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第1章
ミッション9:動かないさくら
しおりを挟むさくらのいる生活にも慣れてきた頃、後輩が会社を辞めた。
ここ数日、体調不良を理由に休んでいたが、とうとう今朝、退職の連絡があったらしい。
「心身の不調だそうだ。まぁ、仕方ないじゃないか」
霧谷課長が言う。
そりゃ、仕方ない。たしかにそうなんだが……もう何人目だ?
一から教えて、やっとまともな戦力になったと思っていたのに。
「大丈夫! うちにはゴンゾー君がいるんだから。今までみたいにチャチャっとやっちゃってよ!」
(攻撃感知:毒属性即効タイプ)
(推奨アクション:全力回避・即離脱)
離脱できるもんならとっくにしてる。
課長は俺の肩をポンと叩き、満足げにデスクへ戻っていった。
未処理チケットは17。
そのうち半数が更新期限を超過している。
現実のほうが非現実っぽくて、もうため息も出なかった。
……うん。俺のリアルが完全にバグってる。
モニターの光をぼんやり眺めながら、ふと頭に浮かんだ。
――あれ? 俺、今朝さくらに餌やったっけ?
昨日はどうだった? え、いつが最後?
不安が胸の奥でジワッと広がる。
カバンに手を伸ばしてスマホを取り出そうとした、その瞬間。
「ゴンゾー君、ちょっと来て! こっちこっち、こっちの方が急ぎだった!!」
……そう、これが現実。いつだって、いっちばん最悪なタイミングでイベントが発生するんだよ。
結局、スマホを確認できたのは22時過ぎ。
帰りの電車の中だった。
“ポワン”。
久しぶりの音にも不安が募る。
通知が山のように並び、画面の上部にはまたあの表示。
――???ゲージ:45%。
「……下がってる」
画面の中、ミニさくらが横たわっていた。
……動かない。
いつもみたいに駆け寄ってこない。
指でそっとタップしても、「さくら」と小さく声をかけても、まったく反応がない。
「……うそだろ」
心臓がドクドク鳴りはじめる。
手のひらが汗でじっとりして、スマホを落としそうになった。
⸻
【緊急アラート:???ゲージ低下中】
至急ケアを実施してください。
⸻
(やばいやばいやばい……! これ、絶対健康ゲージ的なやつだ!!)
電車を降りてから、俺はほぼ走っていた。
信号待ちの間もアプリを開きっぱなしで、何度もスマホを見る。
でも、画面の中のさくらは微動だにしない。
「鯉って……動物病院で診てもらえるのか? てか、こんな時間にやってるとこある!?」
もう誰に聞いたらいいのかもわからない。
夜風も、街灯の光も、全部ノイズみたいに遠ざかっていく。
ただ心臓の音だけが、自分の中で爆音みたいに響いていた。
アパートに着いた時、ちょうど管理人室からおっちゃんが出てきたところだった。
「おや、残業かい? 遅くまで――」
「あの!!」
俺はおっちゃんの言葉を遮って叫んだ。
「あの、すみません! この辺で、錦鯉を見てくれる動物病院ってありませんか!?」
おっちゃんは、一瞬だけ固まった。
「錦鯉?」
「はい! 飼ってるんですけど、反応がなくて……!」
息が切れて、うまく言葉が出ない。
俺はスマホを差し出して、コイリンクの画面を見せた。
その時は必死で、アプリの特殊性なんて頭からすっかり抜けていた。
おっちゃんはスマホを覗き込むと、指先で軽くスワイプした。
「……ヘルスゲージは、何パー?」
「へ、ヘルス……?」
「ああ、ゴンゾー君はあれか。まだヘルスゲージ、解放されとらんのだな」
――ゴンゾー君?
今、そう言ったよな?
俺、名乗ったっけ?
いや待て。
ていうか、なんで“コイリンク”知ってんの?
「……ご近所さん?」
おっちゃんは静かに頷いた。
ようやく繋がった。
じゃあ、おっちゃんが……あの「悠人♡」?
それって、たしか称号は――『恋に散る男』。
「ゴンゾー君、三階だよね? 303だっけ?」
「あ、はい」
「部屋、上がってもいい?」
てことは、さくらを見てくれるのか!?
「もちろんです!」
「じゃ、先に上がってなさい。すぐ行く」
おっちゃんは管理人室に戻っていった。
そのとき、ドアが大きく開いて初めて中が見えた。
そこは、無機質な管理事務所なんかじゃなかった。
透明な水槽がいくつも並び、青白いライトがまるで神聖な月明かりみたいに部屋全体を照らしている。
それは息をのむほど、幻想的で、美しかった。
(to be continued)
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