那様ったら!ちゃんとお返事しなきゃ!」
「む?」
「お名前を呼ばれたら元気よく返事!」
名前…これが、俺の名前…?
俺が黙っていると、アーチャが俺を見上げながら、繋いだ手をぎゅっと握った。
「は、はい!」
「随分年の離れた夫婦だな。こんな女の子を娶るなんざ、アンタ相当の好きもんか?」
男はにやけながら、肘で俺の胸を小突いた。
言っている意味はほとんど分からなかったが、名前を呼ばれたことに、体の中がドクドクと激しく揺れているような初めての感覚に困惑した。
「も~おじ様ったらぁ!」
「はは、兄ちゃん困らせちまったか?」
「旦那様はシャイなんだからね?困らせちゃダメダメだよ!」
「悪い悪い、それで?この国には何の用だ?」
「お買い物!」
「お買い物だ~?」
「旦那様との結婚式に、薔薇のワインが欲しくって」
「おぉ、そうかそうか」
男は持っていた木の筒のような物をポンポンと入国審査証に押し付けた。
「ほら!判を押しておいたぞ、良い結婚式になるように祈ってるよ!」
「ありがとう!旦那様行こう!」
「む、あぁ」
アーチャは笑顔で俺の手を強く引き、門の中へと早足で向かった。俺はなんだかふわふわした気分で、足がちゃんと動いているのかも分からない状態のまま連れていかれた。
街の中はクネクネと曲がった高い柱に、ランタンがいくつもついたものがいくつも生えている。建物の屋根は全て黒、レンガ造りの赤茶色の建物がいくつも並んでおり、その中には蔦が絡まったものや、建物の色が赤や紫のものもあった。辺りには人間、人間、人間…随分活気のある街だ。
「さぁーて、まずは宿に行こう!」
アーチャはしっかりと俺の手を握りながら、スタスタと歩いていく。辿り着いたのは、木の板に文字が書かれたものがぶら下げられている建物。他の建物よりも大きく背が高い。眺めている時間はなく、アーチャは扉を開けた。
カランカランと金属が鳴る。建物の中は開けていて、奥の方に若い人間の女が1人ニコニコしながら待ち構えていた。
「いらっしゃいませ~」
「空いてる?」
「お二人様ですか~?」
人間は指を2本立ててまたニコニコしている。
「うん」
「はい~ご用意できますよ~」
「お願い」
「はい~では、こちらお部屋の鍵になります~。お部屋は3階の2号室になります~」
アーチャは鍵を受け取ると、宿から出た。
「お部屋に行かないのか?」
「まずはご飯食べなきゃ!」
「ご飯か」
「人間は朝、昼、晩って1日に3回はご飯を食べて生きてるんだよ」
「そんなに食べるのか」
「そ、燃費悪いの」
「それで何を食べるんだ」
「むっふっふ、とっておきのお店よ」
アーチャはニヤリと何かを企んでいるような怪しい笑顔でそう言った。宿から離れ、連れてこられたのは沢山の臭いが混じる場所。アーチャはここは飲食店街というところで、ここで人間は飲んだり食べたりするそうだ。
周りの人間はテーブルを囲み、ガラスのコップに入った液体を浴びるように飲んでいたり、大きな肉なんかをガツガツと獣のように食べて騒いでいる。
何百年も身を潜めていた俺には、この喧騒は落ち着かない。俺が顔を顰めていると、アーチャは真っ赤な建物に沢山の明かりがついた建物に入った。そこは丸いテーブルがいくつも置かれ、人間がこれでもかと言うほどひしめいていてる。
「ここは…」
「私のオススメのお店なの」
「おすすめなのか」
「ちょっと待ってて!」
アーチャはそれだけ言うと人混みに消えて行った。
俺はこの人混みの中でどうしたらいいのか分からず、ただアーチャに言われた通りにそこで立ち止まっていた。そんな俺の肩を誰かが叩き、振り返ると見知らぬ人間の女が俺の肩に手を置いて俺を見ている。
「お兄さん1人ぃ?私と良いことしない?」
