『競艇放浪記』

凛七星

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第十四章

【番外アホー鳥篇】

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 しかし、この三ヶ月ほどは、アホー鳥の阿波踊りだった。

 博奕では見もたいせつなのは勝負に賭する者なら誰もが身にしみて知っていることだが、見をするしかない身ではどうにもやるせない。この三ヵ月ほど、これだけ負けまくっては仕方がないのだが。

 年明けから何があったかは言えないことで身体のあちこちを傷めてしまうわ、インフルエンザでヘロヘロになって寝こんでしまうわで身動きできなかったので、煙草銭や安酒代にも事欠く始末も、元気なときほどにひもじく感じずにすんだのは不幸中の幸いである。

 とはいえケガはまだまだ治るまで時間がかかりそうで、快復が遅いことに年齢的な衰えを実感させられるし、熱が引いて起き上がれるようになると途端に物資不足がせつなくなってしまう。

 小銭でも稼ぎたいところだが、そのタネ銭もないからパソコンでレース中継を観戦していて予想どおりに高配当がきたときなどは、歯軋りして地団駄踏んで阿波踊りをしてエッサッサーである。踊らにゃ損そん、そりゃわかっちゃいるけどね。無駄に踊るのは辛いものだぞ、ホント。

 で、腹が立つことが多いので見もそこそこにしてレースから意識的に離れていようとしていた。だけどダメなのである。ツイッターやメールや電話で競艇好きの仲間たちから「あのレースはどうだ?」だとか「このレースならどこを狙う?」とか喧しい。またまたアホーになって踊らにゃならんのかよと、おもいつつも中継を観るハメになってしまうのだった。

「このレースは穴を狙うったい。中のコースが凹みよるっちゃけん、4カドからズドンとマクリやろうもん!」

 年末年始を関西でヤボ用をこなしつつ、旅打ちを楽しんだあと福岡の方へもどりスナフキンを続けているが、ある日こちらで仲よくなった競艇好きから電話があった。

「それなら頭を5枠と表裏にして、ヒモは人気薄になってる6にしたら」

 と、冗談半分で言った組み合わせがホントに跳びこんで来た。その競艇場では、ここのところ最終レースが荒れていたのが頭にあったので、大穴を狙うにはいいとおもったが、自前のタマ(現金)ならば狙えるかどうかという目で、配当は3百倍を軽く超えていた。

 おかげで、その同好の士から謝礼として幾ばくかの金子と酒や煙草や食い物を差し入れしてもらい、なんとかいま食い繋いでいる。



 ギャンブルとは不思議なもので、筋として荒れ場は荒れるし、堅いレースが続くときは総じて堅い結果に収まるのである。

 昔、若いころに放浪していた欧州で、有名なあるカジノの街に立ち寄ってルーレットの勝負を少しばかり遊んだときのことだ。

 数日ほど酒や宿を贅沢ができる程度に稼げたので、引き上げようとしたとき奥のハイローラー(高い賭け金)の席で大きな歓声がするから、なにごとかと遠巻きにのぞいてみた。

 そのカジノでは場の二十回分ほど分の出目が電光掲示板に表示されている。どうやらメイン客が赤と黒だけで勝負していて、黒が十回以上続いていた。

 場の主役である男の前には高額なチップが山積みであった。聞き耳を立てていると、男はアラブの石油産出国で豊かな王族の者だとのこと。すごい張り駒で続けて勝っていたための歓声だった。

 ルーレットの台というのは勝負のときに毎回調整をしているのだが、それでも出目が偏る傾向になる。ひとつの台に座って、ある数字のグループに張り続けても何時間も来ないことなどザラだ。むしろ同じ数字が何度も出ることがあるのだ。

 アラブの石油成金は勝負が始まると高額のチップを黒に張った。わたしは黙って知らん顔しつつ、それに乗って自分の手持ちをすべて黒へと置いた。結果は、ものの見事に黒。テーブルはパンクして、ディーラーは顔色を失っていた。

 バッタもんアラビアのロレンス男はかんらからからと高笑いして席を立った。どうやら勝ち分は数億円らしい。だが毎回ここまで自家用ジェットで来るという、ちょっと崩れたロレンスは今回の勝ちまでに何倍もの金を溶かしていると、胡散臭い風情が凝縮してスーツを着たといったカジノゴロらしき男が解説してくれた。

