伊都國綺譚

凛七星

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第九章

第九章

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 あの夜限りだと、もう行かぬつもりでいたにも係らず、一ト月もしたころ何やらもう一度行って見たい気がして来る。お京はどうしているだろう。相変わらず窓のところへ坐っているのか。それとなく顔だけでも見たくなって堪らないのだ。
 お京に気づかれないよう、そっと顔だけ、様子だけ覗いて来よう。そんな心持ちになったわたしは、気づけばまたもや那珂川の辺りを風に吹かれ背中を押される様に歩いていた。
 路地に入る前、顔を隠す為に帽子を買い、素見客が何人か来合すのを待って、それらの蔭に姿を隠して此方からお京の家を窺いて見るが、その姿は探せなかった。同じ軒の下にはもう一つ窓があり、いつもなら閉めきられてあったのが、其の宵は明るくなっていて、燈影の中には丸顔の女が動いている。新しい抱(かかえ)…であろう。遠くからでは能くわからないが、お京よりは齢を取っているらしく容貌もよくないようである。わたしは人通りに交じって路地を曲がった。
 いつの間にか風は凪いで蒸し暑くなっていた。
 夏の夜は人を惑わせる何かがあって、この暑い中にも夥しい人出であった。曲がる角々では身を斜めにしなければ通れぬ程で、流れる汗と息苦しさに堪えかね、わたしは出口を求めるように自動車が走せちがう広小路へ出た。そして屋台の並んでいない方の舗道を歩み、もうこのまま帰るつもりで地下鉄の駅へと続く階段の前に佇み、額の汗をハンケチで拭った。
 全く、なんと身勝手な行動であろう。女の気持ちを知りつつも、それを持て余したあげく縁切りしようとしたくせに。わたしは己を嘲り笑うと、階段へと一歩踏み出そうとしたが、どうにも急に訳もわからず名残り惜しい気がして、又ぶらぶらと歩き出した。そして適当に見当をつけた呑み屋に入って、朝まで強かに酒を呑んだ挙句、始発の電車に這う這うの体で乗ったのだった。




 博多から筑肥線で唐津方面へと向かう途中に筑前前原駅がある。わたしの僅かな所帯道具らしき荷物を預かってくれて、気儘に部屋を使わせてくれる宅が、其の駅近辺にあって、其処を基点に九州の各地をときに所用で、ときに宛てなく巡る日々を過ごしていた。
 古の頃、この辺は『魏志倭人伝』の中で倭の國の内の一つ、伊都國があったと説かれていて、朝鮮や中国との交流の為の重要な拠点であっただけでなく、卑弥呼が居たという声もあって興味深い。新興の住宅地として開発されているそうだが、まだまだ見渡す一帯の景色には田園も多く、夕照の頃には何とも云えぬ美しい橙色に包まれ渡って、どんより夢見るように静まり返る。
 湾が近く風は強いが、然し晩夏ともなれば空気は到って爽やかで、街路樹と云い、家と云い、近くと云わず、遠くと云わず、鮮やかに明るい。高層の部屋からは、対岸の遠い山の木々の一つ一つが明瞭に見える程だ。
 けれどもその鮮明さは決して実在的なものではない。手に触れようとしても触れる事の出来ぬ、云わば明鏡の面に映じた物の影を見詰めている様な心地なのである。
 天地は此くの如く漠然たる夢現の世界に成って了うのかと感嘆してしまう。いまや恋も歓楽も、現実の無残なるに興醒めたわたしには、独り物想いに耽溺する為には、此処はぼんやりと時を過ごせる楽園なのかもしれない。
 一体、わたしは何の為に自ら勇んで九州の地に来たのであったか。もう他の地に渡る機会はないのか。少時、眼を閉じた後に四辺を眺めた。黄昏は幾ばかりか光沢を失い、深紫の色が添って来る。対岸の山や人家の屋根は背面からの斜光を受け、明確なる輪郭を示している。天地が此の夜と云う大安息日に入ろうとする瞬間、永遠に低く唸るかのような浜風からは底深くで響く囁きが、わたしには聞こえる気がした。
 お京はどうしているのであろう。どうしてわたしを愛したのであろう。女は何時までも何時までも待っているのだろうか。そんな考えを持ってしまうと、しみじみ恋しくなる。もう一度あの家に行って見ようか。否、否、と、わたしは直ぐおもい返した。
 彼女もわたしも人間である。時間が過ぎれば恋も覚めよう。夢も消える時が来よう。わたしが今こうして博多から離れて、独り伊都の空の下で苦界の女の事を思い詰め、疲れ、やつれ、哀しんでさえいれば、この悩んだ胸の中に宿る女の面影は永遠に若く、美しいまま変わる事はない。恋しくて、寂しくて、もう一度眼に見、手にも触れ、腕に抱いてもみたいが、雲遠く水遥かに、おもう事のかなわぬ哀れさに切なさが、芳しき薫りを消さぬ不朽の恋と成り得ないか。
 終の全きもの、目出度いものには何一つ真の生きたる夢が宿り得よう。全き現実に興醒め、絶望の淵を眺め生きるわたしには、斯様な夢のみで充分なのだと自身に問い質すのであった。


万象消え行く夏の終わり、朧の光りぞいや美しき。

そは愛の別れを告ぐるに似たらずや。

その永えに閉じなむとする柔らかで温かなる唇の、

臨終の微笑みに似たらずや。


 光なく力衰え老いさらばえたる夕陽は沈み果て、その余光を留むる空の色は既に夥しく紫がかり、霧とも靄ともつかぬ薄い烟となって四辺に漂う。係る時、田舎町の処々に設けられた四辻に佇むと、家路を急ぐ人の影のみ際立って街路樹の間に動く。空は一刻一刻と暗くなりながらも、まだ消えやらぬ哀しい黄昏の光に星は見えず、然し地上の燈火は早や夜らしい光を放って、樹の影をば路の上に投げている。
 輝く電燈の下では、急いで歩む男女たちがいる。これ等の人の跫音、馳せ過ぎる電車や自動車の響は、暮れ行く時の「生活」という苦痛の音楽を奏でていた。係る時、商店の続く通りを歩むと、此処は両側の硝子戸に輝く燈の光に夜らしい人の賑わいを見る。
 角々の料理屋では、植木鉢を置いた戸口から往来端までテーブルを据え並べ、黒い衣服の給仕人が皿を持ち忙しげに立ち廻っている。其処此処のカフェーや酒場からは、流行り歌の調べや歌声が漏れ聞こえ、往来では雑沓に交じり目の覚める様な装いで媚を売る女たちが往きつ戻りつする有様。田舎町は昼の様相とは打ち変わり、鄙びた地とはおもえぬ景色となる。そして人の匂いを纏った夜は、暫し孤独と戯れ空虚に過ごしていたわたしに蔽いかかるのであった。
 かくして灰色に褪せきった心も多少は浮き立つであろうと、狭い部屋の机の前から立ち上がると有合う小銭を衣嚢へと突っ込み、燈火の照らす巷へとわたしは向かうようになったのである。


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