オレンジ色の長くくねくねした髪に、瞼が青く光っている。唇は不自然に赤く光っていて、アーチャとはだいぶ違う顔をしている女は、肩からするすると手を滑らせながら俺の腕に手を絡めてきた。
「良いこととはなんだ?」
「やだぁ!そんなこと女に言わせちゃう~?」
「??女は言えないのか」
「お兄さんたらそれワザと?それとも天然なのかなぁ~かわいいんだけど~」
女はコロコロと笑い声をあげる。
そしてぐっと俺に体を近づけて密着してきた。人間の体はこんなに柔らかくて少し温かい、噛み付いたら簡単に肉が裂けてしまいそうだ。
「おい…」
低い呼び声、カチャリと金属の音、振り向くと女の頭にピッタリと銃口を向ける恐ろしい顔をしたアーチャがいた。青い目が夜のように深く、眉間に数え切れないほど皺が寄っている。手には何やら大きめの紙袋を持っており、これを取りに行ってきたようだ。
「このガバ◯ンクソ女…人の旦那様に何してんだよ」
「ひっ!!?」
女はガタガタと震えながら俺からゆっくり離れ、両手を小さく挙げた。顔は瞼のように青く、カチカチと歯と歯を鳴らして涙やら鼻水、体から雨のように汗が出ている。
「戻ったのか、アーチャ」
アーチャはチッと舌打ちすると、銃を女から離してクイっと顎で指図をした。女はよたよたと腰が抜けたのか、色んなものにぶつかりながら人混みに消えて行った。
アーチャは女が消えたのを見届けてから、俺をじとーっとした目で見上げ頬を膨らませる。
「何してるの!」
「アーチャを待っていた」
そう答えると、アーチャは目を見開いた後に大きくため息を吐いて頭を掻いた。そして、紙袋を抱えながらそっぽを向いて面白くなさそうな顔をした。
「私が居ない間に他の女が来てもすぐ追いはらわなくちゃダメ!」
「わかった」
怒られたようだ。
何故かは分からないが俺は頷いて答えた。
「も~!」
アーチャは地団駄を踏むと煮え切らない顔のまま、俺の手を掴んでずんずんと人をかき分けて歩いて行った。どんどんと街を進んでいき、俺はアーチャの姿だけを目で追い、またどこか知らない場所に連れて行かれた。
気づけば街明かりは薄れて、淡い色の花が一面に咲く小さな丘のようなところに来た。振り向けばさっきまでいた街が遠くに一望できる。風がそよそよと吹いて、髪の毛が揺れているように見えるのも幻覚なのだろうが、本当に自分が人間になったような気にさせる。
アーチャの方を見れば、小さな布を錬金術で大きな赤い布に変えていた。その布の上によじよじと座り、紙袋を開けてから俺を手招きして呼んでいる。
「お~い、こっちこっち」
隣の空いたスペースをポンポンと叩く。そこに座ると、黄色い紙に包まれた温かいものを手渡された。両手に乗るほど大きい。
「ジョルマザに来たらレッドソウルのハンバーガー!これ絶対!」
「はんばーがー、これは食べ物か」
「すっごく美味しいよ!」
アーチャはニコニコして紙を剥がす、俺はその動きをじっと見ながら同じように紙を剥がした。紙を剥がすと中からふわっと肉や草の匂いと、甘いような匂いがして、これは何なのかを尋ねた。
「この挟んでるものがパンで、パンに挟まれてるのがハンバーグとチーズとトマト、レタス、あとはすっごく美味しいソース!」
「それが全て合わさってのハンバーガーか」
「うん!食べてみて、びっくりするよ」
アーチャはいただきますと言って、大きな口を開けてハンバーガーに噛り付いた。ん~っと幸せそうに頬に手を当てハンバーガーを味わって食べるアーチャを見届けてから、俺も自分のハンバーガーを一口食べた。
途端、口の中に色んな感覚が広がった。
もふもふ、しゃきしゃき、どろどろ、とろり…アーチャが初めてくれた飴とは違い、複雑に様々な味と食感が入り混じっていながら、全てがまとまっている。人間はこんなに素晴らしい食べ物を毎日3回も食べているのか。
