伊都國綺譚

凛七星

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第八章

第八章

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 来そうにおもわれた夕立も来る様子はない。
 火種を絶やさぬ茶の間の蒸し暑さに堪えかね、事を終えたわたしは寛ぐこともせず娼家の外へ出た。帰るには、まだ少し時間が早い。
 路地を抜け、表の通りに出ると両側には屋台が並んでいた。道は客待ちの自動車が並び、幅を狭くしているところに乗り降りする者もいるので猶更に混雑をしている。
 さっさと家を後にしたのは蒸し暑さのせいばかりでない。わたしの胸底には先刻お京が半ば冗談らしく感情の一端をほのめかした時、不意に覚えた不安が消え去らぬばかりか、得体の知れない生き物のように蠢いていた。



 わたしはお京の履歴について殆ど知るところがない。どこやらで水商売の女給をしていたと言っているが、それもどれほど確かなものかわからない。何の拠る所なく、吉原あたりの左程ひどくない店にいた女らしい気がしたが、却って当っているのではなかろうか。言葉には少しも地方の訛がないから、銀座生まれというのは眉唾にしても東京の生まれ育ちであろう。其の顔立ちや、全身の皮膚が白く綺麗なところも都会の匂いがする。性質は快活で、現在の境涯を深く悲しんではいないようだ。寧ろこの境遇から得た経験を資本にして、どうにか身の振り方をつけようと考えているだけの元気と才智があるらしい。男に対する感情の有り様も、わたしの口から出まかせに言う事すら、其のまま疑わずに聴き取るところを見ても、まだ全く荒みきってしまわない事は確かである。然うおもわせるだけでも、銀座などで長らく働く女給などと比較して、お京の如きは正直とも醇朴とも言えよう。
 端無くも銀座などの女給と窓の女を比較して、わたしは後者の猶愛すべく、そして猶共に人情を語る事ができるもののように感じていた。街路の光景にしても、両方を見比べて後者の方が浅薄に外観の美を誇らず、見掛け倒しではない事から不快な念を覚えるというのも遥かに少ない。
 路傍の屋台店では酔漢の血まみれ喧嘩が見られた。洋服の身なりは相応のものであるが、其の職業は推察しかねる人相の男たちが、世も憚らずに肩で風を切り大声を上げていれば喧嘩の一つ二つは当然。雑沓の夜を危険や怖れを避けては愉しめないが、敢えて求める輩たちは道さえ譲ることが煩わしいのである。



 お京は毎夜路地へ入り込む数知れぬ男たちに応接する身でありながら、どういう訳で初めてわたしと逢った日の事を忘れずにいるのか、それが有り得べからざる事のように考えられた。初めての日をおもい返すのは、其時の事をこころに嬉しとする処がある為と見なければならない。
 然し、斯様に女がわたしのごとき中年男に対して、尤も先方ではわたしの年齢をいささか若く見ていたようだが、それにしても好いたの惚れたのというような、若しくはそれに似た柔く温な感情を起こし得るとは夢にもおもって居なかった。
 わたしがお京の許に毎夜のごとく足繁く通って来るのは、既に記述したように種々の理由があったからである。創作の為の実地観察。喧騒からの逃走。其の他の理由であるが、いずれも女に向かって語り得るべき事ではない。わたしは女の家を夜の散歩の休憩所にしていたに過ぎないのであるが、そうする為には方便として口から出まかせの虚言もついた。故意に欺くつもりではなかったが、最初にお京の誤り認めた事を訂正もせず、寧ろ興に任せてその誤認を猶深くするような挙動や話をして身分を晦ました。その責は免れることはできないかも知れぬ。



 それは左手置き、わたしは東京や大阪、京都などの花柳界のみならず、西洋に在っても売笑の巷に始まって社会の暗黒部分まで熟知していた。若し、わたしが如何なる人物か、何者たるかを知りたいと云う酔興な人があっても深く立ち入るを勧めない。つまらぬ例えをするならば、公明正大とする社会の偽善的虚栄心や詐欺的活動で生まれる膿への義憤は、不正暗黒とされる世界に己を馳せ赴かしめてこそ果たせる機会や力を得る時もある。世間で真白と称する壁であっても、そこには汚い様々なる汚点を見出せる。比して投捨された襤褸の片にも美しい縫い取りの残りがあるものだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちている。それと同様に悪徳の谷底にも美しい花と香ばしい果実が却って沢山に摘み集められることもある。
 これを読む人は溝の臭気がごときの扱いを受ける女たちを、わたしが怖れもせず、醜いともせず、寧ろ見る以前から親しみを覚える事に惑うことなく推察できよう。彼の女たちと懇意になるには、少なくとも彼女らから敬して遠ざけられないように身分は隠している方がよい。女たちに「こんな場所に来ずともよいのに」と、おもわれないことだ。ましてや彼女たちの生活を薄幸と決めつけ、芝居でも観るような、上から見下ろす態度で悦ぶのだと誤解されては辛いし、出来得る限り之を避けたいものである。それには身分を秘する外にない。只の男と女であることがよい。



 わたしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今以てその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女らを望むがままに家に納れて箕箒を把らせたこともあったのだが、然しそれは皆ことごとく失敗に終わった。彼女達は一たび其の境遇を替え、其の身を卑しいものではないとおもうようになれば、一変して教う可からざる懶婦や、然らざれば悍婦になってしまうのであった。
 お京はいつとなく、わたしの力に依って境遇を一変させようと云う気持ちを起こしている。懶婦悍婦になろうとしている。お京の後半生を懶婦たらしめず悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭人たらしめるのは、失敗の経験のみが富むわたしのような者ではなくして、前途が光で照らされた、猶多くの歳月を持ってる人でなければならない。
 然しながら今、これを説いてもお京には決してわかろう筈がない。お京はわたしの多重人格の一面しか見ていない。わたしがお京の窺い知らぬ他の一面を曝露して、其の非たるを知らしめるのは容易である。が、それを承知で、猶躊躇しているのは心に忍びないところがあったためだ。これはわたしを庇うのではない。お京が自らが誤解を悟った時に甚だしく失望し、甚だしく哀しみはしまいかと恐れていたからである。



 お京は世に倦み疲れたわたしの胸に、偶然に過去の世の懐かしい幻影を彷彿たらしめた女神であった。こうして一篇の草稿を綴れるのは、お京の気持ちがわたしに向けられたからこそである。少なくともそう云う気がしなかったなら既に原稿は裂き棄てられていたであろう。お京は現世から見捨てられた名もなき物書きに筆を執らせた不可思議な激励者なのである。
 わたしは其の顔を見る度に心から礼を言いたかった。其の結果から論じれば、わたしは処世の経験に乏しい彼の女を欺き、其の身体のみならず其の真情をも弄んだ謗りを受けても致し方のないところである。
 わたしは此の許され難き罪の詫びをしたいと願いながらも、それが出来ぬ事情に苦しんだ。結果、わたしはお京の家へと足を向けなくなってしまうのであった。


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