 おそらくアラブ男は、その後またカジノに何倍もいかれたのは間違いない。ともかくおかげで世界有数のリゾートを予定より十日ほど長く、わたしはスノッブすぎて鼻持ちならないセレブ女たちと豪華に楽しめた。



 どんなギャンブルでも勢いのある方、流れのある方へ、わたしがよく言う潮目のよい方へ乗ることが勝ち上がる基本である。長くギャンブルをしている人なら何度となく経験しているはずだが、勝ち続けているときは流れに、いい潮目に乗っている。そういうときは少々失敗したとしても、潮目の運がカバーしてくれる。ツキがあるというやつだ。

 しかし流れに乗っていないとき、つまり潮目に逆らっているときは、することすること裏目に出てしまう。こういうときに打つ手はひとつで、さっと引き上げることだ。

 それが勝ちに徹するプロの取る態度なのだが、せっかく時間と金を作って競艇本場へ来るようなファンというのは、流れに乗っていないことくらいで退くのはできないものだ。いわゆるバックギアがないのである。イケイケどんどんで退いたら負けじゃ!で攻めまくる。

 それも、ある意味では間違いないといえるのだが。それまで総崩れの結果であっても、最後の最後で大逆転というのが博奕の妙味ではある。なによりギャンブル好きは続けたいのだ。身を削るような緊張と、そこからの解放といった図式から生まれる快感に浸り続けたいのだ。

 とはいえ勝負し続けて勝ち組になることは不可能なことである。流れに逆らってまでもアホー鳥になって阿波踊りをしたい者は、最小限に勝負することなのだが……これがまた我慢できなくなるから始末が悪い。

 裏街道に生きる凄腕で有名な博徒の人を知っているが、わたしがまだ若く博奕をやり始めたころの話だ。

「凛くん、ギャンブルで一番強いのは何だとおもう?」

 と、その人物に聞かれたことがあった。

「胴元…ですか?」

「いや、人に限らず何でもいいんだが」

「………」

 わたしが黙ってしまうのを見て、次のように続けた。

「一番強いのはね、場というもんさ。場というものには、どんな打ち手でもかなわない。わたしはね、何十年と勝負で生きてきたが、場の持つチカラにはどうすることもできなかった。場こそが勝負を決めると言っていい」

 博徒として修羅場をくぐり抜けて来た人の言葉だ。わたしはその哲学的な言葉に深く感心したのを憶えている。わたしなんぞ、これだけ博奕をしていて未だに何かをつかめていない。きっと博徒としての格が違うのだろう。



 あらためて断言するがギャンブルに必勝法はない。ただ、長く打ち続ける方法論はある。ひたすらマイナスの要素から距離を置くことだ。ましてや競艇といった公営は、そうそうプラスにならないと心得ることがたいせつである。

 少しのプラスで調子に乗ると大きなマイナスを呼ぶというのは、いにしえからの博奕での習わしだ。あとはフォームというか、自分の形、スタイルを守ること。だが、これはそれ以前にスタイルを作り上げられる才能の有無が問題だし、敢えてスタイルを変え勝負するときが必要なときもあるしなぁ。うん、これはあまり気にしなくてもいいか。

 最後に大事な秘訣は…ひたすら金を引っぱってくる才覚だろう。なんだか身もフタもない話だが。

 で、そのためには他人の金でもいいのか?という問題になるのだが、金に他人も自分もない。金は、ただの金でしかない。ただし他人の金をずっと引っぱるのはギャンブルに勝つことより難しいし、もしも気まずい筋からの借銭だと返せないときは無事でいられないからね、ふつうは。気をつけましょう。

 他人の金とは危険が危ないところのものでなくても、だいたい何らかのダメージを受けるものであるから、覚悟がなければ自分でせっせと汗水を流すしかない。それを全部ギャンブルに貢ぐわけだが、はたして博奕にそれだけの価値があるだろうか?けっきょく、それは各人の気質というところに帰する。

 では、生死は気質にあるのか?なんだか難しい話で終わってしまった。たまにはこんなのもいいか。


つづく……には、煮え煮えになりすぎだ。

※このエッセイは約10年前に書いたものに手を入れて掲載しています。
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