「美味しいでしょ!」
「すごくおいしい」
「ポテトもあるよ~」
黄色い長細い食べ物を差し出された。それを一つ摘んで口に入れる。噛むとカリッと音がなり、熱くてほくほくしていて、絶妙な塩加減ハンバーガーの味を邪魔しない。これもとてもおいしい。
「フライドポテトって言って、切ったジャガイモを油で揚げてお塩をかけた究極のハンバーガーのお供なの」
「ふらいどぽてと…おいし。」
「たくさん食べていいよ」
俺は黙々とハンバーガーとポテトを交互に食べ続けた。何百年まともに料理など食べた事がなかったから、久しぶりの感覚に満たされた。気づけばポテトはほとんど俺が食べてしまった。アーチャは笑いながら気にしなくていい、と言ってくれたから良かった。
おいしい…その余韻に浸り、ぼーっとしていると食べ終わったらごちそうさまと言うのだと教えてくれた。
「ごちそうさま」
「そうそう、食べるときはいただきます!食べ終わったらごちそうさま!って言うのが食事のマナーなの」
「わかった」
「あ~、今日は一日動き回ってたから疲れた~」
アーチャは体を後ろに倒し、両手で突っ張りをするように力の抜けた格好をした。その顔はニコニコと満足そうで、俺はそんな姿に張り詰めていたものが少しだけ安らいだ。
「お外は楽しい?」
「あぁ、色んなものを初めて見た。人間がこんなにおいしい食べ物を作れること、食べてることに驚いた」
「なら良かった」
「こんなに白いポピーが咲いている丘に来れたのも良かった」
そこら中にたくさん咲き、夜でも星のように淡く存在を主張する白いポピーは風に遊ばれるように右に左にゆるく揺れ動いている。足元のポピーに目を向け、アーチャの方をくるっと向くと大きな目をさらに大きくして俺を見ていた。
「どうした?」
「魔神さん…よくこの花の名前を知ってたね」
「珍しいのか?」
「ううん、知らないことばかりじゃないよね」
アーチャは、首を左右に振る。
知っているものは確かに少ないが、俺はどこでこの花の名前を覚えたのだろうか。ずっと昔に聞いたのか、まったく覚えていない…俺が暮らしていた山の中は荒野だったからほとんど草木なんてものは生えていなかった。
だが俺はどこかでこの花の名前を…
名前…
「聞きたいことがある」
「ん?どしたの」
俺は入国審査証を出した。
「俺の名前は、ブラッド・クリムゾン でいいのか」
アーチャはドキッ!と目を丸くして身を固くした。そして腕を組み、眉間にシワを寄せてあーんーと困ったような顔をして体を前後に揺する。
「ん~と、気に入ったの?」
「気に入った…とはよく分からないが」
不意に初めて呼ばれた名前はとても衝撃的で、初めて与えられた贈り物で、それは初めて自分の存在を認めてもらえた瞬間だったんだ。
「…嬉しいとは思う」
「魔神さん笑うんだね。…そっかそっか、なんだか人に喜んで貰えるのってむず痒いな~」
「ブラッドだ」
「え…」
「ブラッドだ、魔神さんじゃない」
「そ、っか」
アーチャは両足を小さくパタパタと動かし、くすぐったそうに小さな声で笑った。眉を下げ困ったような顔だったが、頬はほんのり赤く口元は笑っている。
少しの沈黙のあと、アーチャは子供のような笑顔で体をねじり、俺に右手を差し出した。
「じゃあこれからよろしくね、ブラッド」
「あぁ」
俺はその手をぐっと握り返した。
宿に戻り、与えられた部屋の戸を開ける。部屋の中には小さな椅子とテーブル、そして真ん中に大きなベッドが一つ置かれていた。アーチャは靴を脱ぎ捨てると、大きくジャンプしてベッドの上にゴロゴロと寝転んだ。
「やっほーい!ふっかふかのベッドだー!」
ベッドの上で暴れているアーチャを眺めていると、俺に気づいたアーチャがベッドに座りポンポンとベッドを叩いた。これはこっちに来るようにという合図だったなと思い、俺はベッドに上がりアーチャの隣に座った。
