伊都國綺譚

凛七星

文字の大きさ
7 / 16
第七章

第七章

しおりを挟む


 お京がどこかへと出た店の待合で、半ば下ろした蚊帳の裾に座ったわたしは一人っきりで蚊を追いながら、ときに湯沸しの加減に気をやった。たいそう暑さの烈しい晩なのだが、昔ながらの風情で商売をするところでは、お客が上がった合図に茶を持っていく習慣が残ってたりする。ここもそういう風であった。
 いつもならお京が店口に蚊遣香を焚いてるころだが、今宵は一度もともされてないと見え、家中にわめく蚊の群は顔を刺すのみならず、口中へも飛び込んできた。暫く坐って我慢していたが、堪らなくなって中仕切りの敷居際に置かれていた扇風機の引き手を捻ると破れていて廻らない。次いで抽斗から蚊遣香の破片を漸く取り出し火を点けた。
 窓から男の声がして何か紙片を差し入れるのと同時に、お京が帰ってきてその紙を取り上げた。卓に素っ気無く置かれたのを偸見すると、謄写摺りした強盗犯人の捜索協力回状だった。女はそんなものに目もくれず「あした抜かなくっちゃいけないって云うのよ、この歯」と、わたしを見ずに頬に手を当てた。

「じゃァ、今夜は食べる物はいらなかったな」

 わたしは手土産の惣菜と花代をわざとらしく置いて、一人先へ立って二階に上がった。二階は窓のある三畳間に卓袱台があり、次に六畳と四畳半ほどの二間があった。一体この家はもと一軒であったのを表と裏で二軒に仕切ったらしく、下は茶の間一室きりで台所も裏口もない。二階は階段のところから続いて四畳半まで壁は紙を貼った薄い板一枚で、裏隣の物音や話し声が手に取るように聞こえる按配だった。しばしば否応なく淫戯のうわ言を耳にして笑ってしまうことも度々である。

「あら、そんなとこ。暑いのにさ」

 上がってきたお京はすぐ窓のある三畳の方で染模様のカーテンを片寄せた。

「此処においでよ。いい風だ」

 手招きする方へと進むと窓から光が流れるのが見えた。

「さっきより幾らか涼しくなったな。成る程、よい風だ」

 窓のすぐ下は日蔽の葭簀に遮られていたが、向かい側に並んだ家の二階や、窓口に坐る女の顔、往来する人影、それら路地一帯の光景は案外遠くの方も見通せた。空は鉛色に重く垂れ下がって星も見えず、表通りの電飾灯が半空までも薄赤く染めている様子が蒸し暑い夜を尚一層のこと暑くした。
 お京は座布団を取って窓の敷居に載せ、そこに腰をかけると暫く空を眺めていたとおもったら突然わたしの手を握った。

「ねぇ、あなた」
「なんだ。どうした」
「あたし、借金を返しちまったら……あなた、おかみさんにしてくれない?」
「オレ見たようなの。仕様がないじゃないか」
「ハスになる資格がないって云うの?」
「食べさせることができないんだから、資格がないね」
「そんなの、二人で食べてく稼ぎくらい……」

 お京は話をそれっきりにすると、路地の外れから聞こえ出したヴィヨロンの音に合わせて鼻唄をする。わたしが見るともなく顔を覗こうとすると、お京はそれを避け急に立ち上がった。片手を伸すと柱につかまり紅色の長襦袢を羽織っただけの姿で、乗り出すように半身を外へ突き出す。

「もう十年……若けりゃなァ」

わたしは卓袱台を前に坐って巻き煙草に火を点けた。

「あなた、いくつなの?」

 此方へ振り向いたお京の顔を見上げると、いつものように片笑窪を寄せているので、何とはなしに安心した心持になった。

「もう、五十あたりと言ったところさ」
「へぇ、そんなには見えないわね」

 お京はしげしげとわたしの顔を見た。

「あなた。まだ四十ほどで通るわよ。髪の毛なんてそんなだし」
「四十は言い過ぎだ。でも、ほんとの齢を当てられることはまず、ないか」
「あたしはいくつ位に見えて?」
「そうさなぁ…二十歳くらいにも見えるが、三くらいかな」
「あなた、口がうまいから駄目。もうすぐ二十六よ」
「お京、おまえ、東京の生まれ育ちって言ったね。あちこちで女給してたとも」
「ええ、そうね」
「よく馴れない土地に来たもんだな。それに…水商売とは勝手が違っただろう。お金がいることがあったのかい?」

 女は齢に似合わぬ翳りを顔に浮かべ、嘆息をひとつ溢した。

「そうでもなけりゃァ……。それに初めッから承知で来たんだもの。銀座での勤めでは掛りまけがしてさ。借金の抜ける時がなくって。それで……どうせ身を落とすなら稼ぎがいい方が結句徳だもの」
「そこまで考えたなら全くえらい。ひとりでそう考えたのか?」
「こっちで商売をしていた姐さんを知ってたから、話をいろいろとね」
「それにしても、えらいよ。年があけたら少し自前で稼いで、残せるだけ残すんだね」
「わたしは占いだと客商売に向くんだとさ。だけれど行く先の事はわからないから、ネェ」

 じっと顔を見詰められたせいで、わたしは再び妙な心持になった。何だか奥歯に物の挟まったような、不安な気分になって此度はわたしの方が顔を外向けてしまいたくなった。
 表通りの電飾の灯が反映する空の外れには、先程から折々に稲妻が閃いていた。急に鋭い光がわたしたちの目を射たが、然し雷の音らしきものは聞こえない。風がぱったりと歇んで、宵口の暑さが蒸し返されたようである。

「今に一雨きそうだなぁ」
「あなた。髪結いさんの帰りに……。もう半年以上になるわねェ」

 わたしの耳に話を端折って、この「半年以上になるわネェ」と少し引き伸ばしたネェの声が何やら遠い昔でもおもい返すような、無限の情を含んで聞きなされた。「半年過ぎます」とか「なるわよ」と言い切れば、平常の談話に聞こえたであろう。だが「ネェ」と長く曳いた声には咏嘆の音というよりも、寧ろそれとなく返事を促す為に遣われたようにも感じた。

「そうか……」

わたしは応じかけた言葉を飲み込んでしまって、唯お京と目容を交差させるのみであった。


しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...