俺が座るのを確認すると、むふふふと満面の笑みで両手を組み体をくねくねと左右に動かし始めた。俺はそれが何の行動なのか分からず首を傾げる。
「どうした?」
「夫婦になって初めての夜なんだから、やる事はひとつしかないじゃないの~」
「何かやる事があるのか」
「とりあえず一回その指輪外しましょうか」
俺が返事をするよりも早く、アーチャは俺の手から素早く指輪を奪い取った。ぐらっと景色が歪み、自分の手を見ると見慣れた俺の姿に戻っている。少々残念だ。
「じゃあ旦那様、両足を広げて座ってくださーい」
アーチャは両手を高々と上げてそう言った。
俺は言われるがままベッドの上に両足を投げ出すように座る。するとアーチャは目をギラギラと輝かせ、俺の足の間に四つ這いになって近づいてきた。はぁはぁと荒い息をしながら、ゆっくりと俺の足の間に手を伸ばす。
「何をするんだ?」
「むふふふふ、ナニを拝むのですよ」
「なに…?」
ズボッ
アーチャは俺の足の間の毛に手を突っ込んできた。突然のことに体がビクッと跳ね上がり、何かを探しているのか足の間の毛の中を容赦なく触られまくる。
わしゃわしゃわしゃ
「ん?」
わしゃわしゃわしゃ
「ん?んん?」
目を輝かせながら口から涎を垂らし、はぁはぁと俺の足の間を弄り続けていたアーチャの顔がどんどん真顔になっていく。遂には俺の足をガッと両手で押さえ込み、顔を足の間に押し込んできた。そのまま入り込みそうな勢いで顔をグリグリと押し付け、俺は後ろに倒れこみそうになるのを腕で堪える。
「むわっ」
バサッ
毛の中から顔を出したアーチャは、青白い顔をした。そして頭を垂れてぶつぶつと何かを話している。俺は心配になり、足を閉じて立ち膝の格好でアーチャに声をかけた。
「どうかしたのか」
「なんで…」
「ん?」
俺が聞き取れなくてさらに前のめりになると、アーチャはいきなり顔を上げ、ガシッと俺の胸に両手を置き吠えた。
「なんでち○ちんがついてないのーーー!!?!」
「!?」
外まで響き渡るような大声でアーチャはそう言い放ち、目からは滝のように涙が流れている。よく分からないが、俺は何かとんでもないことをしてしまったのかと思う。オロオロしていると、アーチャは俺にしがみつきながら話を続ける。
「ち○ちんも金○マもついてない!雄じゃないなら雌かと思っても尿道も生殖器も何にもついてない!!」
「ち…ち○ちん?」
「お尻の方にも何にもない!穴すら空いてない!!突っ込める武器もなんにもない!」
「ん?ん?」
アーチャは俺の胸をガシッと掴む。
「おっぱいもない!!」
そのままアーチャは俺の胸に顔を埋め、ズルズルと尻を突き出すように滑り落ちていった。
「…すまない」
「うっうっ、ぐす、ち○ちん…」
「その」
「なかったらどうやってエッチするの~」
「そのち○ちんと言うのを手に入れればいいのか?」
俺がそう聞けば、アーチャはお尻を突き出し突っ伏したままの情けない姿で首を横に降る。
「ち○ちんは、ぐすっ他人のじゃダメなの」
「そ、そうか…」
「う、うっぶぅう~」
「どうやったらち○ちんは生える」
「……生える…?」
ガバッとまたアーチャが顔を上げた。
目の周りを真っ赤に染めて、悪どい笑顔で肩を震わせて笑っている。ひっひっひと引き攣った笑い声を漏らしながら、1人呟く。
「そうよ、この街にはアイツがいるのよ」
アーチャはふらふらと体に骨が入っていないような動きで立ち上がった。
「ないなら作ればいいのよ…アイツならできる!きっと!」
「ア、アーチャ…?」
名前を呼ぶとアーチャはぐるんとその場で体を回転させたかと思えば、そのまま俺に飛びつく。首に手を回し、ぎゅーっと抱きついてきた。
「明日すぐにあの女のところに行こうね!」
「む?」
「あーもう!早くお風呂に入って寝よう」
アーチャは俺に指輪をはめ直すと、風呂場に向かった。だが俺の大きさでは中に入れないと分かり、アーチャは指輪に細工をしてくれた。見た目と共に法則という良くは分からないが、俺の大きさを人間の見た目まで小さくしてくれるらしい。俺の周辺の空間を歪ませているとかなんとかで、俺にはまだ難しい話だ。
手際よくというか剥がされたと言った方がいいのだろう、あっという間に裸にされたかと思えば浴室に押し込まれた。タイル張りの風呂場は広く、湯船にはお湯がはってあって浴室はとてもポカポカしている。
「お待たせ~!」
戸を開ける音と共にアーチャは手にタオルを持ち、ニコニコしながら入ってきた。
「…裸だ」
「そりゃお風呂だもん!」
真っ白い肌、俺と違って体には毛が生えていない。ふにふにしていてとても柔らかそうな体をしている。じーっと頭の先から足の先までを何度か往復して見ていたら、アーチャが両手で胸を隠し身をよじった。
「も~新妻の体をそんなにまじまじ見ちゃって~!ブラッドのエッチ!」
「すまない」
「うふふ、冗談だよ」
それからのお風呂はすごい体験だった。石鹸といういい匂いのする石を擦ると泡が出た。それで人間は体を洗うらしく、今日は初めてのお風呂だからとアーチャが俺の体を石鹸とタオルを使って洗ってくれた。
「水が黒い…」
「何百年分の汚れかな~綺麗にしちゃうよ!」
人間の見た目では肌は確かに褐色だが、体から流れる水はどう見ても黒い。アーチャに長い時間頭から足の先までを洗ってもらうと、徐々に水が綺麗になっていった。俺の体がピカピカになったら、アーチャは先にお風呂に入るように促した。俺はそれに従い、お風呂に浸かる。ザバーっとお湯が溢れて、肩まで浸かると体全体が温まる。
「素晴らしい…」
「お風呂気持ちいもんね~」
ちらっと目を向けると、アーチャが鼻歌を歌いながら体を洗っていた。もこもこした泡に包まれていても金の髪と白い肌がよく映える。今日見た人間の中でもアーチャの容姿は優れているということが俺にも分かった。
見た目が美しくても、アーチャはたくさんの罪を犯し、俺の目の前でたくさんの人間を殺している。子供のような見た目でも、俺の知らないことをたくさん知っていて特別な術をたくさん使える。
「アーチャ」
「なに?」
「アーチャはすごい人間だ」
「あはは!どうしたのいきなり」
体を洗い終えたアーチャが俺に背を向けるようにお風呂に入った。またザバーっとお湯が溢れて、アーチャは俺に寄りかかるようにくつろぐ。
「ふぃ~」
「今日だけでも色んなことを教えてくれた」
「どういたしまして」
「自分の足で歩けて、自分の目で見えることがこんなに凄いことなんだと学んだ」
「これからもっと色んなことを学んで、それから私と子作りして、アナタがどうやったら死ぬのか考えなきゃ」
アーチャは両手を後ろに伸ばして俺の顔や首を優しい手つきで触れる。こちらに振り返ることはなく、ただスルスルと手を動かした。
「明日はち○ちんを生やさなきゃ」
「うむ」
お風呂の時間は終わり、寝支度を整えてベッドに入った。初めてのベッドはふかふかで心地が良い。あの穴の中で土を背に寝ていた時とは違う、包み込まれるような感覚に瞼が重くなってきた。天井を向いて寝ようとする俺の手を、アーチャがぎゅっと握る。
「ん?」
「ブラッド、眠る時はね"おやすみなさい"って言うんだよ」
「おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
満足そうなアーチャの顔を見て、俺は瞼を閉じた。
。
応援ありがとうございます!
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